第1章 突然
輝けるもの(上)
今では 恋愛になくてはならない携帯電話やメールという
コミュニケーションツール
しかし ついこの間まで それらのない中で愛する人との絆を確かめ合う時代が、沢山の男女の日常のそこ此処に存在していました
あなたは想像できますか?
一瞬にして地球の裏側にまで 自分の気持ちを声に文字に届けられる
スマートフォンやメールの無い暮らしを・・・
味わってみて下さい
そして これから出会う主人公と共に、自分の気持ちと向き合ってみて下さい
1990年代後半 冬
1.突然
「話があるんだけど・・・これから行ってもいいかなぁ」
沙希は3日前のクリスマスに大地から貰ったチェックのマフラーを首に巻きながら、大地に電話していた。
「どうした?」
いつもと変わらない優しい声が受話器から聞こえてくる。
「・・・・・・」
いつになく重たい雰囲気を察して、大地が続けた。
「わかった。待ってるよ。気を付けて来いよ。雪降りそうだから。」
沙希は胸がしめつけられる思いで電話を切ると、横浜の家を出た。外に出ると、大地が言っていた通り 空はどんよりと雲が厚く、風は肌を刺すように冷たかった。駅へ向かう間、沙希は大地との今までの事を思い出していた。
去年の夏、沙希は渋谷のライブハウスに来ていた。クラスメイトの直子お薦めのバンドnasty angelのライブがあるのだ。しかしこの日は、言い出しっぺの直子が風邪で熱を出したせいで、沙希は仕方なく一人でライブハウスに入った。開演15分前、少し早く着きすぎて 一人の時間を持て余し、ドリンクカウンターへと行き コロナを注文した。栓が抜かれたコロナにライムがねじ込まれ出てきたのを見て、ワンドリンクサービスにしては親切だなぁ等と思いながら コロナの瓶に手を伸ばした時、同じ様にコロナを注文してくる女がいた。
「由美姉!」
それはまだ沙希が高校生の時、あるライブハウスで仲良くなった3つ年上の中島由美子であった。彼女は かなりきつめのソバージュに、ブラックジーンズにウェスタンブーツというハードないでたちの割には、笑うと目がなくなり えくぼができるというチャーミングな女性で、沙希は何度か飲みに行くうちに“由美姉”と慕う様になっていた。
「沙希ちゃん、こういうのも聞くの?」
「専門学校の友達に誘われたんだけど、その子来られなくなっちゃって・・・」
言いながら、由美姉の隣の人影に気付く。由美姉と同じ位の年格好の男で、髪は長髪 くせ毛なのか緩くウェーブがかかっている。いかにもバンドマンといった感じだ。
「紹介するね。木村大地。今日のバンドね、大地の知り合いなんだって」
「はじめまして、河野沙希です。いつも由美姉にはお世話になってます」
少し緊張した沙希とは反対に、由美姉が途端に大声で笑った。
「沙希ちゃん、こいつ彼氏じゃないよ」
「なーんだ!早く言ってよぉ」
それが出会いだった。
その日からなんとなく 沙希の中では大地の温かい笑顔が目に焼き付いて 心の隅をつついていたが、次に繋がるきっかけが何もない事に少し後悔し始めていたある日、学校の帰り、山手線の渋谷駅で途中下車し 東横線へと乗り換えた。この間のライブハウスで交わした会話の中での 彼に関する数少ない情報を頼りに、沙希は行動を起こそうとしていた。川崎市の新丸子に住んでいる大学4年生。そして駅の近くにあるレンタルビデオ屋でバイトをしている。
「貧乏学生だからね。アパート代や生活費稼がなきゃならないから 授業のない日は朝から晩までバイトして なんとか食い繋いでるよ」
そう言って明るく笑った大地の顔を思い出した頃、シルバーの電車が新丸子駅へと滑り込んだ。沙希はゆっくりとホームの階段を下り、自動改札へと切符を恐る恐る差し込むと、沙希の気持ちとは裏腹に勢いよく吸い込まれていった。
初めて降りた土地に少々戸惑いながら、北口と示された商店街風の街並みへ足を踏み入れた。(ここが彼の住んでる街か・・・)そんな事を考えながら、レンタルビデオ屋を探しているとガラスに映ったストーカーの様な自分に気付く。自分の行動が少し異常かなとも思い始めたが、素直な欲求は止まらなかった。夕方の買い物に行き交う自転車とトラックの隙間から沙希の目に飛び込んできた2軒目のビデオ店に恐る恐る入ってみる。
「いらっしゃいませ」
正面のレジにいた店長らしき風格の男の人が、客のビデオのバーコードをピッと打ちながら こちらを見た。沙希は目をキョロキョロさせながら CDの洋楽コーナーへと足を進めた。何名かの客はいるが店員さんらしき人は見当たらない。(ここも違うのかな・・・それとも今日はお休みかな・・・)今度はビデオのコーナーへ行き、丁度アクションのコーナーに差し掛かった時、棚に返却されたビデオのケースを並べている彼を見付けた。一瞬息が止まり、同時に足も止まった。と同時に、人気を感じた彼が振り向いた。目が合った瞬間その場から逃げ出したくなったが、体は硬直し 身動きが取れなかった。しかし、そんな沙希の葛藤は知る由もなく、大地は気さくに しかも明るく声を掛けてきた。
「おう!どうしたの?こんなとこで」
「あっ・・・学校の友達が近くに住んでて 寄った帰りなんだけど、木村さんこの辺のビデオ屋さんでバイトしてるって聞いたの思い出して、前通ったからちょっと入ってみたんです」
沙希は早口にまくし立てた。嘘をつく時ほど口数が多いものである。そして、とっさに出た言い訳のセンスの無さに、沙希はほとほと嫌気がさした。
「じゃ、俺に会いに来てくれたんだ」
彼の優しい満面の笑みに、沙希は多少救われた思いだった。
「急いでる?もし時間あるんだったら、俺これからちょうど休憩だから ちょっとお茶でもする?あっ、でも早く帰らないとお家の人心配するかな」
思いがけない大地からの誘いに沙希は、更に胸が高鳴っていた。
駅の南口にある、ちょっとひなびた喫茶店に 彼の後をついて入った。入口を入ってすぐ奥の角のテーブルにつくと、彼は小声で言った。
「ここ あんまり綺麗じゃないけど、コーヒーは美味いんだ。洒落た店がこの辺ないんだ。ごめんね」
そしてこの時からこの店は、二人の“特別な時に行く場所”になった。
それから暫くして 二人は付き合い始めた。初めて沙希が大地の家に行った時の事だった。東急東横線新丸子駅から約7~8分、商店街を抜けて暫く行くと、黒い細長い煙突が見える。大地の通う沢野湯である。その隣のコインランドリーも常連だ。そこからすぐの木造2階建てのアパート あおい荘203、2階の角部屋だ。大地の後をついて外の階段を、沙希はかかとをカンカンと鳴らしながら昇っていった。玄関を入るとそこには6畳の部屋にパイプベッドと布団のないこたつテーブル、隅には古いチャンネルのダイヤルの壊れかけたテレビ、その横にはCDラジカセが床に置かれていた。そして、押し入れの襖にフェンダーのギターとベースが一本ずつ立て掛けられていた。テーブルの上にはマルボロの吸い殻が3本ほど入っている黒い灰皿が置いてある。この部屋のこたつとテレビは 上京したてに近所のリサイクルショップで手に入れた物らしい。
「結構きれいにしてるんだ」
沙希は部屋を見回して言った。
「腹減らない?今何か作るよ。CDでも聴いて待ってて」
と大地が襖を無造作に開けると、そこにはたくさんのCDとたくさんの教科書が綺麗に並べられていた。大学の機械科に通う彼の教科書は、英会話科の沙希には全くの別世界で、ちんぷんかんぷんであった。教科書の隣には、沢山のコピー用紙と分厚いノートが並んでいて、そこには「卒論」と表紙に書かれていた。沙希は 初めて見る大地の文字にドキドキしながらノートをめくると、今まで話をしてき大地とは少し違う面を見た様な気がした。ノートを元に戻そうとしたその時、背後から大地の声がした。
「チャーハンだけど、できたよ」
テーブルに向かい合って、チャーハンが並べられ コップには麦茶が注がれていた。沙希は少し照れ臭かった。
「なんだか逆さまみたい・・・作ってもらっちゃって」
「沙希はいつも家でやってるんだし、たまには人の作る飯もいいもんだろ?」
沙希の母親は看護師で 夕飯の支度は殆ど毎日沙希がしていた。2歳上の兄が生まれてから暫くは専業主婦をしていた母だったが、沙希が専門学校へ入学した頃 母の友人からの誘いがあり、沙希が『協力するから是非また仕事したら?』と強く勧め 再び看護師に復帰。沙希もいきいきと仕事をしている母が大好きだった。
長髪を後ろで一つに束ね チャーハンを口いっぱいに頬張る大地を見ながら 沙希は聞いた。
「卒業したらどうするの?」
「働くよ」
「・・・バンドは・・・どうしちゃうの?」
約1か月前、大地のバンドのドラムが一人やめていったばかりだった。他のメンバーとの音楽の方向性や考え方が違っていたらしい。お陰でライブ活動も中止になり、残りの3人で スタジオでの練習をする日々が続いていた。今のところ、新しいメンバーが入る当てもないという。
「音楽は続けたいし、ずっと何らかの形で携わっていきたいと思ってるよ。でも最近いろいろ考えるけど、バンドっていう形にこだわらなくてもいいのかな とは、正直思い始めてるんだ。昔は、バンドでプロデビューしたかったんだけどね」
大地は常に 自分の考えや 思っている事を話してくれる。沙希にはそれが とても良い刺激になっていた。
「北海道には帰らないの?」
大地は北海道小樽の出身だった。高校を卒業後、大学進学を機に ここに引っ越して来た。北海道には、3つ年上の姉と両親の3人が今も一緒に暮らしている。そして時々母から、じゃが芋やとうもろこしが段ボールで届いた。
「そんな事心配してたのか。帰らないよ。今のところ 姉貴も実家に住んでるし、親父もおふくろも元気だからね」
沙希の顔から安堵と照れを含めた笑みがこぼれた。
「北海道連れてってやりたいなぁ。いい所だぞぉ!景色は広いし、空気は美味いし。俺はきっと、あそこで生まれてなかったら この名前も付いてなかったんだろうなぁ。北海道の大地みたいにでっかい男になれって意味があるんだって。草木だろうが野菜だろうが、どんな種蒔いてもでっかくしちまう土は凄えんだって、いっつも親が言ってた」
ふるさとを思う大地の瞳は、とても温かくキラキラしていた。そんな大地と一緒にいると、沙希はとても優しく満たされた気持ちになるのだった。
そして冬が過ぎ、春ももうすぐそこまで来ているのを感じさせる風が頬をなでる頃、大地は無事 大学を卒業した。そして桜の花が、その短い命を華やかに幕引きする頃、大地は新たにライブハウスで働き始め、沙希は2年生に進級した。放課後の、クラスメイトとのふとした会話がきっかけだった。
「彼氏が就職したらさ、新しい世界があるわけじゃない。新しい出会いがあるんじゃないかとか、やきもち焼かないの?私ならダメだなぁ。すっごい不安になっちゃう」
「やきもちか・・・そういえば無いなぁ」
「私なら10日も会えなかったら、他に女がいるんじゃないかって問い詰めちゃうだろうな。まぁ、だいたい私の嫉妬が原因で逆ギレされて喧嘩になっちゃうんだけどね」
沙希にはピンとこなかった。大地と沙希は今まで喧嘩をした事がなかった。大地が忙しく10日位会えない日が続く事も珍しくなかったが、電話で話す時も、久し振りに会った時も、二人はたくさん話をした。そして、二人でいる時間を お互いにとても大事にした。だから沙希は、会えない時に不安になったり やきもちを焼いたりする事はなかった。そう思っていた。この日から、沙希の心の奥底には この会話が小さなしこりとなって根を生やし、次第に大きくなっていっている事に 沙希自身 気が付いてはいなかった。
夏休みを目前に控えたある日、沙希に一本の電話があった。幼なじみの京子からだった。京子とは小学校の時からの友人で 高校からは別々の学校へ通ったが、時々電話をしたり買い物に行ったりする仲で、京子が彼氏と上手くいっている時は多少疎遠になり、彼氏がいない時は 割合頻繁に連絡を取る そんな関係だった。そしてこの日の電話は今年に入ってから初めてのものだった。
「沙希・・・お願いがあるんだけど・・・」
京子のお願いに、少し身構える沙希。
「私の今バイトしてる所に 私の代わりに入って欲しいんだ」
京子は今付き合っているアメリカ人の彼氏に付いて サンフランシスコに行く事を決めたらしい。しかし急な話で、バイト先でも人手が足りない為 辞める事を快諾してくれないという。
「京子のバイトって・・・今何やってるの?」
京子は高卒後フリーターでコロコロ職が変わる為、沙希は念のため問い返した。
「まぁ簡単に言えば・・・ホステスかな・・・」
「無理だよぉ!!!」
「沙希 お酒強いし、可愛いしさ」
かなり強引なお願いの仕方だったが、それがかえって切羽詰まった感じを醸し出していた。
「変な店じゃないの。おやじも来るけど 皆紳士だし。同伴とか指名もないし。小さいお店で、けっこうアットホームな感じで働いてるんだ」
「でも私・・・家の事もあるし・・・」
「お店見に行ってから決めてもいいしさ」
京子の強引さに負けて・・・と言ったら多少語弊があるかもしれないが、結局次の日 開店前の6時半に沙希は パブ「びいどろ」の面接を受けていた。京子に連れられて入った店内は、カウンター席が6つにボックス席のテーブルが7台にカラオケがあり、所々に置かれた花瓶やインテリアはベネチアンガラスで統一されていた。
「そろそろママ来ると思うんだけど」
隣に座っている京子が入口の方を振り返りながら言う。沙希は一体どんなママさんが現れるのだろうとドキドキしていた。着物でビシッとキメた怖そうな人かな、それとも大きな指輪やイヤリングやネックレスなど高そうな宝石を身にまとった派手派手しくケバケバしい 真っ赤な口紅のおばさんかな と想像を膨らませていた。そこに入口の扉が開き、背筋のしゃんとした女性が一人 颯爽と入ってきた。
「おはようございます」
ママだった。沙希は慌てて立ち上がり振り向くと そこには想像とは全く違った姿があった。年の頃は50歳位で小柄だが、緊張感のある体型をしている。そしてその日は、シルクの いかにも仕立ての良さそうな白のスーツを着ていた。決して派手ではないが、客に媚びない芯の強さを 表には出さないように 品の良さで包んだ様な印象だった。一応持ってきた履歴書をママに差し出すと、それに簡単に目を通して すぐテーブルの脇に置き、沙希の目を見て微笑みかけると 一息ついてから話し始めた。
「どう?このお店の印象は」
たくさんの事を事務的に次々と聞かれると思い 用意しておいた答えを、結局この日沙希は殆ど使う事はなかった。これがママ流の面接だった。最後にママが沙希に言った。
「あなたみたいな人なら、うちに是非来て頂きたいわ。お返事は今でなくて結構です。たくさん考えてみてね」
そして帰り際に ママが沙希に右手を差し出し、
「またお会いできるのを楽しみに待ってるわ」
とにっこり笑った。沙希の気持ちは殆ど固まっていた。その夜、沙希はバイトの話を母親に相談した。
「良い社会勉強になるわよ。自分をしっかり持って、気を付けて頑張りなさい」
母親に相談した事で肩の荷が下り、これから見る未知の世界へ90%の不安と10%の期待で 胸を高鳴らせていた。京子の渡米の日にちが決まり、沙希も8月1日から週3日働く事となった。
夏休みに入り、7月もあと残りわずかといった頃、大地から電話があり 急に時間ができたから久し振りに飲みに行こうと誘いがあった。沙希は勇んで、待ち合わせの桜木町駅まで行った。二人は付き合い始めて もうすぐ1年が経とうとしているが、外でデートする事は殆どなく、ましてや 横浜での夜のデートなんて初めてで、“Hanako”や “TokyoWalker”みたいで 沙希は内心子供の様にウキウキしていた。待ち合わせの時間より 沙希が10分早く着くと、大地はもうすでに来ていた。繁華街の方へ歩き始め、沙希は少し照れながら大地に言った。
「腕・・・組んでいい?」
外で会う事が少ないので、腕を組んで歩くのは これが初めてだった。何となくぎこちないお互いの腕を察し、大地が口を開いた。
「なんか・・・照れるな」
二人は顔を見合わせて笑った。
「俺、こういうのあんまりないからなぁ」
「今までは手繋いだり、腕組んだりしなかったの?」
沙希があっけらかんと昔の恋愛に触れると、大地の口は急に重たくなった。
「いいよ、昔の事は」
「どうして?知りたい!」
「別に隠す事は何もないけど、聞いたって気分の良いもんじゃないだろ?」
「そう?だって・・・過去の事だし・・・」
「沙希は平気なんだ、そういうの」
その瞬間 沙希の頭に、以前放課後にした友人とのやきもち談義がフラッシュバックした。そして会話はそこで途絶えた。暫くお互いに無言のまま 別々の事を考えていたが、大地がこの神妙な空気を破る様に切り出した。
「何食いたい?」
「やきとり!」
そして二人は一軒の ”創作やきとり SHUN”ののれんをくぐった。焼鳥屋にしてはモダンな店内のカウンターの一番端の席に案内され、生ビールを注文した。すぐに陶器のビアタンブラーに注がれた生ビールが運ばれてくると、二人は早速口をつけ 一息ついた。頼んだ幾つかの焼き鳥が出てくるまでの間、お通しに箸をつける。そして 思い出した様に沙希が隣の大地を見て話し始めた。
「そういえば私、8月からバイトする事にしたの」
「そっかぁ、夏休みだもんな。何のバイトするの?」
バイトが決まってからの不安と期待感そのままの状態で、大地に一部始終を説明した。すると大地の顔から笑みが消えた。
「いつ・・・決めたの?」
「先週かな・・・?夏休み入る前だったと思うけど。」
「初めて聞いた」
「会った時 ゆっくり話した方がいいと思って・・・」
大地の様子が少しおかしい事に沙希は気付き、とまどっていた。
「怒ってるの?」
「怒ってはいないけど・・・」
「なんで?」
「決めちゃう前に一言言って欲しかったな」
ごめんねとここで言っておけば良かったものを 沙希の口からはまるで違う言葉が飛び出す。
「だって私の人生でしょ。自分の事は自分で決めるしかないし、・・・そりゃぁお母さんには相談したけど・・・だけど・・・」
沙希には大地の言っている事が理解できなかった。
「けっこうドライなんだな」
「じゃあ何かある度に相談しなくちゃいけないの?」
売り言葉に買い言葉だった。
「もっと・・・応援してくれると思ったのに」
うつむきながら 沙希は口をとがらせ、呟いた。沙希は、大地に話したら 笑顔で「頑張れよ!」と元気付けてくれると思い込んでいたのだ。
「そりゃ俺だって応援してやりたいよ。だけどさ、職業差別してる訳じゃないけど、自分の彼女が 男がたくさん来る店で 酒作ったり話し相手したり、一緒に肩なんか組まれてカラオケしたり・・・心配もするし・・・色々思うよ」
大地は吸っていたたばこをもみ消し、最後の部分 言葉を濁した。
「ただお酒作って、お話したりするだけじゃない。それに変なお店じゃないって友達も言ってたし」
「変な店じゃなくたって・・・世の中色んな奴がいるし、色んな男がいるし、酒飲むと人間 色んな癖が出るもんなんだよ。沙希は人がいいところがあるから、危なっかしいっていうか・・・」
「私がお客さんについてっちゃったりすると思ってるの?」
「そうは思ってないけど・・・。好きだから それだけ心配もするし・・・やきもちも焼くんだよ」
沙希は再び“やきもち”という言葉につまずき、声を失った。大地に対して独占欲や嫉妬がないのは、自分の性格からだと軽く考えていたが、この頃から沙希は、二人の愛情の差なのかなと感じ始めていた。暫く重たい空気が二人を覆い、その間に大地はたばこを1本吸い 沙希は大地の使っている青い百円ライターの火を何度も点けたり消したりした。そして沙希が 先に重たい口を開いた。
「私って・・・冷たい?」
大地は2杯目の生ビールを飲み干すと、さっきよりも明るいトーンで返した。
「俺が言い過ぎたんだ。ごめんな。悪い癖だな、すぐ囲おうとしちゃうんだ」
それでも沙希の冴えない顔に気付く。
「お前こそ、俺といて 息苦しくなってない?」
少し切ない気持ちを堪えながら、沙希は黙って首を横に振った。
「沙希は変に我慢強いとこ あるからな。俺の前では、色んな事我慢したりしないで欲しい。怒りたかったら怒っていいし、悲しかったら思いっきり泣いたっていい。そのまんまの沙希で 俺、充分なんだからさ」
8月に入り、バイトが始まると 沙希は接客中戸惑う事がたくさんあった。客からの「彼氏いるの?」という言葉や、酔って手を握ってくる客。大地が言っていた通り、肩を組んでデュエットを歌う客。「若いねえ」「かわいいねぇ」「美人だねぇ」「スタイルいいねぇ」今までの人生にない位多くの褒め言葉をもらったが、時々酔って口の悪い客に「駄目だな、素人は」「ノリが悪くてつまんねぇな」と言われても笑顔でい続けるのには まだまだ時間がかかりそうだった。しかし そんな沙希にも段々と客が付き始めていた。お客さんが来店するなり沙希を見付けて「おう!沙希ちゃんいたか、良かったぁ」と喜んでくれる事がやりがいにも繋がっていた。そんな風に働いて 初めて手にしたお給料で、沙希は大地にジッポーを買った。そしてそれを大事に抱え、新丸子の家へと急いだ。日曜日だが、大地はライブハウスの仕事が夕方まであり、その後夜はビデオ屋のバイトが入っている。バイトの前に一度帰って来る大地と会おうという約束をしていた。誰もいない家へ 合鍵を使って鍵を開け 中に入る。こんな事は この一年間で慣れた行動だったが、大地のいないこの空間は かえって孤独を感じさせ、沙希はあまり好きではなかった。家の中に入り 窓を開け 一息つくと、電話がけたたましく鳴り響いた。沙希は少々戸惑ったが、その電話は5回程鳴って切れた。何故かホッと安心すると、また続けて電話が鳴る。鳴っている電話を聞き流すというのは意外に辛いもので、沙希も何故か「ごめんなさい、いないの。誰もいないの」等と 誰にともなく言い訳をした。そしてまた切れた。再び鳴るんじゃないかと思い、沙希はドキドキしながら 電話の上に枕をかぶせた。しかしそれ以上かかっては来なかった。それから30分位して外の階段を駆け上がる音がした。大地だとすぐわかった。勢いよく玄関を開けた大地は、息が上がり、汗をかいていた。
「待った?」
走って帰ってきた様子が 沙希にも一目瞭然だった。大地は靴を脱ぎながら言った。
「むこう出る時電話したんだけど出ないから、まだ来てないんだと思って・・・何時頃来たの?」
「もしかして電話って・・・さっきの?」
「え?居たの?2回かけたけど出ないから・・・」
そう言って大地は電話に視線をやり キョトンとした。それに気付き 沙希は慌てて枕をどかした。
「ごめん。さっきの電話も・・・出ちゃいけないと思って我慢してたんだけど・・・。鳴っても聞こえない様にと思って・・・」
「出てくれて良かったのに」
「だって誰からか分かんないし・・・。お友達とか、お家の人だったらびっくりされるでしょ」
「大丈夫だよ。彼女いるって皆知ってるから」
「お母さんも?」
大地は首を縦に振ると、なぜそんな事聞くの?といった様子で沙希を見る。
「何も言われない?」
大地は突然心配そうな顔つきに変わる。
「沙希は・・・何か言われてるの?」
今度は沙希が首を横にぶんぶん振るった。
「お付き合いさせてもらってますって、俺 挨拶に行った方がいいか?」
「いいの。私・・・親にそういう話してないから」
沙希は 鞄から大事に持ってきた小さなプレゼントの包みを取り出し、大地に差し出した。驚いた様子の大地を見て、少し照れたように笑いながら
「バイトで初めて貰ったお給料で買ったの。心配しながらも応援してくれたから・・・」
包みを開け、ジッポーを見た時の大地の笑顔は 沙希の期待以上のものだった。こういう 人の思いに触れ感激した時の大地は本当に良い顔をする。沙希の大好きな一面でもあった。
「ありがと。大事に使わせてもらうよ」
それから大地はジッポーをしみじみと 握ってみたり火を点けてみたり、感触を堪能していた。大地がバイトの為 二人で家を出る時、靴を履こうとしていた沙希を背後から大地が突然、だがゆっくりと抱きしめた。その腕からは沢山の愛情と優しさが溢れ、沙希には「ありがとう」と「頑張れ」の意味が 無言のうちに伝わっていた。こんな穏やかな関係が永遠に続けばいいと この時お互いに思っていた。
公園の木の葉も色とりどりに染まり始めた頃、沙希はいつも通り バイトに出ていた。その日はサラリーマンにとっては給料日前の月曜日で、店内はがらんとしていた。カウンターでいつも通り待機していると、隣に座っていた鈴香が話しかけてきた。ここに勤めて2年経ち、オーストラリアへの留学資金を貯める為に働いているのだという。鈴香というのも源氏名であった。
「沙希ちゃん、彼氏いるの?」
「います」
「彼氏知ってる?このバイトの事」
「はい」
「反対されなかった?」
「最初はちょっと嫌だったみたいだけど、今は応援してくれてます」
「へぇ、理解あるんだぁ」
「鈴香さんは 彼氏いるんですか?」
「んん、最近ね。ここ始めた時はいなかったんだ。ま、だからやろうと思えたんだけどね。私は彼氏いたらこの仕事 やってなかったと思う。なんかちょっと、後ろめたい様な気・・・しない?」
「・・・そう・・・ですか?」
「別に悪い事してる訳じゃないのに、なんか彼氏だけを見てないみたいじゃない。一線を越える訳じゃないけど、半分浮気してるみたいな・・・。だからずっと、彼氏作んなかったんだ。だけどね、最近できちゃって・・・まだ話してないんだ。」
「私は・・・けっこう 仕事だからって割り切って考えてるとこあるから」
「沙希ちゃんのとこは お互いドライだから大丈夫なのかな?」
その言葉で沙希は立ち止まった。大地はドライなのだろうか。自分の気持ちをぐっと堪え、「頑張れ」と言ってくれた大地に沙希は今頃になって気が付いた。そして追い打ちをかける様に鈴香が続けた。
「お互いに無理しないで 理解し合えたらいいのにね」
その時入口の扉が開いて、30代前半のスーツを着た設計事務所に勤める常連客の久保が、同僚 後輩を連れ入ってきた。早速テーブルがセッティングされ、そこには久保のお目当ての鈴香と新人の沙希が付く事になった。久保の隣に鈴香が、そして ふちなし眼鏡の同僚と サラサラヘアにセンスの良いYシャツを着た27歳位の後輩の男の間に沙希が座った。乾杯が済み、他愛もない会話を暫くすると 久保が鈴香に言った。
「あっ、俺のあげた香水つけてくれてるでしょ」
それを聞いたふちなし眼鏡がすかさず、
「香水プレゼントするなんて、いやらしいなぁお前」
この前の出張の土産だと言い訳をする久保。すると、何故か突然ふちなし眼鏡が女の子二人に問いかけた。
「もし彼氏が風俗行ったってわかったら、やっぱり嫌?」
すかさず鈴香が返す。
「私はダメだなぁ。分かった時点でアウトだなぁ。あ、でも・・・結局惚れた弱みで許しちゃう気がする。だから、行くなら絶対バレない様にして欲しい。それが最低のルールでしょう」
「沙希ちゃんは?」
サラサラヘアが聞く。
「んん・・・でも男の人って仕方がない気がする。だから私は別に・・・風俗なら許せるかも。普通に浮気される方が嫌かな・・・」
「こういう子ばっかりだといいのになぁ」。
ふちなし眼鏡がはしゃぐ。すると久保が制した。
「いや、沙希ちゃんは・・・今まで本気で人を愛した事がないんだよ」
すぐに鈴香が『沙希ちゃんは元々ドライなのよ』とか、サラサラヘアが『まだ若いもんな』等と口々にフォローしてくれたが、それも耳に入らない位、沙希の受けた衝撃は大きく まるで心臓をスタンガンで打ち抜かれた様だった。ショックと同時に怒りにも似た感情が一瞬込み上げて来たが、あの言葉を否定する事も 正直沙希には出来なかった。そして、笑って冗談で切り返す余裕もテクニックもまだ沙希にはなかった。
今回の沙希の落ち込みはかなり根深く、次に大地に会うのが怖かった。しかし会いたい気持ちに変わりはない。会えば楽しい時間が流れ、ずっと一緒にいたいと思う反面、『本気で人を愛した事がない』と指摘された事もきっぱり否定できない自分に 沙希は戸惑っていた。
そんな悩みが晴れないまま、街はジングルベルと鈴の音に包まれ、街路樹にはイルミネーション デパートのショーウィンドウは赤や緑のリボンで飾られ 一気にクリスマス一色に踊り出した。去年のクリスマスには大地とはバイトで会えなかったので、今年の方が忙しい大地を見ていて 期待するのはやめようと心に決めていたが、プレゼントだけは贈ろうと 一人秘かに時間を見付けてはウキウキと品定めをしていた。
沙希のバイト先“びいどろ”でもクリスマスにはイベントをやる為、24日は出勤予定でスケジュールには困っていなかった。イヴの日の“びいどろ”の女性スタッフは皆ドレスアップして集まり、常連客を会費制で招待し 飲み放題食べ放題 ビンゴゲームで盛り上がった。沙希自身も束の間の時間 クリスマスの雰囲気を味わった。
無事仕事を終え、これから彼氏とデートだと浮足立つバイト仲間を少し羨ましく見送ると、沙希はタクシー乗り場へと向かった。疲れた為、タクシーで帰る事にして 長蛇の列の最後尾へと並んで空を見上げた。空気はとても冷たく、長時間タクシー待ちをするには辛かったが、その分大気は澄んでいて 星が綺麗に良く見えた。
「沙希ちゃん!」
呼ばれた方へ顔を向けると、そこには30分以上前に帰った筈のサラサラヘア桜井篤志が立っていた。
「どうしたんですか?」
「けっこう皆酔ってたから、地下鉄とかJRとかタクシーにそれぞれ乗っけて、今見送ってきたところ。お陰で遅くなっちゃったよ」
左腕にはめた腕時計を見ながら答える。
「大変でしたね。ご苦労様でした。明日もお仕事ですよね?」
桜井が小刻みに頷く。
「桜井さん、本当にお酒お強いんですね。いつも最後までしっかりしてる。」
桜井がタクシー待ちの列にふと目をやる。
「桜井さん、お家はどの辺なんですか?」
「都内。でも大田区だからこっから車ならそんなに遠くないよ。沙希ちゃんは?この近くなの?」
「石川町なんです。だからすぐそこ。・・・なんだけど、今日は家までの坂道上る気力なくて・・・」
「横浜、急坂多いもんね」
「あっ!そんなことより、今日は皆さんでお店に来て頂いてありがとうございました」
「特に予定も無かったし。毎日真っ暗な冷たい部屋に帰るだけだよ」
そんな話をしている間に来たタクシーはたった一台きりで、列は一向に前に進む気配は無かった。
「来ませんね、タクシー」
「駄目だね」
辺りはイライラじりじりした空気が立ち込めていた。桜井は思い立った様に言葉を発する。
「沙希ちゃん、もし時間平気なら・・・ちょっと飲みに行かない?一時間だけ付き合ってよ」
左腕の時計を確認しながら続ける。
「2時までには必ず帰すから。約束する。タクシー、このまま待ってても多分…駄目だと思うんだ」
そして二人は 桜井の知っている近くのショットバーへと入った。外とは違って店内は暖かく、更にカウンターに座って出てきた熱いおしぼりは二人をホッとさせた。そして沙希の少しかじかんだ手をほぐしていった。クリスマスイヴとあって、さすがに店内はカップルばかりだった。桜井はボンベイサファイアのロック、沙希はキールで乾杯した。そしていつの間にか話題はクリスマスの事になっていた。
「女の子ってクリスマス好きだもんね」
「男の人にとってのクリスマスって、何ですか?」
「そうだなぁ・・・例えば好きな彼女がさ、クリスマスでウキウキしてるのを見て、楽しませてあげたいなと思う・・・かな」
沙希はこの言葉を聞いて、ふと大地の事を考えた。すると沙希の心が見えた様にタイミング良く桜井が言った。
「沙希ちゃん、彼氏いるんでしょ?」
直球の質問に沙希は固まった
「・・・・・・」
「仕事の時用の答えと、プライベートの時の本音の答えとあるんだ?」
桜井が笑った。
「今は勤務時間外だから、本音の答えをどうぞ」
沙希は少しためらいながら、彼氏がいると答えると桜井は、
「彼氏に悪かったな。イヴの夜の大事な時間に俺みたいな客が誘ったりして」
その言葉で沙希は初めて気が付いた。こんな風に今ここで過ごしている事実を大地が知ったら、きっとあまり良い気はしないだろうと。しかし、そんな事よりも 桜井に言われるまで全く罪悪感を感じていなかった自分に、沙希は再び自己嫌悪に陥った。一方彼氏がいると分かって、慌てて引っぱり出してきた話は この間の『本当に人を愛した事がない』についてだった。
「この間うちの先輩が酔って・・・本当失礼な事言っちゃって、ごめんね。酒の上の話だから、あんま気にしないで」
沙希は笑ってみせたが、同時にあの時の情景が鮮明に思い出された。
「久保さんも悪気はなかったと思うんだけど、あの時かなり酒も入ってて言い方がキツかったから・・・気になってたんだ」
桜井は先輩を多少立てる様に気遣いながら、話を続けた。
「俺なりの解釈だけどね、きっと心から愛せる人にまだ巡り会ってないって意味じゃなくて、沙希ちゃんまだまだ若いからさ、これからそういう深い愛情を育んで実感していくっていうニュアンスのつもりだったんじゃないかなぁ」
少し首を傾げながら、今度は沙希がしゃべり始めた。
「確かにあの言葉はショックだったけど、でもそれを否定できない自分に一番、正直言ってショックだったんです」
この台詞で一気に重たいトーンになる。この時沙希は、隣に座ってる桜井が客だという事をすっかり忘れてしまっていた。そして桜井も、ひょんな事から打ち明け話をする沙希を“びいどろの女の子”という見方はしなくなっていた。
「桜井さんは “好き”と“愛してる”の差って何だと思います?」
桜井はマイルドセブンに火を点けながら考えた。そしてゆっくりと煙を吐き出しながら、言葉を選ぶように慎重に言った。
「無条件に・・・与えたいと思う事かな。お互いにそう思えて初めて、愛情を育めるんじゃないかと思うよ。俺はね」
若い沙希を思い、語尾の『俺はね』を強調した。ゆっくりとキールを飲み干したのを見て、桜井が腕時計を見る。
「送ってくよ」
外に出るとタクシー待ちのピークを過ぎていて、すぐに空車のタクシーがつかまった。
「遅くまで連れ回してごめんね。でも約束の時間は守ったよ」
と左腕を沙希の前に差し出し、時計を指さす。針は1:50を示していた。
「桜井さんこそ、明日もお仕事なのに・・・。私の話に付き合って頂いてありがとうございました」
「俺で良ければ、またいつでも」
そしてタクシーは沙希の家の前で止まった。お礼を告げて降りようとすると、桜井が言った。
「俺だからいいけど、もしお客さんに送ってもらう事がある時は気を付けた方がいいよ。家バレちゃうから」
沙希はハッとした。そしてそこで初めて、自分の無防備さに気が付いたのだった。バイトを始める前に大地が「危なっかしい」と言った言葉を思い出す。今日のこのバイト後の2時間の自分の行動を、かすかにうしろめたく感じていた。
次の日 学校が冬休みの沙希は、昼頃起きてパジャマのままリビングに下りて来てテレビのスイッチを入れた時、電話が鳴った。大地からだった。公衆電話からの様子で、後ろではトラックがバックする音や荷下ろしの音がしている。
「何してた?」
「さっき起きたばっかりなの」
「昨日遅かったの?」
沙希が何故か慌てて否定する。
「昨日はバイトどうだった?」
「・・・疲れた」
何故かまた慌てて声のトーンを落とす。
「今夜空いたんだ。会えればと思って電話したんだ」
「うん、大丈夫。・・・何時頃?」
「・・・なんだ。もっと喜ぶと思ったのに・・・。具合でも悪いの?」
何かいつもと沙希の様子が違うと感じながら、二人は夜の7時半に 渋谷駅南口の東急プラザの大きなツリーの前で待ち合わせた。そこに沙希は、黒いブーツにニットのミニのワンピースと いつもより少しおしゃれをした姿でにっこり現れた。その笑顔を見て、大地は少し安心した。
「ごめんな、急で」
笑顔で首を横に振ると、沙希の耳元に小さなピアスが揺れた。
「クリスマスだから、どこも混んでるかな」
「いいよ、何でも。それよりさ、ご飯食べたらさ、表参道のイルミネーション見ながら歩きたい」
珍しく少し甘えた様な口調でねだってくる沙希を、大地は素直に愛おしく思った。行く店行く店どこもいっぱいで、何組ものカップルがどの店も長い列を作っていた。
「やっぱクリスマスは予約しないと駄目なんだな。ごめんな、寒いのにいっぱい歩かせて」
すると沙希が突然思いついた様に、大地の革ジャンの腕をひっぱった。
「ちょっと青山まで歩こ!」
二人は国道246号沿いに青山の方へ歩き始めた。青山学院を過ぎた辺りの道路際に一台の白いバンが停まっている。小洒落た屋台になっていて、そこではシュラスコを売っていた。
「これ、食べてみたかったの」
一つ五百円のシュラスコを2つに、ホットコーヒーを一つ手に入れる。車の前にテーブルとベンチがいくつかあったが、さすがに真冬の夜 座って食べている人は一人も居なかった。大地と沙希も歩きながら、空腹にそれを詰め込んだ。
「旨いな」
「美味しいね」
二人は口いっぱいに頬張りながら笑顔で言葉を交わし合った。さっき買ったコーヒーも、飲み終わる頃には冷たくなっている程 空気は冷えきっていた。すると近くの自販機で大地が、ホットミルクティを買ってきて 沙希に手渡した。表参道までの道のり、それをカイロ代わりに握っては相手に渡し、握っては相手に渡しと 寒さをしのいだ。沙希が上に向かって吐いた息が真っ白なのを見ながら言った。
「北海道って、もっと寒いんでしょ?」
「北海道も広いから色々だよ。うちの実家は小樽だから、そうでもない方かな。・・・って言っても、こっちよりは寒いな。むこうは今頃ホワイトクリスマスだよ。綺麗だろうな・・・。行ってみたい?」
「興味ある」
「そっか。じゃ今度、連れてってやるよ」
表参道に通じる道は、車は永遠の渋滞で、歩道も原宿の交差点辺りから一層とせわしなくなってきた。表参道はやはりテレビで見る通り混雑していて、大地は思わず はぐれない様に沙希の手首をつかんだ。沙希も大地の腕にしっかりとしがみつきながら、しばしイルミネーションに酔いしれる。
「綺麗だねぇ」
「良かった。昼間の電話の声元気がなかったから・・・心配してたんだ。でも、何でもなかったみたいだな」
ふと、沙希の脳裏を昨夜の2時間がかすめる。大地に対しての隠し事は、これが初めてだった。会話少なに人波に揉まれながら、表参道を歩ききる。
「さすがに寒いし、歩き疲れただろ」
と二人は近くのショットバーに入る。ビルの3階にあり、窓際がカウンター席になっている。一番端がちょうど空き、そこへ腰を下ろす。眼下には、さっき通ってきた表参道のイルミネーションが広がっていて、カウンターを占領するカップル達も皆、寄り添い合ったり、顔を近付けて語り合ったり、それぞれがそれぞれのクリスマスを満喫していた。
「こんな良い席が空くなんて、ツイてるね」
オーダーしたバーボンのロックが大地の前へ、ネグローニが沙希の前へ置かれる。乾杯をすると、大地が待ち合わせの時からずっと持っていた紙袋を差し出す。
「大した物買えなかったけど・・・沙希に似合うと思う」
そーっと包みを開けると、中から温かそうなマフラーが顔を出す。
ワインレッドとベージュのチェックで少し大人っぽいデザインに、すぐに沙希は虜になった。
「ありがとう!すっごく嬉しい!」
手に取ってマフラーに頬ずりをしてみせた。とてもなめらかで柔らかい肌触りがする。早速首に巻いてみると、丁度今日の沙希の洋服にも似合っていた。沙希は首にマフラーを巻いたまま、今度は大地にプレゼントを手渡した。茶色の革のベルトの腕時計だが、アンティーク調のデザインが個性的だった。驚いた表情で、少し恐縮した様に大地が
「いいの?こんなのもらって」
「本当はね、一目見て一発で気に入っちゃったの。でも大地腕時計してないなぁと思って・・・。時計とかするの嫌い?」
大地は早速腕時計をはめてみていた。そして満足気に嬉しそうに、それを二人の目の前にかざして見せた。
「似合う?」
大地はいつもの満面の笑みを浮かべて『ありがとう!』と言うと、沙希は少し照れて目をそらした。丁度お互いに2杯目に口をつけた頃、大地がさっき貰った腕時計を右手で触りながら言った。
「おれ・・・寂しい思いさせてない?」
唐突な質問に一瞬戸惑ったが、反射的に首を横に振っていた。
「大丈夫だよ」
「全然?」
少しためらいながら沙希がゆっくりと口を開く。
「時々・・・そういう事も・・・ない事はないけど・・・でも、私もバイト始めたし・・・学校も忙しいし・・・就職の準備とかもあるし・・・今は平気」
沙希の専門学校では春から既に就職活動が始まっていたが、正直将来の具体的な目標も定まっていない沙希は、求人広告に目を通しても 心に響くものはなく、焦りを感じていた。この東京外語専門学校の英会話科に入学したのも、外資系の会社に勤めたかった訳でもなく、ただ英語をきちんと話せる様になりたかった為だった。貿易会社に勤める父親が、あちこち海外出張に行っているのを小さい頃から見て育った影響もあったのだろう。不景気という向かい風の中、クラスメイトも会社から内定を貰いだしたのは 大半は秋からで、休み時間の友人との話題は 卒業後の事が殆どだった。そんな焦りが募っている時の事。高校時代の先輩の紹介で、エステティックサロンを何軒か紹介してもらい、年明け早々には面接の約束を取り付けていた。
「俺にもっと時間があったら・・・沙希バイトしてなかった?」
大地の顔色を伺いながら問い返した。
「やっぱりバイトの事・・・引っかかってるの?」
慌てた様子で否定する大地の顔を見ながら、沙希の頭の中には 鈴香の台詞が甦る。『お互い無理しないで理解し合えたらいいのにね・・・』そこで二人の会話が途絶えると、大地がいつものマルボロに沙希から貰ったジッポーで火を点ける。ジッポーを開いたり閉じたりするカチッという音だけが沙希の耳に響いたが、意識は昨晩のショットバーに飛んでいた。沙希の視線は 窓の外のイルミネーションの方を向いていたが、視点は宙に浮いていた。
「どうした?何考えてるの?」
さっき火を点けた筈の煙草は、もう短くなって灰皿の中にあった。意識を現実に引き戻された沙希は 恐る恐る話し始めた。
「大地はさ・・・好きと愛してるの違いって何だと思う?」
「んん・・・沙希はどう思う?」
「昔は、好きがいっぱいになれば愛になると思ってたけど、なんかちょっと違う気がして・・・。だから聞いてみたの」
「俺は・・・」
また、さっき貰ったばかりの腕時計を右手で愛おしそうに触りながら話し出す。
「ナンバー1からオンリー1になった時が愛じゃないかな・・・」
沙希は少し首を傾げながら 大地の言葉を繰り返す。
「ナンバー1っていうのは多くの中の1番。だから駆け引きもするし防衛本能も働く。でもオンリー1っていうのは、自分にとってかけがえのない唯一の存在だから 無償で何でもできるし・・・ま、簡単に言えば 自分より大切かどうかって事かな」
「大地はさぁ、今まで・・・オンリー1の人と出会った事ある?」
「・・・あるよ」
「いくつの時?」
「・・・今だよ」
沙希が目を丸くして 上目使いで大地を見ると、大地は目を合わせないまま 窓の外のイルミネーションに視線を投げたまま続けた。
「俺、沙希に会って、初めてこんなに大事にしたいって思えたんだ」
本当なら今すぐ大地に抱きついて 心の底から「嬉しい」と叫びたい筈なのに、なぜか沙希の心は曇っていった。そして、その日沙希は 家に帰るまでの間、いや眠るまでの間ずっと 自問自答を繰り返していた。
次の朝目覚めても、相変わらず答えは出ないままで、頭の中の居候はどんどん体積を増していった。いつもの時間にバイトを終えた沙希だったが、まっすぐに家に帰る気分になれず 数日前桜井に連れて行ってもらったショットバーにフラッと入っていった。カウンターに座り、ラムコークを注文した。一息ついてコートを脱いで、昨日大地に貰ったマフラーに手を掛ける。そのままそれを首に残したまま、ラムコークをすする。そして、小銭を片手に 店の隅に置いてあるジュークBOXに歩み寄り、エアロスミスの“angel”をリクエストする。この曲は、大地と付き合い始めたばかりの頃 新丸子の家で
「沙希、こういうの好きそうだな」
と選んでくれた曲だった。案の定沙希はすぐに気に入って、大地の家へ行く度に、そして大地の帰りを一人待つ間に必ず聞くようになっていた。 店内に“angel”が響き渡ると、その透き通ったメロディーと愛おしく切ない歌詞と共に、沙希の目からは涙が溢れ出してきた。慌ててマフラーに顔をうずめて 涙を拭う。“angel”が終わる頃、沙希の中で 昨夜からの自問自答に答えが出ていた。
次の朝、カーテンから漏れた光が眩しくて目を覚ました瞬間、昨晩のショットバーでの一人の時間が 夢の中の出来事の様に思い出される。昨日“angel”を聞きながら出した答えを前に、一晩経った今 又立ち往生している自分がいた。今日一日この答えが変わらなかったら、大地に話そうと決めた沙希だった。
大地との出会いから約1年と4か月間を振り返り 感傷的になっている間に、あっという間に沙希の乗ったシルバーの電車が新丸子駅へ到着した。あと10分もしないうちに 何も知らない大地に会って、話を切り出さなくてはならないというのに、沙希は どう言い出したらいいのか、なんて説明するのか 全く考えていなかった。そして、大地の気持ちを考えれば考える程 丁度良い言葉は浮かばず、出掛けの電話の優しい声を思い出せば、切なく胸が痛むだけであった。この前会ったクリスマスの日には いつもと変わらず別れておきながら、その三日後にまさかこんな結末が待っていようとは 大地は予想もしていないだろうと考えながら、沙希は恐る恐る“あおい荘”の階段を昇る。いつもの様に沙希のヒールがカンカンと音を鳴らすと、階段半ばで203号室の玄関が開き 中から大地が顔を出す。
「やっぱり沙希だ。音ですぐわかった」
笑顔での出迎えに 沙希は目を合わす事ができなかった。ただならぬ空気と、今まで見た事もない沙希の神妙な顔つきに、大地はあえて『話がある』を問い詰めたりはしなかった。大地が出してくれた熱い紅茶も喉を通らず、マグカップに手をつける事もないまま 紅茶は冷たくなっていった。何度も沙希はのど元まで『実は・・・』という言葉が込み上げて来たが、それを口にする勇気を今一歩出せずにいた。見かねた大地が少し明るい口調で喋りだす。
「北海道、来年のクリスマスにって思ってたんだけど・・・春もとっても綺麗なんだ。だからGW辺り一緒に行こうよ。すごく良い所だから」
心臓がもみくちゃにされた様に息苦しく、沙希は痛みを堪え、うつむく事しかできなかった。
「きっと・・・気に入ると思うよ」
耐え切れず息を吐き出すと、一緒になって言葉も漏れた。
「駄目なの・・・」
とうとう切り出した自分に少しびっくりしながら、沙希は力なく頭を上げる。
「別れて・・・欲しい」
予期せぬ言葉が沙希の口から発せられ、大地は少し取り乱した様に慌てて詰め寄ってくると沙希は思っていたが、意外にも不気味な程の静寂が流れる。顔色一つ変えない大地だったが、煙草に一本火を点けると、そのまま手の中でジッポーを転がす。
「どうして?」
沙希は答える事ができず、ただ首を横に振るだけだった。
「好きな人でも・・・できた?」
首を横に振る沙希。
「じゃ、俺の事・・・嫌になった?」
相変わらず大地の声だけは落ち着いていて、怒っている様子でもなく、むしろ優しかった。しかし沙希は、首を横に振り続けるだけだった。大地の右の掌では まだジッポーが転がされていた。そして大地の話す声以外は 何の音もなく、たまにアパートの前を通る車の音くらいのものだった。
「理由だけでも・・・話してくれないかなぁ。そしたら俺・・・納得できるから」
「・・・・・・」
「言いにくい事?」
また沙希が首を横に振る。さっき煙草の火を消したばかりの大地が 又もう一本マルボロの赤い箱から取り出し、火を点ける。深呼吸をする様にゆっくりと煙を吐き出すと、口を開く。
「俺が忙しくて、甲斐性もないから・・・どこにも連れてってやれなくてごめんな。それに・・・嫌気がさした?」
大地がかねてから気にしている事であった。以前、付き合い始めてから暫くして 大地は沙希に言った事があった。
「デートらしいデートしてやれなくてごめんな。友達とか皆、彼氏とどっか行ったって聞くと 沙希だって羨ましいだろ?」
「私は今のまんまで充分幸せだよ」
その言葉に嘘はなかった。今日もその問いかけに対し、沙希は声を口にして否定した。
「それは・・・全然関係ない」
「じゃ・・・どうして?」
再び沙希は 黙ってうつむいてしまう。
「バイトの事で色々言った事、気にしてるの?それとも俺のやきもちが原因?」
大きく首を振り続ける沙希の口からは、大地の求める答えは出て来ない。
「ごめんなさい・・・」
ただ口をついて出てくるのは、謝る言葉ばかりであった。何を聞いてもそれの繰り返しで、大地は煙草を灰皿に押し付けて もみ消しながら言った。
「じゃあ、これだけ教えてくれよ。沙希にとって俺は、必要じゃなくなったって事だよな?」
とうとう耐え切れなくなり、沙希は走って部屋を出て行った。
年末とあって、その夜のびいどろの浮かれた雰囲気とは裏腹に、沙希は大地に対して下した決断に 打ちのめされそうになっていた。そんなところに常連客の久保が入って来る。そしてその後に続いて桜井も現れた。閉店間近まで二人の動線が交わる事はなかったが、ちょうど沙希が開いたグラスをカウンターまで下げに来た時、トイレから出てきたが桜井が後ろから声を掛けた。
「今日はずいぶん飲んでるみたいだねぇ」
後ろを振り返り桜井を見るなり、
「あっ、この間はどうも・・・」
その後に言葉は続かなかった。沙希は今日、飲んでも飲んでも 何故か虚しさだけが増していくのを感じていた。
「あんまり・・・飲みすぎない様にね」
実にさりげなく、あっさりと声を掛けると 自分の席の方へ行きかける桜井を思わず呼び止める。・・・が、言葉に詰まり、結局笑顔で
「どうぞ、ごゆっくり」
と言うしかなかった。桜井達のテーブルを残して、沙希は店の前で最後の客を『良いお年を』と見送り、寒さに背中を丸め 暖かい店内へ戻ってくると、鈴香が席に着いたまま声を掛けてきた。
「沙希ちゃん、これから久保さん達にお寿司食べに連れてってもらうんだけど、一緒に行かない?」
「私・・・行ってもいいんですか?だって久保さん、私の事嫌いでしょ?」
やはりアルコールが効いている様で、しらふなら久保に対して 冗談交じりにこんな言い方はできないだろう。
「言うなぁ、沙希ちゃん。俺いつ嫌った?」
「だって、いっつも私の事いじめるじゃないですかぁ!」
結局“近くの知り合いの旨い寿司屋”に5人は入った。お座敷がいっぱいで、カウンターに横並びに座った。入口に一番近い端に桜井が座り、その隣の椅子を桜井が引くと、
「沙希ちゃん、お疲れ!」
肩にポンと手を乗せたその勢いで、沙希は椅子に腰掛けた。とりあえず乾杯をした そのコップ一杯のビールで、一気に沙希に酔いが回ってきた。そして、びいどろを出たその解放感から気が緩み、言葉が頭を通る前に口から出ていった。
「私、今日桜井さんに会いたかったんですよねぇ」
突然の沙希の台詞に、桜井は耳を疑い あとの3人も聞き逃さなかった。
「おいおい、モテるね桜井」
ふちなし眼鏡が少し冷やかす様に言う。しかし構わず沙希は続けた。
「来てくれないかなぁって思ってたら、久保さんが入って来たでしょ。びっくりしちゃったぁ」
「俺で悪かったなぁ」
久保が冗談半分に、すねてみせた声を出す。
「違うの。いつも一緒だから『やったーっ!』って思ったの」
「こんなに歓迎してもらえるなんて、久保さんのしつこい誘いに乗って正解だったって事だ」
冷静な声のトーンで桜井が話す。待ってましたとばかりに久保が身を乗り出して、二人を見ながら言った。
「お前ら、何かあったのかぁ?」
「何もないっすよぉ」
即座に否定する桜井を横目に、沙希の口は止まらなかった。
「もし何かあったとしたら、久保さんは上司として何か言うんですか?『あの女はやめとけ、酒飲みだから』とか・・・」
そこで笑いが起こり 場が和んだ。しかし桜井だけは、心配そうに沙希を眺めていた。暫くして、沙希の隣のふちなし眼鏡がトイレに立った隙に 桜井が小声で話し掛けた。
「何かあったの?」
うつむいていた顔を上げ、桜井の顔を見ては又下を向き、力なくボソッと呟いた。
「別れたんです・・・今日」
そして桜井はすくっと立ち上がり 久保に言った。
「沙希ちゃんかなり酔ってるんで、僕送ってきます。お先失礼します」
「送りオオカミになんなよ」
そんな事を言われながら、二人は店を出た。
「すみません、迷惑掛けちゃって。でも私大丈夫ですから。家に帰れない程酔ってはいませんから」
「酔っぱらいとして心配してるんじゃないよ」
そう言いながらタクシーを止める。
「せっかくだけど・・・桜井さんだけ乗ってって下さい。私・・・まだ・・・帰りたくないんで・・・」
「わかったから、とりあえず乗ろう」
二人は会社の駐車場でタクシーを降り、そこに停めてあった桜井の車に乗り換えた。沙希が紺のシルビアの助手席のシートに深く沈む。慌ててエアコンを入れながら、アクセルを踏む。
「さあ、どこ行こうか」
そして、さっき駐車場の自販機で買ってきた温かいミルクティーの缶を助手席の沙希に渡しながら
「適当にドライブするけど・・・付き合ってくれる?帰りたくなったら言って。すぐ送ってくから」
缶ジュースを両手で握りしめたまま返事のない隣の席を見ながら、桜井が一人で話す。
「怖い?急に二人っきりで車なんて」
また返事はない。
「安心して。話をしようと思って乗ってもらったんだ。変な下心とか そういうの全くないから信用して。約束する」
すると助手席から鼻をすする音がして横を向くと、そこにはマフラーに顔をうずめた沙希の姿が痛々しかった。
「ごめんなさい・・・ちょっと・・・泣いてもいいですか?」
それから暫く沙希は、声を殺して泣き続けた。桜井はFMラジオをオンにして、車を逗子の方まで走らせた。二人を乗せた車が江の島の方へ差し掛かった時、沙希が口を開く。
「私間違ってたのかなぁ。こんなに辛いなんて思ってもみなかった」
それからゆっくりと桜井に、自分から別れを切り出した事、彼に理由を説明できなかった事など話し始めた。桜井はただ黙って、そして時には相槌を打ちながら沙希の話を聞いた。ひとしきり話をすると、沙希は窓の外の数珠繋ぎのテールランプを見ながらこぼす。
「結局私、逃げたんだよね」
「・・・何から?」
桜井が返す。
「・・・私の事を精一杯大事に愛してくれようとするあの人から・・・結局私、逃げただけなんだ・・・」
大きくため息をつく。すると桜井が言った。
「もう一度彼の所に戻る気持ちは?」
「同じ位自分より大切に思えるか・・・自信持てない・・・」
そして今度は少し開き直った様な調子で続ける。
「私にはもったいなかったんだね。あの人にはきっと・・・もっと素敵な人が傍にいてあげるべきなんだよ」
桜井は缶コーヒーをすすると言った。
「そんなに自分の事責めない方がいいよ。沙希ちゃんが言う様に、そんなに素敵な彼に愛されたんだから、自信持った方がいいよ」
鎌倉の海が見える駐車場に車を止める。目の前には、真っ黒の空と 真っ黒の海の境目はなく、ただ波だけが白く立って見えた。その遠くの景色を見ながら、サイドブレーキを下ろす。
「男は、愛した人の事は一生忘れないし・・・女性も、愛されたって事が それからの人生で強い力になるんだよ」
その晩沙希の心は、だいぶ軽くなっていた。そして桜井のこの言葉を、寝る前に何度も噛みしめたのだった。
次の日、沙希のバッグの中から 鍵が一つ出てきた。大地の部屋の返し忘れた合鍵だった。そしてそれには、小さな鈴とガラスのプレートが付いたキーホルダーがぶら下がっていて、そこには二人のイニシャルが刻まれていた。これは二人が付き合う事になって、初めて出掛けた新宿の露店で二人で選び、大地が合鍵と一緒にプレゼントしてくれた物だった。あの別れ話から、たったの24時間しか経っていないのに、もう随分と時間が流れている様に感じていた。
今年もあと残すところ2日となった30日の昼間、もう二度と降り立つことはないと思っていた新丸子駅に立っていた。沙希の右手には合鍵が握りしめられていた。バッグの中でこれを見付けてから、郵便で送り返そうか迷った挙句 結局来てしまった。大地が仕事で留守の間に、そっと郵便受けに入れて帰ろうと考えたのだ。沙希はアパートの前まで来ると、203号室の玄関の扉を見上げ深呼吸した。そして恐る恐る階段を昇り、部屋の前で立ち止まり、右手に握りしめていた鍵を もう一度愛おしく見つめると、意を決した様に ドアポストの口へとそっと滑り込ませる。チャリーンと玄関のたたきに落ちた鍵には、大地からのプレゼントのキーホルダーの代わりに メモがリボンで結わえ付けられていた。そこには一言「今まで本当にありがとう」と書かれてあった。これで本当に終わったんだなぁと実感する様に軽く息を吐くと、階段をいつもの様にカンカンと下りて行った。そして下りかかったところで、玄関の戸が開く音が背後でした。まさか!という思いでこわごわ振り向くと、やはり大地が顔を出していた。お互い言葉に詰まり、時間が止まった様に感じる。そして沙希が、金縛りを振り切るような思いで なんとか作り笑いを浮かべてみせる。
「留守だと思って・・・。鍵・・・返すの忘れてたから」
「ああ・・・」
気まずい沈黙が走る。そしてまた沙希が明るい声を絞り出す。
「じゃあね!」
大地とこれ以上顔を合わせていられず、また階段を下り始める。
「沙希!」
丁度半ば頃まで下りた時、思い余った声が呼び止める。玄関のドアは全開で 大地も階段の上まで出て来ていて、右手にはさっきまで沙希の手の中にあった鍵が握られていた。名前を呼ばれて足は止まったが、そこから後ろを振り返る勇気がなかった。こんな沙希の背中を押すように、しかし今度は優しく、いつもの声でもう一度名前が呼ばれる。小刻みに頬を震わせて、限界の作り笑顔で振り向く。すると大地もいつもの優しい笑顔で、しかしどこか淋しそうな顔で言った。
「元気で・・・頑張って。・・・幸せにな」
「大地もね」
そう言うと、沙希は足早に姿を消した。笑顔でいるにはそこまでが限界だった。