43.夕闇
外の風は涼しく穏やかで、疲れ切った志方たちを労わるように廃村を渡った。
踏み固められた土の農道を通り、手すりのない、山道同然の細い階段を登る。
志方は、広場で振り返った。
洗浄済みの瓦屋根が、夕日を受けて鈍色に輝いている。
外から見る分には、キレイな田舎家だ。棚田に生い茂った夏草が風に揺れ、シオカラトンボが飛び立つ。
志方はトンボの行方を目で追い、同級生の後を追った。
事務員は、険しい顔で本部の縁側前で待っていた。
生徒が全員揃っていることを確認し、頰を緩める。紙コップに麦茶の残りを注ぎ、一人ずつ手渡して労ってくれた。
一杯飲んで一息吐くと、台所に通され、〈匙〉先生と〈白き片翼〉先生に洗われた。
攫われそうな意識を何とか繋ぎ留め、生徒たちは立っていた。
委員長は、〈白き片翼〉先生の上着の裾を掴んで、放そうとしない。
先生は〈柊〉のしたいようにさせて、事務員に言った。
「〈双魚〉先生は、まだ警察の方にご用がありますので、子供たちを先に帰らせて下さい」
これからのことを案じたのか、事務員は険しい表情で頷いた。
事務員と〈匙〉先生が、マイクロバスに荷物を積み込む。
手伝えとは言われず、その気力もない。〈白き片翼〉先生と委員長が、本部の戸締りをした。
委員長も、先生と離れたくない一心で、ついて回っているだけだ。
志方たちは、縁側に座ってぼんやり、向かいの山を眺めていた。
気が抜けて、座った途端、居眠りを始めた生徒も居る。
暮れなずむ山の陰は深く、塒に帰る鴉の群れが、数羽毎に分かれて山の向こうに消えてゆく。
風が凪ぎ、叢で虫が歌い始めた。
志方は気力を振り絞って、向かいの山を見詰めた。
山の気が化したモノたちが、蝙蝠と共に夕凪の空を漂っている。
志方は戸袋の群れを思い出した。〈渦〉の突飛な行動と、蝙蝠の群れに驚いたことが、遠い過去に感じられた。
とても今日、同じ一日の出来事とは思えない。手足が重かった。
捜査員が二人、細い階段を登って来た。砂利道に出ると会釈し、パトカーに向かう。
「専門の捜査官が近くまで来たので、誘導に行きます」
「ご苦労様です。お気を付けて」
丁度、荷物を積み終えた〈匙〉先生が、捜査員を労った。鏡は捜査に必要なのか、まだ例の古民家にある。
あの人たちってさ、何なんだろうな……
軽いノリのリア充系集団だった。まだ、あの五人の仕業とは断定できないが、可能性は高い。
あんな軽いノリでさ、委員長たちは……化け物に食い殺されそうになったんだ。
何を思い、何の目的で、何故、深夜にこんな場所を訪れ、複雑な魔法陣を描いたのか。
志方には想像もつかない。
最低でも、俺たちにゴミ、片付けさせようとしてたしさ、不法投棄と不法侵入だよな。
五人の声の調子には、悪事を働く事への畏れは、微塵もなかった。
寧ろ、これから行うことへの期待と昂揚感に、はしゃいですらいた。
魔道学院の生徒が数日後、清掃に訪れることを知った上での不法侵入、不法投棄。そして……
もしホントに、あいつらが魔法陣、描いたんだとしたらさ……
ガチで殺しにかかってる? ……俺たちを……? 何で……?
志方は、体の芯に氷塊が発生したように、一瞬、呼吸が止まった。一番考えたくない可能性に思い至り、一気に眠気が吹き飛ぶ。
縁側の雨戸が閉められ、生徒はマイクロバスに移動させられた。
シートベルトの装着を確認すると、事務員はエンジンを始動した。
砂利道を戻り、緑のトンネルを抜け、アスファルトの県道に出た辺りで安堵したのか、縁側では眠らなかった生徒たちも、寝息を立てている。
視えない〈樹〉も、志方の隣で眠りに落ちていた。
東の空は既に濃紺に染まり、西の空には夕日の残滓が輝いている。
羽虫を追って舞う蝙蝠に混じって、雑妖や闇に属する山の化生が、宙を漂い始めた。
眠れない志方は、学院への帰路、悪い夢のような現実の魔物を視ながら、今日一日を反芻した。
山の陰に入る度に、闇が落ちる。
点在する街灯と、マイクロバスのヘッドライトの他に、灯は見えない。対向車もなかった。
車窓を流れる黄昏の闇に目を凝らすと、山の妖魔が犇めいていた。
牛馬に似たモノ、人に似て非なるモノ、草木の化したモノ、鳥のように飛ぶモノ。
ヘッドライトを浴びても影を生ずることなく、木立の影を背景に、幻のように現れては消える。
逢魔が時の車窓の外で、謡うような声が、長く尾を引いた。
マイクロバスが学院の敷地内、結界の内側に入ったのは、日没後だった。車窓から、ふっつりと妖魔が消える。
事務員は、寮の玄関前にマイクロバスを横付けにした。
校長と教頭、〈筆〉先生と管理人が、高等部一年の帰りを待っていた。
「皆さん、よく頑張りましたね」
「みんな、命が助かってよかった」
「お疲れ様、大変だったね」
マイクロバスから重い足取りで降りて来る生徒を、校長、教頭、管理人が口々に労い、肩を抱く。
半数以上の生徒が、安堵の涙を零した。
「今夜は眠れんだろうからな。これ、使え」
呪符師の〈筆〉先生が、一人一人に【安眠】を手渡した。
いつもより遅い夕飯は、炙った鶏ハムとサラダ、ご飯と味噌汁だった。
給食のおばちゃん達は、既に退勤していた。
管理人が味噌汁を温め直し、冷蔵庫からラップのかかったおかずを出す。
「今日と明日は、食堂の当番と掃除当番はお休み。その代り、ゆっくり眠って」
管理人がカウンターの向こうから、夕飯をもそもそ口に運ぶ十二人に言った。
心なしか、声音がいつもよりやさしい。
志方は食欲がなかったが、体調を考え、半ば無理矢理、サラダを口に押し込んだ。
食べ始めると、胡麻ダレの香ばしさに促され、すんなり箸が進んだ。
誰も何も言わず、箸が食器に触れる音が、灯を半分落とした人気のない食堂に反響する。
通夜の会食の方が、余程賑やかだ。
後から入ってきた〈匙〉先生と〈白き片翼〉先生は、自分で配膳して食事を始めた。〈双魚〉先生はまだ戻らないらしい。
担任の〈匙〉先生は、明日の授業が休みになった事だけ告げると、一気に掻き込み、慌ただしく出て行った。
疲れ切って、一刻も早く休みたい筈だが、自室で一人になるのが怖いのか、食事を終えても、ちびちびと麦茶で口を湿らせ、生徒は誰も席を立たない。
食事を終えた〈白き片翼〉先生が、穏やかな声で言った。
「今夜は〈匙〉先生と私が、談話室に泊ります。どうしても眠れなければ、降りてらっしゃい」
生徒たちは互いに顔を見合わせると、そろそろと腰を上げ、自室に戻った。
志方は枕元に先生の【安眠】を置き、辛うじてパジャマに着替えた。
手足が重く、布団をめくる事さえ、おっくうだ。
蚊の鳴くような声で、何とか呪符の効力を発動させた所で、意識が途絶えた。