03
屋敷の中は静まり返っていた。隠れて飛び出してきた裏口と繋がっている厨房には灯りはなく、人の気配はなかった。モニカは蝋燭をつけ、先ほど慌てて床に落としてしまっていたらしい布を拾ってたたみ、台の上に戻した。
モニカは足音を殺して廊下へ出た。嵐はますます強くなるばかりで、大きな雨粒がひっきりなしに家に叩きつけてきている。轟音で世界が遠くなる。知らない場所へ紛れ込んでしまったような錯覚に心が乱される。
広間についた。暖炉が赤々と燃えており、女達が眠っていた。モニカが足を踏み入れると、熱気が全身を覆った。
「アンゲリカ」モニカは年上の女にそっと呼びかけた。眠り続ける彼女の肩にそっと手を置き、揺さぶる。「アンゲリカ。起きて」
結われた髪が火を透かして輝き揺れる。モニカは掌に脱力した人間の体の重みを感じた。
何かがおかしい。雨と風の音ばかりが響いている。他には何も聞こえない。
「ねえ、アンゲリカ」モニカはわずかに声を荒らげた。大声を出すことははばかられた。女は答えない。
「アンゲリカ。……マグダレナ、ジクリット」
モニカは名を呼んだ。女たちは答えない。モニカは身震いした。広間は暑いほどだったにも関わらず。
モニカは周囲を見渡した。暖炉の炎が赤々と室内を照らし出している。箱庭のような沈黙。何かがおかしい。モニカは、首筋を伝う汗の感覚にぞっとして、それから違和感の正体に気づいた。生ぬるい豪雨。外は決して寒くない。どうして、暖炉がこんなにも燃えているの。どうして誰も起きないの。思わず、手で聖印を切った。祈りの文句を囁こうとするのと同時に。
こつ、と音がした。
モニカは恐る恐る顔を上げた。夕刻から閉ざされたままの、古く厚い木の扉。
「奥様」モニカは囁いた。中を確かめなければならないと思ったが、どうしても近づく気が起こらなかった。
まとわりつく熱気で頭がくらくらする。また音がする。こつ、こつ。部屋の中から誰かが扉を叩く。
「奥、様」
違う。と、直感が悲鳴を上げた。よくないことが起こっている。よくないものが扉を叩いている。
室内に白光りが閃り、雷鳴が轟いた。モニカは弾かれたように広間を飛び出した。暗い廊下を抜け、外へ。雨中へ駆け、逃れた先は納屋だった。他に行く場所はなかった。
扉を開く。無人。モニカは声を失った。納屋の内部に視線を巡らせる。灯ったままの蝋燭。手付かずの麺麭と葡萄酒の籠。彼がいた場所は少し湿っている。豪雨の土臭さと、内部の饐えた土埃臭さが混ざっている。
「娘さん」
声は後ろからだった。モニカは半ば怯えて振り返った。
青年は彼女の様子を見て首を傾げた。雨の中に立っているせいで、先ほど拭いたばかりの髪も体も、またずぶ濡れになっていた。雨除のつもりに羽織っていたものか、モニカが渡した白い布は多くの水分を含んで、雫を滴らせている。
「どう、したのですか」モニカは尋ねた。
男は納屋に足を踏み入れた。モニカは身を引いて彼の行く手を開けた。音もなく水が落ちて染みをつくった。
「用があって少し出ていた」男はモニカの様子に目をとめた。「何があった、娘さん」
「助けてください、家の中がおかしいのです。誰も彼も寝静まっていて、呼んでも反応がありません。それに、熱いくらいに暖炉が燃えていて……いつからそうだったのか思い出せなくて。産室の扉を中から叩く音がしました。ずっと閉じたままで、物音一つしなかったのに。急に声もなく、こつこつ、こつこつと」
モニカは、目の前の男もそうして現れたのだということを思い出した。嵐の中、叩かれるはずのない扉を鳴らして。
「悪い予感がしました。あれは何なのでしょう。神様がもう一方いらっしゃったのでしょうか、それとも」
「案内を」神は告げた。抗う心を失わせる声だった。モニカは半ば無意識のうちに頷いていた。そして我に返り、もう一度頷いた。「は、はい」
二人は強雨の中を抜け、再び屋敷へ戻った。モニカが裏口に駆け込んで振り返ると、男は外に立ったまま、建物を見上げていた。
「手間をかけさせて悪いけれど、呼んでもらえないだろうか」
モニカは彼の言葉の意味を取れず困惑した。「お名前を、お聞きしましたでしょうか」
「違う。……招かれなければ人の住処へは入れない」
モニカは慌てて言った。「申し訳ありません、尊い方。どうぞお入りください」
「ありがとう、やさしい娘さん」男は屋敷の中に足を踏み入れた。彼は白い布を床に落とした。モニカは反射的に目を逸らしたが、彼は湿った上衣を着ていた。脇腹のあたりに水を絞った皺があった。男はわずかに苦笑した。
モニカは言葉に迷って、それから恐る恐る口を開いた。「あの。モニカ、です。私」
男は一瞬、虚を突かれたようにモニカを見た。そして言った。「ありがとう、モニカ」
「はい」モニカは頷き、赤い頬を隠すように暗い厨房を振り返った。ようやく、先ほどの異常のことを実感として思い出した。恐怖を恋で誤魔化すにはモニカは純粋すぎた。
雨風の他には物音一つないように思えた。男は厨房の中を見渡した。「確かに違和感がある。けれど」彼は口を閉ざした。モニカは思わず「けれど、何でしょうか」と尋ねた。男は短い沈黙の後、答えた。「よくはわからない。ただ、まじないの気配を感じることは確かだ」
「はい。産婆がまじないを行っていました。生まれ落ちたばかりの無防備な魂を悪いものから守るために、魔除けの結界をつくり、赤子を守るのだと聞いています」
「産婆」男は呟き、首を傾げた。モニカは、彼がその言葉を知らないことに気づいた。「妊娠や出産を助ける女のことです」
「それは、この地では普通に行われているのか」
「はい。その」モニカは記憶を辿った。モニカ自身はいくらか離れた貧しい村の出身のため、詳しくはなかった。しかし産婆を招いた女たちの様子から、この土地では、まじないは頻繁に為されているもののように感じられた。「特にこうした嵐の夜には、邪悪なものが、生まれたばかりの子供を狙って現れると聞きました」
「…………」
モニカは失言に気づいた。「あなたさまのことでは、ありません。ごめんなさい」
「人間の子を掠っても面倒なだけだ。扱いに困る」男は言った。「この付近で子を欲しがるのは、妖精か、夜の狩人だろうか」
「はい。妖精は邪精との戦いのために取替子の戦士を、夜の狩人は獲物を追うために狩猟の供を求めると言われています」モニカは答えた。「実際に、死産が多い土地です。三人に一人は……」
男は頷いて、「行こう」と言った。「それとも、きみはここで待っているか」
「いいえ」モニカは一人で残される恐怖のために首を横に振った。「一緒に行きます」
男はモニカの内心には気づかぬ様子で微笑んだ。「ありがとう、勇敢な娘さ……、モニカ」
「は、はいっ」モニカは男の後に続いて歩き出した。