02
納屋は狭く、湿り、屋根の端から水が漏れていた。だが旅人は「いい場所だ」と言ってモニカに微笑みかけたから、モニカは、謝罪も、謙遜もすることができなくなってしまった。代わりに逃げ出すように屋敷に戻り、出産のために用意されていた布を何枚かと、古い葡萄酒と麺麭を厨房から持ち出した。女中達は広間ですっかり寝静まっていた。一人が起きていたが、モニカがいないことには気づいていないようだった。
女主人の部屋は閉ざされたままで、物音一つも聞こえぬことを、モニカは少し不安に思った。もう赤ん坊の声が聞こえてもよい頃なのに。それとも、まじないの結界は、人の声も通さないのかしら。
モニカが戻ると、旅人はやはり微笑んで迎えた。彼はモニカが渡した品々に礼を言い、床に腰を降ろして、ずぶ濡れの体を拭くために上衣の鈕を外し始めた。胸元がはだけ、モニカは驚いて目を逸らした。男はわずかに苦笑した。
「すみません」モニカは慌てて背を向けた。
男は許しの言葉を告げた。その声は無造作だったにも関わらず、確かに人ならざる者の響きがあった。モニカはこれまで神の声を聞いたことはなかった。しかし疑う余地はなかった。人を受容し、赦す、その響き。
「あなたは、人の姿をした神ですか」モニカは恐る恐る尋ねた。半ばは己の失態を誤魔化すためだった。
「違う。人の世を旅するために、人の姿をしている。けれど、同胞たる他の神々よりは遥かに、きみたちと似ていると思う。彼らの多くは獣の姿だ」
「獣の神なのですか」モニカは問うた。
「祖国の古い神々は自然への畏怖から生まれた。だから彼らの姿はその中に生きる生命だ。牡鹿、熊、鮭、狐、鷹……」
「では、あなたの本当の姿も」
「教えられない」一言の断絶。しかし彼は吐息して言い足した。「半ばは人だ。新しい神は、時に、古い神々とは異なるものから生まれることもある。人の営みは歴史と共に、国や世界の有様を変えるからだ」
「あなたは外国からいらっしゃったのですね」
男は答えた。「そうだ。北の海の向こうから」
「……どのような国ですか」
男は微かな笑い声を立てた。その暗さに、モニカは総毛立つ思いをした。だが男は穏やかに答えた。「寒く厳しい地だ。土地は貧しく、光は乏しく、岩山と曠野ばかりが広がっている。けれど愛しい祖国だ」
「なぜ」モニカは思わず言いかけた。
男の言葉から想像した光景は暗く重いばかりだった。モニカが生きるこの国には、豊かな森と草原、神の恵みたる大河がある。彼の国には神々が多くいるのに、なお貧しいのはなぜ? どのような場所なのかしら。
けれど問うてはいけない。それは男を詰ることになる。神の機嫌を損ねることは考えただけでも恐ろしいし、彼が端正な顔をしかめるのを見たくはなかった。
「なぜ、とは」男が尋ねた。
モニカは咄嗟に言葉を探した。「なぜ、……この国にいらしたのですか」
男は疑う様子もなく答えた。
「同胞との賭けに負け、彼の要求を聞くことになった。南の異国へ渡り、人の姿で、不幸があった家に宿を乞い、二十、招き入れられるまで帰るなと。はじめは容易いと思ったが、もう随分な年月が経ってしまった」
「え」モニカは瞬きした。「不幸……って……」
「夜入りに、子が死んだだろう」男が言った。
モニカは思わず振り返った。男は白い布を外套のように羽織っていた。濡髪が蝋燭の火を映した。
豪雨が一際強く打ち付け、壁が震えた。
「知らなかったのか、娘さん」彼は困惑の表情で尋ねた。差し出されかけた手が、しかし虚空で止まった。モニカを気遣う、人間そのものの、しなやかな若者の腕。その手を取りたいと思いながらも、彼の言葉に意識は冷えていった。子が死んだ、なんて。まさか。
「どうして、わかるの」
幸せそうに、赤子の産着を編んでいた女主人の姿を思い出す。
「外を魂が彷徨っていた」
「見えるの」
「見える」男ははっきり答えた。
モニカはふらつきながら立ち上がった。男はモニカをじっと見上げた。「気の毒に」
「奥様は、産婆と部屋にこもられて、それきりよ」モニカは言った。長すぎる、とは思っていた。普通はどれだけ待つものかなんて、モニカは知らなかったけれど。「私、様子を見てきます」
男は頷いた。モニカは生ぬるい雨の中に飛び出した。むせ返るほど濃い、土のにおいがした。
◆
賭けをしよう、プランティアラド・スクグ。
何、そんな難しいことじゃあない。あそこを見ろよ。
あの木陰にいる人間の雄と雌が、愛しあうか、殺しあうか、そのどちらかを当てるだけだ。
で、外した方が当てた方の命令を聞く。単純だろ、それに、楽しそうだろ。
……つきあわねえなら、あの二人、今すぐこの牙で突き殺しちまうぞ。