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輝けるもの(上)   作者: 長谷川るり
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第2章 新たなスタート

2.新たなスタート

挿絵(By みてみん)


それから無事年が明け、新しい朝日が顔を出す。今年は沙希にとって、卒業の年であり 社会に踏み出す年でもある。沙希は去年の暮れの大地との別れを確実に引きずって年を越したが、年明け早々には就職試験の面接も控えていて、なんとかエステティシャンとして良い仕事ができる様になりたいと目標もあり、今年は気持ちを入れ替えて、仕事に生きようと思えた。また、新年の空気にはそんな不思議な力があった。


冬休みが明け、沙希の就職活動もようやく本気で動き出した。立て続けに大手2社のエステティックサロンの面接試験を受けた。そして今日が最後の面接の日だった。FAXで受け取った地図を頼りに着いてみると、そこはマンションの一室だった。そして玄関のドアに掛かった木製のプレートには“Salon Ravir(サロンラヴィール)”と彫られている。チャイムを鳴らしてドアを開けると 30代の若い女性が温かい笑顔で出迎えた。ドアの前で緊張が最高潮に達していたが、少しホッとして中に入る。今までの2社とは全く違い、きらびやかさも高級感もなかった。しかしとてもアットホームな雰囲気に包まれて、沙希は心地よさを感じていた。

「甘いの飲める?」

通されたテーブルで待っていると、さっきの女性が ウェッジウッドのティーカップに入ったココアを持ってきた。

「寒かったでしょ。ご苦労様」

またにっこりと微笑む。今までの2社では考えられない対応だ。まるで知人の家にでも遊びに来た様な錯覚を起こしそうになったが、沙希は立ち上がり名前を告げ 頭を深々と下げた。すると名刺を出しながら その女性が言った。

「河野沙希さんですね。お会いできるの楽しみにしてました。今日は宜しくお願い致します」

沙希の手にした名刺には“トータルビューティーコーディネーター 青山いづみ”と書かれてあった。次いで沙希が履歴書を差し出す。青山が早速その履歴書に目を通すと、びっくりして声を上げた。

「あら、東京外語なの?えっ?英会話科?私と一緒だ。じゃ・・・後輩ね」

とんだ共通点から話が盛り上がる。そしてとても自然な流れで、青山が核心を突いてくる。

「英語を勉強してて、またどうして美容業界に入ろうと思ったの?」

沙希は、昨年TVで見たドキュメンタリーをきっかけに 人の役に立つ仕事に就きたいと思った事。また、今から医者にはなれないが、その人の人生が明るく前向きに転換していくきっかけに携われるこの仕事の奥深さに魅了された事。そして将来の目標などを、自分の言葉で話し出す。それにじっと耳を傾けていた青山が、ひとしきり話を聞くと 2つ目の質問をする。

「河野さんは、エステってお客さんとして行った事ある?」

「ありません・・・」

「じゃ、エステって正直どんなイメージ持ってる?」

「高級感、優雅、・・・値段が高い、その割に効果がない、高いローンを組まされたり、会員になると次々と色々な物を買わされる・・・そんな風に以前は思ってました」

不思議なくらい自然と思った事が口から出る。

「でもTVを見て、そうじゃない ちゃんとしたエステもあるんだって分かって・・・私は、そういう悪いイメージを変えたいって・・・お客さんに本当に喜んでもらえるエステティシャンになりたいって思ったんです。」

いつの間にか言葉に熱がこもる。青山が笑顔で頷くと、今度は青山の方がテーブルに少し身を乗り出して話し始めた。

「じゃ、うちのサロンの話を少しさせてもらうわね。うちみたいな小さなサロンでは、到底大手の立派なサロンにはかなわない所も正直あるわ。でも大手のサロンには出来ない、個人サロンだからこそ出来るメリットも沢山あるの。初めて来店された時から、じっくり悩みを聞かせて頂いて、カウンセリングからその方が満足されるまで、責任を持って お客様と一対一のお付き合いをさせて頂いてるの」

青山の熱弁は続く。そして青山の言葉の中で『お客様のゴールは、変わったその人が生活の中で良い変化を起こしていく事。それを目標にしている』に、沙希はとても強く心を打たれた。そして青山は最後にこう言った。

「うちのサロンのモットーは、お客様の立場に立って、心を遣い、頭を使い、体を使う事です」

それを聞いた途端沙希は、思わず頭を下げる。

「是非働かせて下さい!」

青山がさっきより少し冷静な口調になる。

「でもね実際、自分が綺麗になりたい、自分が綺麗になれるんじゃないかって思って美容業界に入ってくる人は多いけど、辞めてく人も多いの。何でか分かる?」

沙希が首を傾げる。

「正直この仕事は、色々な意味でとても厳しい仕事です。お客様に綺麗になって頂きたいって その気持ちが強くないと難しいと思うの。自分が満たされたい気持ちじゃ勤まらない仕事。与える事に喜べないとね」

沙希の気持ちは揺るがなかった。厳しい仕事に耐えられる自信があった訳ではない。ただ、この青山という女性に付いて働きたい。そうしたら、大地との別れで気が付いた今の自分に欠けている心の一かけらが埋まるんではないかというぼんやりとした期待もあった。その後サロン内の見学をして、面接が終わった。


即採用の返事を貰い、帰り道、沙希の心は希望と意欲に満ち溢れていて、今にも何かしたくてウズウズしていた。そして駅の公衆電話の受話器を上げ、044と押して そこで気が付いた。肩を落とし受話器を置く。そして暫く、そこから動く事はできなかった。

その夜沙希は、引き出しから電話番号の書かれたメモを取り出す。年末のバイト最後の日、慰めドライブの帰りに『何かあったらいつでも電話して』と桜井から貰った物だった。ベッドに腰掛け壁に寄りかかりながら、恐る恐る番号を押す。呼び出し音が3回鳴るのを聞きながら、沙希は心のどこかで留守である事を願う。そして5回目を聞き、もう切ろうかとしたその瞬間 応答がある。

「はい、桜井です」

聞きなれた声の筈なのに、受話器を通して耳元で聞こえるその声に 沙希はドキドキした。

「あの・・・沙希です」

「ああ、沙希ちゃん!どうしたの?店も休んでるから心配してたんだ」

「すみません。就職活動してたんで・・・」 

沙希の緊張も少しほぐれだす。

「この間は・・・ありがとうございました。みっともないとこ見せちゃって・・・ご迷惑お掛けしました」

「その後はどう?大丈夫?」

「・・・なんとか生きてます」

そしていつの間にか沙希は、今日の面接の話をしていた。

「良かったね。じゃ・・・お祝いしよう。今度の日曜の昼間・・・空いてる?」

「はい・・・」

「よし!じゃぁ、昼間会おう。夜しか沙希ちゃんと会った事ないからなぁ。本牧にさ、俺が設計を担当させてもらった公園が出来たんだ。是非見てもらいたい。沙希ちゃんも仕事始めたら味わうと思うけど、自分の作った物が形になって世の中に出るって、嬉しいもんだよ」

自分の仕事に自信を持って、いきいきと語る桜井の姿がやけに大人っぽく頼もしく思えた。

 

 日曜日の約束の11時より少し前に石川町の駅前に沙希が着くと、桜井の紺色のシルビアはもう停まっていた。そして2回の軽いクラクションで合図を送る桜井は、茶色のコーデュロイのズボンに ベージュのVネックのすっきりとしたセーターを素肌に直接着ている。いつもスーツ姿しか見た事のない沙希には とても新鮮に映った。少し緊張した面持ちの沙希を助手席に乗せ、車は走り出した。この車に乗るのは2度目の筈なのだが、前回はお酒もかなり入っていて、精神的な落ち込みもあり 戸惑う暇もなかった。だが今日は、お酒の力も無ければ、外の景色も明るい。そして、男の人と二人っきりの車という囲われた狭い空間に 沙希は慣れていなかった。

「今日晴れて良かったね」

そんな沙希の気持ちをほぐす様に桜井が声を掛ける。言葉少なにあいづちを打つと、また桜井が話題を見付ける。

「電話くれて嬉しかったよ。あの日丁度帰ってきたところで、慌てて取ったんだ。間に合って良かったよ。もし留守だったら、もう二度と掛けて来なかったでしょ?」

「・・・ただ・・・この間のお礼を言わなくちゃと思ってて・・・。あと・・・それと面接の事、つい嬉しくて」

沙希の頭の中では、駅の公衆電話から大地にかけようとしてしまった時の光景が思い出される。桜井がチラッと助手席に目をやると、沙希の視線はぼんやりと宙に浮いていた。そして話題を変えた。

「今日、何食べたい?」

意識が現実に戻った沙希の口からは、覇気のない声が滑り出す。

「お任せします」

「沙希ちゃんて、どんな物が好きなの?和食?洋食?中華?それともフレンチとかイタリアンとか・・・」

「何でも。私好き嫌い無いんで」

一向に盛り上がらない会話に、懲りずに桜井が絡む。

「沙希ちゃんて、お家で料理とかするの?」

少し沙希の緊張がほぐれ始め、桜井に質問をする。

「桜井さんはお家で、ご自分でお料理とかやるんですか?」

「俺全然ダメなんだ。だから、だいたい飲みに行って外で済ませる事が多いかなぁ。仕事で遅くなった時はコンビニで弁当買ってって・・・味気ない生活だよ」

「でも今までは彼女が作ってくれたりしたんでしょ?」

「あぁ、そういうの最近憧れるね。彼女いた時も、だいたい外食だったからね。あんまり皆、得意じゃなかったのかな」

とても自然に、爽やかに過去の恋愛を話す桜井が 今の沙希には少し羨やましかった。二人が段々慣れた頃に、本牧の公園の駐車場に到着する。桜井がサイドブレーキを引き、シートベルトを外しながら言う。

「寒くない様にしてって」


車を降り、桜井の半歩後ろをついていくと すぐに公園の入口に辿り着く。入口からまっすぐに石畳の大きな通りがのびる。その中央に道に沿って噴水があり、道の両脇には 真冬にも関わらず色とりどりの花が植えられていた。

「これ、夜になるとライトアップするんだ」

噴水を指さして桜井が説明をする。100m近くある噴水の通りを進むと、10段程の階段があり両脇はスロープになっている。そこを昇ると時計台があり、その右側には広い芝生の公園が広がっていた。至る所に植えられた沢山の花が彩りを加え、所々に置かれたベンチも昔の洋画に出てくるようなデザインで、沙希の口から思わずため息が漏れる。

「すごい・・・。これ・・・桜井さんが?」

「運良く設計チームに入れてもらえてね。まだ、あるんだ」

そう言って沙希を案内したのは、広い芝生の公園のまた奥で ツタの絡まるアーチのゲートをくぐると そこには教会の鐘をイメージした真っ白なオブジェがどっしりと構え、そこは丁度小高い丘になっていて 横浜の街並みが一望できた。

「素敵・・・」

すっかり呆気にとられた沙希の足元を桜井が指さす。そこにはフランス語で、何やら文字が刻まれていた。

「何て書いてあるんですか?」

「恋人達の丘」

続けて桜井が、今度はオブジェの鐘の上の屋根に刻まれた文字を指さして、

「これは“誓いの鐘”って書いてあるんだ」

沙希がそーっと鐘の下へ進み、白い柱を触りながら上を見上げる。そして横浜の街並みへ視線を移し、無言で眺める。沙希はすっかり寒さなど忘れていた。暫く黙ったまま 静かな時が流れるが、沙希は桜井の方へ向き直り 笑顔で言った。

「桜井さんって、ロマンチストなんですね」

桜井は笑いながら下を向き、一呼吸おいてから返事をした。

「夢を形にするのが自分の仕事だからね。ロマンチストじゃないと仕事にならないかもね」

「すごい。尊敬します。やっぱり仕事ができる人って・・・男性も女性もカッコイイですよね。あぁ、私も早く 仕事で認められる様になりたい」

「沙希ちゃんはキャリア志向なんだ?」

「・・・今年は仕事に生きるって決めたんです」

桜井の顔を見て、照れる様に笑いながら言った。そしてそんな沙希を桜井は、黙って見守る様に微笑んだ。

 

二人は公園からほど近いパスタ専門店で、遅い昼食を摂った。店内は、ランチのピークを過ぎているせいか 空いたテーブルも幾つかあった。そんな中で、ゆっくりと食後のコーヒーと紅茶を飲んでいると、沙希がちょこんと頭を下げながら言った。

「今日は本当にどうもありがとうございました。すっごく素敵なお祝いしてもらっちゃった。私も頑張ります!」

明るい笑顔の沙希を見て、安心した様に桜井が話し出す。

「あそこの設計してる時、丁度前の彼女にフラれたんだ。だから、何くそって仕事に打ち込んで、あれが出来たんだ。今思えば、俺には良かったのかなって思うよ」

自分から過去の恋愛話をする桜井を じっと見つめながら、沙希が少し遠慮気味に聞く。

「どうして・・・別れちゃったんですか?」

「むこうは結婚したかったんだ。年も俺より3つ上だったし、30までにはって思ってたみたいで・・・。でも俺はまだ仕事に打ち込みたい時期で。だってその時俺、26だったから・・・決心できなかったんだ。それでフラれたってわけ」

沙希はさっきの公園の“恋人たちの丘”と“誓いの鐘”を思い出す。そんな裏話があったのかと、沙希は恐縮して下を向く。が、桜井は更に続けた。

「それから半年位経ってからかな。『結婚する事になった』って連絡があったよ。でもその時には、自分の中では吹っ切れてたから『おめでとう』も言えたし・・・」

その彼女は、当時まだ桜井さんを愛してたんだなぁと沙希は感じながら、その言葉はそっと胸の中にしまった。


 年が明けてから 慌ただしく一か月が走り抜け、あっという間に2月に入り、街中にピンクや赤のハートの風船やオブジェが溢れかえり バレンタイン一色に染まる。普段はだいぶ大地の影に苦しむ事も少なくなったが、こういうイベントが 沙希に過去の記憶を思い起こさせる。今年は義理チョコばっかりだなぁと、ショーケースを眺めながら浮かない顔をする。デパート内の紳士服売り場にデイスプレイされた一本のネクタイが沙希の目に飛び込んできた。沙希はその前で暫く足を止めた。

 

その晩また沙希はベッドの上に腰掛け、受話器を手に取った。しかし、それを元に戻す。そして又手に握り、手に持ったメモ用紙を見ながらプッシュボタンをゆっくりと押す。耳元で呼び出し音が3回鳴ると留守番電話機に切り替る。

「はい、桜井です。只今留守にしています。ご用件をどうぞ」

留守電の応答メッセージだが 桜井の声を聞くのは久し振りで、本牧の公園へ連れて行ってもらって以来だった。あれ以来店にも顔を出さず、彼の上司の久保は鈴香目当てで来ていたが 沙希がそのテーブルに付く事はなく、全く状況が分からなかった。一度店に来た久保が、

「沙希ちゃん、今日も桜井一緒じゃないんだ。ごめんね」

と言ったのを聞いたが、理由までは言わなかった。沙希は留守電のピーという音を聞く前に慌てて電話を切った。あれから約3週間の間に、彼は何を思い、何を考えていたのだろう。結局一時間程して、また電話をかけてみる。3回鳴った後、

「はい、桜井です」

今度は本人が出た。沙希は慌てて背筋を伸ばす。

「夜分にすみません。・・・沙希です」

恐る恐る自分の名を名乗る。すると沙希の不安をよそに、明るい声で迎える。しかし沙希は言葉に詰まり、一瞬沈黙がよぎる。

「どうしたの?」

「この間は・・・ありがとうございました」

桜井は相変わらず明るい声で相槌を打つが、また沈黙が走る。今度は沙希が切り出す。

「お忙しかったんですか?」

「まぁ、相変わらずかな」

また会話が途切れる。そして沙希は思い切って聞いてみた。

「あれ以来・・・お店に顔出して下さらないから・・・どうしたのかなと思って・・・」

「あぁ。なかなか・・・都合が合わなくてね」

いつもの桜井にしては歯切れの悪い返事だった。

「明日・・・もし良かったら・・・お店に来て下さい」

「・・・沙希ちゃんも・・・営業するんだ」

その言葉は沙希にショックを与えた。

「いえ、明日は・・・バレンタインで・・・お世話になってるお礼に渡したい物が・・・」

「明日は・・・行けるかどうか、ちょっとわからないな。行けても・・・遅くなっちゃうかもしれない」

何となく、また歯切れの悪い返事が返って来る。

「もし、デートとかそういうのがあるんだったら・・・無理にとは言えないけど・・・お待ちしてます」

電話を終えた後に何故か釈然としないものが残っていた。

 

次の日のびいどろは、バレンタインのお陰で客の入りも上々だった。8時半を過ぎた頃、いつもより早目に久保が現れる。珍しく一人だった。入口の近くにいた沙希が声を掛けた。

「珍しいですね、お一人なんて」

「桜井に声掛けたんだけど、遅くなるって言うから」

「じゃ、後でいらっしゃいますか?」

「んん・・・どうかなぁ?間に合わないかもしれないって言ってたから」

久保がカウンターに座り、別のテーブルに付いていた鈴香が移動してくる。その後、桜井が現れる気配は一向になかった。11時半を回った頃、沙希のテーブルの客がカラオケに“ロンリーチャップリン”を入れ、イントロが始まると 同じテーブルの50代の金のブレスレットをした客が『踊ろう』と誘ってきた。歌が始まり、沙希が軽く肩に手を乗せると その男は香水の匂いをプンプンさせて、おまけにいやに体を密着させてくる。沙希の口元は微笑んでいたが、内心うんざりしている時だった。入口から桜井が姿を現す。すぐに沙希と目が合うが、桜井はそのままカウンターの久保の隣へ腰を下ろした。本当なら『来てくれてありがとうございます』と駆け寄りたかったが、自分の運の悪さを恨んだ。曲がそろそろ終わりに近付いた頃、香水男の沙希の腰に回した両手が下へと伸びた。びっくりして沙希は思わず叫んだ。

「やだ!やめて下さい!」

店内中に響き渡る程の大声ではなかったが、桜井は振り返り 確実にその現場を見た。香水男は冗談ぽく笑いながら、

「悪い悪い」

とだけ言うと、最後まで踊り続けた。なんだかとても悲しい気分になったが、香水男から解放された途端、空いた皿を下げるふりをしてカウンターに近付いた。

「いらっしゃいませ」

桜井の横から顔を出す。

「あ、どうも」

桜井の反応はとても素気なく、他人行儀だった。

「お久し振りですね」

それでも桜井の返事は変わる事がなく、沙希はそれ以上話しかける事ができなかった。

それから間もなく香水男達も帰り、閉店間近となり客もあと数人となった頃、手が空いた沙希を久保が呼んだ。

「沙希ちゃん、こっちおいでよ」

勧められるままに桜井の隣の席に着く。その途端、久保が何やら皆を制して話している。

「じゃ俺が直接沙希ちゃんに聞くから」

何の事だかさっぱり分からずにいると、早速久保からの質問が飛んできた。

「年末に、ここの後皆で寿司屋に行った日さ、桜井が沙希ちゃん送ってった事あったでしょ。あの時何かあったの?」

あまりの唐突なフリに沙希が

「あの日私・・・酔っぱらってたから・・・」

と言葉を濁しながら桜井の顔をうかがう。そして、食い入るように沙希を見つめる久保に対して 答えを返した。

「でも、まっすぐに送って頂きました」

「ほらぁ、だから何度も言ったじゃないっすかぁ」

桜井があおる様に加える。しかし久保は引き下がらなかった。

「本当に?タクシーの中でキスされたり・・・手握ったり・・・も、しなかった?」

沙希は久保の言葉にドキッとする。慌てて首を横に振る。

「まさか。本当、何もないです」

「ほらぁ、僕が言った通りじゃないっすかぁ!」

桜井が再び援護射撃する。

「それにしたって、なんか最近桜井おかしいんだよ」

久保が首を傾げる。

「ここに誘ったって いっつも『仕事が残ってるんで』ばっかりで、今日みたいに遅れてだって来やしないし」

「本当に仕事してるんすよ」

「俺だって一応一緒に仕事してるんだぜ。お前ばっかり仕事が溜まってる訳ないんだよ」

すると鈴香が、久保に向かって小指を立てて見せる。

「あぁ、これか。女ができたのか。それでその女に『女の子の付く店なんか行っちゃイヤ!』とか言われてんだ」

「違いますよぉ。残業してて、終わると疲れてるんで まっすぐに帰っちゃうんです」

まだ疑わしそうな目で 久保が桜井を眺めるが、すぐ次の質問を持ち出す。

「じゃ、ついでに沙希ちゃん、もう一つ聞くけどさ。俺桜井によく言ってるんだ。『沙希ちゃんお前に気があるぞ』って。『脈ありだぞ』って。その辺どうなの?こいつの事、正直さ」

すると沙希が答える前に、桜井が遮った。

「久保さん、沙希ちゃんに失礼ですよ。沙希ちゃんは単にびいどろの女の子として 客の俺に接してるだけで、他のお客さんと変わらないですよ」

「お前に聞いてるんじゃないんだよ。俺は沙希ちゃんに聞いてるの」

また久保の視線がじりじりと沙希に向けられる。皆の顔をチラチラと窺いながら話し出す。

「私なんか・・・桜井さんから見たら きっと子供で、恋愛対象にならないですよ。それに私って一目惚れしない人なんです。桜井さんとは、ここで何度かお会いして 少しお話した位で・・・そこまで良く知らないですから。いい人だなとは思ってますけど・・・」

「沙希ちゃん、男に『いい人』は褒め言葉じゃないよ」

久保のこの一言で、この話題にピリオドが打たれた。勘定を終えた久保がトイレを済ませ出てくると、桜井の肩を叩き、

「これから鈴香ちゃんとデートだから、じゃあな。お前も沙希ちゃん誘ってデートでもしてきたら?今日はバレンタインデーなんだぞ。少し位色気のある事しとかないと、男もおしまいだぜ」

「いや、僕は真面目に帰りますよ」

店の前で 久保と鈴香を見送ると、桜井が軽く伸びをする。

「ごめんね、さっきは口裏合わせてもらっちゃって」

いつもの桜井の口調に戻っていた。

「じゃ、俺・・・帰るわ」

慌てて沙希が引き止める。

「渡したい物があるんです・・・。駅まで一緒に・・・いいですか?」

歩き出した途端に桜井が気遣う。

「コート着ちゃいなよ、寒いから。風邪ひいちゃうよ」

身支度を整えて、沙希は紙袋の中から細長い包みを差し出す。

「色々お世話になったんで・・・気持ちです」

驚いている様子の桜井に、沙希が照れながら話す。

「桜井さんオシャレだから、気に入ってもらえるか分からないけど・・・似合いそうだと思って・・・。良かったら・・・どうぞ」

桜井が包みの中から取り出したのは、クリーム色と紺の織り柄のネクタイだった。『ありがとう』と言う桜井の顔を見て 沙希は、ネクタイを一目で気に入ってくれた事を悟った。駅に近付くと、沙希が聞いた。

「桜井さんは・・・タクシーですか?」

「俺今日、車あっちに停めてあるんだ」

と指さした方向は、今来た店の方角だった。

「ごめんなさい。私てっきり駅に行くと思って・・・」

「送ってこうか?」

「いや・・・悪いから」

そう言っている沙希の心の中では、もう少し桜井と話がしたいと思っていた。結局、店の裏の駐車場からシルビアを出し、二人は乗り込むと 桜井が明るい声を出した。

「来月卒業でしょ?またお祝いしよ」

無意識のうちに沙希の顔はほころんでいた。

「あそこの店は・・・いつまで続けるの?」

「3月に入って卒業式が過ぎたら、仕事の研修に入るんです。だからそれまで」

心なしか桜井がホッとした顔をする。二人は3月3日の日曜日に会う約束を交わした。暫くすると、車は沙希の家の前に停まる。沙希は会話が途切れるのを恐れ、頭の中で話題をめぐらした。

「今日来て下さってありがとうございました。お忙しいのに無理言ってすみませんでした。また・・・来て下さい。私桜井さんとお話ししてると、なんだか楽しくて・・・」

沙希はひたすら喋り続けた。桜井がいつ『じゃ!』と切り出すかが怖くて、運転席も見ずにいた。

「またいつでも電話ちょうだい。3日の事も決めなくちゃいけないし、どこ行きたいか考えといて」

会話は確実に終わりに近付いていた。結局沙希に その後に続く話題がなく、無駄な抵抗をやめ 車を降りた。

 

 2月は 何度か横浜に雪を降らせながら行き過ぎ、3月に入っても 冬を名残惜しむ様に 冷たく乾燥した空気が北から走り抜ける。

 原宿の明治神宮記念会館にて 卒業式典が行われ、あいにくの雨の中、晴れやかな着物に身を包む大勢の中、沙希も友人達と袴で出席した。卒業式後、新宿の京王プラザホテルで卒業パーティーが行われた。そしてあっという間の、しかし充実した2年間の学生生活にピリオドを打った。


 それから2日後、約束の日曜日が来た。朝の9時に桜井の車が沙希の家の前まで迎えに来ると、行先を告げぬまま 車を発進させた。桜井は箱根まで車を飛ばした。そして昼前には到着し、まず桜井お薦めの美味しい鰻屋へと沙希を案内する。全てお座敷の個室になっていて、障子の開いた窓からはししおどしのある小さなお庭が見える。老舗らしく、とても趣のある店だった。

「仕事でこっちに来た時、連れてきてもらった店なんだ」

熱いおしぼりで手を拭きながら桜井が言う。靴を脱いであぐらをかき、軽く伸びをする目の前の桜井に、沙希は少しドキドキしていた。まず注文したビールの中瓶が運ばれて来る。それぞれのグラスに注ぐと乾杯をする。

「卒業おめでとう」

桜井がそう言ってくれた事で、沙希は思い出した様に鞄から 卒業式の時の写真を取り出す。写真を一枚一枚見ながら桜井がしみじみと言う。

「沙希ちゃん、和服も似合うねぇ。かわいいよ」

あまりにもストレートな言い方に、沙希は反応に困った。その点、大地は口下手だった為 沙希には免疫がなかった。しかし面と向かって言われてみると、恥ずかしい反面 嬉しいものだった。

うな重と肝吸いを食べ終え 店を出ると、二人を乗せた車は 箱根ガラスの森美術館へ到着する。

「沙希ちゃん、こういう所好きかなぁと思って。来た事あった?」

沙希は首を横に振りながら言った。

「来てみたかったんです」

中に入って少し眺めると、ガラスの持つ 繊細さと儚さ、そして純粋に光を吸収し 又跳ね返す魅力に、沙希はすぐに取りつかれた。一通り見て回った後、ガラス製品売り場で二人はワイングラスを見た。ずらりと並んだデザインのグラスの中から、沙希が一つを手に取る。それは赤ワイン用のグラスで綺麗なカットが施されている。柄の部分から下の台までネイビーブルーがマーブルにガラスに溶け込んでいて、シンプルながら とても幻想的な雰囲気を持っていた。

「こんなのお家にあったら素敵だろうなぁ・・・」

夢見心地のままそう言うと、沙希はグラスを元に戻した。

次に沙希が足を止めたのは、小物売り場だった。灰皿からガラスの靴の置物まで様々な物があり、目移りするくらいだった。その中には又、沙希の心を射止めた物があった。それは小さな天使の置物だった。ただガラスだけで出来ているのに、周りの景色や 天使の顔の表情までもが見える様で、とても温もりを感じた。

「それ気に入った?」

沙希のそのガラスの天使を見る視線に気付き、桜井がそっと話し掛ける。

「見れば見るほど愛着が湧いてくるんです。不思議ですね」

手に持ったガラスの天使から目をそらす事なく 答える。すると桜井が手を差し出した。

「それ、卒業のお祝いに 俺からプレゼントするよ」

沙希はびっくりして 桜井の顔を見上げる。

「自分が『これ!』と思ったものは、その場で買った方がいいんだよ。やっぱり人が大事に思いを込めて作った物は生きてるし、自分と波長が合う物って そうそう無いからさ。家具とかでもそういう事あるんだよ。木のテーブルとか・・・」

感心しながら話を聞いていた沙希が口を開く。

「桜井さんって、感性を大事に生きてる人なんですね」


ガラスの森美術館を出ると、二人は横浜へ向かって走る車中の人となった。西に傾いた太陽が海に沈んでいくのも あと僅かといった頃、沙希が切り出す。

「この間の公園も、今日の箱根も・・・なんだか色んな所に連れて行ってもらっちゃって・・・」

そう言いながら、自分が心の中で大地と桜井を無意識のうちに比べていた事に気が付く。沙希の言葉が尻切れトンボに終わると、桜井がそれを埋める様に話し掛ける。

「嫌じゃなかったら、またデートしてよ」

軽い気持ちで言った“デート”の文字が、沙希に重くのしかかる。そしてハッとした。ついこの間大地と別れたばかりで 辛くて辛くてどうしようもなかった筈なのに、もう別の人と“デート”をしてる自分がとても軽率に思えて許せなかった。一瞬にして沙希の顔が険しくなったのに桜井が気付く。

「ごめんごめん“デート”なんて・・・、そんなつもりで誘ってるんじゃないんだ。ただ・・・お祝いしようと思って・・・」

大地と別れてボロボロに泣いていた沙希を見てきた桜井は、言葉を選ぶ様に訂正した。沙希は下をうつむいたまま首を横に振り、ボソボソと言葉を吐く。

「私・・・桜井さんに甘えすぎてました。ごめんなさい。傍に桜井さんがいてくれて・・・つい。ごめんなさい」

「俺、迷惑に思ってないよ」

まだうつむいたままの沙希が続ける。

「桜井さんが初めて家まで送ってくれた時言ってたみたいに、軽率だと思いますか?」

桜井が慌てて否定する。

桜井が 前を走る白いスカイラインのテールランプを見ながら、笑顔一つない表情で聞いた。

「沙希ちゃんの中にはさ、あの彼の存在は まだしっかり薄くならずに残ってるの?」

この質問に沙希はドキッとする。ここ最近、大地を思い出す回数は少なくなっていたが、忙しさ故と信じて疑わなかった。しかし桜井に今こうして改めて聞かれると、自信を持って頷く事もできなかった。自分の本当の気持ちも分からないまま、今別の男の人の車に乗る軽率な自分が恥ずかしくて、思わず沙希の口からはこんな言葉が飛び出した。

「もう、電話しませんから」

それから、車が横浜に入るまで長い沈黙が二人を包んだ。気分を変える様に、桜井がラジオからCDに切り替える。スピーカーから流れてきたのは、黒人のソウルフルな歌声だった。すると沙希が声を上げる。

「これ、ゲイリーモアですよね?知ってる」

「良くこんなマイナーなの知ってるね」

不思議がる桜井に沙希が説明した。関内にある“Tommy’s Bar”というレストランバーに以前 何度が飲みに行った時に、このゲイリーモアがグランドピアノをバックに歌っていたのだ。その魂に訴えかける様な歌声を生で聴いた沙希は、思わずその場でCDを買ってしまったのである。それを聞いた桜井が声を上げる。

「Tommy’s Barって元町の・・・ちょっと脇道入った所の店でしょ?俺もそこで初めて聞いたんだ。去年でしょ?沙希ちゃんあの店に行ってたんだ。会ってたかもしれないね」

沙希の口調が強くなる。

「あそこにゲイリーモアが来たの、あの一日だけだったんです。だから・・・同じ日にあそこに居たんですね。・・・偶然・・・」

桜井がCDケースを取り出して見せた。

「これでしょ?」

それは、沙希が持っている物と同じだった。ひょんな共通点から、さっきまでの気まずい沈黙は嘘の様に忘れられていった。


紺のシルビアは沙希を家の前まで運び、沙希がシートベルトを外すと、桜井が言った。

「来週の14日、夜時間空けてくれないかなぁ?」

さっき『もう電話をしない』と言った自分が甦る。エステの研修はいよいよ来週の月曜日からで、土曜日までの週6日間 朝の9時から夕方の6時までのスケジュールが3月いっぱい続く。しかしそれでは断る理由にはならなかった。

「研修中で大変だと思うから、早めに帰すからさ」

それでも沙希が返事に困っていると、桜井が切り札を出した。

「先月のバレンタインの日、俺なりに頑張って時間作ったんだ。だから今度は俺のお願い、頑張って聞いてみてよ。それで嫌なら、もう本当に二度と誘わないから」

沙希は頷いた。すると桜井は、笑顔になって冗談ぽく言った。

「もう電話くれないといけないから、今時間決めちゃおう」


 その週の土曜日が沙希にとってのびいどろ最後の日だった。今日で最後と知っている桜井はやはり来なかった。いつも通りに仕事をし、最後の客を見送り店に戻ると ママが大きな花束を抱えて待っていた。ママからのはなむけの言葉とスタッフの女の子達からの温かい拍手に見送られ、大きな花束と共に沙希はびいどろを卒業した。


 とうとう心待ちにしていたエステの研修が始まった。以前サロンのオーナー兼店長の青山に研修が始まるまでに読んでおくように言われた皮膚生理学の本と真新しいノートを持って、定時の15分前には玄関のドアを開けていた。青山が制服姿で現れた。10時の開店に向けて9時半まで掃除や準備、9時半からは その日の予約のお客様の申し送りとミーティングが始まる。沙希のすぐ後に出勤してきた加賀美玲子と初めて顔を合わせる。加賀美は26歳の独身で、目がぱっちりと大きく 体つきは細く髪をアップにまとめていた。青山が店に来られない時は、安心して任せられるチーフだった。今回の沙希の研修中も、主に接客はこの加賀美がする事になっていた。沙希の研修は、お昼の一時間の休憩を除いてはみっちりと10時から6時まで皮膚の構造について行われた。そして一日一日があっという間に過ぎて行った。沙希にとっては初めての分野の勉強だけに、毎日帰宅してからも復習の繰り返しで 体も疲れ、行き帰りの僅かな電車の中がもっぱら睡眠不足を解消する場になっていた。


 14日の6時に研修を終え、横浜駅西口にあるドトールコーヒーに沙希は来ていた。桜井との待ち合わせにはまだ時間がある。ミルクティーをテーブルの端に置くと、プリントのファイルとノートを出し 復習を始めた。しかしそのうちに沙希は、夢の中へと沈んでいった。桜井が現れた時には沙希は、テーブルに頬をつけて 気持ち良さそうに眠ってしまっていた。起こすのが忍びないといった様子で桜井は、暫く沙希の寝顔を眺めていた。しかし沙希の後ろの人の咳払いで目を覚ます。目の前の桜井を見て驚き、続けて 自分が眠ってしまっていた事に更に驚く。

「ごめんなさい、桜井さん。いつ・・・?」

「大丈夫。今来たばっかりだから」

にっこりとする桜井に 沙希は不思議な安心感を覚えた。そしてゆっくりと冴えてきた目には、桜井のネクタイが映った。

「あっ、それ・・・」

「似合う?」

バレンタインに贈ったネクタイは、沙希が想像した様に良く似合っていた。


その後二人は、桜井が予約してある近くの天ぷら屋に入った。一口天ぷらを口へ運んで、沙希から思わず笑顔がこぼれる。

「沙希ちゃんて、美味しい物食べてる時 本当に幸せそうな顔するよね」

それから二人は食事に舌鼓を打ち、会話も弾んだ。

「研修は大変?」

「体はきついけど、辛くはないです。今私は、自分が満たされる事よりも 与える喜びを感じられる人になる修行中ですから」

仕事について語る沙希は、とても明るくいきいきとしていた。お腹が満たされた二人は店を出て、電車で帰ろうとする沙希を桜井が引き止めた。

「もう少しだけ 付き合って」


車の向かった先は、本牧の以前二人で来た公園だった。入口を入って真っ直ぐに続く大噴水はライトアップされ、この前見た昼の雰囲気とは全く違う表情をしていた。沙希が感激して言葉を失う。前来た時より寒さが和らいだせいか、カップルが多く すっかりデートスポットになっていた。のんびりと歩きながら“恋人達の丘”に辿り着く。眼下に広がる夜景を見ながら、沙希が深呼吸をする。3月中旬といっても、やはり夜の空気はまだ冷たく澄んでいた。お陰で、夜景はくっきりと綺麗に二人の目に映った。二人の周りには誰もいなかった。そして静寂を破る様に桜井が口を開いた。

「俺・・・沙希ちゃんの事好きなんだ」

あまりに唐突で、沙希がびっくりして振り返る。

「突然でびっくりしたでしょ。初めてここに一緒に来た時、はっきり好きだって分かったんだ。だからここで、気持ちを伝えたかった」

沙希はうつむいて、決して顔を上げようとはしなかった。そんな沙希を見つめながら、桜井が続ける。

「沙希ちゃんの中に、まだ前の彼氏がいるのは分かってるよ。でもいいんだ。いて当たり前だし、無理に忘れさせようとも思ってない。ただ俺は、沙希ちゃんが好きだし 大事にしたいし・・・誰にも渡したくない・・・って そう思ってる。だから俺の事、嫌いじゃなかったら、少しでも一緒にいて楽しいとか 安らぐとか・・・何か感じるところがあったら、そばに居させて欲しい。居て欲しい」

沙希は両手で顔を覆った。

「少しずつでいいんだ。少しずつ俺の事知ってもらって、少しずつ俺の方向いてくれれば」

沙希の頭は混乱していた。と同時に、胸は張り裂けそうに痛かった。最後に見た大地の笑顔が甦る。しかしその反面、桜井がこう言ってくれるのを待っていた様な気もする。沙希は頭を大きく横に振った。

「私・・・よく分からなくて・・・自分がどうしたいのか・・・全然」

「分からないって事は・・・100% NOじゃないって事だね」

桜井の言葉にハッとする。しかし、自分の正直な気持ちを認めるのには時間と勇気が要った。するとそれを見透かす様に 桜井が言う。

「前の恋愛とどれだけ時間が空いてれば納得がいくの?半年?一年?」

実際言葉にして誰かに言われると、自分のこだわっている判断基準が いかに無意味なものか良くわかる。沙希は少し自分の気持ちを話し始めた。

「私・・・まだ前の彼氏の事・・・いっぱい心の中に握りしめてて・・・。それがただの思い出なのか、現在進行形の思いなのかすら 分からなくて・・・。桜井さんはいいって言ってくれても、そんなの誠実じゃないし、桜井さんに悪い・・・」

桜井が一呼吸おいてから、沙希に直球を投げ込んだ。

「俺の事どう思ってるのか、正直に聞かせて欲しい」

しばしの沈黙が続き、桜井が別の言葉にしようとしたその時、やっとポツリポツリと沙希の口から洩れてきた。

「尊敬してるし・・・頼りにしてるし・・・優しいし・・・時々声が聞きたくなって・・・会えば嬉しくて・・・」

言いながら沙希は両手で顔を覆い、とうとうしゃがみ込んでしまった。その日が二人にとってのスタートの日となった。



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