第七章 選挙とケーキとクリームソーダ
冬が深まり、年が明けた。私が初めて向かう選挙の日を週末に控えた金曜日。すでに日が暮れてしまった暗い道を、私とサナは街灯だけを頼りに歩く。一番遅い授業を受けるとこの時間になってしまう。
「寒すぎるー凍る―」
「寒すぎて目が痛いんだけど」
「睫毛凍ったんじゃない?」
「ありえるー」
冬の底で、雪風の中をサナと身を寄せ合って歩く。そういえば夏も暑いと言いながら日傘一つに身を寄せ合っていた。私たちは腕をぎゅうぎゅう絡め合いながら駅まであと何メートルか数えていた。
「ちょっと実咲、このままじゃ凍るからあったかい話して」
「脳みそ凍ってるから無理かも。話題振って」
私は鼻水をすすりながら、サナの細い腕に私の全力で抱きつく。ダウンの上着同士で押し合いへしあいしていると温かい気がしてくる。
「じゃあ、あれだよ、えーと坂本?だっけ?ゼミの男、誘われたのどうなった」
「あーあれね」
私は先日、同じゼミの坂本君にデートに誘われた。サナが熱い瞳で私の横顔を見ている。私はあと駅まで二百メートルと思いながら、口を開く。白い息がふわりと夜空に浮かんだ。
「とりあえず話を聞こうと思って、大学の食堂でお喋りしたんだけど」
「ほうほう」
「そのあと、断った」
「へー何で?別に新太とは付き合ってないんでしょ?」
「そうだけど……新太が比べろって言うから、つい比べるでしょ?」
「うわーすでに規格外の立候補者いるところに突っ込んで来た坂本が可哀想。不戦敗だよ」
サナは眉をハの字にして坂本君に同情する。サナの眉を見ながら、坂本君の照れたようなハの字眉を思い出す。坂本君は朗らかに笑って私と話してくれて、容姿だって清潔感ばっちりだった。
「坂本君は新太みたいに不愛想じゃなくて、小言も言わないんだけどね」
「新太より坂本の方が人当たりは良いんじゃない?」
「比べるって難しいよ。人間だって政策だって色んな面があるでしょ」
「出たーかしこ女子風発言~」
「だって私、勉強してますから!」
サナが身体でぐいと私を横に押すので、私も笑いながらサナをぐいと身体で押し返した。
「それで、勉強してる実咲から見て、坂本は何がダメだったの」
「ダメとかじゃないんだけど」
人通りが少ない歩道を、二人でふらふらしながら歩くのもなかなか粋だ。私はマフラーに顔を半分埋めながら、心の中の気持ちに形を持たせるよう努めた。
「何て言うんだろう……こう、物足らない?」
サナのマスカラ睫毛が冬の台風を起こしそうなくらいにばちばち瞬いた。サナが私の腕に抱きつく力が強まった。
「お前もうサイテーだな。勉強し直せよ~」
サナの声は冬より冷たかった。
「え、なんで何で?!」
「坂本が憐れ過ぎるだろ。もうやめてやれ」
「どういうこと?」
「新太と比べるのがヒドすぎってこと。あんなハイスペ勝ち確の重すぎ男に誰が勝てんだよ!」
「重すぎ男?!」
「新太激重だろ!がっつり立候補された実咲がフラフラしてんのが、他にとって迷惑ってこと!そりゃあ新太と比べれば、誰だってペラッペラだっつーの!」
サナがまくし立てるので、サナの鼻先が興奮して赤くなった。サナが最初に求めたあったまる話としては成功だったようだ。明るい光に満ちた駅に着いて、手袋を取ったサナは私のほっぺたを両手でぎゅうとつねった。
「いひゃい」
「こら実咲。ビビってないで、もうちゃんと選びな」
改札前で、サナはもう一度、ぎゅうと痛いくらいに私の頬をつねる。サナは私の痛い所をきちんとついてくる。私もタイミングがつかめないなんて自分に言い訳をしつつ、サナの言う通り、ただ選ぶことにビビっているだけだ。私はぽつりと本音を漏らす。
「立候補者に当選ってさ……いつ発表するものだと思う……?」
私のほっぺたを解放したサナは、にかっと温かい笑みで笑った。
「当選者は選挙日に発表するものでしょ」
サナの的確な回答に私は呆気にとられた。そんなにシンプルなものか。そのシンプルさがとんと腹落ちした。
「ちょ、天才なのサナじゃない?」
「今頃気づいたか」
サナは私に向かってピースして、威風堂々のポーズをとる。
「週末の選挙、あたしも行くから。きちんと大人やるよ。実咲も、がんばれ」
私が選挙、選挙と言い続けたものだから、サナも影響を受けたそうだ。授業の合間に一緒に政党マッチングアプリをやったこともある。私はサナの冬でも快活な夏みたいな笑顔にピースを返す。
「私……がんばるね」
「うん、じゃあ、また来週!お互いの健闘を祈る」
ピースの指先と指先をちゅっと重ねて、二人でにっと笑い、改札前で反対ホームへと別れた
一人になった私は寒いホームに立って、冬の夜空を見上げる。深く息をつくと白い息が空に向かって溶けた。
「いよいよ選挙か……」
マフラーの中で呟くと、ダウンコートのポケットの中でスマホが揺れた。かじかんだ手でスマホを取り出して確認すると、真帆ちゃんからのメッセージだった。夏以来、たまにやり取りしている。
『ニュースで選挙の話がいっぱいで、勉強して選挙行くって言ってた実咲ちゃんを思い出してるよ。私もいっぱい勉強してるから!選挙がんばれ~!』
マフラーの中でふふっと笑ってから、私はがんばるよと真帆ちゃんに返信した。真帆ちゃんは夏休み以降、できる限りの方法で勉強を尽くしていると報告を受けている
彼女の努力を知るものとして、私は責任を果たす。サナにも、真帆ちゃんにもしっかり背中を押してもらった。
あとは私の、覚悟次第だ。
「……ありがとう、二人とも」
ポケットにスマホを戻すと、冬風を切り裂いた準急電車がホームへやってきた。私は厳しい風を受けても背筋を伸ばしたまま電車へ乗り込み、選挙へ向かう決意をきちんと固めた。
準急電車に乗った私は、すーちゃんの家ではなく、お母さんのワンルームへと帰った。選挙は住民票がある場所での投票になるので、地元へ帰る必要があったのだ。
その日は狭いお母さんの家に泊まり、次の日の昼前に初めて、お母さんと一緒に投票へ行った。投票所はお母さんの家から徒歩十五分の場所にある昔ながらの公民館だ。ぱらぱらとまばらな人の中に混じり、私も選挙事務員さんに受付を受けた。
お母さんと並んで記入台の前に立ち、鉛筆を持って投票用紙と向かい合う。ひとつ息をついて、群青の党の応援となるように記入し始めた。
千木良おじは選挙前の偏向報道に踊らされることなく、質問には真摯に答えて、政策を訴えることに時間を割いた。報道が風化し始めると、あまりにしつこく不倫について質問する記者の方にバッシングが行った。
私も説明責任が終わったのなら、政策について話すのが政治家だと思った。
有権者はくだらないゴシップに付き合い続けるほどヒマでも、バカでもない。というのは一緒にリビングでテレビを見ていたすーちゃんとエリックの意見だ。私もその賢そうな意見に賛成で、さっそく乗っかっている。良いと思ったものはどんどん吸収させてもらう。私はそうやって、私の意見をつくっていく過程にいるのだ。
私は記入を終えて、大きな投票箱へぽとんと紙を落とした。
千木良おじ、頼んだぞと私の希望と、真帆ちゃんの未来を乗せて、私の投票用紙は旅立った。
私は心を決めて投票所へ向かったので、投票自体はすぐに終わった。投票所のしんとした空気はどきどきしたけれど、特に難しいことはなかった。あっけなく終わってしまって拍子抜けするほどだ。
投票所からの帰り、そのまま駅へと向かうと言うとお母さんが送るからと着いて来てくれた。小腹が空いた時間だったので、お母さんと駅ナカにある小さな定食屋に入った。
昭和からここにあるのではと思うような古い定食屋だった。私とお母さんは古木のテーブルを挟んで向かい合い、親子丼を食べた。
小さめの鶏肉に黄金の卵とじがふわりと絡んでいる。美味しそうな香りの湯気を吸うと、口の中で涎が噴き出た。私はすぐに黄金の親子と出汁に浸かる白ご飯をかきこんだ。お腹がいっぱいになるとやっと、投票に緊張していた肩の力が抜けたようだった。お母さんと一緒に食後のお茶を飲んでいると、お母さんも解けた声で言った。
「実咲と選挙に行けて良かった。ほっとしたわ」
「その説はご迷惑おかけしました」
「ほんとよもう」
私はテーブルの向こうでため息をつくお母さんに向かって、きっちり頭を下げた。テレビのインタビューで選挙よりケーキなんてアホ発言をしてしまって、お母さんには胃の捩れる想いをさせただろう。私を選挙に責任もって連れていくことで、お母さんも肩の荷が下りたのかもしれない。私も湯呑を口に運びながら、お母さんにお伺いを立てる。
「ところでお母さん、私がもう一回、一人暮らしする話って考えてくれた?」
お母さんは私をちらりと見て、ことんとテーブルに湯呑を置いた。思ったより厳しい視線で胃が引き締まる。お母さんの声は迷いがなかった。
「新太君の推薦があればね!」
厳しいふりをしたお母さんの顔は次の瞬間、ふっと綻んだ。
「やっぱりそこかー」
「夏に聞いたときは調子が良さそうだったじゃない。今も良い顔してるから、新太君から評価でももらって来たら?」
「新太の評価、かぁ……聞くの怖……」
「新太君って言えば、これ読んだ?」
私が押し黙るようにお茶を飲むと、お母さんがスマホでニュース記事を見せてくる。私も何回か見た純喫茶リーベの紹介記事だ。
「お母さんもこのケーキセットを食べたかったわ」
今回の選挙に合わせて、新太肝入りの選挙割引きケーキセット、その名も「選挙のあとは、ケーキを食べて」がついにスタートしたのだ。
純喫茶リーベは喫茶店界隈では注目の新店だ。さらにリリカのケーキを唯一扱う喫茶店としての独自性、リリカの知名度の後押しもあり、この度「選挙割」というワードで一気に注目された。その話題性からネットニュースで大きく取り上げられた。
この盛り上がりは全部、新太の計画通りだろうと進藤さんは言っていた。彼女とはたまに世間話をするくらいの間柄だが、あいかわらず賢い。
お母さんがスマホに写るケーキセットの写真を見ながら、私は答えた。
「投票証明書を持っていったら、一ヶ月くらい食べられるらしいよ」
「え、そうなの?じゃあ今度行こうかな」
「うん、私も付き合うよ。私はこれから行く予定だけど!」
今日は選挙の日であると同時に、ついに新太に約束を果たしてもらう日だ。
私だけのリリカの幻の一点ものケーキと、クリームソーダ、さらにリーベの貸し切りまでついた特別待遇。
今から楽しみで仕方なかった。私がうきうきと新太との約束を語ると、お母さんは目を丸くして驚いた。
「新太君ったら、そこまでしてくれるの……?新太君は昔から面倒なあんたの世話ばっかり焼いてね。うちの娘なんか選んでもったいないわよね……女を選ぶ才能だけがなかったのかもしれないわ」
「どういう意味?!」
「冗談よ、私の自慢の娘」
「それもまた言い過ぎ!」
私が勢いよく言い返すと、お母さんは皺が増えた顔で柔和に微笑んでから、駅の改札前まで送ってくれた。改札前でお母さんと向き合って挨拶する。
「お母さん、行ってきます!」
「行ってきなさい」
親に駅の改札前まで送られると、ほんの少し、胸に小さな隙間風が吹くような気がする。寒いホームへ一人で下りて行こうと思うとやはり、親の温かさが惜しくなるのかもしれない。
改札を抜けた私は振り返って、お母さんに手を振った。お母さんは私が階段を下りて見えなくなるまで、手を振ってくれていた。
また春休みには必ず、帰ろうと思った。
ほんのりと人恋しさを胸に宿しながら、厳しい冬風にさらされたホームに立った。一人に戻った私は、スマホを取り出してメッセージを打ち始める。新太に選挙に行った報告と閉店後にリーベに行くと伝えた。
夜の二十一時を回って、人の気配が引いたビジネス街を冬ブーツを鳴らして歩いた。凍えるビル風がダウンコートの中を突っ切っていく。マフラーに顔を半分埋めていないと息もできない極寒の中を進むと、ビル街の中で一つだけへこんだ煉瓦造りの小さなビルが見えてくる。
リーベの煉瓦造りの建物の前で、コートを着た新太がポケットに手を突っ込んで立っていた。冷たい月明かりを背負う新太はまるで映画のワンシーンだ。
「実咲さん」
「お疲れ、新太」
私は新太を見つけて、やや早足で駆け寄った。新太が私に気づいて小言を始める。
「私が駅まで迎えに行くと言ったのに、どうして待ってないのですか。いつもより遅い時間ですよ。駅からここまでの道で危険がないとでも?考えが足りません」
「良かれと思って一人で来たのに、ものすごい詰められた。解せない」
「間違っているからです」
待ち合わせは駅だったのだが、私が早く着いたので店で待っていてと連絡だけして勝手に歩いてきた。私がその後返信しなかったので、新太はご立腹なのだ。冬空の下で新太の小言が止まらない。
「私が迎えに行くと言ったら、絶対に行くので。待ち合わせ場所からは動かないでください」
私は手袋をつけた手で両耳を塞いだ。
「はーい、気が向いたらそうするー」
「困った人です。想像力と危機感と自己管理力が足りません」
「あーうるさー」
新太は少し赤い鼻先をしながら眉間に皺を寄せる。店の中で待っていればいいのに、玄関前で立っているところが律儀だ。新太はぶつぶつ言いながらも、リーベの重厚な扉を押し開けて私を先に通す。エスコートは忘れないのが憎い。リーベに足を踏み入れるといつもコーヒーの香りがふわりと鼻を包む。
「いい匂い~てか、店の中暑くない?」
「今日は暖房を強めにかけてます」
暖房が強すぎるのではと思うほどに効いていて、中に入ると無意識にコートに手がかかる。私の後ろで扉を閉めた新太が手を差し出すのでコートを自然に預けた。新太の無駄のないスマートさに慣れてしまうともう他に行けないだろうと私でもわかる。
コートを手にかけた新太に先導されながら、店員が一人もいないひっそりとしたリーベの奥へ進む。閉店後の深夜にさしかかる時間、今は私の貸し切りだ。静かなクラシックが今日も店を優雅にたゆたっている。
「どうして暖房強め?省エネはどうしたの」
「今日は無礼講です」
「ぶれーこーって何」
「特別な日ということです」
「ほう」
いつも通りに真紅のビロードソファに案内されて、私はにやりと口端を上げた。今日は私の貸し切りだ。私の好きな席に座れるのだ。ビロードソファの前で立ったままの私は新太を指さした。
「新太!今日は一番良いビップ席に案内して!」
「はい、ですからこちらの席へどうぞ」
「ここいつも座ってるけど?」
「ここは店で一番、良い席ですよ」
「え?そうだったの?」
「そうですよ」
新太はくすりと笑い、目尻を下げてから丁寧に一礼して一度下がりますと告げてキッチンへ戻っていった。頬を膨らませた私はソファに着席した。淡い橙色のシャンデリを見上げてはぁとため息をつく。
「新太って私に甘くない?」
「甘いですよ。今頃気がついたんですか」
私が行儀悪くソファの縁に後頭部をもたげていると、私の顔を覗き込むように三つボタンのスーツをきちんと着こなした新太が声を落とす。新太の向こうに淡いシャンデリアが見えるともう、どこの映画の中かと思う。
「顔が良いのがムカつく」
「それ久しぶりに聞きましたね。そういえばうちに来たころを思えば、私にもだいぶ慣れましたか」
「仕方なくだけどね!」
姿勢を正すと、真紅のビロードソファの真ん中に腰かけた私の隣に新太がきちんと背筋を伸ばして立つ。トレーを支えた新太がそこに立つとまるで執事だ。そうしてソファの中央に座る私がまるでお嬢様になったかのような夢を見せ始めた。新太の重低音の声が二人っきりのリーベに響く。
「では実咲さん。ご注文をお聞きします」
私は姿勢を正してきちんと座り直してから、凛と声を紡いだ。
ずっとこの注文をしたくて、今日までやって来たのだ。にやつく頬を抑えきれないまま、大きな声で告げた。
「選挙のあとは、ケーキを食べて。ください!私だけの特別なやつで!」
リーベの高い天井に私の声が吸い込まれて、新太が低い声で注文を承った。マナー通りの一礼をした新太は、すでに手に携えていたものを並べた。
私の前に透き通ったクリームソーダと、ケーキを一つ。
私はテーブルに乗った喜びを見て、両手で口を覆った。
「かーわーいいーー!サイコーなんだけど!」
私はテーブルの上に並んだケーキセットにスマホを向けて、無限にシャッターを押し続ける。
ゴブレット型のグラスに入った彩度の高い薄い緑色のメロンソーダが、しゅわしゅわと小さな泡を打ち上げている。その水面の上には、ぽこんと愛らしい半円のバニラアイス。アイスにキスする真っ赤なチェリー。
純喫茶リーベはクリームソーダが映える店だ。濃い栗皮色を基調にした店内に佇む、基本に忠実、懐かしさに拍車をかけるクリームソーダに百点満点である。もちろんストローも赤。
昔、新太と一緒に行った百貨店で飲んだ、あのメロンソーダの気配がする。
私はクリームソーダに語り掛ける。
「うわー会いたかったよークリームソーダぁあ~なんか懐かしい気がするんだけど~かわいい~!」
クリームソーダに語り掛ける人はなかなかいません、なんて言い出しそうな新太は意外にも黙ったままだ。新太は自分用のコーヒーをローテーブルに置き、私の正面に座った。長い足を余るように広げて座った新太から濃い視線を感じるが、私はそれどころではない。
クリームソーダを愛でることに終わりはないが、その隣で小さく煌く白のケーキに目を惹かれていく。
「これが、リリカの幻の一点ものケーキ?!」
顔を上げて新太に尋ねると、新太が静かに頷く。
手の平サイズの小さなケーキは、触ったら壊れそうと思うほど繊細な純白。真円のケーキの上には飴細工風に加工されたライスペーパーの羽が幾重にも芸術品のように重なっている。まるでケーキが純白のドレスを纏っているかのように綺麗だ。
「羽がいっぱいで飛べそう!すっごく、綺麗!これは何ていう名前のケーキなの?」
リリカのケーキクリエイター倫也は、自作ケーキに名前をつける。それこそ初恋アイスケーキのように冴えた名前で、私はその名付けさえ楽しみにしている。
フォークを刺すのがもったいないほど綺麗なケーキにカメラを向けながら、頬の緩みが収まらない。新太は暴君倫也を思い出すのか、やや眉間に皺を寄せて言い淀む。
「……聞きたいですか?」
「そりゃあ聞きたいよ。ネーミングも素敵なんだから倫也は」
新太が視線を泳がせる。倫也が絡むと新太はとたんに人間臭くなる。そういえばここにケーキがあるということは、このケーキは冷凍して送られてきたのか。もしくは、ここで作りたてか。
聞きたいことは山ほどあったが、まずはケーキの名前を聞こう。たっぷり沈黙したあと、新太が観念して口を開く。
「……倫也いわく『本番が待ち遠しい純白ドレスケーキ』だそうです。勝手に本番、までイメージさせて……クソお節介ネーミングでクレームを入れました」
「新太って倫也にだけ口悪いよね」
「失礼しました。以後も改めるつもりはありません」
新太は全く悪びれず肩をすくめただけだ。私はうーんと首を捻ってケーキ名の意味を考える。
「本番、本番って何……?」
純白ドレスといえば、ウェディングドレスが真っ先に浮かぶ。だが「私の本番のウェディングを倫也が楽しみにしている」というのは考え過ぎか。会ったこともないのにそれはない。私は別案を採用する。
「わかった!選挙の本番が今日だから、心待ちにしていましたよ!って選挙ドレス武装しちゃうって意味だ!」
「実咲さんの中ではそういうことにしておいてください」
「なにそれ、間違ってるってこと?!」
「いえ、その解釈もありです」
新太はふっと笑ってから、ソーサーごとコーヒーカップを持ち上げて優雅に飲み始めた。どうも腑に落ちないが、私はさっそくケーキセットを前に手を合わせた。クリームソーダも純白ドレスケーキも溶け始めてしまう。
「いただきます!」
純白ドレスケーキにフォークを突き刺すのは心苦しい。だが、食べるためのものだ。思い切って突き刺すと、スポンジの層の上に柔らかなマンゴームースが重なり、底にはさくさくのナッツが敷かれていた。
「なんか、見た目綺麗なのに中身が元気なケーキだね!」
「そこが幻の一点ものケーキらしく、絶妙に実咲さんをイメージしていて上手いところでして……腹が立ちます」
新太の脱帽感満載の声を聞きながら、ケーキの綺麗な見た目と中身のわんぱく元気っ子なギャップにふふっと笑ってしまう。
倫也のケーキにはいつだって遊び心がある。まるで元気なかわいい子が純白ドレスを着ています、というケーキに思えた。
もちろん、純白生クリームにマンゴームースにさくっとナッツの相性は抜群。羽のようなライスペーパーのしゃりっと感もあわさって、どこまでも愉快なケーキだ。こんなケーキを食べたことがない。まさしく幻の一点ものケーキだ。
「美味しい!冬なのに中身マンゴーは夏!」
私は顔の前にケーキの皿を持ち上げてにっこりピースして夏っぽいポーズをすると、新太がささやかに微笑む。
「喜んでもらえてよかったです。苦労したかいがあります」
純白ドレスケーキはよくこの大きさであれだけ精工に作れるなと思うくらいのサイズだったので、すぐ食べ終えてしまった。私はしゅんとして、夢の終わりを感じる。
「もうなくなっちゃった……つらい」
「ご褒美って一瞬ですから」
「でもまだクリームソーダがある!夢は続く!」
新太の強い視線を受けながら、私は溶け始めていたクリームソーダをせっせと口に運ぶ。そういえば外は寒かったのに、この冷たいクリームソーダを口に入れることに全く抵抗がない。
新太がスーツの上着を脱いで腕まくりをし始めるほどに、店内で暖房を効かせたのは、まさか、私がクリームソーダを楽しく飲むためか。
私は暖房のあったかさで火照るほっぺたの中で、冷たいバニラアイスを溶かしながら新太をじっと睨む。
「どうかしましたか?」
「いやもう、偏差値で殴られ続けてるなぁと思って」
「いつ殴ったか覚えがないのですが、ご教授頂いても?」
「いただけませーん。偏差値で考えてくださーい」
「手厳しいですね」
新太はクリームソーダの上でほろほろ溶けて行くバニラアイスみたいにほろっと笑う。暖房の温度は変わっていないのに、赤いストローで緑の冷たい炭酸水を吸い上げると、妙に体が熱いのがわかる。
夢のケーキセットの終わりが見えてくる。アイスが溶けて、透き通った緑色にとろんと白が混ざりかけた、飲みかけのクリームソーダ。
クリームソーダはあと半分。私は向かいのソファでコーヒーを嗜む新太をじっと見つめた。新太と目が合って、そろそろ聞き慣れてきたクラシックが耳を撫でる。
「あのさ新太。新太は私に立候補して、いつまでも待つって言ったよね」
私の声がぴんと張ったことに気づいたのか、新太はコーヒーをテーブルに置いて、姿勢を正す。新太が常に私に向けてくれる、聞きますよの姿勢だ。
「でもさ、よく考えてみたら選挙日って、誰が当選するか決まる日でしょ。だから私は今日が決める日だと思ったの」
私の言葉がクラシックに混ざって新太に届く。
「新太は勢いで決めるなって言うけど、君に決めた!って決断するリミットは決まってるものだよ。だって、それが大人だから」
「実咲さんのご意見は真っ当だと思います」
新太の声もぴんと張っているような気がした。
「いつまでも待つと言いながら、決断を受けることを先延ばしにして……言い訳をしているのは私の方でしたね」
新太のすっとした喉仏が上下するのが、妙に視界に残った。私も口に残っていたクリームソーダの味をこくりと飲み込んでから、テーブルの上のクリームソーダのグラスに触れる。
十歳の夏の日、私は純喫茶で新太に飲みかけのクリームソーダを全部あげた。
一人ぼっちでかわいそうな新太をひとりにしたくない苦肉の策で、私はそうした。その話を聞いたときから、私にはどこかでこうする予感があった。
新太は一人でかわいそう、ではない。新太の周りにはたくさん新太を思う人がいる。それに、新太は賢くて、ひとりで何でもできる。
なのに、新太は面倒がかかる私の隣に立候補する。新太は偏差値が高いくせに、バカだ。
そんなバカな新太を知ってしまうと、新太の隣なんて面倒なものを引き受けるのは私しかいないだろう。なんて思うくらいに、私もバカだ。坂本くんとの他愛無い会話ではどこか物足りなくて、やっぱり新太でないとと、思ってしまったのだ。
彼は私の隣を得たならば、間違いなく、その責任を果たし続けるだろう。そう確信させる新太の隣で、彼との関係に責任を果たす大人でありたいと思う。そうやって熟慮を重ねた。
でも最後の一歩を踏み出すにはやはり、勇気と覚悟と思い切りが必要だ。それを後押しするのが選挙日だった。私はこの日に、選び、責任を持つ大人になろうと決めたのだ。
私は正面に座る新太の方へ、クリームソーダのグラスをすっと差し出した。
「私の大事なクリームソーダ、新太にあげる」
新太の目が大きく見開いて、薄茶色の瞳にクリームソーダの緑が映る。私はにっと笑って、私の選択をまっすぐに伝えた。
「実咲と新太で結婚して、本当の家族にするってのはどう?」
新太は大きな手のひらで口元を覆って、わかりやすいくらいに目を泳がせた。遠くへ泳ぐ目に可笑しみが湧いた。新太の思わぬ動揺を全身に受けた私は、こらえきれずに噴き出した。
「何その顔!これって私が断られる流れ?!」
「……いえ、そんなことあり得ません。しかし……思ったより衝撃が強くて、その、言葉が出ませんでした。情けないですね」
新太ははぁと頭を抱えてしまった。私は苦悩のポーズになるのかわからなくて、笑ってしまう。
私の笑い声が響くリーベで、クリームソーダはどんどん溶けて行った。新太がなかなか動かないので、私はそろりと差し出したクリームソーダに手を伸ばす。
すると、新太にひょいとクリームソーダのグラスを取り上げられた。新太がじとりと私を睨む。
「何をする気ですか」
「いや、飲まないなら返してもらおうかなと」
「バカなことを言うのはやめてください。私がもらったものですので、決して返品しません」
赤いストローが新太の口に咥えられる。新太は暖房が暑いのか、目尻を少し赤くしたまま、すぐに飲みかけのクリームソーダを飲み切ってしまった。
口の中を甘くした新太は、いつもの凛々しい表情を取り戻して私と見つめた。
「実はこの店をつくろうと決めたときから、実咲さんからもう一度……そう言ってもらえたらなと思っていました」
「えー……気が利いたプロポーズだと思ったのに、全部新太の思い通りとか腹立つんだけど……」
「私もまさか言ってもらえると思いませんでしたよ」
私はどこまでも新太の手の平の上らしい。けれど、そう言ってもらえたらと思っていたくせに、実際にそう言われて頭を抱えるほど取り乱した新太を見た。私は彼の気持ちが丸見えでふふっと笑ってしまう。
新太と視線が絡み、私たちの間にクラシックが流れる。流れる音が私のプロポーズの返事がくると伝える。私はきゅっと唇に力を込めた。新太の端正な唇が薄く開き、重低音が耳に響く。
「本番用のウェディングケーキを、倫也に依頼しましょう」
橙色のシャンデリアの下で、クリームソーダに溶けるほわほわのバニラアイスみたいに、新太がやわらかく笑った。その表情を、その言葉をずっと、忘れないでいたいなと思った。
私は幻の一点ものケーキに込められた「本番」の意味を知るとともに、いい考えだと大きな声をあげた。
新太と未来を描いて笑い合いながら、選挙の夜は更けていく。
選挙は未来を選ぶこと、選んだ未来に責任を持つこと、その選択とずっと誠実に付き合い続けていくことだ。
何かが変わるかもしれない。
何も変わらないかもしれない。
けれど素敵な未来があると信じて、何かを選び続ける。選挙のあとも大人は続く。
選挙は何かの終わりではない。必死で選んだ道を、最善へと変えていくようがんばり続ける大人の日々の、始まりだ。
大人はずっと大人。もう子どもには戻れない。
だから選挙のあとは、こんな風にケーキを食べて。
また毎日、大人をやっていこうと思う。
〈了〉




