Kapitel 4 “das Schicksal” Szene 2
「『ミサ・ソレムニス』などいかがですかな」
遠くを見据えたような眼差しと、ゆるりとした右腕のコントロール。
備え付けのデッキ操作とギアの入れ替えに左腕の無駄な動きは何一つなく、貫録のある風貌からまさに仕事人を髣髴とさせる。
歌詞の意味は分からないが、重厚で伸びやかな歌声から煌びやかなドレスに身を包んだ貴婦人、口髭を蓄えたシルクハットの似合う紳士を想起させる。
黒塗りのフォルクスワーゲンに上質な革生地の匂いと慣れない感触。
のどかな街の風景を八倍速で観ているかのような錯覚に陥り、腕と頭以外の神経が麻痺していく。
呼吸をなんとか整えようと眼をつむるも、オペラの雰囲気は最高潮に達し、余計に鼓動を速めていく。
et resurrexit tertia die, secundum Scripturas.
Et ascendit in coelum, sedet ad dexteram Patris.
Et iterum venturus est cum gloria judicare vivos et mortuos,
cujus regni non erit finis.
「……あ、あのっ、ちょっと激しいので、その、もう少し穏やかな曲、ないですかね……」
頂いたミネラルウォーターを口に含み、咥内の感覚を確かめる。
「おや、これは申し訳ありません。歌詞の内容が激しすぎたでしょうか」
「いや、そのっ……おっ、お~、ボクはオペラなんて学校の授業でもやったことなくて、ちょっと気持ち悪くて……」
「あいや、申し訳ありませぬ。ジロンド様、お好きな曲がございましたら、どうぞ私にお申し付け下さい」
「いえ、その、もういいです」
(オレなんてせいぜい、きらきら星がお似合いだってーのっ)
手持ち無沙汰のジロンドは、ポーチの中身を確認する。
前日までに伯爵様が手配した荷台トラックに私物は全て搬入を済ませ、手元に残るはパンを数個買えるだけの貨幣と、仕事に使うとの事で支給された最新型の携帯電話のみ。
初めて受信したメールは、伯爵様側近のサツキ様という方からの簡素なものだった。
「初めまして、ジロンド=○○○君。私自身、小さい頃は君のお父様からお世話になった事があるので、この巡りあわせも何かの縁なのでしょう。お母様の手術の日程が決まりました。検査入院の結果、早期の手術が望ましいとの事で、君が屋敷で働き始める三日後の○月×日に手術が行われます。不安だと思うが、伯爵様と私をどうか信じて欲しい。まずはブランデスでの生活に慣れていこう。お母様の手術の成功を祈ります」
(母さん……オレ、マジで頑張るから)
カーディガンの下にこっそりと隠すように身に付けたペンダントを強く握り締め、後部座席に置いていたピンク色の耳当てを装着し、ぎゅっと感触を確かめる。
春の訪れを告げるような小鳥の囀り。
「運転手さん、このピアノの演奏、なんていうんですか?」
「ほほ、お気に召して頂けましたかな。バダジェフスカ作曲の『乙女の祈り』と申します」
「へぇ……よくわかんないですけど、この曲なんか好きです。誰かと一緒に、暖炉の近くでじゃれあいながら、聴いていたい曲ですねっ」
「ジロンド様、お母様の手術の成功、私も祈っておりますよ。このような後先短い老いぼれに祈られても、迷惑をお掛けするだけかもしれませんが」
「そんな事、ありません……っす!ホント……オレなんかじゃヴェルニオーさんや皆に迷惑かけるだけかもしんないっすけど、でもオレ、本当ちゃんと全力で、精一杯頑張りますから!」
「ふふ、まずは国語の授業からですな。教えがいがある子供がいると、伯爵様もさぞやお喜びになるでしょう……」
針葉樹林に囲まれた道を抜けると、旧時代の遺物を思わせる高級そうな別荘がちらほらと目に付く。
「もうすぐでございます」