第7章 距離
7.距離
次の日からまた沙希は、いつもの様にサロンに出勤し いつもの様に忙しく働いて そしていつもの様に疲れて家に辿り着いた。そこには今までと何ら変わりない日常が存在していたが、ただ一つだけ違っている事があった。毎晩の様に電話で声を聞いていた、二人にとっては小さな習慣が 今はそれが沙希をとてつもなく淋しくさせた。
一週間が過ぎた頃から、沙希は何となく 大地が日本から去って行った事を実感し始めていた。持て余した時間と孤独感から逃れる様に、沙希は仕事をした。仕事を終え 帰って来てから寝るまでの間も、休みの日も、ひたすら何かに取りつかれた様に 仕事の事を考えた。そして、店に提出する為の提案書を完成させた。次の朝 出勤するなり、青山に クリップで留めたB5の用紙を提出する。
「冬に向けて こんなコースもどうかなと思って、考えてみました。見て頂けますか?」
少々驚いた表情の青山が 差し出された用紙に視線を落とすなり 顔がゆるんだ。
「張り切ってるわね。どうもありがとう。あとでじっくり目を通させてもらうわね」
その日サロンを閉め、カルテの整理を終えた沙希の肩を 青山が叩いた。
「今日この後、少し時間ある?朝のあの話、もう少し詳しく聞きたいんだけど」
二つ返事で、沙希はサロンに残った。そして加賀美も交えて 3人でテーブルを囲んだ。
「結局これってフリーパスの事でしょ?うちはやってなかったものね」
すると加賀美が質問する。
「店長。うちは何で今まで、フリーパスはやらなかったんですか?」
沙希も興味深く 青山の顔を窺う。
「スタッフの人数が、フリーパスやるとなると足りなかったのよね。フリーパスの苦情で一番多いのが“予約が取れない”って事なのよ。だからお客様が『かえって損した』って思っちゃうの。ま、それを狙ってるサロンも無い事ないんだけどね。でも今は三人だしできない事ないと思うの。あとはアイデア次第かな」
沙希は意味を尋ねるかの様に 青山の方へ顔を向ける。
「フリーパスはどこのエステでも もうとっくにやってる事でしょう?だから他との差別化を図る必要があるって事。金額が安いだけじゃ駄目なのよ。今の時代は、安くて当たり前 内容が充実してて当たり前 結果が出て当たり前なの。だからプラスアルファ何かがないとね」
沙希は頭を抱えた。すると加賀美が口を開いた。
「具体的にはまだ浮かびませんけど、うちらしい何かで勝負したいですね」
「そうね・・・。うちらしい何か・・・ね・・・」
三人が頭を抱えた。そしてそれは そのまま三人の課題となり、沙希も“うちらしい何か”に知恵を絞りながら家路に着いた。
すると、家には大地からの初めてのエアメールが届いていた。そこには、初めて大地のアパートへ行った時に見た卒論のノートに書かれていた文字と同じ筆跡があった。
『昨日無事メキシコに着きました。初めての海外で、憧れのメキシコに来られて ちょっと興奮しています。早速昨日、大きくて真っ赤な夕日を見ました。何となく幸先良さそうです。今俺はグアダラハラという町にいて、畠山さんというご夫婦の家に世話になってるんだけど とても良い人達で安心しました。今日から仕事探しと家探しを同時にスタートします。決まったら又報告します。沙希も夏バテしないで仕事頑張れよ。
p.s.俺のこっち行きを聞いてから、沙希はとうとう一度も俺の前では泣かなかったね。昨日も空港からは無事帰れたのかな・・・?』
読み終えて絵葉書を裏返すと、真っ赤な夕日の写真がそこにはあって、隅の方に大地の文字で『こんな感じだったよ』と書き記されていた。沙希の渇いていた心に潤いが戻る。そしてすぐに返事を書き始めた。
『きれいな絵葉書きありがとう。すごく嬉しかったです。仕事探しとお家探し、順調に行ってますか?私は最近仕事に精を出して、今日も店長に新しいコースの企画書(そんな立派な物じゃないけど)を提出したところです。それが早速冬に向けて実現しそうなのです。まだあと一ひねりも二ひねりもしなくちゃいけないんだけどね。私の事は心配しないで、頑張って下さい。応援してます。体に気を付けてね。 Love,沙希』
大地の事を思い浮かべながら、ベッド脇に置いてある小さな時計に目をやる。大地がメキシコへ発ったその日から、沙希は部屋の時計を一つ メキシコ時間に合わせていた。針は午前9時を指していて、もう大地は起きているのかな・・・等としばし メキシコへ想いを馳せた。二人には 一緒に撮った写真が一枚もない事に離れて初めて気が付いた。今ほど大地の写真がない事を後悔した事はなかった。今日までの数週間、心の中にぽっかりできた隙間を埋める様に仕事をしてきたが、今日届いた絵葉書きで また大地の影が鮮明に膨れ上がった。ベッドに入ってからも 目をつぶると出てくるのは大地の笑顔で、声が聞きたくて 恋しくて 夢でもいいから会いたくて、その晩はなかなか寝付けないまま朝を迎えた。しかし現実の生活は 止まる事を知らない川の流れの様に、沙希を乗せて無機質に時を刻んだ。そのお陰で、再び沙希は仕事人間と化した。
閉店後のミーティングで沙希が発言する。ここ最近の沙希は顔つきが変わってきていた。自分の提案した内容が 店長とチーフのミーティングで話し合われる喜びを知り、更には そこに自分も加わり、一緒にサロン作りに携わっているという手応えが 大きなやりがいとなっていた。このサロンラヴィールに勤めて約1年と半年、ただ時間と仕事に追われ 与えられた仕事をこなす事で精一杯だった。それが少し仕事にも慣れ、自分の中に余裕が出来た時、自分から仕事と時間を追いかけていく楽しさを味わった。前のめりに仕事をする充実感を覚え、やめられなくなっていった。
しかしやはり大地からの近況を伝える絵葉書が届くと、気持ちがぐっとそちらに傾き 数日間は自分自身をコントロール不可能になる。が、一週間もすると又落ち着きを取り戻す。その繰り返しだった。そしてそのうち 仕事人としての自分と、女としての自分のバランスを上手に保てるようになっていった。
そんなこんなで あっという間に夏も過ぎ、厳しかった残暑も 終わってみると一瞬で、夜にはすっかり鈴虫の声が聞こえる様になってきた。相変わらず大地からの電話はなく、月に二度程 絵葉書が届いた。
前回の内容では まだ仕事は見付かっていない様子だったが、住む所も決まり、日本に居た時に働いていたライブハウスの先輩の親戚だという畠山夫妻の家を出た事が綴られていた。新住所も以前同様 グアダラハラという町で、一つのアパートを何人かで共同で間借りしているシェアハウスに入ったらしい。そこの家には大地の他に二人の男性がいて、その二人ともすぐに仲良くなったと書かれてあった。沙希はむこうでなかなか仕事の見付からない大地を気に掛けていたが、どうする事も出来ず、ただ明るく励ます言葉を なるべく明るい便箋に書く事しか術は無かった。
しかしそんな手紙をポストに投函してから もうすでに二週間は経っていて、沙希は 日本を発ってから一度も電話が無い事に怒りさえ感じ始めていた。そしてとうとうある晩、待ちに待った大地からの電話がかかってきた。大地だと分かった瞬間、一言怒ってやろうと思っていた沙希の目からは 予想外にも大粒の雫がボロボロと落ちて止まらなかった。そんな沙希の心の中を知る由もなく、大地の声は元気に弾んでいた。
「元気かー?」
何か月か振りに聞く大地の声が、沙希の耳を伝って体中に染み渡る。
「今そっちは・・・11時だろ?仕事お疲れ」
何故か涙が止まらずに返事も出来ない。それでも大地は 隙間を作らない様に続けた。
「こっちは今 朝の8時過ぎたとこ」
沙希の涙は止まらない。
「せっかく電話してんのに、泣いてたらもったいないだろ。ほら、笑って笑って!」
すると沙希が 必死に堪えて口を開いた。
「なんで今まで一度も電話して来ないのよー!ずっと待ってたんだからぁ!」
沙希の胸のつかえが取れたと同時に、せき止められていたダムの様に 更に涙が溢れ出す。
「ごめん・・・」
少しの間の後、大地の再び明るい声が聞こえる。
「仕事見付かったんだ。今夜から働く」
「おめでとう!良かったね!」
大地の口調から あえて何の仕事か聞かなくても“良い仕事”に就けた事を察した。
「生バンドのステージがある飲み屋なんだけどさ、まずは清掃員とウェイターとして使ってくれるって。同じアパートのヤツが口きいてくれたんだ。そいつ凄くいい奴でさ・・・」
大地のこんなはしゃいだ姿は、日本に居る時には見た事も無かった。以前大地からの葉書きに『色んなものを脱ぎ捨てた時に 見る物聞くもの全てが新鮮に感じられる様になった』と書いてあった事を思い出す。
「元気そうな声聞いて安心した。仕事頑張ってね」
「また手紙に色々書くよ」
あっという間の国際電話で、これでまた少なくとも一ヵ月は声も聞けないと思うと、沙希はベッドに倒れ込んだまま 起き上がる事も出来なかった。
メキシコでの大地の仕事は 夕方から深夜までで、まず店に入るなり 店内の掃除を開始する。今まで仕事を探しても雇ってもらえなかったのは、外国人で言葉もあまり通じない事が理由だった。しかしここは丁度 掃除のおじさんが辞めたばかりという事もあって タイミングも良かったのだが、何よりもここのオーナーが、大地の メキシコに憧れ 単身で乗り込んできた意気込みを買った様なものだった。客席のあるフロアとキッチンを合わせると、一人で掃除するには かなり手応えのある広さで、開店前の時点でTシャツが一枚汗びっしょりになる程だった。その後息をつく間もなく 開店と同時にウェイターとなり、あっちのテーブル、こっちのテーブルと走り回った。閉店を迎える頃には すっかり足は棒の様になっていたが、まだ仕事は終わりではなかった。テーブルの上に椅子を全て上げ、ステージの機材もコードをまとめ 元通りにセットする。完全なる肉体労働だったが、大地は毎日 何かしら楽しみを見付け いきいきと働いた。お陰で一ヵ月でだいぶ会話も出来る様になってきた。
大地の休日は日曜日で、市場に行って街の活気を楽しんだり、観光名所と言われる所まで足を伸ばす事もあった。そして時には、ルームメイトが友人を連れてきて一緒に酒を飲む事もあった。
ルームメイトの一人はジルナといって、21歳で働きながら学校に通っていた。美術の学校に通っているだけあって、彼は本当に絵を描くのが大好きだった。時々カメラを持って出掛け、暇さえあればその写真を見ながら キャンバスに色を乗せていった。大地が入居して間もなく彼と仲良くなり、すぐに彼の描いた絵を見せてもらった事があった。とても優しく温かい色使いの作品達を 大地は一目で気に入った。
もう一人の住人は、偶然にも日本に約半年間ホームステイした経験を持つ23歳の青年ペレス。19歳の時に 国が主催した国際交流のシンポジウムの一環で、多くの応募者の中から選ばれた5人に入っていた。日本語はもう簡単な単語位しか覚えていないが、日本の事はさすがに良く知っていた。そして当時日本で付き合った女の子の話も聞かされた。この彼が、今の大地の職場のオーナーに口をきいてくれたのだった。
ある日曜日の夕方、大地が市内観光を兼ねて ぶらぶら街を歩いてアパートへ帰って来ると、ペレスが女の子を二人招いて 夕食の準備をしながら酒を飲んでいた。玄関を入るなり、中から聞こえてくる賑やかな声に 大地はキッチンへ顔を出す。するとペレスは『夕飯まだなら一緒にどうだ?』と誘ってきた。断る理由もなく、大地はその輪の中に加わった。スペイン語が片言の大地をサポートする様に、ペレスが女の子達に時折解説を付け加える場面もあった。珍しいからか、日本人の大地に 二人の女の子は大変興味深く 話を聞いたり、質問したりして、酒を潤滑油にして とても盛り上がった。日本の料理の話題になると、やはり女の子達はより一層興味を示し『今度は僕が作ってあげるよ』等と大地が言うと、彼女達はそれを凄く楽しみにして『また来るね』とアパートを後にした。
ペレスが彼女達を近くまで送りに行っている間、大地はキッチンで後片付けをしていた。そして時計を見ると同時に、日本にいる仕事中の沙希の事を考えていた。(沙希はどんな日曜を過ごしたんだろう。俺のいない生活にもうすっかり慣れてしまったのだろうか。最近仕事を積極的に頑張ってるって言ってたな・・・)そんな事で頭を一杯にしながら、大地は最後のコップの泡を洗い流す。とその時、ペレスが帰って来る。そして何か言いたそうな意味深な笑顔で大地に近付き『どうだった?』と聞く。
「楽しかったよ。ありがとう。スペイン語の勉強にもなった」
そう言う大地の右腕を拳で軽くど突くペレス。
「女の子だよ。気に入った?」
この程度の会話なら、大地もスムーズにできる様になっていた。ペレスの言った言葉に大地が驚いていると、ペレスがあおる様に言った。
「むこうは結構大地の事 気に入ったみたいだぜ。特にターシャの方がね。・・・ほら、髪の長い方の・・・」
ペレスのニヤニヤは止まらない。テーブルの上を拭く手を止め、大地は真面目な顔つきでペレスの方を向いた。
「俺、日本に彼女いるんだ」
ペレスの表情は全く変わらなかった。
「関係ないよ。ここはメキシコだし」
そんなペレスから目をそらし、
「ごめん。俺は・・・」
その後に続く言葉が上手く出て来ないで、大地は首を横に振って見せた。しかし、懲りずにペレスは 笑顔で大地の肩を叩いた。
「ま、考えといてよ」
その晩大地は、沙希に手紙を書いた。
月曜日から土曜日は朝から晩まで仕事に明け暮れる沙希の日常は相変わらずで、でも それがかえって心地良かった。日曜日や祭日が嫌で、出来る事なら一年間365日働いていたい位の心境だった。手持無沙汰の休日をなんとか埋めようと、ウィンドウショッピングに出掛けてみたりしたが、気分は全くのらなかった。今までなら、大地の為にオシャレをしたり 綺麗になりたいと思っていたのに、肝心のその自分を見てくれる人が居ないのでは 張合いもなかった。街のショーウィンドウには 流行の服が並び、若者の目を惹いた。通い慣れた洋服屋の30%offの文字も、今の沙希には何の魅力も無かった。そんな事をふと 専門学校時代からの友人 雨宮祥子に打ち明けた事があった。すると、
「やばいよ、沙希。私達まだ22だよ。くすぶってる場合じゃないって。そうだ!飲み会やろ!メンツ集めるから」
そう言って 半ば強引に連れ出されて、日曜の夜 新宿アルタ裏の花屋前で待ち合わせる。
「沙希!おう、ちゃんとお洒落してるじゃない。OK、OK」
そう言う祥子は 学生時代Gパン姿しか見た事がなかったが、今日はツイードのミニに黒いロングブーツという かなり気張った格好をしていた。
「祥子、今日誰が来るの?」
「ん?・・・沙希は・・・知らない人」
呆気にとられ、沙希は足が止まる。
「いいじゃない、たまには知らない人達との飲み会も。良い刺激になるって。友達とかになれれば、ほら、沙希の日曜も もう少し楽しくなるかもしれないし」
祥子に腕を引きずられる様にして入ったのは、カラオケボックスだった。祥子の後をついて部屋に入ると、もうそこには男性三人女性一人が集まっていた。
「ごめ~ん、遅くなって」
祥子に強引に決められた場所に座ると、隣には見ず知らずの男性がこちらを見ていた。
「はじめまして」
突然そう挨拶をされて、とりあえず会釈をすると 隣の祥子がすかさず口を挟む。
「ちょっと緊張してるだけなんです。だから、気にしないで話し掛けてあげてもらえます?」
飲み物が揃ったところで、自己紹介が始まる。そこで沙希が気が付き、祥子の耳元に近付く。
「これって合コンじゃない!私・・・聞いてないよ!祥子が飲み会って言うから・・・」
「飲み会よ、飲み会。ただ知らない人同士いるから自己紹介してるだけよ」
上手く言いくるめられたまま、時間は過ぎて行った。沙希の隣に座っている青葉享が、さっきから懲りずに話しかけてくる。
「横浜のどの辺?俺会社が横浜なんだ」
「元町の方です。分かりますか?」
「分かる分かる。じゃ、駅で言うと石川町?俺の会社は京急線の黄金町なんだ。知ってる?」
沙希はびっくりした。沙希の勤務先も黄金町だった。ひょんな事から共通点が見つかり、思わず沙希のガードも緩む。しばし地元の話題で盛り上がる。
「じゃ、黄金町にある美味しいラーメン屋で熊本家って知ってる?」
沙希は頭を横に振る。
「とんこつラーメンなんだけどさ、めちゃくちゃ旨いんだよ。今度仕事の後でも、一緒に食べに行こうよ」
返事に困った沙希は 笑顔だけを返すと、青葉が言った。
「あれ?とんこつ嫌い?」
慌てて首を横に振る沙希を見て、安心した様に青葉がもう一度誘う。
「じゃ、是非今度連れてってあげるよ。ラーメンくらいならおごるし・・・」
その時、祥子が皆に聞いた。
「次、どっか行く?」
沙希と青葉以外の四人も かなり盛り上がっていて、皆口々に『行こう』と叫んでいた。沙希はちらっと時計を見ると、隣の青葉が声を掛ける。
「行く?」
迷っている沙希が祥子の方を見ると、祥子はただニコニコ笑っているだけだった。
「行こうよ」
青葉のこの一言で 祥子が立ち上がる。
「決まりー!全員二次会行きー!」
六人は夜の歌舞伎町を練り歩き、店を選ぶ。その間も青葉は 沙希の隣を離れる事はなかった。二軒目で沙希がトイレに立つと、後を追う様に祥子がトイレに姿を現す。
「どう?気分転換になった?」
「うん。ありがと」
ハンカチで手を拭きながら答える。
「いい感じじゃない、青葉君と」
「そんな事ないよ。ただ横浜の話題で話が合っただけ」
「嫌な人じゃないならさ、友達になっておいた方がいいよ」
祥子は口紅を直して そう言うと、鏡越しに笑いかけて さっさと出て行ってしまった。
そろそろいい時間が来て、6人は店を出てゾロゾロと駅の方へ歩き出す。
「どうやって帰るの?品川乗り換え?」
青葉がすかさず聞いてくる。
「うん」
「じゃ、山手線一緒だね」
途中で祥子が西武新宿駅の方へ別れていった。新宿駅に着いても、内回りの電車に乗るのは 青葉と沙希の二人だけだった。はじめからずっと傍にいる青葉に対し、沙希は少し戸惑いを感じ始めていた。しかし、そんな思いをよそに 青葉が名刺を一枚差し出してくる。そして裏に電話番号を書き込んだ。
「もし良かったら、電話ちょうだい。今度本当に、黄金町のラーメン食べに行こうよ」
沙希は一枚の名刺を目の前に、それに手を伸ばせずに躊躇していると、青葉が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
そう言われて とっさに名刺を受け取ったものの、沙希は話し始めた。
「私今日祥子に・・・あっ、さっき西武新宿の方に帰って行った・・・あの子に 飲み会って聞いて、ただそれだけのつもりで来て・・・。だから・・・こんな風な・・・アレだと思ってなくて・・・」
沙希はどう言っていいのか分からず、言葉を濁した。すると青葉が質問した。
「合コンとか嫌い?」
そこで ホームに入ってきた電車に乗り込む。日曜の夜とあって、遊び帰りの人達で車内は賑やかに混んでいた。人の波に逆らう事なく、押し込まれるように乗り込むと、青葉とはぐれそうになるのを腕を掴まれ救われる。再び電車が走り出したところで、沙希は話を続けた。
「合コンとか嫌いな訳でもないし・・・って言っても、今まで行った事もなかったんだけど・・・私、彼氏がいるから・・・」
「あ、そうなんだ」
青葉の表情はポーカーフェイスを装っていたが、かすかに目の奥に影が落ちた。
「でも・・・今はちょっと、離れてるんだけどね」
ふと、180cm近くある青葉の顔を見上げると、沙希の言葉の意味を探る様に繰り返した。そして沙希は、視線をそらし うつむき加減に口を開いた。
「今、メキシコに行ってるの・・・。当分帰って来ないと思う・・・」
「そっか・・・。じゃ、淋しいね」
青葉の言葉に、慌てて沙希は笑顔を作ってみせる。
「ごめんね。変な話しちゃった」
沙希の笑顔につられ、青葉も笑ってみせてから言った。
「友達って事で電話してきてよ。実家だけど、これ部屋の電話だから 遅くても平気だし」
さっき青葉に貰った名刺をバッグの中にしまうと、又青葉が声を掛ける。
「沙希ちゃんも・・・連絡先とか・・・教えてくれない?」
青葉の視線を肌で感じながら、あえて目を合わさずに言った。
「私、実家だし・・・仕事で帰りも遅いから・・・ごめんなさい」
しかし青葉は引き下がらなかった。
「じゃ、名刺とか・・・持ってないの?」
「ごめんなさい。今日・・・持って来なかったの」
丁度電車が品川に到着し、降りようとする乗客もドアが開くのを今か今かと待っている。沙希もドアの方へ向きを変え、ふと青葉の方へ顔を向けると 名残惜しそうにこちらを見ていた。
「あら?どこまで・・・?」
「俺、田町だから・・・」
その声とかぶさる様にプシューとドアが開き、一斉に乗客を吐き出していく。沙希もその波に乗り遅れない様に、じりじりと足を前へ進めながら 青葉を振り返る。
「今日はどうもありがとう。気を付けて」
それを言うのが精一杯で、前へ向き直ると 後ろから青葉の声がする。
「電話待ってるから」
沙希は後ろを振り返ったが、押し寄せてくる人波に阻まれて、青葉の姿を確認する事は出来なかった。
11月も半ばを過ぎて、サロンでは以前から練り上げていたフリーパスのキャンペーン広告が いよいよ掲載される日が訪れた。その日の朝から三人とも 緊張と期待で胸が高鳴っていた。中でも沙希は一番不安を抱えていた。自分が初めて提案した内容が、今日いよいよ世間の目に触れる。以前桜井が、『自分の作った物が、形になって世の中に出るって嬉しいもんだよ』と言った言葉を思い出す。と同時に、責任の重さも実感していた。
結局その日の午前中は広告を見ての問い合わせは たったの2件で、その2件ともが『日曜日はやってないんですか?』や『東京にはお店無いんですか?』といったもので、予約にも繋がらなかった。沙希はなんとか期待を午後に繋いだが、その件に関して電話が鳴ったのは たったの3回だけだった。しかしどれも『日曜日はお休みですか?』『祭日はやってないんですか?』といった問い合わせばかりだった。すっかり責任を感じ 意気消沈している沙希が、閉店後 青山に頭を下げた。
「すみません。私が余計な事言い出したばっかりに・・・。今回の件がもしダメだったら・・・」
最後まで聞かず、青山はいつもと変わらない笑顔で答えた。
「な~に、弱気な事言ってるの!まだ今日出したばっかりじゃない!そんな事言い出すのは早過ぎるわよ。しっかりして!」
うなだれたままの沙希を見かねて、青山が続ける。
「もう暫く様子を見て、このままだったら また皆で考えましょ」
しかし依然として神妙な沙希に青山が喝を入れた。
「落ち込む暇があったら、どうしたら良くなるか考えてらっしゃい。わかった?」
その日家に帰ると、大地からの手紙が届いていた。そこには もうすっかり見慣れた文字で、仕事にも馴染んで楽しく勤めている様子が書かれてあった。そして休みの日には、多少観光めいた事を一人で楽しんでいる姿が その文章から想像できた。愚痴や弱音は一切綴られる事はなく、異国の地にたった一人渡り、強く前向きに頑張る 頼もしい大地が目に浮かんだ。沙希は安心すると同時に、少し大地が遠い存在になってしまった様な錯覚を覚えた。メキシコで生活を始めて 早や4か月が経ち、その間きっと様々な壁にぶつかったに違いないが、それを自力で乗り越える強さとエネルギーが 今の沙希にはとても羨ましかった。そして今こそ大地に 背中を叩いて励ましてもらいたかった。
(こんな時大地が居たら、何て言ってくれたかな・・・)
そんな事を考えながら、絵葉書の写真を眺める。大地から送られて来る絵葉書の写真を 毎回沙希は楽しみにしていた。大地がどこかに行く度に、そこの絵葉書を買っては 手紙をくれていた。それを日本で見る事によって、地球の裏側にいる大地の見た景色を一緒に共有していた。また そうする事で沙希は、少しでも大地の傍に居る自分を錯覚していたかったのだ。
大地の葉書きを見ながら、前回『何かあったらここに電話して』と書いてあったのを思い出す。今はまだ大地は 外の公衆電話から日本へ国際電話をかけるしかなかったが、沙希からの連絡手段にと、ルームメイトの部屋の電話を教えてくれていたのだ。何となく導かれる様に受話器を手に取る。彼が教えてくれた番号を探しに立ち上がった時、ベッドサイドの時計が目に飛び込んできた。メキシコ時間は朝の7時半を示していた。夜の遅い仕事をしている大地は きっとまだ夢の中だろうと思うと、受話器を持つ手が重くなる。そんな事気にせず自分の気持ちに素直にかけてしまえという自分と、疲れてるだろうから ゆっくり休ませてあげなよという二人の自分が沙希の心の中に混在していた。そして結局沙希は、後者の心の声に従ってしまうのだった。
次の朝、憂鬱な気持ちを抱えたままサロンに出勤すると、いつも通り青山はもう既に制服姿で、何やら電卓を叩いていた。
「おはようございます」
そう挨拶を交わすと、沙希はそっと青山に近付いた。
「考えたんですけど・・・私だけでも、日曜と祭日 出勤して予約を受けさせて下さい」
青山はそれを聞くと、またにっこりと笑いながら沙希を見た。
「朝のミーティングで提案してみて。また皆で話し合いましょ」
その言葉通り、開店前のミーティングで 沙希がその話を出すと、加賀美も真っ先に便乗してきた。
「私もそれを考えてました。ただ フリーパスのお客様に限って、日曜祭日の予約をお受けするという形で、予約が入った日や時間に合わせて私達が出勤すれば、経費も最小限で済みますし」
加賀美の具体的な案に、沙希は自分との違いをはっきりと感じた。違って当たり前なのだが、自分がやはりまだまだだというのを思い知らされた様な気がした。
「そうね。三人で交替で出勤すれば、そう負担にもならないだろうし・・・」
青山がそこまで言うと、加賀美が遮った。
「三人って・・・、店長はご家庭があるので お休みになって下さい。河野さんと二人で、シフト組んでやりますから。私達に任せてみて頂けませんか?」
青山と加賀美のやりとりを すっかり蚊帳の外の様な気持ちで 沙希は傍観していた。
「あと、人件費の計算なんてしないで下さい。私達のお給料なんて、今まで通りで 特別な手当なんて要りませんから。まずは試しにやらせてみてもらえませんか?」
加賀美に強くそう仕切られ 青山も真剣な表情で考えを巡らしていると、再び加賀美が、今度は控え目な口調で付け加える。
「すみません、出しゃばった事言って。これはあくまで私の意見ですので、河野さんの意見も是非聞かせて頂きたいと思います・・・」
突然出てきた自分の名前で、ふと我に返る。卑屈になっていく自分を必死に抑えて発言した。
「チーフのおっしゃる通りで・・・頑張らせて頂きたいと思います」
しかしその日は、前日とは打って変わって広告効果があり、5件もの新規の予約が入った。そして、休日の交替制の出勤は 予約が入り次第 実行される事となった。
「沙希ちゃんも お休みの日色々と予定があるだろうけど、少しの間頑張ってね。お願いします」
青山にそう言われたが、沙希にとっての休日出勤は願ったり叶ったりだった。
その朝のミーティングの様子を思い出しながら、疲れた体を夜の駅まで運び、定期券を取り出そうと足を止める。
「あれ?沙希ちゃん?」
ぼんやりしたまま声のする方を向くと、180cmの長身が立っていた。先日の合コンの時とは違って、青葉はスーツに眼鏡をかけていて 沙希は気付くのに少し時間がかかった。
「覚えてる?」
「ああ・・・この間はどうも」
「沙希ちゃん、電話くれないんだもんな・・・」
青葉と初めて会った あの新宿での飲み会から、もう既に一か月以上が経っていた。少しバツが悪く 身をかがめると、青葉がこの間話していたラーメン屋に行こうと誘ってきた。すっかり青葉のペースで、気が付くと熊本家ののれんをくぐっていた。
「黄金町とは聞いてたけど、まさか本当に偶然会うとは思わなかったな」
そう言って水を一口飲むと、また青葉が続けた。
「俺の事、忘れてた?」
あまりに明るく聞くので、それにつられる様に沙希は少し笑顔を見せた。
「この間と格好も違うし 眼鏡も掛けてるから、すぐに分からなかった。それに私もぼーっとしてたから」
「電話がないから、もう会えないかと思ってたよ。でも良かったなぁ、嬉しいよ。これでも毎晩、電話待ってたりしてたんだよ」
「ごめんなさい。・・・仕事が忙しくて・・・」
とっさにもっともらしい言い訳を付け足す。話を変える様に、そして会話の流れを変える様に、沙希は自分から喋りかけた。
「仕事・・・いつもこんなに遅いの?」
「営業だから、その日によるんだ。特に月末だからね。今月の目標、まだ達成してないし」
青葉は浄水器の製造メーカーに勤めていて、営業の仕事をしていた。年齢は沙希より一つ年上だったが、大学を卒業してまだ入社一年目だった。
二人は注文したラーメンをフーフー言いながら、平らげる。『美味しい美味しい』と言うだけあって、沙希はその味を充分に堪能した。
すっかり体も温まったところで席を立ち、木枯らしの吹く外へ出る。
「ごちそう様でした。本当、凄く美味しかった。どうもありがとう」
満腹のお腹を抱えて沙希がそう言うと、足元で落ち葉が風に吹かれて渦を巻く。今度はそれを見た青葉が、重たそうな鞄を手に持ったまま伸びをする。
「今年もあと一か月だね・・・」
「うん・・・。何だかあっという間」
「沙希ちゃん、クリスマスはどうするの?」
「仕事、仕事。これから暫くは日曜も祭日も出勤なの」
「そっか・・・大変だね」
青葉は歩き出した足にまとわりつく枯葉を見る様に下を向くが、その顔が少し淋しげに見えた。
「彼氏は帰って来ないの?クリスマスとかお正月とか」
沙希はただ笑って、首を横に振るだけだった。そして みるみるうちに沙希の表情が曇っていくのを感じ、青葉が元気に声を掛けた。
「沙希ちゃん、スケートってやる?」
『スケート?』と一回繰り返してから、沙希は記憶を辿る様に空を仰ぐ。
「高校生の時に友達と行ったきりかな・・・。殆ど滑れないけど」
「今度行こうよ!楽しいよ。俺、高校ん時、アイスホッケー部だったんだ」
「へぇ、すごい」
沙希の顔も明るくなる。
「教えてあげるよ。だから行こ!」
再び戸惑いながら、沙希は言葉を探した。
「皆で・・・行かない?その方が・・・楽しいんじゃないかな・・・」
目の前に迫ってきた駅の明かりを見ながら、青葉が受け合う。
「わかった。・・・じゃ、この間の連中に声掛けてみるよ。沙希ちゃんも、この間の女の子達、声掛けてみてよ」
沙希はホッとして頷くと、また青葉の言葉にどきっとする。
「連絡先・・・教えてくれないかな。スケートの件、連絡取ったりしたいし・・・」
一瞬息を詰まらせてから、なんとか切り返す。
「私から・・・連絡する」
「沙希ちゃんは・・・徹底してガードが堅いんだな。それとも彼氏が嫉妬深いのかな。クリスマスも正月も沙希ちゃんの事放っておく様な彼氏に随分遠慮するんだね」
悔しい様な悲しい様な気持ちが溢れて、沙希は返す言葉が出て来なかった。
丁度駅に着いた二人は、無言で改札を通り ホームまでの階段を昇る。しかしその間も青葉は沙希の様子を気にしていて、ホームに着いた所で機嫌をうかがう。
「ごめん。言い過ぎたね・・・」
うつむいたまま首を横に振る沙希に笑顔は無かった。そのまま上りのホームに現れた電車に二人は乗り込む。すっかり気まずい雰囲気になってしまい、二人が時間を持て余している間に 横浜駅に到着する。沙希はJRに乗り換える為、そして青葉は特急電車に乗り換える為、電車を降りた。
「なんか・・・ごめんね。傷付けちゃったみたい・・・。せっかくまた会えたのに。・・・もう嫌われたかな・・・」
青葉も弱気になり、段々と声が小さくなる。するとさっきから何やらゴソゴソやっていた沙希が小さいメモを差し出した。一見白い紙の切れ端に、青葉がキョトンとしたが それを裏返して顔が変わる。
「これって・・・、あれ?いいの?」
嬉しい様な半信半疑の様な面持ちで、うつむいている沙希を覗き込もうとする。
「実家だし、毎日10時頃にならないと帰ってないけど・・・」
彼は嬉しそうに その紙を大事に胸ポケットにしまう。そして青葉は時計にチラッと目をやった。
「今日は、ラーメン付き合ってくれてありがと。帰るの遅くさせちゃって、ごめんね」
彼の満面の笑みにつられ、沙希もくすぐったい気持ちで照れ笑いしながら腕時計を見ると、10時半を回ったところだった。
それから約30分で家の玄関に辿り着くと、パジャマ姿の母親がリビングから出てくる。
「10時半頃、木村さんから電話あったわよ」
その瞬間、沙希の背筋が硬直する。
「それで?」
「『まだ帰ってない』って言ったら、『じゃ、いいです』って・・・それだけ」
沙希の胸に不安が走る。
「どんな様子だった?」
何故か勢い付いている沙希を不思議そうに眺めながら、相変わらずの大らかな口調で答える。こんな時の母の話し方が、今の沙希にはどうにも もどかしく感じられてならないのだった。
「別に普通だと思ったけど・・・?『帰って来たらかけさせましょうか?』って聞いたら、『大丈夫です。結構です』って」
沙希は慌てて階段を駆け上がり、部屋に入るなり 受話器を取る。この間から壁に貼ってある電話番号の紙を見ながら、直通の国際電話をかける。はやる気持ちと緊張で張り裂けそうな胸を押さえながら、ベッドの脇の時計を見る。午前8時・・・。しかし沙希の耳には、虚しく呼び出し音だけが響いていた。もう一度同じ事を繰り返すが、やはり 沙希の鳴らしている電話がメキシコで取られる事はなかった。どこにもぶつけ様のない悔しい気持ちで頭を抱え、大きくため息をついた。
(なんで今日に限って・・・)
大地のかけてきた10時半の自分に 後悔とやり切れなさと自らを責める気持ちだけで胸を満たすと、次から次へと涙が溢れて止まらなかった。そしてもう一度今夜かけてきてくれる可能性が低い事を知りながら、どこかでその奇跡にすがりついていた。受話器を握りしめたまま、帰って来たままの恰好で12時を迎え、沙希は待ち続ける自分を少し解放した。8月に大地を空港で見送った後と同じか、それ以上の抜け殻になったまま 洋服を着替えた。それからは 何をしてても心はメキシコの大地へ飛んだままで、到底眠れそうになかった。そして夜中1時を過ぎた頃、もう一度受話器を手に取った。しかしやはり結果は同じで、肩を落とすと ベッドに倒れ込む様に横になった。自分のこんなにも強い想いが 地球の裏側まで届かないもどかしさに、沙希は打ちひしがれていた。そんな時 沙希の頭をふとよぎったのは、由美姉の一言だった。
『二人には距離と時差に負けて欲しくない』
この言葉の重みが、今の沙希にはよく理解できた。そしてその言葉に励まされる様に、再び一時間後に メキシコの番号を押していた。今日もう何度も聞いた呼び出し音に、沙希は心の中でため息をつきながら 虚しく電話を切った。一日仕事で疲れて帰った体と、一向に繋がらない電話に沙希は 精神的に痛めつけられていった。誰も取ってくれない沙希からの回線に苛立ちを覚え、受話器を枕に投げつけた。そして沙希も枕に顔をうずめると、いつの間にか深い眠りに引き込まれていった。ベッドサイドのメキシコ時間を示す時計は、昼間の2時を回っていた。
午後3時頃、大地は仕事に行く準備をして、キッチンで自分で作ったサンドイッチを頬張っていた。大地の仕事は、一旦店に出てしまうと 終わるまで一切食事が出来ないので、いつも家を出る前に腹ごしらえをしておくのだった。帰宅した時には当然お腹もペコペコだが、疲れと眠気には勝てないのだった。すぐに熟睡できる程、大地は120%の力を出し切って働いていた。そんな状態で 一日二食の生活がすっかり習慣になって定着してしまったが、大地はかえって経済的でいいかな等と楽観的だった。
そこに学校から帰ってきたジルナが顔を出す。これからバイトに行く為、学校の荷物を置きに来たのだ。いつもの様に二人は挨拶を交わすと、大地が言った。
「今日何度も電話が鳴ってたよ。朝からさっきまで一時間おき位にね。家族から急用でもあったんじゃない?」
「ありがとう。かけてみるよ」
そのまま部屋に行こうとする彼の背中に向かって大地が付け足した。
「何度も取ろうかと思ったけど・・・君のプライバシーだから」
ジルナは笑顔で振り向いて 軽く右手を上げて合図を返した。
大地はろくにスペイン語も話せないままメキシコに渡り、ここの住人となった。そして今でこそ 日常会話が出来る様になったが、やはり母国語の様には伝える事が難しかった。しかしこのジルナは、とても大地と気が合い 言葉や国や人種を超えたところで通じるものを感じていた。だからこういうジルナの手振り一つで、大地にはそれが何を意味しているのか 彼の気持ちを読み取る事が出来た。
サンドイッチと牛乳を腹に詰め込むと、大地はいつもの様に仕事へと出掛けて行った。
寝不足での仕事は、沙希にはこたえた。そしてこの季節柄 暖房の効いた部屋の中で 優雅なBGMに包まれ施術をしていると、つい睡魔が襲ってきそうになるのだった。それでも何とか業務を終え 電車に揺られると、重たい瞼との戦いもあと少しと 自分を奮い立たせた。今日は9時を待つようにタイムカードを打って店を出ると、家まで足早に帰り着く。一刻も早く眠りたいという思いとは裏腹に、秘かに懲りずに期待に胸を躍らす自分がいた。お風呂にも入らず10時半の時を部屋で待ち構える。昨日この時間にまだ帰ってない沙希を気にして、そして声も聞けなかった淋しさも加勢して、今日はきっともう一度大地からかかって来る。そんな確信が沙希の中にはあった。そして子供がサンタを待つ様にドキドキワクワクしながら、ベッド脇の時計を見つめる。メキシコは朝の7時を過ぎたところで、沙希はメキシコで暮らす大地を瞼の裏に想像した。
(昨日も疲れて帰ったんだろうな。朝の目覚まし何時にかけたんだろう。もう起きたかな)
そして長い針が30分から少しずつ離れていくに連れ、
(疲れてて起きられないのかな)
すっかり沙希の眠気はどこかへ消えていて、自然と祈る気持ちに変わっていた。
(どうかこの想いが、大地に届きますように・・・)
その時だった。目の前の電話が嘘の様に鳴っている。少し信じられない様子で、しかし ゆっくりと一度深呼吸をしてから明るい声で受話器を取った。
「もしもし、青葉ですけど」
思わず沙希は耳を疑った。あまりの現実の意地悪さに言葉を失っていると、青葉は少し恐縮した様に、そして丁寧に続けた。
「夜分大変失礼致します。河野さんのお宅ですか?」
一瞬返事をするのも忘れ、沈黙が走って 沙希は我に返った。
「・・・はい」
「沙希さんは・・・」
「私です・・・」
しかし沙希は、まだ現実が信じられないでいた。
「な~んだ。何の反応もないから、沙希ちゃんじゃないのかと思っちゃったよ。良かったぁ。あっ、まだ起きてた?」
相槌を打つのが精一杯の沙希には、やけに青葉の口調が明るく元気に感じる。
「昨日はどうも。遅くなっちゃったけど、無事帰れた?」
青葉の声はちゃんと沙希の耳に届いていたが、それはただ“聞こえているだけ”に等しかった。
「何か元気ないね・・・。大丈夫?何かあった?」
沙希の様子にようやく気が付いた青葉が そう声を掛けるが、その言葉でいつもの沙希のスイッチがオンになった。
「そう?いつもと変わらないけど」
「ならいいけど・・・。あ、スケートの事 友達に聞いてくれた?」
昨日青葉とそんな話をした事すら忘れていた。
「まだ・・・」
「俺声掛けたらさ、年末年始の辺がいいんじゃないかって。沙希ちゃん、都合とかどう?」
今の沙希には 正直そんな事どうでもよかった。それこそ適当な言い訳を付けて 電話を切ればいいのかもしれない。しかし電話番号を教えてしまった手前、そしてスケートを断る代わりに『皆で』と言ってしまった責任から、ぶっきらぼうに突っぱねる様な事も出来ずにいた。暫く話に付き合うと 頃合いを見て、沙希が切り出した。
「今日凄く疲れてて、早目に寝ようと思ってたの。だから・・・ごめんなさい」
もっと話したさそうな青葉だったが、快くそれを受け入れると 嬉しそうに『おやすみ』と言って電話を切った。沙希にはどっと疲れが押し寄せてきた。
それから一週間が経過しても、大地から電話がかかって来る事はなかった。沙希も 鳴らない電話を待ち続けるのに疲れ、いつしか(大地にとって私って何なんだろう)と考え始める様になっていた。彼の生活の中に自分の姿はもう無いのかと思うと、沙希は一体何の為に仕事を頑張ってきたのか 分からなくなってしまうのだった。沙希の生活の中心が大地になっていた矢先の 彼のメキシコ行き。淋しさと不安をごまかす様に仕事に打ち込んできた。しかしそれも大地が望んだ事だったから。いつも大地は『仕事頑張れ』と励まし続けてきてくれた。確かに 仕事で一人前になる事を沙希も夢見てきたけれど、しかしそれ以上に大地の存在が大きかったのだ。一回りも二回りも大きくなって大地が日本に帰ってきた時に、それに見合う自分になっていたかった。その為に、取り残されない様にがむしゃらに前だけを見て走ってきた。しかし、もうその大地が 私よりも夢中になれる何かを見付けてしまったんだとしたら。沙希の胸にふと 嫌な予感がよぎる。
(大地・・・むこうで好きな人でもできたのかな・・・。この間の電話も、それを伝える為・・・?)
その途端、言い様のない大きな闇が すっぽりと沙希を包み込む。辺り一面何も見えず、ただとてつもなく大きな不安に囚われ、沙希は息もできなくなった。しかしそれでも沙希には仕事しかなかった。仕事だけがいつも沙希を待っていてくれ、先へ導いてくれた。そして頑張れば頑張った分だけ答えてくれたのも、やはり仕事だった。
(自立する時が来てるのかな・・・)
大地の為や 誰かの為ではなく、自分の為に仕事をしてみようかなと思い付く。そしてサロンの青山の顔や、桜井の顔が頭に浮かぶ。以前桜井が彼女にフラれた後『何くそ!』と仕事に打ち込んだという話が、懐かしい声と共に思い出される。自分を鍛える為に、そして自分自身のスキルアップの為に夢中になってみようと あらためて心の中で答えを出した。