01
夕刻に強まり始めた風は日没と共に雨を呼び、そして夜半には嵐となった。
屋根に壁に激しく打ち付ける雫の音に、モニカは束の間、外の世界が総て雨粒に穿たれ、風に吹き散らされてしまうことを想像した。モニカは身震いをし、女神ダナに、その夫ラインに、その娘である豊穣と四季と護国の三乙女に祈った。どうか無事に夜が明けますように。奥様が元気なお子を産み落しますように。
モニカの女主人は産褥についていた。まじない師の予言より十日は早い突然のことだった。
村はずれの森から産婆が呼ばれた。産婆はまじない師であり、出産は儀式であった。胎児は未だ完全な人間とは言いがたく、やわらかな肉体に宿るべき魂は半ば夢の岸辺をただよっているため、何事もなく生まれいでるためにはある種のまじないを必要とするのだ。
産婆の助手は、年嵩の下女が務めることとなった。モニカは他の若い下女たち共々、広間で神々に祈ったり、朝までに生まれるはずの赤子のことや、他愛のないその他のことを話しあったりした。
家の主人は、留守にしていた。男のいない家は、自由ではあったが心細かった。
彼は皆に尊敬される名士だった。また、老朽化した教会の修復に多額の寄付をしたために、司祭の推薦で、民の代表として領主に謁見を行う名誉を与えられていた。そういった役目の時には、男衆を連れて、半月は留守にする。帰るまでには、まだ五日あまりがあった。
雨音が屋敷を覆い、暖炉が部屋中に強い陰影を刻んでいた。やがて一人が、続いて二人が、こくりこくりと船を漕ぎ始め、広間は気怠い沈黙に満たされた。
モニカは戸を叩く音を聞いた。風に飛ばされた枝か小石が戸に当たったのだろうと思った。だが、再度、こつこつと音がした。他には誰も気づいていないようだった。
「ねえ、今」モニカは言った。「玄関で、何か聞こえなかった?」
半ば眠っていた一人が億劫そうに答えた。「夜の狩人よ。嵐を起こすついでに、戸を叩いて行ったのではなくて?」
「そうかしら」
モニカは視線を巡らせた。玄関へ続く廊下は闇に塗り潰されていた。
この真夜中に訪ねてくる者がいるはずもない。今、この家に女手しかないことを知る者は多かったが、彼らにしても、出産の最中に扉を叩くはずがなかった。
また、こつこつと音がした。
「聞こえるわ」モニカは言った。誰も答えなかった。モニカが見渡せば、もう皆が、眠ってしまっているようだった。分厚い扉に阻まれて、出産の様子もわからない。産婆は密閉された空間で総てを済ませるための、まじないの道具を持ちあわせているのだった。
こつ、こつ。
モニカは立ち上がった。そして手燭を携え、足音を殺して玄関へ向かった。
廊下を過ぎ、扉の前で立ち止まる。古い木材は長年の雨風に晒されていたが、手入れのよさのために、飴のように艶やかだった。モニカは考えた。この向こうにいるのは人間だろうか。それとも夜の狩人だろうか。吹き散らされた小石のいたずらだろうか。
また扉が叩かれた。間近での音は、もう聞き間違いようがなかった。
モニカは息を詰めた。そして一度、広間を振り返った。壁で暖炉の火が踊っていた。
「……どなた、ですか」モニカはそっと囁いた。雨音は未だ大きく、外まで聞こえたとは思えなかった。だが大声を出すことははばかられた。モニカは戸の縁に頬を寄せた。「どなたですか」
「――旅人だ」返ってきたのは明瞭な返答だった。通りのよい、若い男の声。「一晩、宿を貸して欲しい。夜は遅く、雨は強く、光と火が恋しい」
「それは……」
モニカは言い淀んだ。知らぬ男を、独断で家に入れるわけにはいかない。他の女たちも拒否するだろう。夜に戸を叩く盗賊や魔物は多いのだから。
「お帰りください。今、男の方を入れるわけにはまいりません。まじないの最中です」
モニカは答えた。答えは、すぐにはこなかった。モニカは壁に打ち付ける雨の轟音を聞きながら待った。そして、もし外にいるのが本当に、屋根を得られなかった旅人だとしたら、と考えて、哀れに思った。
さっきの声。やさしくて誠実そうだったわ。
「厩か、納屋を貸してくれないか」
声が言った。
「あなたは、人ですか」
モニカは尋ねた。愚かな質問かも知れなかった。しかし、尋ねずにはいられなかった。
「違う」声は答えた。「けれど、きみたちに害を及ぼすつもりはない。頼む、少しでいい、扉を開けて、話を聞いてくれないだろうか」
「でも……」
夜の魔物はこうして人の心の隙をつくのだと。モニカは幼い頃から聞いて、知っていた。
それでも、もう、この真摯な声の主の姿を、心の中に描いてしまっていた。すらりとした背の高い若者で、旅の塵に塗れた衣服をまとい、底が擦り切れた革の靴を履いている。じっとりと濡れた雨除の頭巾から滴る雫の奥には、若く精悍な男のかんばせがある。この豪雨の中の旅は、どれだけ大変だっただろうか。
「少し、離れる」若者の声が言った。「隙をついて押し入ることができない距離まで。信じてくれるなら、十を数えた後で扉を開けてくれ。時が来てもきみの姿を見られないのであれば、この場を去り、二度と現れないと誓う」
「誰に誓うのですか、人ならざる方」
「この地を統べる女神とその夫に。同胞たる祖国の神々に。永遠と力をかけて誓う」
モニカはぞくりとした。その言葉は旅人の正体を暗示していた。神々に敬意を示し、永遠を持ち合わせるのは、おなじ神々か半神だ。まじないの夜に、そうした存在が戸を叩くということを、吉と凶、どちらと判断するべきか、モニカは迷った。
「お待ちになって、尊いお方」モニカは時を乞うた。まじないや運命に詳しい者の助言を聞きたかった。
「十を」誠実な声は揺らぎなく言った。
モニカは躊躇った。だが、外で砂利を踏む音が聞こえた。今から広間へ戻り、誰かの肩を揺さぶる頃には、声の主はきっとどこかへ行ってしまうだろう。それに彼は神に誓った――悪いもののはずがないわ。
四、とモニカは心の中で唱えた。正確ではなかったが、少しの違いはきっと許してくれるだろう。五、……六、……七、……八、……九。
モニカは鍵に指をかけた。金具は小さな音を立てて外れた。
十。
わずかに押し開けようとした扉を風が攫った。轟音がモニカの耳を打ち、生ぬるい雨粒がモニカの前身を激しく叩いた。噎せ返るような夏の土のにおいが押し寄せた。手燭の炎は消えてしまった。外に広がるのは、闇と、無数の銀の雨だった。モニカは目を凝らし、旅人の姿を探した。
灯りは背後に遠く、夜は深く、雨は強い。モニカは声を上げた。「遠すぎます、旅の方。あなたのお姿が見えません」
「……近づいても」一瞬、声は迷いに揺れた。と、モニカは思った。そのとき、モニカは胸のうちを絞めつけられたように感じた。
「どうか近くへ」モニカは言った。「あなたの姿を見せてください!」
雨と風の狭間で、小さな足音。闇の中から姿を現したのは、モニカが想像した通りの若者だった。
背はすらりと高く、旅の塵に塗れた衣服をまとい、擦り切れた革の靴を履いている。じっとりと濡れた雨除の頭巾は最早役目を果たしておらず、縁から絶え間なく雫を滴らせている。端正なかんばせには前髪が張り付き、眉間から鼻筋へと、水が流れていた。切れ長の双眸がモニカを見て、微笑んだ。人とは思えぬ完璧な容貌とは裏腹な、どこか人懐こい笑みだった。
モニカは己の心臓がどくどくと鼓動するのを感じた。瞬く間に頬に血がのぼっていく。己の存在の芯が強く掴まれたようでもあった。見目よい男への恋とも、神を目前にした畏怖ともわからなかった。
「尊い旅の方」モニカは震える声で言った。「納屋で……よろしければ、ご案内します。少しお待ちを」
「ありがとう、やさしい娘さん」旅人は言った。「せめて、きみに祝福を約束する」