第4章 別れ
4.別れ
外の空気もだいぶ冷たくなり、昼間でも風が吹くと冬がもう近い事を感じさせた。そんな晩秋のある日、桜井が会社で 神妙な顔つきで社長室を後にする。桜井の勤める設計事務所は 決して大きくはなかったが、業界の中では丁寧な仕事をすると評判が良かった。それも社長の飯田智春氏の根強いポリシーから来るものだった。飯田氏は大学卒業後 すぐにフランスに渡り、設計はもちろんの事 建築技術、デザインを学び 実践で体に叩き込んできた。日本に帰国後、ある大手企業に勤め 渡仏中の経験を生かし 様々な賞を受賞し、若手の中でも一躍脚光を浴びた。しかし大きな組織の中では 出る杭は打たれ、丁度40歳の時に今の会社を作って独立した。現在53歳で、去年フランス支社を作った。この社長の元で働きたいと集まってくる新卒者も後を絶たない。桜井もその中の一人だった。飯田氏も、桜井のデザインセンスには入社当初から一目置いていた。この会社に年功序列はなく、できる者がやる気のある分だけ仕事を与えられ昇進していく。正に実力主義の世界だった。この日も桜井にある辞令が下りていた。辞令と言うよりは、今回の件は 社長からの提案に近かった。
「まぁ良く考えて、一週間後に正式な返事を聞かせてくれ」
その日定時を回ってもデスクに残って仕事をする桜井に、久保が隣のデスクに寄り掛かる様にして声を掛ける。
「話聞いたよ。どうするんだ?」
「まだ・・・。今日聞いたばかりなんで」
しばし久保も、桜井の心情を察するように黙り込む。
「でも・・・お前にとったら、凄くいいチャンスじゃないか。まぁ、そんな事 百も承知だろうけどな」
久保がコーヒーをカップに注ぎ、一つを桜井の机に置くと、桜井も軽く会釈して パソコンの手を止める。
「お前今彼女いるんだろ?それも考えないといけないな」
桜井がコーヒーを一口すする。
「お前の彼女はどうか知らんが、女に仕事の事説得するのは 本当難しいからなぁ」
ここ最近の沙希と桜井の関係も 今までとは明らかに違っていたが、皮肉にも、お互い自分の事で精一杯で 相手の異変に気が付く事はなかった。
その週桜井は、沙希に話す事のないまま 社長室で正式な返答をしたのだった。
「喜んでお受け致します。精一杯頑張らせて頂きます。」
今後の人生の飛躍を夢見て、桜井は力強い瞳で意志を伝えると、飯田氏も満足そうな笑みを浮かべ激励した。
その日の午後、喫煙ルームで桜井が一服していると 久保がやってくる。そして桜井の隣にやってきた久保に報告した。
「この間の件、決めました」
「そっか。良かったな」
この間よりだいぶ晴れやかな顔つきの桜井を見て、久保が安心する。
「彼女にも・・・話した?」
「いや・・・まだ・・・」
一瞬にして顔が曇る。久保も少し考え込む様に 煙草の煙を大きく吸って上へと吐き出す。
「言いにくいと思うけど・・・遅くなればなる程、こじれるぞ」
そしてその後、桜井への辞令は正式発表され 来年の1月に向け準備が始まった。今桜井が抱えている仕事の引き継ぎや次の段取りに 残業は当たり前、休日返上で当たった。実家の両親への報告も済ませ、残すはあと一人 沙希だけとなった。
ある日曜の夕方、桜井から沙希に電話が掛かる。この日も 桜井の仕事の為、バラバラに休日を過ごしていた。
「これから会えないかなぁ?」
沙希はいよいよ覚悟を決めた。今日は逃げずに自分から話を打ち明けようと、それがせめてもの誠意だと言い聞かせていた。
迎えに来てくれた紺のシルビアに乗り込むと、まずご飯を食べに行こうと 桜井が提案した。車が本牧へ向かう間、車内ではゲイリーモアのCDが流れていた。沙希は思わず口走る。
「なんか・・・会うの、久し振りだね」
桜井の返事はない。仕方なく 沙希は話を続けた。
「仕事・・・忙しいの?帰りも遅いみたいだし・・・日曜も仕事で・・・大変だね」
今度は軽く相槌が返ってくる。
「年末だから?・・・かな・・・」
また無言になる。しかし桜井の耳はしっかりと沙希の話を聞いている様子で、かえって沙希が委縮していくのだった。車が着いたのは、以前二人が初めてデートをした時にランチを食べに来たパスタ専門店だった。テーブルに着き 注文を済ますが、二人の間にいつもの様な会話は無かった。水を一口飲むと、桜井が言った。
「最近仕事はどう?頑張ってる?」
やっと桜井から話をしてくれた嬉しさと安心感で、沙希の顔に思わず笑みがこぼれる。
「うん。先月はね、体験コースでの初来店のお客さん、3人もコース決めちゃった。その分、責任は重いけどね」
仕事の事となると、つい口数が増える沙希を 桜井は優しい目つきで見つめていた。
「仕事忙しいみたいだけど、また大きな仕事入ってるの?」
「あぁ・・・」
桜井が再び口ごもり、沙希がはたと気が付く。電話が無かったり 会えなかったりするのは 仕事が忙しいからだと聞いていたが、実はそれは口実に過ぎなかったんだと 目の前の桜井の態度から解釈した。そして、沙希の口から 言葉は消えていった。
タイミング良く 二人の元にパスタが運ばれて来るが、食事中も聞こえてくるのは食器の音だけだった。以前と同じ様に、食後のコーヒーとミルクティーをそれぞれ飲みながら 桜井が店内を見回した。
「覚えてる?前、ここ来たの」
沙希が頷くと、そこから思い出話が広がった。
「あれからまだ一年も経ってないなんて、嘘みたい」
「早いね。俺の事、あの時よりも分かってもらえた?沙希の理想から遠くなってない?」
何故今更そんな事を聞いてくるのか・・・。沙希は下を向いて 首を横に振るだけだった。店を出て 再び車に乗ると、本牧の公園まで走らせた。車を降りた桜井は軽く伸びをしている様子で、沙希と並んで歩き始めると、すっと沙希の手を取った。指を絡ませ しっかりと握りしめたまま、無言で園内を歩いた。二人の終わりが静かに近付いている空気感の中で、何故桜井は自分の手をしっかりと取り 思い出を巡るのか・・・。桜井の考えが読めないまま、沙希は薄暗い不安を胸に抱きつつ 手を引かれるままに“恋人たちの丘”に着くと、沙希が深呼吸をした。確かに目の前に夜景が広がっていたが、沙希の目には何も映ってはいなかった。意を決して 大きく息を吸い込むと、桜井に先を越される。
「俺・・・今日、大事な話があるんだ」
「私も話したい事があるの」
「ごめん。今日は・・・俺に先に言わせて欲しい」
その言葉には決意に似た力強さがあり、やむなく沙希は引き下がる。
「俺・・・転勤する事になったんだ」
言葉の端々から漏れる桜井の息が小刻みに震えているのを、沙希は感じ取っていた。
「どこに・・・?」
「・・・フランスに・・・2年間」
予想以上に遠い場所に、沙希は驚きを隠せなかった。
「入社した時からの夢で、去年うちの会社の支社がフランスに出来た時に 希望出してたんだ。それが今になって採用されて・・・。先月の初めに話が来て、すぐに沙希に相談しようと思ったけど、言い出せなかった。それで・・・行く事に決めたんだ。これからの為にも今行く事が必要だと思ったんだ。勝手で・・・ごめん」
「謝らないでよ・・・。おめでとう。そう、おめでとうじゃない!自分の夢がまた一つ叶って ステップアップ出来るなんて・・・凄い事だよ!」
沙希が必死でテンションを上げているのが、桜井にも伝わる。その桜井も苦しそうな表情をする。
「凄く迷ったんだ。沙希とのこれからの事も・・・いっぱいいっぱい考えたし。だけどこれは、俺の人生の中で 凄く大きなチャンスだと思ったし、だから・・・」
桜井は、自分の決断した思いが強い事を話せば話す程 辛い顔をする。そんな桜井が痛々しくて、沙希が先回りをする。
「分かるよ。仕事に懸ける気持ちも、すっごくいっぱい悩んだ事も。私に言い出せなかった気持ちも分かるから。私にも夢があるし・・・ここからは別々の道を選んだって事・・・」
今日桜井に会ってから抱いていた疑問の点と点が、沙希の中で 一本の線になって繋がった。
桜井の両手は、秘かに下の方で握り拳になっていた。
「違う・・・」
沙希の先回りは止まらない。
「大丈夫、分かってるから。私より仕事を取ったんだなんて思ってないから。私・・・頑張って欲しいって思ってるよ」
沙希が話をしている間、桜井は背を向けて夜空を仰いでいたが、ゆっくりと振り返り 深呼吸をすると もたげていた頭を上げる。
「結婚して欲しい」
「・・・・・・」
不意を突かれ、沙希は固まった。
「今すぐは・・・時間も無いけど、俺が帰って来たら、結婚してほしい」
沙希は瞬きすらも忘れていた。
「そりゃ二年間は沙希に淋しい思いをいっぱいさせると思う。でも帰って来たら、それまでの分も いっぱいいっぱい幸せにするから。絶対に幸せにするから。・・・二人で・・・幸せな家庭を築きたい。俺・・・沙希と出会って、こんなに自分より大切と思えたの、初めてなんだ。だから、沙希とだったら・・・これからも色んな事 乗り越えていけると思う。これからも俺には沙希が必要なんだ。だから、二年間待ってて欲しい」
今まで溜めていたものを全て出し尽くすと、桜井が大きく息を吐く。そして笑顔までこぼれた。
「やっと言えたぁ」
そして今度は、沙希の方が飽和状態に陥っていた。
「返事は今すぐじゃなくていいから。よく考えておいて欲しい」
暫く沙希は立ち尽くして、身動きすらとる事が出来なかった。沙希の心の中に 大地の影が再び甦り どっちつかずを繰り返していた時に桜井は、自分との将来を真剣に考えてくれていた。沙希はいたたまれない思いを抱え、そしてそんな自分を責め続けた。
二人が公園を後にすると、桜井は湘南平へ向けて車を走らせた。相変わらず苦しみに悶える沙希の様子を横目に見ながら、桜井があえて明るい声を出す。
「沙希、話があったんじゃないの?」
「いいの、大した事じゃないから」
今日家を出る時に 必ず話そうと心に決めていた事も、今さら言い出せる筈もなかった。抜け殻の様な沙希を連れて、桜井は以前二人で来た展望台を訪れる。階段を昇り、南京錠の鉄格子を前に立ち止まる。二人が初めてキスをした場所だった。
「沙希と結婚したら、俺が設計した家を建てたいと思う。そこで、二人の記念日にはあのワイングラスと沙希の手料理で乾杯して・・・子供が生まれたら、日曜日には公園に遊びに行ったり、長い休みには家族旅行をして・・・子供の入園式や入学式 運動会にはビデオを持って二人で見に行くんだ。子供の色んな表情を見ながら二人で『ここは俺に似てるね』とか『笑い方が沙希に似てるね』とか言いながらさ」
星空を仰ぎ見ていた桜井が 沙希の方へ向き直る。
「覚えてる?前来た時、『今度二人で鍵かけたいね』って」
そして何やら桜井がコートのポケットから、シルバーの まだ傷一つない小さな南京錠を取り出す。
「一緒に・・・しようと思って」
桜井が少しでも場を和ませようと、笑顔を作る。しかし沙希はただ俯いたまま、返事をする事すら出来なかった。
「お願い。一緒に鍵・・・かけて欲しい」
桜井が沙希の手に シルバーの南京錠を握らせる。
「プロポーズの返事じゃなくて、今日ここに来た証に・・・お願い・・・」
桜井は、沙希の手の上から 両手で包み込むように力強く握りしめた。その握力に、桜井の想いが表れていた。
「私は・・・」
かすかに絞り出した様な声が口から洩れる。
「私は、あなたが思ってる様な人間じゃない」
床に一粒二粒雫が落ちた。
「あなたと結婚したら・・・私はきっと幸せになれると思う・・・」
そこまで聞いて、桜井が慌てて言葉をかぶせる。
「言わないでよ!今・・・返事しないで」
しかし、沙希の首は大きく何度も横に振られてしまう。
「私は・・・桜井さんには相応しくない。だから・・・結婚・・・できない。ごめんなさい」
桜井の目にも、うっすらと涙が滲んでいた。
「どうしても俺じゃ・・・ダメ?」
沙希は首を何度も何度も振りながら『ごめんなさい』とただ繰り返すだけだった。桜井が重ねていた手をそっと離すと、沙希は手を広げて 南京錠を桜井に差し出す。それをゆっくりと受け取った桜井のあごは小刻みに震えていて、切ない程の笑顔で言った。
「分かってたんだ」
沙希の鼻をすする音が、夜空に悲しく響く。
「多分駄目だろうって・・・沙希はきっと断るんじゃないかって・・・分かってたんだ。だけど自分の答えは一つだったから・・・。ありがとう。これですっきり日本を発てるよ」
そして手の中の鍵を見つめると、桜井が言った。
「これ記念に掛けておくよ」
そしてすぐ傍の柵にカチッと引っ掛ける。それだけは他の物と違い、誰の名前も書かれていないまま 12月の夜風に虚しくさらされていた。桜井が、うつむいたままの沙希の方へ向き直ると 両肩に手を乗せた。
「今まで、本当にありがとう」
力なくゆっくりと引き寄せた沙希の体は、すっかり冷たくなっていた。最後に一度だけギュッと抱きしめると、桜井が笑顔で話し掛ける。
「もう平気だから、俺の方見て」
何とか顔を上げ 一瞬桜井と視線を合わせるが、それでもう精一杯だった。
「最後だから・・・ね」
沙希は深呼吸をしてから、再び顔を桜井に向けた。
「幸せになってね。沙希は・・・笑ってた方が可愛いから」
沙希の口からも、かすれた様な声が ビブラートしながら出てくる。
「私・・・してもらうばっかりで・・・結局何もしてあげられなかった。ごめんなさい」
肩に置いていた手が腕を伝って滑り降り、冷たくなった沙希の手を包んだ。
「沙希も仕事頑張るんだよ」
「桜井さんも・・・ね」
「結局一度も、名前で呼んでくれなかったね」
俯く沙希を、桜井はもう一度優しく抱きしめた。