第5章 告白
5.告白
今年もあと残すところ 僅か3時間となった頃、沙希は東急東横線の武蔵小杉駅の改札を出る。二日前に由美姉から『年越しで飲もう』と誘いがあったのだ。由美姉に指定された“いつもの焼き鳥屋”ののれんをくぐると、奥の方のテーブルで 由美姉が笑って手を振っている。そのテーブルには 由美姉の他にも二人の男が座っていて、ビールの大ジョッキを片手に 楽しそうに笑っていた。由美姉が早速紹介する。
「これが武蔵小杉の悪友。また後から二人来るんだけどね」
皆音楽仲間らしく、いでたちに共通点があり 大地を思い出させる。
「そしてこちらが、私の友達の河野沙希ちゃん。エステシャンで~す」
そう紹介されたものの 呆気にとられたまま挨拶をしたが、悪友達はとても気さくで すぐに皆の輪に打ち解ける事が出来た。
「こいつはね、私と昔一緒のバンドにいたの。一応ベーシストね」
黒髪の長髪ソバージュが、右手の大ジョッキを軽く掲げてみせる。由美姉とこのベーシスト中山の髪型は似ていて、『後ろから見たら どっちだか分からない』といつも皆からからかわれているらしい。その日も目立って、先頭切ってからかっていたのが 金髪でキャップのつばを後ろに被っている男 坂上だった。この坂上はボーカリストで、中山とは高校の同級生で 当時、バンドを一緒に組んでいたという。それ以来の腐れ縁らしい。10時半を回った頃、もう一人の仲間が現れた。その男は短髪で、目深にニット帽を被っていた。このニット帽の篠塚と坂上は 現在一緒にバンドを組んでいる。篠塚は由美姉を同じドラマーで、初めて二人が会った時から意気投合していた。皆の気の置けない会話に囲まれて、とても懐かしい気持ちが胸いっぱいに広がった。話題は音楽の事に留まらず、様々な方向に飛び火した。しかし一貫して、皆陽気に飲んで笑った。そしてあっという間に今年の終わりが迫り来る。どこのテーブルでも それぞれカウントダウンが始まり、15秒位前からは店内が一つとなって カウントダウンの大合唱となった。皆手に飲み物を準備し、新年の幕開けを今か今かと待ちわびる。
「5!4!3!2!1!」
「おめでとう!」
グラスをぶつけ合う音をBGMに、皆の歓びの声が渦となる。そして店内の乾杯が一段落すると、カウンターの中から店長が皆に生ビールを一杯ずつサービスと告げると、再びどよめきと拍手が沸き起こる。他のテーブルには 真っ赤な顔をした若者もいれば、椅子に昇ってはしゃぐ者もあった。
「この後皆で 近くの神社に初詣に行くけど・・・沙希ちゃんも行けるでしょ?」
由美姉に聞かれ、迷わず返事をする沙希は すぐその後 耳を疑った。
「大地、何時位になるって?」
ボーカリスト坂上が聞く。
「1時半は過ぎるんじゃない?今年もカウントダウンライブ入ってるって聞いたから」
由美姉が答えると、沙希の方へ視線を投げる。呆気にとられている沙希と目が合うと、由美姉が聞いてくる。
「まずかった?」
慌てて『ううん』と否定する沙希の口元は笑っていたが、目の奥には気持ちが正直に表れていた。この二人のやり取りを不思議に思った仲間達が注目する。
「あれ?沙希ちゃん、大地と知り合い?」
ニット帽の篠塚が問う。由美姉が沙希の様子を窺いながら、代わりに答えた。
「うん。昔のね・・・」
その一言で全てを察した様に皆が、思い思いに気を回す。それを肌で感じながら、かえって俯いてしまう沙希をなんとか地上へ引っぱり上げようと ベーシスト中山が肩を叩く。
「年も明けた事だしさ、昔は昔でいいじゃない。今日からまた新しい一年が始まったんだから」
すると続けて、ボーカリスト坂上が言う。
「初日の出見に行こうか?」
この提案で 再び皆が盛り上がる。暫くその話題で、計画が練り上げられていく。そして丁度 初日の出を見に行く方向も決まった時、店の入り口がガラガラと開く音がした。
「おう!お疲れ!」
いち早く大地に気が付き、声を掛けるボーカリスト坂上。ライブハウスの仕事を終え、駆け付けた大地がテーブルに近付く。そして口々に挨拶を交わしながら、坂上と篠塚の間の椅子に勧められるままに座って 初めて、はす向かいにいる沙希に気が付く。
「あれ?どう・・・したの?」
「私が誘ったの。千葉に居たら、こんな事も無理だったもんね。沙希ちゃんと一晩中飲もうと思ったら、こんな時でもないとね」
由美姉が少し慌てている様にも見える。
「久し振り・・・」
皆の手前、沙希も精一杯の力で笑顔を作る。すると大地も、平静を装う様に言葉を返す。
「あぁ。・・・飲んでる?」
しかしやはり 傍から見ると危なっかしい二人の会話に、ニット帽の篠塚が割り込む。
「お前、ビール生でいいんだよな?」
そして注文してから 又一瞬変な空気になるのを防ぎ、ベーシスト中山が話し始めた。
「今皆で、初日の出見に行こうって言ってたんだ」
大地が生ビールを駆けつけ一杯、そして少しお腹に詰め込むと 一同は店を出て、近所の神社に向かって歩き出した。周囲には出店が沢山出ていて、人出も多かった。そして初詣の人達の列に並ぶ。そして順番が来ると、6人が横一列に並んで手を合わせ 思い思いの今年を願った。一番最後まで手を合わせていたのは沙希で、その姿を大地は 他の4人とは違った思いで見つめていた。駅へ向かう途中、沙希の隣を歩きながら 由美姉がこっそり話し掛けてきた。
「さっき何お願いしたの?」
含み笑いを浮かべながら、沙希が答える。
「仕事の事とか・・・色々。欲張って色々お願いしちゃった。由美姉は?」
「ナイショー!」
いたずらな顔つきで由美姉が笑う。
「ずるーい!あの焼き鳥屋の人はどうなったの?」
「相変わらずだよ。だから、今年こそは 何か進展がありますようにって。それからバンドのメンバーが決まって、ライブ活動が出来ますようにって。この2つ」
そしていつの間にか 由美姉の顔は真剣になっていた。沙希はふと 大地のバンドもメンバーが抜けて以来、活動が休止していた事を思い出す。それももうだいぶ昔の話で、今は活動を再開出来ていればなぁと 前を歩く大地の背中に思いを馳せた。下りの電車を乗り継ぎ、京浜急行の金沢文庫駅で降りる。以前に来た事のあるボーカリスト坂上の先導で、皆が後に続く。まだ夜明け前の暗い道を歩きながら、由美姉がすっと沙希から離れ ベーシスト中山の方へ行ったのと入れ替わる様にして、大地が近付いて来た。
「それ、温かい?」
指を指している先は 沙希の首に巻かれたマフラーで、大地から以前クリスマスにプレゼントされた物だった。
「うん。ありがとう」
焼き鳥屋を出てから 初めての会話だった。そして沙希も思い切って聞いてみる事にした。
「今は・・・バンド・・・どうしてるの?」
「あれから何回か人が入ってるんだけど、結局求めてる音が違ったりして。でも今は積極的に人探してないんだ」
話しながら登ってきた丘の上から 東の空を見ると、ゆっくりと明るくなり始めていて 日の出が近い事を知らせる。暫くすると、多少もやがかかっているが 遠い山並の合間から大きく光を放ちながら 顔を出した。6人は黙ったまま、じっと日の出を見つめる。大きな新年の初日の出を見届けると、それぞれが手を合わせて再び今年の決意を誓ったり 思いを投げかけた。そしてニット帽の篠塚が煙草に火を点けると、後の4人も煙草を取り出し一服する。そして篠塚が味を噛みしめながら言った。
「初日の出見ながらの煙草は、ホント美味いなぁ」
ベーシスト中山も合いの手を入れる。
「神聖なる一本ですな」
それぞれが色々な思いを胸に、今生まれたばかりの初日の出が 東の空に昇って行くのを見送ると その丘を後にした。帰りの道のりで、ベーシスト中山が大地に言った。
「今年は正月に北海道、帰るのか?」
「あぁ、今年はな。丁度チケットも取れたし。今日の昼頃に羽田発つんだ」
由美姉も加わった。
「1年で殆ど帰んないんだから、お正月位戻った方がいいんだよ。それも親孝行なんだからさ」
去年、由美姉の両親は離婚した。そしてそれを機に、生まれ育った千葉を後にして 川崎に引越して来たのだった。それを知ってる仲間達は、由美姉のこの言葉を重く受け止めた。
お正月の三が日は、あっという間に過ぎて行った。大地は久し振りに帰った北海道の実家で、のんびりと楽しく過ごしているのだろうか。懐かしい友人達と会ったりしているのだろうか。桜井からのプロポーズがなければ あの日、沙希は自分から別れを切り出すつもりでいた。そしてどうしても止める事の出来ない大地への気持ちに正直になろうとしていた。しかし 思いがけない桜井からの告白で、すっかり自分を見失っていた。そんな時、以前桜井に言われた一言が こんがらがった紐をほぐしていった。
『前の恋愛と 一体どれだけ時間が空けば 納得するの?』
その言葉に後押しされる様に 沙希は、心を固め 大地を呼び出した。新丸子の駅前にある、昔よく特別な日に行った コーヒーの美味しい喫茶店で、大地を目の前にして 沙希はお正月の話を持ち出す。
「どうだった?実家は。のんびり出来た?」
「まぁね」
「友達にも・・・会って来られたの?」
「あぁ。こういう時でもないと、会う事なんて滅多にないからな。でも皆あんまり変わってなくてさ、お互い笑っちゃったよ」
沙希は沈黙を恐れる様に、次々と話題を考えた。
「初日の出、綺麗だったね」
「こっち出て来てからは初めて見たなぁ。北海道では何度か見に行った事あったけど・・・。大人になってから見ても、なかなか良いもんだな」
沙希の落ち着かない様子が気に掛かり、しびれを切らした様に大地がせっつく。
「何か・・・話があったんじゃないの?」
テーブルの下で、沙希は震える手をギュッと押さえつけた。恐れていた沈黙が 二人の間に立ち込めると、沙希はそれに押し潰されそうになる自分を必死に抑えた。
「私ね・・・突然別れるって言ってみたり、又 突然泣きながら電話してみたり、それで又会わない様にしようとか・・・本当に今までいっぱい振り回してきちゃって・・・まぁそんなつもりはなかったんだけど・・・」
伝えようと思って話せば話す程、口から出る言葉は支離滅裂で言い訳じみていて、焦れば焦る程、かえって口ごもってしまうのだった。しかしそんな沙希の話を 真剣に、ただ黙って大地は聞いていた。
「私なりにね、色々考えたんだけど やっぱり・・・大地の事、忘れられなくて・・・。またかと思うかもしれないけど・・・でもこれは本当の気持ちで・・・。だから・・・もし今までの事 許してもらえるなら・・・また・・・一緒にいたい・・・」
何とか言い終えると、下をうつむいて じっと大地の返事を待つ。
「許すとか・・・振り回されたとか・・・そんな風には思ってないけど・・・」
『けど』で切れたその言葉の後が、沙希には怖くてたまらない。
「突然別れたいって言った理由を・・・今なら教えてもらえるの?」
カラカラに渇いた喉を 唾を飲み込んでごまかしてから、沙希が話し始めた。
「あの時、大地が私の事 想ってくれてるのと同じ位の気持ちで 大地を愛してるのか・・・自信がなくて・・・」
「で・・・今はその答えが出たの?」
沙希はうつむいたまま小さく頷くと言った。
「自分の気持ちは・・・ちゃんと分かったから・・・」
その言葉を聞くと、大地は大きくため息をつき 椅子の背もたれに寄り掛かる。そのまま暫く時間が流れる。多少険しい顔つきで悩んでいたが、何か吹っ切る様に顔を上げる。
「あんまり・・・一緒に居てやれないけど・・・それでもいいの?」
大地が何を意味しているのか良く分からず キョトンとしていると、大地が付け加えた。
「俺の気持ちはずっと変わってないよ。だけど俺自身がまだまだ色々中途半端だから、沙希には淋しい思いをさせるかもしれないよ」
沙希の耳には、もう大地の最後の方の言葉は 届いてはいなかった。
二人が再び同じ時を刻む様になって、今までの沙希とは少し違っていた。平日でも 仕事を終えると、30分でも大地に会いにアパートまで訪ねて行った。大地が仕事が遅くて まだ帰っていない時も、沙希は終電まで待って 部屋にメモを残して帰った。毎日の電話も欠かす事はなかった。土曜日の仕事を終えた沙希が いつもの様に大地のアパートを訪れ、終電近くなって 駅まで送って行こうとした大地と喧嘩になる事もあった。
「明日休みだし、泊まってく」
「駄目だよ。お家の人、心配するから」
「大丈夫。どうせ私が遅ければ寝ちゃってるし」
「そういうもんじゃないんだよ」
「どうして駄目なの?私ここに泊まったら・・・迷惑?」
少しいじける様にすねる沙希に、大地が言葉を変えた。
「じゃ、俺が電話するよ。『今日うちに泊めてもいいですか?』って」
「いいよ!そんなの・・・。余計心配するよ」
すると、少しふて腐れた様に沙希が言う。
「じゃぁ、私が電話して言うよ。・・・友達の所に泊まるって」
それを聞いた大地は、少し怖い顔になる。
「そういう嘘、・・・俺あんまり好きじゃない」
そしてとうとう沙希も怒り出す。
「皆やってる事じゃない。どうして駄目なの?大地は・・・ずっと一緒に居たいとかって思わないんだ?」
今度は、気持ちの高ぶりを助長しない様に 大地があえて落ち着いた声を出す。
「俺は沙希と大事に付き合っていきたいんだ。俺にとって沙希が大切なのと同じ様に、沙希の家族も大切なんだよ。そりゃ、出来ることならずっと一緒にいたいけど、目先の欲求を満たす為だけに嘘ついたり 親心配させたり・・・。俺はもっと大きなものを大事にしていきたいんだ。ごめんな。・・・わかって欲しい」
そして沙希を 優しく腕の中に包み込んだ。
比較的暖冬と言われた冬も終わりを迎え、南の方から桜前線が聞こえ始めてきた頃だった。
「桜でも見に、日帰りドライブでも行くか!」
大地のこの一言から始まった。この日の為に 大地はレンタカーを借り、二人は日光へ向けて出発した。初めて見る大地の運転する姿に、新鮮なドキドキを味わった。行きは殆ど渋滞もなく、予定通り 昼頃日光に着くと、美味しいと有名な釜飯屋で昼食を摂った。
「なんだか ここまで来ると、旅行に来たみたいだね」
「気分だけでもな」
今回のこのデートは、二人にとっては本当に初めての事づくしだった。もちろんこんな遠出も初めてだったし、当然ドライブも今までした事はなかった。そしてお昼ご飯に 老舗の釜飯屋なんて考えた事もなかった。
午後からは約束通り、桜の名所巡りをした。桜並木のトンネル、そして山々を覆う淡いピンク色の桜達。高台からカーテンの様に 風にしなやかに泳ぐ枝垂桜。どれも丁度満開で、陽気も良く 観光客も多かった。あっという間に日は傾き始め、二人の胸もいっぱいになった頃、夕食の為に二人は 山菜料理のお店に入る。小上がりになったお座敷に通され、そこで山菜づくしを満喫した。
帰りは渋滞にはまり なかなか車は前に進まなかったが、沙希には 少しでも大地と一緒に居られる時間が長く、かえって都合が良かった。5分前と殆ど景色が変わっていない車の中で、沙希が思い付いた。
「前にさぁ、北海道連れてってくれるって言ってたでしょ?今年の夏にでも、行けたらいいね」
「ああ・・・」
弾んだ沙希の声とは正反対に、大地は空返事を返した。少し変に思った沙希が 運転席の大地に目をやるが、渋滞で疲れたのかなと思い、あえて聞き返したりはしなかった。
「ごめんね。私、運転代わってあげられなくって・・・」
そう大地に声を掛ける事しか出来なかった。
沙希の仕事も2年目に入り、青山が居ない時でも スムーズに仕事を進められる様にもなってきた。
青山は結婚していて、現在33歳。小学校2年生の長女と、保育園に通う6歳の長男の二児の母でもあった。毎朝長女を学校へ送り出し、長男を保育園まで送った後 サロンに出勤する。そして夕方、保育園に迎えに行く時サロンを空ける。その後は、自宅近くに住む義理の母に子供達を預け 再びサロン内でオーナー店長を務める。『多くの人の協力があって、今の私の生活が成り立っている』と以前言っていた事があった。当然の事ながら、サロンでの“仕事をしている青山”しか見た事のない沙希は、正直“母親としての青山”にピンとこなかった。が、以前電話で子供と話をする青山の姿を見た時に 妙に新鮮で、更に沙希は青山への憧れを強くしたのだった。女性として、家庭を持ち 子育てをしながら 立派に自分の夢を実現させていく、そんな生き方もあるんだなと 改めて実感した沙希が、青山にこんな質問をした事があった。
「お子さんが小さい時って、サロンはどうなさってたんですか?」
「昔はね、自宅でサロンを兼用してたの。だから、出来る範囲の予約しか取らないで、細々とやってた時もあった。子供が3歳までは やっぱりいっぱい傍に
居てやりたいって思ってたから・・・ま、仕事人としてみたらわがままかもしれないけど、母親としての私にとったら大事なこだわりでね。あとは、加賀美チーフの協力が大きいわね。一時は、殆どサロンの事 任せっぱなしの時もあったしね。私は、周りの人に恵まれてるのね」
青山は“在庫管理”と記されたノートを開きながら言った。
「人ってね、誰でも一つは 一生不自由しないものっていうのがあるんですってね」
大地のライブハウスの仕事は 休みが不定期で、日曜の昼間は仕事の事が多かった。平日も比較的夜の方が忙しく、そうなるとやはり 大地の休みの日に 仕事を終えた沙希と会うしか時間がなかった。この日も沙希は 大地のアパートを訪ねていた。そして青山の言っていた事を話してみると、大地はマルボロの煙を上に吐き出しながら繰り返した。
「一生不自由しないものか・・・。俺は何だろうなぁ。・・・人・・・かな。俺は 周りの人には恵まれてると思うよ」
店長と同じ事を言うなぁと内心驚きながら、大地の顔を見つめた。
「沙希は?」
「私は・・・まだ分からない」
その時電話が鳴った。二人きりの静かな部屋の中に 大地の声だけが響く。大地の話し方から、電話の相手が友人でない事が分かる。
「あぁそうですか。わざわざすみません。で、その方は・・・どちらに今お住まいなんですか?・・・・・・あぁじゃあ丁度いいな。僕が今思ってるのも その辺りなんですよ。じゃ・・・良く検討して・・・また連絡させてもらいます」
電話を終えた大地に 早速問いかける。
「今の・・・何?」
「あ・・・仕事場の人」
あまり多くを語りたがらない様子に 不信感を募らせる。
「『どこに住んでるのか』とか『僕が思ってるのもその辺』とか・・・何の話?引っ越しでもするの?」
「いや・・・仕事の話だよ」
言いながら大地はスクッと立ち上がり、台所へコーヒーを入れに姿を消した。沙希の心の中で 不信感から不安感へと形を変え、大地がマグカップを二つ持って部屋に戻ってきた時には 沙希の目には薄っすら涙さえ浮かんでいた。
「今・・・大地がすごく遠く感じた・・・」
返事のないまま 大地がコーヒーを一口すすり、時計にチラッと目をやると 沙希はそれをしっかりと見ていた。
「何か予定でもあるの?私、邪魔なら帰るよ!」
思い込みの激しい沙希の腕を掴んで、大地がなだめる様に言った。
「違うって。沙希の電車の時間、まだ大丈夫かなって」
「・・・私、この辺に一人暮らししようかな」
大地が驚いた顔をする。
「そんなっ!お前、思いつきでそういう事・・・」
「思いつきじゃないよ。ずーっと考えてたんだよ。そしたらもっともっといっぱい一緒に居られるでしょ?私が近くに引越して来たら・・・嬉しい?」
「そりゃ・・・。だけどさ・・・」
そこまで聞いて、沙希が大地の歯切れの悪い言葉を遮る。
「もう分かった。もういいよ。もう・・・そんな事言わない。安心して」
そして沙希は 自分のバッグを掴んで、走って部屋を後にした。
次の日の夜、大地が仕事の合間を見付けて 沙希に電話をかけてきた。
「昨日はごめん。今、あんまり長くは話せないけど・・・今週日曜休みなんだ。だから・・・会えるかな」
「・・・悪い話?それなら・・・あんまり聞きたくない」
すぐに否定するでもなく、大地はゆっくりと言葉を選ぶ様に言った。
「沙希・・・俺の事・・・信じて欲しい」
受話器から沙希の返事がないと、大地は再び慎重に言葉を発する。
「俺が 沙希を大事に思う気持ちに 変わりはないから」
その電話から日曜までが、いつになく長く感じた沙希だった。そしてまた、大地のアパートへ行く足取りも いつになく重たかった。暗い顔の沙希が 大地の部屋のいつもの場所に座ると、大地もテーブルを挟んで向かい側に座り 背筋を伸ばす。
「沙希に話しておかなきゃならない事がある。聞いて欲しい」
沙希の頭は更にうなだれていったが、大地が軽く咳払いをするとトツトツと話し始めた。
「俺 今までの人生振り返った時に、いっぱい色んな人に助けられてきたなって 改めて分かったんだ。それはそれで凄く感謝すべき事なんだけど、今の自分考えたら、恥ずかしい事だけど 何ともなってないのが現実でさ。昔はバンドでって気持ちがあったけど、今は理想と現実のギャップみたいなものも見て、バンドって枠にこだわらなくても 音楽に携われる仕事ならって、今の仕事に就いたよ。だけど、じゃこれで一生食ってくかっていう気にも正直なれないし。・・・要は俺自身に問題があるんだよ。だから・・・俺は・・・周りの援助が何も無い所で、ゼロから自分を試してみる事にしたんだ」
そこで目の前の沙希の様子を窺うが、さっきからピクリともしない 置物の様に固まった沙希が居るだけだった。
「日本を出て・・・メキシコに行く事にした。元々俺、メキシコには凄く興味があったし・・・。バンドも今は幸い組んでないし、姉貴も独身で両親と一緒に住んでくれてるし、行くなら今しかないと思ったんだ」
大地の話はまだ続いた。
「早くて3年。3年は何があっても向こうで頑張る。納得がいくまでは帰って来ないつもりでいる・・・。俺の人生を賭けてるんだ。・・・わかって欲しい・・・」
頭を下げる大地。すると暫くして、ようやく沙希が口を開いた。
「いつ・・・決めたの?」
「去年の12月には・・・もう決めてた。だけど・・・なかなか言えなかった。ごめん・・・」
そしてゆっくりと沙希は顔を上げた。
「大地がそこまでの気持ちで決めた事だもん。私・・・信じて応援するよ」
少しばかり物分かりの良いふりをして強がる沙希を、大地はちゃんと分かっていた。そしてその大地が、今までで一番辛そうな表情で口を開いた。
「俺は・・・沙希に、待ってて欲しいとは言えないよ」
また沙希の顔が凍り付く。
「いつ帰って来てやれるかも分かんない。帰って来たって、またこっちで仕事を一から探さなくちゃいけないかもしれないし、何の保証も無ければ 何の約束もしてやれないんだよ。そんな俺をずっと待ってて欲しいなんて・・・俺は言えない」
沙希は奥歯を噛みしめる。
「大地は、私と別れてメキシコに行きたい?そうだよね。むこうで良い出会いとかあるかもしれないしね」
「そんな風に浮かれた気持ちで行くんじゃないよ」
「じゃ私、待ってる」
必死に冷静さを保とうとしている沙希が、大地にはとても印象的に映った。