05
暗闇の中から足音が近づいてくる。モニカは耳元に己の心臓の音を聞きながら、じっと目を凝らしていた。
「モニカ」掠れた声が呼ぶ。「いるのでしょう、モニカ。返事をなさい」
「応えるな。連れて行かれる」男が言う。
モニカは口を開きかけ、噤んだ。恐怖が喉の奥で言葉をばらばらにする。連れていかれる? どこに、どうして?
白い裸の足が見えた。年嵩の女の骨ばった踝。ぎしと床板が軋む。近づいてくる。
「モニカ」掠れた声が呼ぶ。モニカは背筋を這う悪寒に身震いした。
ぎしと床板が軋む。年月に乾いて色褪せ、毛羽立った木板が鳴く。
男が言う。「何故、この家の者に害を為す」
乱れた長い髪の先が見えた。いつもは丁寧に結わえられていた奥様の自慢の髪だ。旦那様は、豊かな艶のあるその髪に一目惚れして、後ろ姿しか知らずに求婚したのだと、それは数年来の笑い話だった。振り向いて、醜女だったらどうなさるおつもりだったの。そうではなかったのだから、問題ないだろう。微笑む奥様と照れ隠しの仏頂面の旦那様の声を聞いたのも、この広間だった。冬の夜で、暖炉が赤々と燃えていた。
モニカは男の手を強く握った。そして、囁いた。「お願いします。奥様を」声が震えた。深く吸気し、吐息と共に続ける。「助けてください」
「きみのためなら」男ははっきりと答えた。
女が立ち止まった。最早その姿ははっきりと見えていた。妙に血の気のない首筋、半ば開かれた、乾いた唇。モニカは彼女の目を見るのが怖くて、強引に視線を落とした。そして命を宿しているはずの女の腹が、平らになっていることを見た。子供はどうなったの。
「モニカ」罅割れた声が、呼ぶ。
「彼女を呼ぶな。モニカはお前のものではない」
モニカははっとして顔を上げかけた。男がわずかに体の重心をずらして、モニカの視界を遮った。モニカは、男の湿った服の背を見つめた。
女が引き攣るように笑った。また稲光が室内を白く染め、轟音が笑い声を消した。雨が一層強くなる。
「この土地の者は、みな、あたしのもの」
「この娘は外の地で生まれた。お前が何者であれ、その主張では渡せない」
「モニカは、今、ここにいるわ」女は答えた。「この土地の者は、みな、あたしのもの」
「ここはダナの国だろう」男は言った。モニカは彼の手を握ったまま、女神のことを思い出して、開いた手で聖印を切った。女神様、皆を助けてください。
「モニカ!」女が叫んだ。モニカは驚いて身を強ばらせた。
「ほら、彼女はダナのものだ」男が答えた。「他の人々も、皆そうだ。彼女がこの国を訪れた時から……」
「奪われたのよ! 人々は私を愛し、私も人々を愛していたのに! 私は人々に木を与えた。この身を削って畑に変えたわ。この土地の者はあたしの子よ! あの女神が横からすべて掠め取った。あたしはあたしの子を返して欲しいだけ。トビアズもリザベルもアドリアンもフェリクスもヘルムートもアンゲリカもテオドールもハンネもローレンツもクララもロザリンドも――」女が次々に挙げていくのは、ほとんどがモニカが知っている名だった。この土地に住んでいる人々の名が、際限なく続く。「――モニカも、あたしのものよ! あたしの民よ!」
女が荒々しく一歩を踏み出した。家中が、女に合わせて叫ぶようにぎしぎしと音を立てた。モニカは思わず男の手に縋った。女の言葉よりも、その声の甲高さと強さが恐ろしかった。愛を叫んで人々を惑わす古い悪魔の御伽話を、モニカは、或いは国中の人々はいくらでも知っていた。
奥様が悪いものに憑かれてしまった。子供は死んでしまったのか。なんていうこと。どうして、こんな。
「古い女王よ」男が言った。少し、憐れむような声で。「お前は、愛を欲して人の身に降りたのか」
女は首を横に振った。「違う。違うわ。あたしを覚えている最後の子が、あたしを呼んだのよ。あの女神の偽りの支配から、あたしたちの土地を取り戻してと。命さえかけて! 生と死の狭間の門を開いたのよ!」
「お前はダナに敗北した」男が言った。
女は怒号した。
「黙れ、余所者! おまえこそ、土地と切り離され、人の姿に落とされた癖に!」
視界を閃光が白く染めた。世界が砕けるような轟音。激しい衝撃。
風が荒れ狂い、生ぬるい豪雨がモニカの全身を叩いた。喉の奥から悲鳴が迸る。「助けて!」手に縋り、腕に縋る。人間そのものの、若者の靭やかな腕。ずぶ濡れの衣服越しにしがみつく。恐ろしくてたまらなかった。これ以上、女の声を聞きたくなかった。夜は深く、雨は強く、何も見えない。落雷で家が破壊されたのか。或いは悪魔が禍を呼び寄せようとしているのか。わからないまま、すぐ間近にいるはずの男に向かってただ叫ぶ。
「助けて、助けて、助けて! 神様! お願い! 悪魔を倒して! 奥様が――、皆が――……お願い!」
「…………モニカ、」躊躇いのような沈黙の後、神は応えた。「きみには祝福を約束した。きみが助けを乞い、彼女の死を願うなら、叶えよう」
男が頷くのが気配でわかった。彼が、少し皮肉げに笑ったことも。
「神の意志は人の意志、神の力は人の祈り。国を問わず、姿を問わず、我々は人間の在り様を映す世界の鏡に過ぎない。選択は常にきみたちのものだ」
モニカは一瞬、自らがひどいあやまちを犯してしまったのではないかと不安になった。だが顔を上げても男の姿を見ることはできなかった。
神が、ひどくやさしい声で、悪魔に告げる。「無の淵へ還れ。お前を愛した民は、もういない」
地が揺れ、女の悲鳴が轟いた。
モニカは男の腕に回した手に力を込めた。男はもう片方の手でモニカの肩を撫でた。
風と闇の間に目を凝らし、遠い稲妻の刹那にモニカが見たのは、何かの鋭い影に貫かれた女の姿、そして、奥に転がる老婆の骸と、腹を裂かれた赤子だった。
モニカは絶叫した。男の掌がやさしく額に触れた。
「すべてを元通りにとはいかないけれど」男が静かな声で言う。「人間が持つ、同胞への慈しみを信じよう」
何のこと、と尋ねるより早く意識が途切れた。