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輝けるもの(上)   作者: 長谷川るり
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第3章 過去と嘘

3.過去と嘘


 沙希の研修2週目に入り、内容も 皮膚理論から体細胞についてと変わっていった。勉強すればするほど 自分の選んだ仕事の奥深さが見えてくる。青山が言っていた『エステの仕事は、美容と医学の両方の要素を併せ持っている』という言葉が身に染みる。相変わらず睡眠不足は続いたが、意欲と気力で乗り越えた。そして、なんとか3月いっぱいで知識を詰め込み、4月1日から沙希は、サロン・ラヴィールの正社員となった。しかしまだ研修の身で、これからは更にハードな生活が待っていた。朝9時に出勤し、夜8時に閉店し9時まで後片付けとカルテの整理等雑務を済ませ、退社する。4月に入ってからは、技術の研修が始まった。まずボディの施術からで、サロンで扱う機械の家庭用を家に持ち帰り、毎日自分の体で復習した。ここで、3月に勉強したツボの位置や経絡、反射区の知識と技術が融合する。4月になって大きく違う事は、一日に何人かのお客様の現場にアシスタントとして立ち会える事だった。アシスタントといっても 殆ど見学に近かったが、正に百聞は一見にしかずで 見て学ぶ事はとても多かった。こんな日が週6日繰り返され、貴重な週一回の休みは 毎週いつの間にか桜井とのデートの予定がカレンダーを埋め、それが習慣となった。映画にも行ったし、サッカー観戦もした。遊園地や水族館といったお決まりのデートコースさえ、沙希には新鮮に感じた。疲れている筈なのに、何故か桜井に会うと癒され リフレッシュできた。

 

ある日曜日、二人はプラネタリウムに来ていた。沙希は空や星が大好きで、いずれ星を買って 自分で名前を付けたいと桜井に話した事があった。リクライニングシートに二人は並んで腰を下ろす。開演時間が来た事を知らせるアナウンスが流れ、照明が落ち 二人の頭上には満点の星空が広がった。解説のアナウンスが春夏秋冬の星達を紹介する。そして天の川が夜空に輝き、それによって切り離された様なベガとアルタイルが切なく光る。そして桜井の左手が優しく沙希の右手に重なる。静寂と暗闇のこの空間で、自分の鼓動が聞こえるんじゃないかと思う程 沙希の緊張は高まっていて、桜井の顔を見る事すら出来なかった。二人の頭上に明けの明星が姿を現し、プラネタリウムの上映は終了した。


その後喫茶店で、沙希はアイスロイヤルミルクティーのストローをグラスの中でもて遊び、桜井はアイスコーヒーにミルクを注ぎ入れる。

「ゴールデンウィークは仕事休みなの?」

桜井が煙草を取り出しながら聞く。

「カレンダー通り。桜井さんは?」

「だから“桜井さん”はやめろって」

出会った時からの慣れ親しんだ呼び名を卒業する時が来ていた。しかし“篤志”と名前で呼ぶのは抵抗があり、あえて“桜井さん”を通すことで距離を保ち、逃げ道を残してある事に沙希自身 気が付いてはいなかった。

「どっか行きたいね。旅行でも行ければいいんだけど・・・」

そう聞いた途端、沙希の記憶は4か月前へと飛んだ。なかなか別れ話を切り出せない沙希に、何も知らない大地が今度のGWに故郷の北海道に行こうと言ってくれた情景が今も鮮明に甦る。久し振りに思い出した大地の声も生々しい。うつろな目をした沙希に気付き、桜井が気遣う。

「でも・・・急すぎて旅行は無理だけど、日帰りで ちょっと遠出でもできたらな・・・」

桜井の想像と 沙希の回想が食い違う。沙希は『北海道いずれ一緒に行こう』と言われない様 それだけを切に願っていた。


 桜の花びらも姿を消し、青々とした葉桜へとお色直しを終えたある休日の夜、二人は湘南平の夜景を眺めていた。桜井が気に掛かっていた事を沙希に尋ねる。

「俺の事、名前で呼ぶの・・・抵抗ある?」

“桜井さん”ではなく“篤志”と呼ぶ事ができない沙希は、いつしか名前を呼びかける代わりに『ねぇ』や『あのさぁ』を使う様になっていた。しかしこの事に、桜井は敏感に気が付いていたのだ。

「ただなんか照れちゃって・・・」

少しおどけて見せる。

「沙希ちゃんは俺の事・・・受け入れてくれてるのかなぁ」

桜井の顔は真剣だった。それに対して、少し怯えた様な表情を見せる沙希に 桜井が笑って付け加える。

「ごめん。変な事言ったね。・・・時々、不安になるんだ。まだ俺じゃダメかなって」

笑顔の桜井が かえって不憫で、沙希は言った。

「心配しないで。私・・・思い出したりしてないから」

確かに大地の事を思い出す回数はめっきり減っていた。この間、GWの旅行の話題から記憶が甦ったのは、本当に久し振りの事だった。しかしそれが、桜井に気持ちのベクトルが向いたからなのか、毎日仕事に追われ忙しいからなのかは 定かではなかった。

小さな展望台だったが、そこはデートスポットになっていて、上に昇るまでの斜めの鉄格子のフェンスには 南京錠がいたる所に掛かっていた。二人が展望台から降りてくる途中、沙希は立ち止まり、その初めての光景に呟いた。

「鍵・・・凄いね」

桜井は階段を下りるのをやめ、少し広くなった2階部分に沙希を案内する。そして、様々な南京錠を手に取って見せながら答えた。

「ここに二人で鍵を掛けたカップルは、幸せになれるって言われてるんだって」

大きいのから小さいのまで 本当に多くの南京錠があり、どれもそこには二人の名前が書き込まれていた。しみじみと眺める沙希に 桜井が言った。

「今度一緒に鍵 掛けたいね」

桜井がそっと沙希の肩に手を置くと、敏感に反応する。振り向いた沙希の両肩を優しく抱き寄せ、桜井の顔が近付く。沙希の表情を確かめる様にしながら ゆっくりと唇が重なった。そしてそのまま桜井は、沙希をぎゅっと抱きしめた。帰りの車の中で 桜井が言った。

「俺・・・一つだけお願いがあるんだ」

桜井がこんな事を言うのは珍しかった。沙希が少し緊張しながら その内容を待つ。

「今度うちで、料理作ってくれないかなぁ」

桜井からのリクエストはビーフシチューだった。沙希が快くOKすると 子供の様にウキウキする桜井を見て、初めて愛おしいと思った。この日沙希の心では、今まで中途半端に開きかけの二つの扉のうち一つが完全に封鎖され、一つがゆっくりと大きく開かれた。

 

5月の風が吹き、いよいよGWも後半の三連休に入った。沙希は電車を乗り継ぎJRの蒲田駅前で桜井の車を待つ。暫くしてやってきたシルビアに乗り込むと、車は桜井のマンションの近くのスーパーに停まった。今日は桜井の家でビーフシチューを作る約束の日だった。入口を入ると、すぐに桜井がカートを押し 二人は野菜売り場から見て回った。

「うち、何にもないからさ。きっと冷蔵庫見てびっくりするよ」

一通り食材をかごに入れ、レジに向かおうとして沙希がハッとする。

「お鍋とか・・・お玉とかはある?」

桜井は“忘れてた”といった顔で、二人は 調理器具売り場へと移動する。二人でお鍋やお玉や菜箸を選ぶ姿はまるで 新婚夫婦の様で、初々しかった。レジを済ませ、大きなビニール袋を両手に抱えた桜井が 笑顔で提案する。

「俺の選んだエプロンしてよ」

照れながら嫌がる沙希を、半ば強引にエスカレーターに乗せ 二階へ向かった。売り場には沢山のエプロンが並んでいて、少しはしゃいだ様子の桜井が 何枚か沙希に当ててみる。

「どれがいいかな・・・」

照れ臭くて 腰が引けている沙希を いつになく無視して、桜井がその中から一つ選ぶ。


全ての買い物を済ませて 荷物と一緒に車に乗ると、5分と経たないうちに桜井のマンションに到着する。茶色いレンガ造りの6階建てのマンションだ。買い物袋を下げた桜井の後をついて、エントランスホールに入ると、沙希の心臓は段々と激しく脈打ち始めていた。すぐに空いたエレベーターに乗り込み、桜井が4階のボタンを押す。エレベーターが二人を4階まで運ぶ間 会話はなく、沙希は頭上の階数表示をじっと見るしかなかった。

玄関の戸が開くと、そこには白い壁とダークブラウンのフローリングの廊下が伸びていて、2LDKの間取りに 思わず沙希が驚く。

「一人暮らしなのに・・・広いね」

「一つは寝室で、もう一つは仕事部屋にしてるんだ。でも俺 平日は家に殆ど居ないから、やっぱりこの辺はちょっと持て余すよね」

と言って、桜井は 白いソファと大型テレビのあるリビングと、4脚揃ったテーブルのあるダイニングとキッチンを指さす。桜井の言う通り 家具も使い込んだ様子はなく、余計なものがないLDKには生活感がなかった。

「沙希ちゃんがうちに引っ越して来てくれても大丈夫だよ」

桜井は軽い冗談のつもりで言ったが、緊張が解けない沙希には まだ笑って聞き流す余裕はなかった。

「まぁ、まず少し休んで」

桜井がリビングの窓を開けると、そこから気持ちの良い風が入ってくる。ソファに腰掛けるが何となく落ち着かない沙希の横に、桜井が腰を下ろす。

「ここ・・・前・・・一緒に住んでたの?」

突然の予期しない質問に、桜井は煙草に火を点けようとしていたその手を止める。

「ずっと、一人だよ。ここ、会社が借り上げてる部屋の一つでね、いわば社宅みたいな扱いで住宅手当が付くから、他で借りるより安いんだ。俺が入社した時、丁度ここが空いてたから 入っちゃったってわけ。信じてくれる?」

少し納得した様子の沙希。

「でもよく、遊びに来た友達に言われるよ。『お前本当は結婚してんだろ?』とかって。でも冷蔵庫の中見て、皆 独身だって信じるんだ」

沙希はソファからすくっと立ち上がる。

「そろそろ始めようかな」

桜井がキッチンへ案内する。

「はい、これつけて」

苦笑いと照れ笑いが混ざった様な顔をしながら、桜井の選んだ赤いエプロンを身に着ける。

「いいねぇ」

満足気な笑みを浮かべる桜井の視線がくすぐったくて、沙希は背を向けた。袖口を少し捲り上げ、じゃが芋を洗う。そして手際よく作業が進められていった。それをキッチンの壁に寄りかかりながら見ていた桜井が 一言漏らす。

「もう いつでもお嫁に行けるね」

「それは食べてみてから言って」

手を止めることなく沙希が返した。さっき二人で選んだ両手鍋に肉も野菜も入れ、柔らかくなるまで煮ている間に、サラダの準備を整え ガラスの器に盛り付け、ラップをして冷蔵庫へ入れる。冷蔵庫の中は、桜井が言っていた通り 本当にがらんとしていた。

「本当、何にもないね」

笑顔で答える桜井に、沙希が聞く。

「朝は食べないの?」

「ほとんどね」

「朝は・・・食べた方がいいよ」

「沙希ちゃんが作ってくれたら、喜んで食べるんだけどね」

思わず答えに困り、ごまかす様にコトコトじゃが芋の踊る鍋の蓋を開けてみる。ルウを溶かし入れ ひと混ぜしながら沙希が言う。

「お家でご飯作ったりしなくても、やっぱりお米だけはあるんだね」

シチューの煮込みに入った沙希は、キッチンを出てくる。桜井がCDを選びながら返事をする。

「おふくろの田舎が新潟だから、実家にはいっつも送られて来るんだ。米は買った事ないんじゃないかなぁ。だからここにも少しお袋が送ってくるんだ。俺自分で作らないから要らないって言ってんだけどさ、『ご飯食べなきゃダメだ』って」

「実家って遠いの?」

桜井が首を横に振る。

「杉並。荻窪って言った方が分かるかな」

それから桜井の家族の話になる。6つ上の兄がいて結婚していて 今3歳になる男の子がいる。もうすぐ2人目が生まれる予定らしい。

「兄貴が結婚した時、俺はまだ就職したてで 結婚なんて何とも思わなかったけど、やっぱ子供はかわいいよね。ついつい何か買ってやったりしちゃうんだよな」

「子供好きなんだ・・・」

桜井の目尻の下がり具合が 子供好きを物語る。

「沙希ちゃんは?子供・・・好き?」

「好きだけど・・・まだあんまり身近にいなくて・・・。いとこの所に子供がいるけど、普段全然会わないし」

「可哀想になぁ。いいよぉ、子供は」

時々鍋をかき混ぜに キッチンに立つ沙希が味見をしながら言った。

「時々びいどろには行ってるの?」

「俺は全然。相変わらず久保さんには誘われるけど、断ってるよ。『沙希ちゃんいなくなっちゃったからな』って からかわれてるけどね」

「久保さんは知らないの?私達の事」

桜井は首を縦に振った。

「元々プライベートな事はあんまり話してなかったし。久保さん悪い人じゃないんだけど、飲んだ席で、話が大きくなっちゃったりする事あってさ。だから言ってない」

鍋にバターを一かけら入れながら話す。

「元々私がいた時だって、あんまり来てくれなかったもんね、お店」

「・・・・・・嫌だったんだ。他の客と仲良く歌ったり、親しく話したり 踊ったりする沙希ちゃん、見たくなかったんだ。俺・・・すごいやきもち焼きで・・・駄目なんだ。自分で自分の気持ちコントロールできなくなっちゃう位・・・。だから理由つけて、なんとか行かない様にしてたんだ」

初めて聞く桜井の話に、返す言葉を忘れていた。

「でも俺なりに結構辛かったんだよ。沙希ちゃんには会いたいしさ、でも行けばやきもち焼くし。毎回その葛藤だったよ」

炊飯器の電子音が、ご飯が炊けた事を知らせる。白木のダイニングテーブルに、シチューとサラダが運ばれて来る。すると見た事のあるワイングラスが二つ置かれていて、桜井が赤ワインを開けようとしていた。

「あっ!これ・・・」

箱根のガラスの森美術館に行った時、沙希が気に入って 手に取って眺めていたグラスだった。

「あの時買ったんだ。沙希ちゃん見とれてたし・・・」

二人は向かい合って座ると、桜井がワインを沙希のグラスへ注ぐ。あの時沙希が手にしたグラスに今実際、目の前で真っ赤なワインが満ちていく。

「このグラスで一緒にワインが飲めるなんて・・・嬉しいね」

桜井がグラスを少し持ち上げて言った。

「今日はリクエストに応えてビーフシチュー作ってくれてありがとう。ご苦労様でした」

ペアのグラスをそっと近付け乾杯をする。沙希が一口ワインを口にすると、桜井が言った。

「今日俺の誕生日なんだ」

沙希は目を丸くする。突然の桜井の言葉に耳を疑った。

「ごめんなさい。私・・・知らなくて・・・。ケーキもプレゼントも何も用意してない・・・」

困った顔つきの沙希を 笑顔でなだめる様に桜井が言った。

「シチュー作ってくれたじゃない。これで充分」

暫くうつむいていた顔を上げ、沙希がグラスを手に取った。

「お誕生日おめでとう」

そして桜井が早速シチューを一口 口へ運ぶ。それを黙って見ている沙希。

「どう?」

すると桜井が親指を立てて、笑顔を見せる。

「旨い!」

そして2口3口と続けてスプーンを口へ運んだ。

「本当、これ旨いなぁ。やっぱり沙希ちゃん、いつでもお嫁に行けるよ」

後片付けを終えエプロンを外す沙希に、桜井が話し掛ける。

「映画でも観る?」

沙希がチラッと時計に目をやる。8時を丁度回った頃だった。

「まだ平気でしょ?」

こくりと沙希が頷く。

「・・・本当は・・・ずっと一緒に居て欲しいけど・・・。大丈夫。ちゃんと送ってくよ」

沙希はそのまま黙ってうつむいた。


 あっという間にGWも過ぎ、沙希の研修も終盤を迎えていた。いつもの様に予約の合間を縫って昼食を摂っていると、青山が話し掛けてきた。

「これでボディもフェイシャルも一通り教える事は教えたから、あとは場慣れね。力の加減とかは実際体で覚えるしかないから」

青山のこの言葉は、明日から現場でアシスタントとして接客に携われる事を意味していた。

「いよいよ明日から頑張って下さい。アシスタントとして 私か加賀美さんと一緒にお客様には付くけど、お客様には プロの一人前のエステティシャンとして紹介しますので、そのつもりで頑張って下さいね」

こういう少しプレッシャーを掛ける様な言い方をする青山は、責任感の強い沙希を上手に伸ばしていった。


現場に出る様になって、沙希はいくつか小さな失敗はしたものの みるみる力を付けていった。そして梅雨が明け、夏の湿った暖かい風が吹く頃には一人で初来店のお客様のカウンセリングまで出来る様になっていた。仕事も楽しくて仕方がない時期で、桜井との関係も安定していて、沙希にとっては とても充実した何か月間が過ぎて行った。

 

夜になっても気温が下がらず、蒸し暑い外の空気も気にならない程 沙希は仕事帰り ワクワクしていた。7月26日、今日は沙希の誕生日だった。サロンラヴィールから100m位歩いた所の国道16号沿いに、桜井のシルビアはもう停まっていた。車を見付けるなり走って駆け寄り、助手席のドアを開ける。

「お疲れ!」

いつもの桜井がいつもの笑顔で待ち受ける。シートに座ると、エアコンの風が沙希を出迎える。

「涼し~い!」


そこから車を15分程走らせると、桜井が予約してあった中華料理店へ二人は入った。そして通された個室で、まず青島ビールで喉を潤した後、あらためて桜井が言った。

「お誕生日おめでとう」

前菜のくらげから、北京ダックなど 紹興酒を飲みながら食事を満喫し、デザートの特製杏仁豆腐とフルーツ盛り合わせで締めくくった。食事の間中、沙希はいつもの様に仕事で今日あった事を色々と話した。5月の桜井の誕生日以来、沙希の口数は確実に増えていた。いつもの様に 優しく沙希の話を聞きながら桜井は、二人の距離が縮まった事をしみじみと噛みしめていた。


満腹なお腹を抱えた二人を乗せた車は、いつしか都内までドライブしていた。そして行き着いたのは、東京湾に掛かるレインボーブリッジが目の前に見える絶景ポイントだった。車のギアをパーキングに入れると、桜井が小さな白い箱を差し出す。細いピンクのリボンを解き 中を開けると、そこにはネックレスが入っていた。そのヘッドにはダイヤモンドが一石 綺麗にそして上品に輝きを放っていた。驚きを隠せない沙希に桜井が言う。

「ダイヤモンドって・・・沙希みたいだなぁと思って」

その意味を探る様に沙希がネックレスを見つめていると、桜井が言った。

「つけてみてよ」

桜井が催促するように手を差し出す。プラチナの細いチェーンが繊細さを増す。桜井が器用にチェーンの留め金を外すと、沙希は長い髪を後ろ手に持ち上げる。男の人にネックレスを付けてもらう事など初めてで、首筋に時々当たる桜井の手が 少し恥ずかしかった。沙希の鎖骨の少し下辺りでダイヤモンドが輝いた。ミラーを下ろして確認すると、沙希が言った。

「どうもありがとう。・・・でも、いいのかなぁ」

桜井と会う様になってから、いつも美味しい食事を御馳走になり 色々な所に連れて行ってもらった。卒業祝いに始まり、ホワイトデー、誕生日と 桜井からのプレゼントも数か月の間に少なくない。

「にっこり笑って『ありがとう』って貰っておけばいいんだよ」

桜井の顔とは対照的に、沙希の戸惑いの表情は続く。

「私今すごく幸せだし・・・、だから特別欲しい物もないし、二人で居られたら、別にどこも行かなくたって平気だし・・・。食事だって、一緒に話しながら食べられたら 何だって美味しいし・・・」

どうにかして自分の気持ちを伝えようと沙希は必死になる。そんな沙希にそっとキスして、桜井は右頬に沙希を感じながら言った。

「沙希は本当にいい子だなぁ」


横浜へ向かう車の中で、桜井が思い出した様に話を切り出す。

「今度の日曜、友達の結婚式で・・・会えないんだ」

「結婚式かぁ・・・いいなぁ」

桜井が助手席に視線を投げる。

「やっぱり憧れる?」

桜井のその言葉に慌てる沙希。

「あっ違うの。結婚式にお呼ばれされるのに憧れてるの。私の周り、まだそういう話 あんまりないから」

少しの間、二人の会話の隙間をFMから流れる曲が埋める。右に曲がるウィンカーを出し 信号待ちをしながら桜井が思い切って、しかし 口調は冷静に問いかける。

「結婚願望って・・・沙希は・・・ある?」

桜井の気持ちをよそに、沙希はあっけらかんと答える。

「んん・・・今はあんまり。30迄に出来たらいいかな。それまで仕事バリバリして・・・自分のお店持ったりしたいし」

この言葉を桜井がどう聞いたか、沙希は全く気が付いてはいなかった。

「21だもんな。まだ・・・だよな」

そう言う桜井の頬が少し強張っていた。


 真夏の太陽がじりじりと焼け付くように暑く、その上湿気を多く含んだ南からの風が肌にまとわりつく。不快指数が連日80%を超す。

 ある土曜日、今まで仕事で小さなミスは何度もあったが、割合順調に頑張ってきた沙希が 大きな失敗をした。午前11時からのフェイシャルのお客様に、肌質とは違うパックをしてしまったのだ。しかし沙希は その重大さに気が付いてはおらず、閉店後のカルテの整理をしていた時に 思い出した様に青山に報告をした。青山のにこやかな表情がみるみる曇っていく。そしてめったに落ちない雷が 沙希の上に落ちた。青山はパックを間違えた事にも注意をしたが、それ以上に その報告が今までされなかった事に怒っていた。

「この重大さが分かってますか?」

初めて見る険しい青山の顔に、沙希は今頃になって事の重大さを感じ取る。その日の帰り道、横浜駅で電車を乗り換え、桜井の家へと向かった。その電車の中でも沙希は、青山に言われた言葉の数々を思い返していた。

『河野さんの今日やった事は、医者で言ったら医療ミスと同じです』

『ベッドに横になって あなたを信頼して、無防備になり肌を人に任せているお客様の立ち場になって もう一度考えてみて下さい』

数々の言葉が、沙希の胸に深く突き刺さる。

『この事を今まで報告しないでいられた河野さんの神経が、私には信じられません』

この時の青山の目つきが、脳裏に焼き付いて離れない。

『自分の美意識とプロ意識についてどうだったか、もう一度自分と向き合って 考え直して、また月曜出勤して下さい』

最後に言われたこの言葉も、突き放された様な思いがした。そして同時に、研修中の青山の言葉を思い出す。

『自分の美意識のレベルまでしかお客様は来ないですからね』

苦しくて苦しくて早く桜井に会いたかった。『大丈夫』と言ってぎゅっと抱きしめて欲しかった。その安心感に早く包まれたくて、駅を降りると、電話をする間も惜しんで まっしぐらに桜井のマンションを目指して歩いた。今日は土曜日で、桜井はお休みで家に居るだろうと期待していた。しかし もし居なくても帰りを待とうと心に決め、前に桜井から貰った部屋の合鍵を握りしめた。


マンションに着くと、駐車場にある紺のシルビアが桜井がいる事を物語る。エレベーターに乗って4階のボタンを押すと、一気に汗が噴き出してくる。今夜も熱帯夜かなと沙希はふと考えながら 汗を拭い、407のチャイムを鳴らす。やっと会える、やっと慰めてもらえるという安心感が沙希を包み込んだ時、ドアが開き 桜井が顔を出す。

「どうしたの?」

驚いた様子の桜井に沙希が少し作り笑いをしてみせる。

「ごめん、突然来て。ちょっと・・・」

『会いたくなって』と言いかけて、それは喉で止まった。ふと桜井の足元を見ると、玄関には白い麻のヒールが脱いであった。

「誰か・・・来てるの?」

「あぁ・・・ちょっと・・・友達が来てて・・・」

いつになく挙動不審の桜井の後ろから、廊下を歩くスリッパの音が近付く。桜井も慌てて振り返ると、30歳位の綺麗な、しっとりとした大人の女性が顔を出す。そして沙希を確かめる様に見ると、軽く会釈をした後 桜井を上目使いで見る。

「彼女?」

桜井は当たり前の様にそれを認めるが、精一杯冷静を装っているのが、沙希にもよく分かった。

「はじめまして・・・」

沙希も恐る恐る挨拶をする。嫌な空気が漂うのを察して、沙希が一瞬の沈黙を破る。

「私・・・帰るね。ごめんなさい」

謝りながら玄関の扉を閉めようとすると、桜井が慌てて声を掛ける。

「何か・・・あったんじゃないの?」

沙希は下を向いたまま、首を横に振った。

「何でもないの。大した・・・事じゃないし」

一方的にドアを閉めると、閉じかけたエレベーターに飛び乗り、走ってマンションを後にした。その時には もう仕事での失敗は殆ど頭になく、たださっきの黒いシックなワンピースの女の姿だけが沙希の心の中を占領していた。


無我夢中で電車に飛び乗り、横浜に着いた時には 今日一日何が起こったのかさえ分からなくなりつつあり、軽いショック状態だけが残っていた。駅前の電話BOXに入り、アドレス帳を取り出し立て続けに友人に電話をかけるが、土曜とあって 誰一人として家にはいなかった。電話BOXの中は 外の気温と沙希の体温で熱がこもり、息苦しくなる。そして、こういう時に限って誰もつかまらない自分の運の悪さに肩を落としながら出てくると、少し投げやりな気持ちになりながら 目に飛び込んできた赤提灯に入る。

そこは元気のない60過ぎの初老のおじさんが営む店で、店内にも二人 男の人がそれぞれ静かに飲むだけで、本当にひなびた一杯飲み屋だった。沙希が日本酒と焼き鳥を頼むと、常温のコップ酒と冷めて固くなったやきとりが3本出てきた。飲めば何とかなる様な錯覚で、コップ酒三杯飲み干した。しかしちっとも酔わない上に、空虚さが胸に広がる一方だった。

そこで座って飲めば飲む程 蟻地獄に吸い込まれていく様で、沙希は店を出て もう一度電話BOXに手を掛ける。公衆電話に寄りかかる様にして もう一度アドレス帳を開く。すると約8カ月前に消し忘れた木村大地の文字が目に飛び込んでくる。しかし慌ててアドレス帳を閉じる。が、沙希の脳裏に さっきの桜井のマンションでの景色が鮮明にリプレイされる。そしてゆっくりと受話器を持ち上げると、まだ覚えている大地の番号を押す。呼び出し音を聞きながら、大地に対しての“今さら”という気持ちと、桜井に対する罪悪感が混ざり合う。

「 はい、木村です」

8カ月振りに耳にする大地の声に 思わず涙が込み上げてくる。必死にこらえ なんとか名前を告げるが、喉が痛い。電話の主が沙希だという事が信じられない様子の大地。

「どうした?」

電話の向こうには8か月前と何も変わっていない優しい大地がいた。外から突然夜遅く電話を掛けてきて、名前だけ告げると黙り込んでしまった沙希の異変にすぐ気が付く。

「何があった?沙希・・・今・・・どこ?」

「横浜駅・・・。ごめん・・・」

「一人?」

沙希がかすかな声で頷くと 大地が言った。

「すぐ行くから待ってろ」


駅の東口の地上に続く階段の隅に沙希が座り込んで待っていると、大地が30分足らずで飛んできた。大地の声に、うずくまっていた顔を上げると 目は真っ赤に腫れていた。それを見た大地が あえて笑った。

「お前、ひどい顔してんな」

鼻水でぐしゅぐしゅになりながら、沙希も一緒になって笑った。

「ごめん、突然・・・」

大地が沙希の背中をポンポンと叩き 立ち上がる。

「ここじゃ落ち着かないだろ。もっと静かな所でも移るか?それとも・・・飲みに行くか?今日はとことん付き合いますよ」


それから二人は少し歩き、とあるマンションの屋上に登った。以前付き合っていた時に いたずらに登ってみたところ、とても夜景が綺麗に見えて 二人の秘密の場所になっていた。お互いに約1年ぶりのその場所に、多少興奮していた。暫くそれぞれ懐かしむ様に屋上中を歩き回ると、大地が口を開く。

「元気だった?」

沙希が黙って頷くと、大地が笑った。

「元気じゃないだろ、あんな電話してきて」

「今日だけね・・。昨日までは元気だった」

大地が貯水タンクに寄り掛かる。

「沙希・・・もう働いてるんだろ?」

沙希が仕事の話をすると、大地が満足気な顔をする。

「なんかそういうの聞くと、兄貴みたいな気分になるな」

「兄貴?」

「だって、将来何したいか分からないって言ってた学生の時から見てきたんだよ。それがさ、無事卒業して 就職して頑張ってるって聞いたら 嬉しくもなるよ」

沙希も少し離れて貯水タンクに寄り掛かり 夜空を見上げる。

「今日ね・・・その仕事で・・・大失敗しちゃった」

沙希がポツポツと話を切り出す。話が終わるまで大地は 黙って いつもの様に所々で相槌を打ちながら聞いた。そして言った。

「その店長さんはさ、お前の事見込んで、あえて厳しい言い方したんじゃないの?」

沙希は首を強く横に振り 反論した。

「そんな事ない。本当にあんなに怒ったの見た事ないし、最後だって 突き放す様な言い方だったし」

「だけど『自分と向き合って考えて 又月曜日出勤して下さい』って言ったんだろ?それが店長さんの優しさじゃないの?本当に見放したら、『暫く来るな』って言うだろ」

いつも大地の話し方には説得力がある。そんな事を思いながら大地の言葉を聞いていると、不思議と そうかもしれないと思えてくるのだった。

「言っても分からない人には決してエネルギー使ったりしない。可能性の大きい人にほど厳しいってさ。だから、優しくばかりされてるうちは まだまだだって。厳しい事言われ始めたら『よし』と思えって」

沙希の心は嘘の様に晴れていった。そして桜井のマンションでの事も忘れかけていた。

「少しは元気出た?」

沙希が笑顔で頷くと、大地が沙希の頭に軽く手を乗せ“いい子いい子”する。再び大地は、屋上の柵につかまり 下を覗き込む。

「ありがとう」

大地は背後からの沙希の声に振り返ると、さっき二人で買った缶ビールを両手に持って 一本差し出している。

「温まっちゃったかな・・・飲も」

二人で缶ビールのタブを開けると、温まってしまったビールの泡が溢れ出す。沙希が少しはしゃいだ様に泡をよけ、乾杯する。沙希が一口飲んでから問いかける。

「元気にしてた?」

大地はいつもの笑顔で返事をする。

「仕事も・・・頑張ってる?」

沙希が本当に聞きたいのは、そんな事ではなかった。しかし口をついて出るのは、当たり障りのない事ばかりだった。

「相変わらず忙しいんだ?」

暫くそんなやり取りを続け、そして意を決して沙希が聞いた。

「彼女・・・できた?」

大地は笑顔で首を横に振る。

「沙希は?彼氏・・・できた?」

思わず首を横に振っている自分がいる。しかしやはり、大地の目を見る事は出来なかった。少しの静寂が二人の間をすり抜ける。大地がビールを飲む喉の音だけが響く。一気に飲み干す大地を見つめていると、それに大地が気付く。

「どうした?飲まないとぬるくなっちゃうぞ」

あまりにあっけらかんとした言い方に、沙希は 自分と大地との頭の中のギャップを思い知らされた様な気がした。その瞬間、大地が言う。

「ちょっと・・・手出して」

不謹慎にもドキドキしながら、そっと手の平を上にして差し出すと 少し間を置いて、大地がビールの空き缶を手に乗せる。

「はい!」

いたずらっぽく笑う大地と 悔しがって笑う沙希は、一瞬でもまるで二人が一年前に戻った様に見えた。


 夜が明け、朝日も東の空に高く昇り始めた頃 沙希は家への坂をとぼとぼと上りながら、さっき別れたばかりの大地の事を思い返す。久し振りに会った大地は 何も変わっていなかった。そして二人は 少しの会話で8カ月のブランクを埋め、去年の年末に沙希が別れ話をした事がまるで嘘の様だった。そんな気さえした。やっと家の前に辿り着き、門に手を掛けたところで 後ろから声がする。

「沙希!」

振り向くと そこには桜井の姿があった。道の反対側の路肩に停めた車の運転席から降りて、立ってこちらを見ている。一瞬にして、昨夜のマンションで見た光景が甦ってくる。桜井が駆け寄る。

「昨日はごめん。ちゃんと・・・話をさせて欲しい」

沙希は桜井の目を見られずに 視線をそらしたまま返事をする。

「お母さんに言ってくる・・・」

そう言い放つと、家の中へ姿を消した。玄関に入ると沙希の母が走ってくる。

「沙希、昨日から何度も桜井さんから電話貰ってて、今朝も電話あったけど、心配してたわよ。帰ったら連絡下さいって」

家の前に来ている事を 母は知らなかった。

「ごめん、久々の友達と会ったら話が尽きなくって。荷物置いたら、またちょっと出てくるね」

言いながら階段を昇って、自分の部屋に入る。桜井に会いに出るのに気が重たい。

少し待たせた後、沙希が家から出てくる。少しためらいながら助手席に乗り込む。

「とりあえずちょっと車移動するね。ここじゃ、なんだから」

昨日の今日で、桜井が気を遣う。車が滑り出し 坂を下り、山下公園の前に出る。一切会話は無かった。サイドブレーキを引き、桜井の右手がハンドルから離れる。沙希は手持無沙汰で、ハンカチを両手で適当に持て遊ぶ。桜井が話し始めた。

「昨日は・・・せっかく来てくれたのに・・・ごめん。多分、勘違いをしてて・・・嫌な思いをさせたと思って・・・話をさせて欲しい」

沙希は小さな声で相槌を打つ。

「正直に話すと・・・昨日部屋に居たのは・・・昔の彼女で・・・前に話した事あったと思うけど・・・三つ年上で、俺と別れた後結婚したって言った・・・あの人」

沙希の内心は意外に冷静だった。

「今までずっと連絡取ってなかったんだけど、昨日突然訪ねて来て『旦那と別れる事になるかもしれない』って相談に来てたんだ」

変に冷静な頭で沙希は(何で女は、相談事を昔の彼氏にするものなんだろう)等と考えていた。

「でも俺反省したんだ。いくら落ち込んでようと、相談があるって言われても、部屋に入れるべきじゃなかったんだなって。もちろん、何もないけど・・・。ごめん。沙希を傷付けた」

「ううん・・・」

沙希は俯いたまま首を振るが、桜井はかまわず続けた。

「俺は一番傷付けちゃいけない人を傷付けたんだ」

沙希がハンカチのいたずらを止め、顔を上げる。

「私・・・別に・・・それほど傷付いてないから。はじめは そりゃ ちょっとびっくりしたけど、前の彼女かなと思ってたし、別に疑ったりもしてないし・・・。きっと誰にも相談できなかったんだろうから、話くらい聞いてあげたっていいんじゃないの?」

少し強がった事を言っているうちに、段々沙希は 昨日の大地との事を正当化している様にさえ感じた。桜井が少し疑心暗鬼の眼で、助手席を覗き込む。

「本当にそう思ってるの?俺が沙希なら・・・堪らないと思う。沙希が昔の彼氏と会ってたら・・・今の沙希みたいに俺、穏やかではいられないよ・・・」

沙希の頬は強ばり、桜井と視線を合わせる事は出来なかった。

「沙希がもう二度とこんな事やだって言うなら、俺あそこ出て 横浜に引っ越して来ようと思う」

桜井は真剣だった。それとは対照的に、沙希の心の一かけらは どこか別の所へ飛んでいた。思っていた程気にしていない様子の沙希を見て、桜井が自分の話を打ち切りにして 今度は沙希の朝帰りに矛先が向く。

「昨日どこ泊まったの?」

油断していた沙希は、内心あたふたする。

「友達のとこに泊めてもらったの。飲んでて遅くなっちゃったから」

「・・・」

「横浜でばったり昔の友達に会っちゃって・・・」

「その友達って・・・男?」

沙希はすぐに『そんな訳ないでしょ』と答えそうになるが、一瞬ためらい用心深く聞き返す。

「どうして?」

「ごめん。いつもの俺のやきもち」

そう言いながら 両手で伸びをする様に髪をかき上げる桜井の顔を 慎重に探る沙希。そして安心して、言葉を加える。

「女の子に決まってるでしょ」

そう言った後、沙希は自分の事を 怖い女だと思った。今まで自分でも知り得なかった新しい自分がこっそり顔を出そうとしている事実に戸惑っていた。


 月曜日、いつもより少し早く出勤すると、青山も丁度今来たばかりといった様子だ。土曜日の事を思い出すと 沙希は少し気まずかったが、大地の励ましてくれた言葉を思い出し 自分に言い聞かせながら 青山に話し掛けた。

「土曜日は本当に申し訳ありませんでした」

青山は、土曜日の感情を一切引きずってはいなかった。

「厳しい事言ったけど、私 沙希ちゃんの事 凄く期待してるからなの」

大地の言葉を思い出す。そして青山は続けた。

「人の立場に立つって・・・お客様の気持ちになるって・・・一瞬一瞬は簡単だけど、それを持続させるのは 凄く難しい。私も時々自分で気を引き締めないと危ない時があるのよ。今度の事で、私も勉強になったしね。これからもお互いに頑張りましょう」

そう言う青山は、いつもの見慣れた笑顔に戻っていた。

 

その夜 仕事を終えて家に帰ると、沙希は 大地に電話をかけた。多少戸惑いもあったが、自分に 正当化した言い訳を言い聞かせながら。大地は沙希からの電話を『おう!』と 今までと何ら変わりない調子で受け入れる。

「土曜日は・・・慰めてくれて・・・ありがと」

「今日仕事、平気だった?」

「その報告をしようと思って電話したの」

沙希は“正当化した言い訳”を話し出す。聞き終えると、大地がすかさず言った。

「まぁ、良かった良かった」

一件落着といった雰囲気が漂う。そして沙希の“口実”がなくなり、無言の状態が走る。

「今何してたの?」

沙希の口から余計な言葉が溢れ出す。

「俺もさっき帰ってきて、今飯食い終わったところ」

用件は済んだはずなのに『じゃあね』の文字が言えない。頭の片隅で『今ならまだ引き返せる』と分かっていながら、心が先へ進もうとする。そして会話が途切れても、大地もこの間の事を口にしようとはしなかった。かといって、沈黙を埋める話題も浮かばず 電話の向こうでは ジッポーに火を点ける音がする。昨日の桜井と 一昨日の大地が、沙希の頭の中で交錯する。そして、何か決定的な台詞を飲み込む沙希と、何かを言いかけてやめる大地。大地の口から出る事のなかった、その後に続く言葉に少し期待したが 理性がそれを食い止める。何となくお互いに消化不良のまま受話器を置いた。


それから一週間、大地から掛かってくる事はなかった。そして実に不純なまま いつもの日曜日がやってきた。先週の日曜は、桜井の車の中での話が済むと 沙希が『一晩中友達と飲みながら話してて殆ど寝てないから、今日は帰るね』と、それきりになっていた。沙希は女友達と言うが、やはり桜井は あの日の朝帰りを気にしていて、そして“一晩中飲んでいた”割に酒の匂い一つしなかった沙希に不安を抱いていた。この一週間 桜井は何度か沙希に電話をしても、5分も話さない内に『ごめん、今日疲れてるから』と切られてしまう日が続いた。桜井の中の一抹の不安は、むくむくと膨れ上がったまま 車を横浜へ走らせていた。

一方沙希は、この間の大地との時間は忘れ、また桜井の方だけを向いていこうと 気持ちを新たに家を出た。確かに先週の土曜日、久し振りに会った大地と お互いに磁石の様に引かれ合うのを感じたが、きっとそれも私だけの錯覚だったのかもしれないと思い始めていた。

二人を乗せた車は、第三京浜を走って 都内へと入った。何となく会話の弾まない車内では、ラジオのDJだけが明るいトーンでまくし立てる。桜井が空気を変えようと懸命になる。

「9月の14,15って連休?」

沙希が頭の中の暦をめくって考える。

「・・・うん、休み」

そして桜井が思い切る。

「どっか・・・一泊で旅行にでも行かない?」

最近の沙希の態度に対する疑いを晴らしたくて、あえて今そんなプランを思いつく。しかし意外にあっさりと沙希は受け入れた。

「いいね。どこ行く?」

助手席のその笑顔に桜井は、大きく胸をなで下ろしていた。久し振りの明るいやりとりに、桜井の不安は 影を薄くしていった。そしてその晩二人は、隅田川の花火大会を満喫した。芋洗いの様な人混みの中で、桜井が沙希の手をしっかり握る。花火を見上げている間中 その手が離れる事はなく、フィナーレの連続打ち上げと歓声で その幕を閉じると、沙希の手の甲にキスをした。

 

帰りの道路が混んでいて、沙希が家に着いたのは夜中の12時近くだった。鍵を開けて玄関を入ると、母親がリビングから出てくる。

「木村さんから10時頃電話あったわよ」

何食わぬ顔で返事をして 2階に上がり部屋に入ると、真っ先にコードレスの受話器を手に取る。電話の向こうから大地の声が聞こえると、沙希は着替えるのも忘れ ベッドに腰を下ろす。

「出掛けてたんだ?」

「友達と花火大会に・・・ね。道が混んでて・・・遅くなっちゃった」

言い訳じみた事を話している自分に、沙希自身少し嫌気がさす。前回の電話と同様、沈黙が訪れる。

「どうしたの?」

沙希が電話をくれた理由を聞く。

「いや・・・別に・・・。ただ、今日は仕事休みなんじゃないかと思って・・・」

「うん・・・」

また途切れる。そして今度は、大地が静寂を破った。

「今沙希は・・・好きな人とか・・・いるの?」

「どうして?」

とっさに返事の出来ない自分が質問返しで逃げる。

「もしいるなら・・・もうこうやって電話したり、誘っちゃいけないと思って」

「誘うって・・・?」

再び曖昧に質問返しを続ける。

「前に沙希 観たいって言ってた映画、アメリカでしたか上映してなくて、日本に来るかどうかも分からないってヤツ・・・覚えてる?」

「ああっ!えぇっと・・・“silk of life”」

「そう。その特別試写会のチケット、手に入ったんだ。だから、一緒に行こうかと思って・・・」

去年の秋頃アメリカで上映されていた映画で、沙希は友達に借りた米雑誌でそれを知ったが、それ以降 日本で上映される気配は一向になくて諦めかけていたのだった。ところが、その特別試写会のチケットが大地のバイト先から入手できたと聞いて、沙希は迷わず二つ返事で答えた。そして9月の第一日曜日、二人は渋谷で待ち合わせの約束を交わした。

 

その週の中頃、仕事から帰った沙希を待ち構えていた様に電話が鳴る。桜井からだった。何故か声が明るい。

「この間言ってた旅行の事だけどさ、宮城県なんてどうかな?東北の方に行けば この時期でも紅葉が見られる所があるみたいだし」

「うん」

そう言いながら、沙希の頭の中では日曜の夜の大地からの電話で『好きな人とかいるの?』を思い出していた。桜井の明るい声が続く。

「今日雑誌見てたらさ、良さそうな温泉があるんだ」

雑誌に載っている温泉旅館の宣伝文句を読む声が聞こえてくる。

「どう?」

「うん」

そう言いながら、今度は 大地の質問に結局きちんと答えずに会う約束までしてしまった自分を思い出す。すると、上の空の返事をする沙希に桜井が気付く。

「ここ気に入らない?」

慌てて否定する沙希。

「でも・・・あんまり乗り気じゃないみたい」

「そんな事ないって。いいね。そこにしよう」

めいっぱい張り切った声を沙希なりにアピールすると、桜井は再び明るい声の調子に戻る。と同時に、沙希はどんどん自分が駄目な人間になっていく様で怖かった。『これって二股になるの?』という声と、『ただ念願の映画の試写会に行くだけ』という声が入り混じる。しかし2週間も先の大地との約束を今からいそいそと心待ちにしている自分を消す事はできず、桜井が進める旅行の計画に 気持ちを合わせるだけで必死だった。


そしてまた、いつもと同じ様に日曜日が巡ってくる。ボーリングを楽しんだ帰りの車の中で、桜井が喋る。

「この間言ってたあの温泉旅館、予約しといたから」

沙希は反射的に運転席を向き、笑顔で相槌を打つ。

「むこうでのんびり出来たらと思ってるんだけど・・・」

弾んだ声で、色々なプランを桜井が伝える。その様子から二人の初めての旅行を、どれ程 楽しみにしているかが良くわかる。沙希のいたたまれない心が、桜井の話の隙間を捉え、話題を切り替える。

「来週の日曜・・・私・・・用事が入っちゃって・・・会えないの」

「仕事?」

何も知らない桜井は、爽やかな顔でこちらを見る。

「友達と・・・映画の試写会に行く事になって・・・」

「・・・友達?」

桜井は、以前の沙希の朝帰りの時から、彼女の言う“友達”という言葉には敏感になっていた。少し怪訝な面持ちで助手席を覗き込む。

「大丈夫、女の子とだから。学生時代の友達なの」

微妙に視線を外しながら、作り笑顔で答える。

「昼間?夜?その約束って。少しでも・・・会えない?」

「夕方からなんだけど・・・久し振りだからゆっくり会おうと思って・・・」

残念がりながら、諦めて引き下がる桜井が 数珠つなぎになった前方の車を見ながら切り出す。

「横浜方面の道、渋滞してんだ。うち寄ってく?」

確かに都内へ続く車線は 車が流れているのに、何故か横浜方面だけが凍り付いていた。沙希が時計を見ながら、言いにくそうに伝える。

「私・・・家でやらなきゃいけない仕事が残ってて・・・。だから・・・今日はまっすぐ帰る。ごめんね。」

嘘の言い訳をするその『ごめんね』が、沙希自身自不純に感じてしまう。それでも車はなかなか前には進まず、遠慮がちに沙希が言う。

「私・・・電車で帰ろうか?」

運転席から、大きなため息が一つこぼれる。

「そんな事言うなって・・・」

そう言う桜井の横顔に淋しさの影が落ちる。

「ごめんなさい。ただ・・・悪いと思って・・・」

にこりともしない桜井に、沙希はそれ以上何も言う事が出来なかった。

 結局、車が沙希の家の前に着いたのは、もうすぐ10時になろうとしている頃だった。沙希がシートベルトを外し ドアに手を掛けた時、桜井の顔が近付いてくる。とっさに沙希は右手で桜井の肩を押さえ、拒絶する。その行動に沙希自身も驚いていたが、桜井もショックを隠し切れない様子で沙希の目を見つめる。その視線をかわす様に、おどけて見せると言った。

「ごめん。今、私 ガム噛んでるから・・・」

桜井の視線は外れる事なく、沙希の目をじっと捉えながら言った。

「いいよ、そんなの」

沙希の顔の前から桜井が離れる事はなく、張り詰めた空気が二人を包み込む。その重さに押し潰されそうになり、沙希はうつむいて言葉を絞り出す。

「そんな怖い顔しないで・・・」

桜井がハッとして離れた隙に、沙希はドアを開け 車を降りた。

「今日は・・・ありがと」

助手席のドアをパタンと閉める。しかし桜井は 沙希の方を振り向きもせず、ただ前をじっと見つめていた。後味の悪い 気まずい別れ方のまま、沙希は家の中へと消えて行った。桜井は その後ろ姿をじっと見つめたまま、暫く動く事が出来なかった。


「ただいま」

沙希は玄関を開けると同時に、気持ちを立て直し 中へ入る。リビングに行くと、ソファに並んでTVを見ている両親の姿がある。

「ただいま」

もう一度そう言ってみるが、『おかえり』と笑顔で言われるだけで それ以上何もない。時計を気にしながら、掛かって来るかどうかも分からない電話を沙希は待っていた。先週の日曜日に、大地から10時頃電話があったというだけで、桜井とのデートも嘘をついて早く切り上げ ソワソワ鳴らない電話を気にしている姿に、もう何も自分を正当化する理由は思い浮かばなかった。そして 時計が11時を回り、沙希も諦めかけたその瞬間 電話が鳴った。飛びつく様に受話器を取り上げ、耳を澄ます。

「夜分にすみません。桜井です・・・」

沙希は思わず息を飲んだ。さっきの別れ際の映像が鮮明に甦る。

「仕事してた?」

桜井との会話に気まずさが漂う。

「さっきはごめん・・・。なんか俺、不安になっちゃって・・・。最近沙希から あんまり電話もくれなくなったし、友達と会うって聞けば・・・色々気にもなって・・・。信じてない訳じゃないんだ。独り占めしてたいんだ。そんな事できる訳ないんだけど・・・。でも、それ位沙希の事・・・愛してる。それは分かって欲しい」

沙希は、自分と桜井の気持ちの重さのギャップを実感していた。そしてふと、大地と別れた時の事を思い出す。あの頃、沙希が大地に対して感じていた事と同じなのではないか。

「一つ聞いてもいいかな」

桜井が問いかける。

「沙希は・・・俺の方向いてるよね?」

心の迷いを桜井に悟られない様に、沙希は間髪入れずに答える。

「当たり前でしょ」

桜井が望んだ返事を 沙希の口から聞くと、少し二人の間の気まずさが和らぐ。その日、桜井と電話を切った後も 大地からかかって来る事はなかった。


 そして 9月に入り 残暑も厳しい中、太平洋沖で発生した台風が関東地方にも雨をもたらす。半袖のデニムのワンピースに生成りの傘をさして、渋谷の駅に沙希が降り立つ。南口にある東急プラザ前の横断歩道で信号待ちをしていると、後ろから 聞き覚えのある声が呼びかける。振り返ると、人混みの傘と傘の合間から大地の顔が覗く。信号が青に変わり、人々が一斉に渡り始めて 二人の間の傘の山が散らばりだす。二人が笑顔で挨拶を交わし、試写会の会場へと足を進めながら、大地が言った。

「去年のクリスマス・・・一緒に歩いたな」

それがついこの間の様な、でも遠い昔の様な、複雑な思いを噛みしめたが、確実に違っているのは 二人の関係だと 沙希は改めて認識した。


試写会を終えて ビルを出ると、外はもう夜の街に変わっていた。

「飲みながら飯でも食うか?」

二人は手近な居酒屋に入り ビールで喉を潤した後、冷酒をゆっくり味わいながら 会話を交わした。

「今日は 念願のあの映画が見られて、本当に感謝してます」

予想以上に映画の内容に感激した沙希は、感無量といった顔つきをしている。

「最初、普通のラブストーリーかな位にしか思ってなかったけど、俺も結構 今日のは好きな映画だな」

そんな風に語る大地を新鮮な顔つきで見つめる沙希。

「私達、映画見に行ったのって・・・初めてじゃない?」

二人はよく大地の部屋で、ビデオを借りて来ては映画を見ていた。しかし映画館で見た事は一度も無かった。

「俺本当にどこにも連れてってやんなかったんだな。ひどいな」

二人は笑いながら昔話に花を咲かせた。そして日本酒が二人の頬を程良く赤く染めた頃、沙希が言った。

「今度大地が誰かと付き合う時は、もっとデートに連れてってあげるか、『あなたと一緒に居られるだけで幸せ』って言ってくれる子を探すか、どっちかだね」

すると大地も負けてはいなかった。

「今度沙希が誰かと別れる時は、別れる理由を相手に言った方がいいよ」

沙希が大地との別れ際に 理由を告げなかった事で、大地がその後何倍も苦しんだ事を この一言で察した。

「大地はさ・・・今、好きな人とか・・・いるの?」

「いるよ」

大地は煙草の煙を吐きながら、遠い目をしている。予期していなかった大地の答えに、沙希自身 続ける言葉も見当たらなかった。そして少し酔いが回っている自分に 理性を押し当て、今までより少し 大地との間に距離を保とうとした。沙希の中で 8カ月振りに再開した日の事を思い出し、(じゃああの日、優しく抱きしめてくれたのは何だったの?)という思いを必死で殺し、奥にしまった。めっきり会話も減り、箸も進まなくなった沙希に気付き 大地が時計を見る。

「出るか」

こくりと小さく頷いて大地を見ると、腕には沙希が去年のクリスマスにプレゼントした時計が しっかりとはめられていた。

「まだ・・・使ってくれてるんだ」

すると大地は、沙希から貰ったジッポーもつまんで見せる。わずかに温かい気持ちが甦った沙希の首には、桜井から誕生日に貰ったネックレスが光っていた。

 

二人は東横線に乗り込む。沙希は窓に映った大地をぼんやりと見つめながら考えていた。こうやって会うのも、これで本当に最後だなと。それが淋しい様な、しかしこれで良かった様な 宙ぶらりんな気持ちが胸中に広がる。その時大地が言った。

「そういえば 中島由美子、武蔵小杉に引っ越して来たんだよ」

「由美姉が?元気にしてる?私 仕事が忙しくなっちゃって、全然連絡してないんだ」

元々千葉県の実家に住んでいたが、音楽仲間が多い武蔵小杉に一人暮らしを始めたという。

「久し振りに会いたいなぁ。・・・行っちゃおうかな」

二人は思い付いたまま武蔵小杉で電車を降り、由美姉のアパートへ向かう。部屋のドアを何度もノックしてみたが、返事は無かった。部屋の電気も消えていて、人の居る気配は無かった。がっくりと肩を落としている沙希をよそに、大地がまた道を歩き出す。

「じゃ、こっちだな」

後を付いて行ってみると、一軒の小さな焼き鳥屋の前で足を止める。

「仕事でもなくて 家に居ない時は、大体ここで飲んでんだよ」

のれんをくぐり中に入ると、やはり由美姉がカウンターで中の店員と楽しそうに話しながら飲んでいた。大地がいつもの事の様に店内に入り、由美姉に声を掛ける。沙希も後ろから顔を出して、笑顔で手を振ってみる。

「沙希ちゃーん!久し振りーっ!」

由美姉が、大地と沙希の2ショットに『あれ?』という顔をする。去年の12月に二人が別れた事は知っていたが、その二人が目の前に並んで現れた現実を由美姉は 把握できずにいた。三人は空いているテーブルに席を移し、久し振りの再会に乾杯をした。

「沙希ちゃん、綺麗になったね。・・・大人っぽくなったのかな?」

由美姉と沙希は 話をするのも一年以上ぶりで、会うのはもっと それ以上だった。お互いに近況を報告し合い、再会を喜び合った。

「で・・・何?二人が一緒にいるって事は・・・また元のさやに戻ったって事?」

大地も沙希もお互いに相手の出方を探りながら、控え目に否定する。そして大地が 今日一緒にいる訳を説明した。

「なーんだ。じゃ、別れた後も友達として仲良くやってんだ」

再び大地も沙希も微妙な顔つきをする。

「最近、たまたまね」

大地が言葉少なにフォローする。二人が微妙な関係にあるのを 由美姉は察し、話を変える。

「私最近飲み過ぎだよね~」

「いつもこうやって一人で飲んでるの?」

沙希が聞く。

「一人の時もあれば、友達とか呼び出して付き合ってもらう事もあるし・・・コイツ誘う事もあるね」

そう言いながら、由美姉が親指で大地を指す。

「『今何してんの?飲みに来ない?』って、いっつも強引なんだよな。お前一度もさ、『付き合ってくれない?』とか しおらしい事言った事ないよな」

「違うよ!一人ぼっちで淋しいだろうと思って、誘ってやってんじゃない」

テンポの良いやり取りを、沙希は少し羨ましく聞いていた。そんな沙希に少し顔を近付け、由美姉が小声で話す。

「本当はね、あの焼き鳥焼いてる右側の兄ちゃん、いいなあと思ってんの。で、話をしようと思って 飲みに来てるんだけど、カウンターが埋まってたり 休みだったりすると、コイツ誘い出すってわけ」

「相変わらず失礼だよな」

実に楽に、そして楽しそうに過ごす大地を見て 沙希は(大地には由美姉みたいな人が合うのかな)と考える。そしてさっき『好きな人がいる』と答えた大地を思い出す。由美姉がトイレに行くため席を立つと、その後ろ姿を眺めながら大地が言った。

「まったく・・・。でもあいつ、相変わらずだろ?」

「由美姉が近くに越して来て・・・良かったね」

沙希が大地の顔つきを探る。

「どうかな・・・。突然呼び出されて深酒して、寝不足で仕事に行く事増えたけどね。でも まぁ、あいつの為には良かったんじゃない?ここなら仲間も近くにいるし。あいつ、ああ見えても けっこうナイーブなとこあるからな」

トイレから出てきた由美姉が カウンターの中の例の“兄ちゃん”と何やら笑って言葉を交わしているのを見た沙希は、すかさず大地の顔を振り返る。大地はいつもと変わらずマルボロを吸いながら、突然自分に視線を向けた沙希に『?』の顔をする。由美姉が席に戻ると、沙希は鞄を持って立ち上がる。

「私そろそろ帰るね」

引き止める由美姉を 腕で制しながら大地が言った。

「こいつにまともに付き合ったら切りがないから、明日も仕事だし帰った方がいいかもな」

そして大地も椅子から腰を浮かして、

「駅まで送ってくよ」

「大丈夫。道まっすぐだから、わかる」

沙希は身勝手にも 切ない気持ちを抱えながら店を出た。朝から降り続いた雨は、いつの間にか止んでいた。時間をあまり気にせず店を後にしたが、駅に着くとタイミング良く入ってきたのは最終の電車だった。


当然家に帰り着いたのは午前1時を回っていて、皆寝静まった家の中でそーっと階段を上がり 部屋のドアを開けようとノブに手を掛けると、メモが貼り付けられていた。そして夜桜井から電話があった事を知る。『帰ったら電話を下さい』と伝えた桜井が、この時間までどんな気持ちで待っているのか、想像するのに難しくはなかった。

「良かったぁ、帰ってきた」

深夜の沙希からの電話に出ての、第一声だった。

「飲んでて最終になっちゃった」

「映画は良かった?」

桜井は少し飲んでいる様子だった。

「久し振りに友達と会えて・・・楽しめた?」

「ごめんね・・・遅くなって」

少し酔った桜井の口調がいたいけに思えて、沙希が思わず口走った。

「もう・・・行かないから。日曜は・・・他の約束入れたりしないから」

すると桜井も口を開く。

「今日は会えなくて淋しかったけど、その分旅行楽しみにしてるから」

 

 次の日 朝いつも通りに仕事に行き、開店前の朝のミーティングで青山が言った。

「今回の法改正に伴い、日本エステティシャン協会主催の講習会があるので 急で申し訳ないのですが参加して下さい。来週の月曜の祭日で サロンはお休みですが、休日出勤扱いで出席して下さい。お願いします」

加賀美が当然の事の様に『はい』と答え、スケジュール帳に書き込む。青山が沙希にも確認を取る。曖昧な返事の沙希に 青山が念押しする。

「大事な仕事の一環ですので、なんとかスケジュール合わせて下さい。宜しくお願いします」

選択の余地は無かった。


 その夜、沙希は部屋で 重たい受話器を取る。久し振りに沙希からの電話に、桜井は声を弾ませた。

「丁度今、旅行のガイドブック見てるとこだったんだ」

意気揚々と 旅先でのプランを話す桜井の勢いに、沙希は言い出すきっかけを逸してしまう。

「ごめん、俺ばっかり喋って・・・」

ようやく隙を見付けて、沙希が切り出した。

「私・・・旅行行けなくなっちゃった・・・」

しばしの沈黙を経て、沙希が訳を説明する。

「仕事じゃ・・・仕方ないね」

言葉とは裏腹に、諦めきれない思いでいっぱいになる桜井。そして沙希は、ただ謝る事しかできなかった。


 桜井との電話を終えて、切った途端にもう一度電話が鳴る。今度は大地からだった。複雑な気持ちで大地の声を聞く。

「昨日は遅くなっちゃったけど・・・ちゃんと無事帰れた?」

沙希は思い出した様に、昨日の映画のお礼を言う。

「久し振りに沙希に会えたって、あいつ相当喜んでたよ」

昨夜の焼き鳥屋での 由美姉と大地の息の合ったやりとりを思い出す。

「昨日もあれから・・・遅くまで飲んでたの?」

「ああ。結局家に帰ったの3時だもんな。沙希先に帰って正解だったよ」

沙希には自分が帰った後の二人の自然な様子が目に浮かぶ様だった。

「何か・・・用事?」

突っぱねる様な言い方に、大地が慌てて用件を伝える。

「ああっ!沙希、昨日傘忘れてっただろ?」

言われて初めて、今気付く。

「俺預かってるんだけど・・・いつ会える?」

返事をためらうと、大地が続けた。

「今度の日曜は?」

「予定が入ってるの。だから・・・ダメ。悪いけど・・・着払いで送ってくれないかな」

「いいけど・・・ただ渡すだけだから、俺 横浜まで行くよ」

「忙しいのに・・・大変だからいいよ。送って」

大地がそれでも食い下がる。

「それじゃ今度の土曜、仕事の後 届けに行くよ」

沙希もそれ以上断る事は出来なかった。そして二人は再び 横浜駅で夜の9時半会う約束をした。


 次の日の夜、また桜井から電話があり 昨日のがっかりした声とは打って変わって、元気で 少し急いでる様でもあった。

「今キャンセルの電話したんだけどさ」

沙希が電話口で小さくなる。

「土曜の夜にこっち出て、一泊して 日曜に帰って来るってのはどう?むこうはね、土曜でも部屋取れるって言ってるし。ね、いい案でしょ?」

沙希は大きくため息をついた。

「ごめん・・・土曜日・・・予定入れちゃった」

一瞬にして空気が変わり、受話器の向こうから嫌な気配が漂ってくる。

「分かった。じゃ、全部無しにしよう。元々沙希は 旅行なんてどうでも良かったんじゃないの?」

こんな強い口調の桜井を見るのは初めてだった。

「どうしてそうなるの?元々は仕事で駄目になったんじゃない」

「そうだな」

その言い方が あまりにも冷酷で返す言葉を失い、ただ時間だけが寒々と過ぎていく。ここ最近の沙希の行動によって 不安を募らせていた桜井が 旅行にかけていた思いを察し、沙希が恐る恐る話し出す。

「私も旅行楽しみにしてたんだよ。・・・本当だよ。だけど私のせいでボツになっちゃって・・・ごめんなさい。怒って当然だよね・・・」

すると、さっきより落ち着いた声が返って来る。

「俺はきっと・・・旅行が駄目になったって事より、そりゃそれも残念だけど・・・、それより沙希が俺からどんどん離れてっちゃう様な気がして・・・焦ってるんだと思う。男のくせに情けないな・・・」

いたたまれない思いを抱えながら、沙希は必死に頭の中を真っ白にする。

「心配しないで。私、離れてったりしないから。こんなに私の事いっぱい思って大事にしてくれる人・・・他にいないでしょ。私の居場所はここだから」

この時沙希は、大地と会うのは 今度の土曜で本当に最後にしようと心の中で決めた。

 

 いつもの様に 一週間の仕事を終え、サロンを後にする。そして約束通り、横浜駅の改札を出ると 生成りの傘を持った大地が笑顔で迎える。少しこわばった顔で、沙希は傘に手を伸ばす。

「ありがとう。わざわざごめんね」

無事傘を受け取ると、沙希が後ずさりする。

「じゃ・・・」

引き止めようとする大地の口が 少し開く。

「急いでるの?」

何とも中途半端な返事で、大地をかわそうとする。そんな沙希をまじまじと眺めながら 大地が言った。

「俺の事・・・避けてる?」

この間の電話の時から 態度の違う沙希に、少し心を痛めていたのだ。首を横に振る沙希の口からは、言葉になりきらない声しか出て来ない。

「俺にはもう 会いたくないって事・・・かな?」

「会いたくない訳じゃないよ。ただ・・・」

やっとちゃんとした言葉を喋る。

「ただ・・・大地にも好きな人がいて・・・私みたいな過去があんまりまとわり付いてちゃいけないと思って・・・お互いにね」

大地は両手を腰に当てて、暫く足元の床を見つめる。

「お互いにか・・・そうかもな」

何か吹っ切る様な、諦める様な そんな顔をしている。

「じゃぁな。また何かあったらいつでも・・・」

言いかけて、大地が笑いながら言葉を飲み込む。

「これがいけないんだな」

去年の12月に続いて二度目の別れを迎えた様な、沙希はおかしな錯覚を起こしていた。

 

それから一か月位経ったある夜、珍しく由美姉が沙希に電話を掛けてきた。『どうしたの?』と聞く沙希に対して、はっきりした理由も言わず 普通の世間話が続いた。そして頃合いを見て、由美姉が本題に入った。

「ところでさ、大地と・・・喧嘩かなんかしたの?」

口を閉ざした沙希に、由美姉が慌てて間を繋ぐ。

「いやぁ、私もさ、二人の事に首突っ込むつもりは全然ないんだ」

「どうしたの?突然そんな事聞いてくるなんて」

「他人に言いたくない事だってあるよね、そりゃ。いいのいいの」

話の真意が掴めないまま 逃げ腰になる由美姉を引き止める。

「喧嘩なんかしてないよ。ただもう・・・会わない方がいいかなって・・・」由美姉が早速、謎が解けたと言わんばかりの相槌を打つ。

「あいつに聞いたって、相変わらず何にも言わないしさ・・・。でもこの間っから、様子がおかしくってね」

沙希が聞き返すと、由美姉がここ一カ月の大地の様子を話し始めた。

「『今の俺じゃ、好きな女の一人も幸せにしてやれない』とかって言い出すし」

「やっぱり、由美姉にはそんな事も話すんだね」

沙希の中に、再び 三人で焼き鳥屋で飲んだ時の様な切なさが込み上げる。

「私、思ったの。由美姉と大地って・・・凄く似合ってるなって・・・。すごく自然で、楽で・・・無理してない感じ」

それを聞いた由美姉は、意外とあっけらかんとしていた。

「私達の関係って、男と女を超えてるからね」

そして少し声のトーンを変えて 付け加えた。

「それに・・・好きな人の前じゃ、そんな弱音も吐けないんじゃない?あいつも男だしさ・・・」

「由美姉は知らないんだ?大地・・・好きな人がいるって」

「知ってるよ」

由美姉が落ち着いた口調で続ける。

「沙希ちゃんと別れた後も、ずーっとあいつ引きずっててさ。いまだに過去にしきれないでいるんだ」

由美姉のこの言葉が、沙希の心を 虫食いの様にしていった。

挿絵(By みてみん)

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