01.転入
「肉眼=見る、霊視=視る」で統一しています。
視力に問題がなければ、素人でも横綱の姿は見えます。
横綱を視認できる素人が、横綱と素手で手加減無用の殴り合いをして、勝てるとは思えません。横綱級のぶちかましは、軽トラで轢くのと同等の威力があるそうです。
そう考えると、霊や妖怪が相手でも「視える=勝てる」ではない筈……その前提でご覧ください。
「ここでは、絶対に本名を名乗ってはいけない。いいね?」
「は?」
職員室兼事務室で、担任の男性教諭が、開口一番に言った。
志方理はポカンと口を開け、動きを止めた。
担任の隣に座った事務員が、一枚の書類を差し出す。
父の筆跡で、実家の住所や緊急連絡先などが書かれていた。
その一番下に、小さな絵が並んでいる。
「この中から徽をひとつ選んで下さい」
「へ?」
訳がわからず、事務員と担任教諭の顔を見比べる。
二人の肩越しに、職員室の壁に貼られた注意書きが目に入った。
科学文明国の常識は、魔法文明国の非常識。逆もまた然り。
担任と事務員が顔を見合わせ、事務員が頷いて説明を始めた。
「この学院の事をよく知らないまま、転校してきたんですね。学校案内のパンフレットにも書いてあるのですが……」
ここ、国立魔道学院は、日之本帝国で生まれた「魔力を持つ子」の為の教育機関だ。
全寮制で、幼稚舎から高等部まである。
今年、開校十周年を迎えた。
石油危機後、クリーンエネルギーとして、魔術への関心が高まった。
政府の方針で、魔法文明と科学文明を折衷する「両輪の国」との交流が、貿易を中心として盛んになった。
それに伴い、国際結婚も増加。しかし、科学文明国である日之本帝国には、魔力の制御方法を教えられる教育機関がなかった。
家庭学習だけでは限界があり、日之本帝国生まれで魔力を持つ子の「魔力の暴走事故」が発生。魔道事故は年々増加傾向にあり、「魔力は持つが、魔法を使えない者」への支援が、社会的な急務となった。
十二年前にようやく、「魔力測定」が三歳児検診の必須項目となった。
その翌年に学院が開校。
本邦初の魔道事故から、実に半世紀近くの歳月を要したが、魔力を持つ子は五歳から親元を離れ、魔力の制御方法を学ぶことが義務付けられた。
開校前に成年に達した者への対策として、住民健診や職場の健康診断にも魔力測定が導入された。
成人は学費免除の他、元の職場での地位保全と奨学金の支給で、生活を保障された。
成人への対応は概ね終了したが、相当数の未受診者がいる事から、現在でも門戸は閉ざされていない。
「ですので、今は大人の学生さんはいません」
「はぁ……」
児童、生徒の大半が、魔法文明国か、両輪の国出身者の血を引いている。
魔力を持つ子は学費が免除され、無試験で五歳から幼稚舎に入学。
魔力はないが霊視力を持つ子は、試験に合格すれば幼稚舎から入学可能だ。
魔力と霊視力を持たない子にも、高等部のみ門戸が開かれている。
高等部の外部入試では、国数理社共通語の他、魔術に関する知識も問われる。霊視力を持つ子は、魔術知識の試験は免除される。
卒業後は、適性を活かした専門職や、公務員、指定校推薦で国立大学の魔道学部への進学など、様々な進路を歩む。
本邦と魔法文明圏を繋ぐ貴重な人材である為、寮を含む学院内での生活は、本邦と魔法文明圏、双方の習慣を取り入れ、相互理解に努める。
「それが、後ろの貼り紙なんですけどね」
「ほぉー……」
志方理は、事務員が振り返って示した貼り紙を読み返し、溜息と共に頷いた。
霊視力を持つ志方は、高等部一年の編入試験で、魔術知識の試験を免除された。もし、その科目も受験していれば、合格しなかっただろう。
「純粋な魔法文明国も両輪の国も、魔法文明圏の国々では、本名を名乗る習慣がありません。家紋や称号、肩書などで呼びます」
「へー……」
志方は、事務員に渡された書類に目を落とした。
下記の中からひとつ徽を選んで下さい。それがあなたの学院内での呼称になります。
※家紋がある方は、家紋が呼称になります。家紋の写しを学校事務に提出して下さい。
「徽」候補の絵は五つ。桜の花、手桶、奥歯、円、剣。
書類から顔を上げ、困惑にうわずり裏返った声で質問する。
「……ここから、選ぶんですか? 今……すぐ?」
「一応、姓だけは名乗ってもいい事になっていますが、なるべく言わない方がいいので」
事務員からは、ずれた答えが返ってきた。
担任を見ると、自分の胸に着けた缶バッジを指差して笑った。
「ここだけの呼び名だからな。勘でテキトーに選んでいいぞ。先生はスプーンで〈匙〉だ。こう見えても一応、魔法使いだからな」
志方はもう一度、書類と睨めっこした。
桜の花……は、女の子っぽいからダメ。
バケツ? 何で? 奥歯って何だよ!? 歯医者じゃねーっての。
ただの丸に……剣、か。
剣は……ないな。厨二病過ぎる。
こんなんで三年も呼ばれるとかさ、何の罰ゲームだよ。碌な物がねぇ……
結局、消去法で残った「ただの円」を選ばざるを得なかった。
何の装飾もない、コンパスで描いたような、ただの丸印だ。
渋々、書類を指差し、二人に告げる。
「じゃあ、これでお願いします」
「ほう。〈輪〉か。いいセンスだ。呼称は〈わっか〉だな。よろしく」
「それでは、登録の手続きを行います」
初老の事務員は、志方の手から書類を受け取り、自分の席に戻った。
担任の〈匙〉先生が、立ち上がりながら窓の外を指差す。
「寮はあっちの建物。管理人さんに案内を頼んであるから、指示に従うように。もうすぐ一時間目が始まるけど、荷物の片付けがあるし、授業は昼からでいい。ゆっくりしててくれ」
ひょろりと背の高い〈匙〉先生は、早口で一方的に説明すると、プリントの束を抱えて、慌ただしく職員室を出て行く。
戸口で立ち止まり、付け加えた。
「……あ、くれぐれも、本名を言うんじゃないぞ。君は今日から〈輪〉君なんだから」
柱の時計は八時二十九分を指している。
事務員に渡された学校案内を開き、地図のページを確認した。
校舎は敷地の南端にあった。
グラウンドを挟んで北側に寮。東に職員宿舎。
校舎の西隣に、理科室などが入った特別教室棟が建っている。
プールは寮と特別教室棟の間、敷地の北西にある。
この時期、体育は水泳の筈だが、今の時間はどの学年も校舎で座学なのか、職員室の窓から辛うじて見えるプールは無人だった。
外に出ると、七月の太陽は早くもギラギラと照りつけ、額に汗が滲んだ。
校庭を突っ切り、最短距離で寮の影に入る。庇の影に入れば、吹く風は涼しく、すぐに汗が引いた。