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選挙のあとは、ケーキを食べて。  作者: ミラ


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第六章 寂れたカラオケ屋と勝負服

 翌朝はさあさあと響く秋の雨音で目が覚めた。だるい体をごろりと返して、白いレースのカーテンから雨空のわずかな光を見上げる。手にはまだ握りしめていたスマホ。この無機質な箱はいまだ無言を貫いている。

 起き上がった私は、衝動的にスマホを床に叩きつけた。ガンと大きな音が鳴って、スマホの画面は粉砕した。部屋はまた雨音だけで静まり返った。

 これで静かなスマホができあり。

 ただの機械のくせに私をいらだたせて鬱陶しい。私はパジャマを脱ぎ捨て、適当に着替えた。すっぴんのまま、鞄だけを持って階段を降りた。すーちゃんがリビングからひょいと顔を出して、玄関でブーツを履く私の背中に声をかける。

「なんか大きな音がしたけど大丈夫?」

「うん、ごめん大丈夫。今日はバイトないから。もう出るね!」

「実咲ちゃん、昨日から顔色が悪いような気が……」

「大丈夫!」

 私はすーちゃんの声を振り切って、玄関から飛び出した。私はまだ降り続ける雨の中でタクシーを拾って適当に走るようお願いした。

 雨の中をどこかへ向かって走るタクシーに揺られ、後部座席でぎゅっと目を瞑る。胸が重だるくて肺の半分が雨で水没しているみたいだ。一生このだるい息苦しさにまとわりつかれるのかと思うと、もうやっていられない。

 私は画面粉砕のスマホを家に置き去りにしたまま、大学の授業も休んで、タクシーで逃げ出した。このタクシーがどこに行くのか、わからない。

 だってもう全部、どうでもいい。

 タクシーは一時間くらい走って、どこかの大学の前に到着した。タクシーの運転手さんは私を学生だと認識して、勝手に行き先をどこかの大学に設定したらしい。私の大学よりよっぽど大きなこの大学は、リーベの近くの有名な偏差値高め大学だ。

 私には縁遠い場所でタクシーを降ろされ、傘をさして雨の中をとぼとぼ歩く。初めて大学をさぼってしまった罪悪感が胸を渦巻く。スマホが粉砕したのでサナに連絡もしていない。でも、何もしたくない。

 バカなりに真面目にやったって、いくら信じたって、急にそっぽ向かれる。これをずっとやっていくのが大人だというならもう、大人なんてできない。最初から期待を寄せないほうが楽ではないか。

 選挙よりケーキを食べていた方がきっと、楽しくて得ではないか。

 私は雨で濡れる秋ブーツの先っぽを見つめながら歩き続けた。ずっと雨音が私の耳を犯していて、肺を雨水で埋めて溺れさせ、私を鬱屈に沈め続ける。でも私はじっとしていられなくて、罪悪感や怖いものから逃げたくて歩き続けた。

「あ、すみません」

「いえ、こちらこそ」

 私が早足で歩き続けていると、傘が相手の傘にぶつかってしまった。アスファルトの道ばかり睨んでいた私はぱっと顔を上げる。するとぶつかったのは知った顔だった。二人で顔を見合わせる。

「……進藤さん」

「相原さん、どうしてここに?」

 雨の中でも綺麗に化粧して、秋色大人コーデを着こなす知的ないで立ちの進藤さんが立っていた。思わず憧れた。うらやましかった。私にないものを進藤さんはいっぱい持っている。進藤さんだって新太が知的美女と逃避行したのを見たはずなのに、きちんとしている。

 私は適当に手に取った服を雑に着て、すっぴんで大学をサボってここでフラついている。眉がぎゅっと寄って、声が崩れた。もう無理だった。私は人が行き交う道のど真ん中で、傘を放り出して進藤さんの胸に抱きついた。

「ちょっと、進藤さん、聞いてよ!もう私どうしたらいい?!」

「え、何?!」

 大学の通学路なのか、大学生っぽい人たちが進藤さんに抱きつく私をジロジロ見ながら通り過ぎる。

「は、離れて、相原さん!」

 進藤さんは私を精一杯押し返すが、私はさらに強く抱きつく。嫌味ばかり言ってきた進藤さんが、今は一番遠くて近い人な気がした。誰にも見られたくないバカな姿は、どうでもいい人にこそ晒せる。私は情けない心のうちを全部垂れ流した。

「昨日から新太が一回も連絡してこない!消えてほしいくらいムカつく!」

「ちょ、ちょっと相原さん、こんなところで止めてくれない?!」

 進藤さんが私の耳元で大きな声で静止するが、ストッパーが外れた私は黙れなかった。

「知的美女とかもう意味わかんないんだけど!しかも千木良おじが最低だよ!なんなのみんな!何してんの信じられない!」

 進藤さんは周りをきょろきょろ見て周囲を気にしながら、私の手を引っ張って歩き出した。私はその手に引っ張られるまま、不満をわめき続けた。

「もう嫌だぁー!」

「いい加減に黙ってくれない?!」

 子どもだってこんなことしないのはわかっている。私の年齢は大人だけど、こういうところは全然変わってない。でもこれ以上、大人ぶって我慢していたら、ぶっ壊れそうだった。大人だって、どうしようもなく泣きわめきたくなる時があると思う。

 進藤さんが喚く私を、無理やりカラオケの一室に詰め込んだ。どこの大学の近くにもなぜか一軒はある寂れたカラオケ店である。古臭いソファに身を沈め、私は肩をすくめた。

 低いテーブルを挟んで真向かいのソファに座った進藤さんが腕を組んで、美しく描かかれた眉をしかめた。

「あんな往来で叫ぶなんて、どういう育ち方をしているんですか?信じられないんですけど!」

「おっしゃる通りで……ごめんなさい。でも進藤さんが私のことちくちくイジメたでしょ。その仕返しってことで、おあいこじゃない?」

 進藤さんが通う大学で、女泣かせと話題の的になったら悪いと思う。でも私も進藤さんも迷惑をかけあったので、これでお互い様にしてほしい。

「立派な復讐で驚きました!」

 私は進藤さんの甲高い声を聞きながら、緑色の着色料がたっぷり入ったメロンソーダに白いプラスチックストローを差して飲んだ。

 壁紙がタバコヤニで薄汚れたような個室で、真緑色の体に悪そうな飲み物。テンションがさらに下がる。私は深くため息をついた。何もかもが鬱だ。

 ホットコーヒーを口に運んだ進藤さんは、べーと舌を出した。

「なにこのコーヒー、マズくて飲めたもんじゃないわ」

「わかるーこのメロンソーダもエグ甘いだけ」

 私たちは隣の部屋の歌声がBGMになってしまうヤニ臭い部屋で見つめ合った。進藤さんが行儀悪く大胆に足を組む。

「相原さんが往来でぎゃあぎゃあ言ったの、品がなくて信じられなかったですけど」

「すんません」

「でも実は……なんかちょっとスッキリしたわ。私の代わりに叫んでくれたみたいで」

 進藤さんが口端をにたりと上げて、品のない顔で笑う。薄汚れた壁紙を背にくくっと笑った進藤さんは、アンニュイでかっこよかった。大人にはこういう笑い方もあるのかと、目が惹かれた。

「バカの肩代わりをしてくれて、どうもありがとうございます」

「うわー嫌な女ー」

 ちょっと良い女な部分を見つけたと思ったのに、進藤さんはさっと嫌味で格を落とす。なかなか味わい深い女だ。

 誠に、嫌いではない。

 私もふふっと笑いながらデンモクを手に取った。私と同時に進藤さんもデンモクを持った。ここはカラオケ、やることは一つだ。

「今さら相原さんにつくろっても仕方ありませんからね。私、歌います」

「よし、歌おう。雨に腹立つから、雨縛りで選曲するのはどう?」

「おもしろそうですね。私はどんな男とでも盛り上げれるようにレパートリー豊富ですよ。相原さんの負け決定です」

「え、そんなところでもモテ拾おうとしてんのマジ戦略家」

「すでに婚活は始まっていますので」 

 そこから二人で大声で歌って、声がからからになってしまった。フリードリンクをお代わりして、体に悪い飲み物でお腹をちゃぽちゃぽにした。ぐうたらの限りを尽くして、ヤニ臭いソファに寝転ぶ。

「進藤さん、歌が上手すぎる」

「ありがとうございます。練習も研究もしていますので当然ですが」

 進藤さんのブレない男寄せの姿勢がこの寂れたカラオケで輝いていた。進藤さんは最新曲からちょっと年代ものの歌まで歌いこなした。学ぶものがあると思わされる。私は相手をカラオケで楽しませるという点に置いて進藤さんに余裕で負けた。

「マジすごいね。惚れるわ」

「こういう努力で新太さんにも、なびいて欲しかったんですけどね」

 テーブルを挟んだ向こう側で進藤さんもスカートをくしゃくしゃにしてソファに寝転ぶ。私たちは塗装のはげた天井を見上げて、声を飛ばしあった。

「いやもう進藤さんはあんな偏屈新太より、もっといい男を狙えば?」

「新太さん、すごく好みだったんですよ。条件と顔が。相原さんには勝てそうと思いましたけど……あの知的美女とのお似合いっぷりには完敗です。私はもう撤退します」

「私への評価がヒドすぎて、もはやウケる」

「確かに、酷いですね私」

 私はもうなんだかおもしろくなって大笑いしてしまった。すると進藤さんもアハハと声を上げて笑った。

 笑いが過ぎ去って、また隣の下手な歌声が聞こえ始める。大声で淀みが出きったようで、少し息がしやすくなった。私は天井に向かって言葉をこぼす。

「昨日の新太もマジで腹立つんだけど、千木良おじの不倫報道も地味に鬱でもうほんとだるいの」

「千木良って、群青の党の千木良代表のことですか?相原さんがそんな知的な話題を出せるなんて驚きました」

「はぁー、もう舐めくさってて最高なんだけど〜」

 進藤さんがひょいと起き上がった気配を受けて、私も起き上がった。進藤さんは私をからかうようにクスクス笑いながらスマホをいじり始める。私はもうお腹いっぱいなのにまたメロンソーダを飲んで、喉をちくちくさせた。

「でも相原さん、まだまだ情弱でいらっしゃる」

「情弱って情報弱者?」

「そうです。今回の千木良代表の不倫ゴシップは明らかな偏向報道ですよ」

「え……どういうこと?」

 進藤さんは美しい笑みを頬にたたえながら、私にスマホを手渡した。私はスマホの記事に視線を走らせた。進藤さんはまずくて飲めないと言っていたホットコーヒーをぐいと飲んで、からりと言う。

「千木良代表の不倫は事実です。けれどその事実があったのはもう五年も前のこと」

「五年前?」

「はい、当時はまだ群青の党に勢力がなくて大きく報道はされませんでした」

 群青の党はここ一年でぐいと頭角を現した党なのだ。五年前と今では千木良おじの世間への認知度がまるで違う。進藤さんは続けた。

「不倫の罪が消えたとは言いません。けれど当時、千木良代表は党からの処分を受けました。今はもう奥さんと関係を再構築されています。今回の報道は過去を大きく蒸し返しただけ。立ち直ろうとする夫婦へ水を差したにすぎません」

 私は五年前の日付がついた記事を読み漁り、耳ではきっちりと進藤さんの解説を受け取った。有名大学に通う彼女はやはり、頭が良いのだろう。的確な説明なので、私の耳がスルーしない。

「今さら五年前のことを掘り返した理由は簡単。近ごろ千木良代表への世論支持が急速に高まっているので、メディアがへこませにいったんです」

 私はスマホから顔を上げて、ぽかんと口をあけた。新太から何度も指導されていた。偏向報道には気をつけろと。私はあっさり引っかかってしまったみたいだ。

 千木良おじへの信用がどんとへこんだ。しかし、不倫は事実らしい。私は進藤さんに疑問を投げかける。

「で、でも不倫なんてする人に、進藤さんは票を託せる?」

「何を子どもみたいなことを言っているんですか。『清濁併せ呑む』という言葉を知らないんですか?常識ですよ」

「し、知らないそんな渋そうな言葉……教えて……」

 進藤さんは大げさにため息をついてバカを見る目で私を蔑んだ。だが、丁寧に説明を続けてくれた。この人は、口が悪い。だが、悪い人でもない。

「政治家のプライベートなんて、どうでもいいです。仕事さえきちんとしてくれるなら」

「でも、不倫は人を裏切るって証明でしょ」

「私は清廉潔白で何も決められない奴より、少しくらい意地が悪くて痛みが伴っても、目標を達成する人間に賭けたいです」

 進藤さんは今日もぱんぱんに教科書が詰まったカバンを片付け始めた。私は進藤さんの言葉を理解しようと、綺麗な色をして体には少し毒のあるメロンソーダをストローで吸い上げた。ごくりと飲み込むと、こくんと理解が落ちてきた。

「清濁併せ呑むって……良いところも悪いところも丸呑みにってこと?」

「そうです。何でも潔白にとはいきません。政治家なんてマウントの取り合いですよ。ガッツがなくては」

「進藤さんが言うと説得力ある〜」

 多少の毒を振りまきながらでも、獲物を狩ろうとしていた進藤さんだ。その姿はまさに、目標達成を重視する生き方だ。腹が据わっている。

 片付けを終えた進藤さんは、手櫛でさっと髪を整えてから立ち上がった。

「しかし私はバカではありません。なので、千木良代表のようにやらかし過去のある政治家は特に目を光らせて見張っています。さすがにそう何度も許しません」

 進藤さんはちらりと腕時計を確認してから、ドアを押し開ける。進藤さんは綺麗な外行き用の笑みで私を振り返って、高い声を出した。

「私は今から授業ですので失礼します。迷惑料として、相原さんにお支払いをお願いしますね」

「図太い女で興奮した」

「ありがとうございます。では失礼します」

 進藤さんが軽やかに部屋を出て行った。

 ぽつんと部屋に取り残された私はやっと考え込んだ。もう隣の歌声は聞こえなかった。

 千木良おじが今さら不倫を再度報じられたのには、彼の支持を落とそうとする報道の意図が感じられる。五年前に起こったことを、まさに今起こったかのように報じられたのは騙された感がある。

 私は今すぐもっと情報が欲しかった。だが、スマホは粉砕で家に置き去りだ。自分で考えるしかない。お母さんが私の胸に刺した「自分で考えなさい」の楔が蘇る。私は必死で考えた。

 一度でも不倫した千木良おじを許せるか。

 けれど、私の想う未来を描いてくれる政党が他にあるのか。

 私に、清濁併せ呑む覚悟は、あるのか。

 私の頭にぶくぶくと問いの泡が次々と浮かび上がる。

 私はぶくぶくと炭酸の泡を立てるメロンソーダと、睨み合った。私の望むように生きてくれる完璧な人なんてどこにもいない。私とすべての想いが合う政党なんて存在しない。きっとどこかで折れなくてはいけない。何かを譲らなくてはいけない。

 きっとそれが「選ぶ」という責任の、ひとつの味なのだろう。

 もう誰も信じられないと、投げ出してしまいたくなる。悲劇のヒロインをやって、悟ったふりをしていたくなる。でもそうやって自分の可愛さに酔うのは簡単で楽。

 そして何より──無責任だ。

 私はテレビで「選挙よりケーキ」と言った自分にはもう決して、戻りたくない。あんな幼さは可愛いではないと、私は知ったからだ。

 私はメロンソーダの泡の中に、夏の日の真帆ちゃんの笑顔を思い浮かべる。しゅわしゅわっと炭酸水みたいに弾けて笑う真帆ちゃんの笑みを、守りたい。そのために私はここで決して、放り投げてはいけない。それだけはわかる。

 私はぷるぷるする手でメロンソーダのグラスを手に取った。メロンソーダを高く掲げて、私は隣まで聞こえそうな大きな声で叫んだ。

「おい、千木良おじ!聞け!」

 私はぎゅっとグラスを握りしめて天井に掲げる。

「不倫なんて許せないよ?!許せないけどさぁ!」

 透明な緑色を通した向こうに、天井の電灯がうつる。透明な緑の向こうににじむ、わずかな光。メロンソーダの向こうの未来。私はここに、賭けたい。

「教育格差問題は、死に物狂いでがんばってよ。私が見張ってるんだから!」

 私はメロンソーダをぐいぐいっと全部、飲み干した。喉はぴりぴり、口の中はだるいほど甘ったるい。後味が良いとは言えない。でも全部、引き受ける。

 こうやって私も一緒に責任を取るから、一緒にがんばるから。

 だから私を裏切らないでよ、千木良おじ。あなたに未来を託すのだから。

 私は空っぽになったグラスをこんとテーブルに叩きつけた。鞄から化粧ポーチを取り出して、手鏡を広げてマスカラを塗り始める。化粧を装備して、戦闘服を買いに行こう。そうやって体勢を整えたら、きっちり新太に会いに行く。

 私はきりっと決まった顔で立ち上がって、わざわざマイクを持ってマイクに叫んでやった。

「待ってろよ、新太!」

 キーンと自分の耳が痛くなるほど音が反響した。私はぽいとマイクをソファに投げ捨てた。足が軽やかに前を向く。

 新太から連絡がなくて心配だから探しに行くとか、気になるから走って追いかけるとか、これはそんな生温くて甘ったるい話ではない。

 私がやりたいことはそう「責任者出てこい」だ。

 私は縮毛矯正ばっちりの黒髪を、キュッと一括りにしてからカラオケを出た。


 昼下がりのカラオケを出ると、雨が上がっていた。私は街に繰り出して、新しい服を買った。

 黒のタートルネックと、シルエットが贅沢なマスタード色のロングスカート。

 もう大人っぽいはいらない。愛嬌の良い可愛い女も、今は役に立たない。私がなりたいのは、背筋がすっと伸びて、姿勢よく顎をくっと引いた大人だ。

 時間をかけて装いをじっくり整えた私は、雨上がりの夜道を歩く。降り続いた雨がしっとり染み込んだ夜のアスファルトの香りの上。秋ブーツを鳴らしてまっすぐ進む。

 曇天の割れ目から月の光の筋が差して、私が行く先を照らす。すれ違うサラリーマンたちがふと私に寄せる視線を感じながら、私はビジネス街を行く。

 スマホは持っていないので、新太と連絡はついていない。けれど今日はリーベの営業日だ。新太はきっともう、店に帰っているだろう。

 リーベが閉店して私と新太がいつも勉強会をする時間に、私はリーベの重厚な扉を押し開けた。歩けばひらりとマスタード色のスカートが揺れる。

 入店すると苦味あるコーヒーの香りに包まれる。私を最初に見つけたのは、リーベの制服をまとった進藤さんだった。進藤さんは私の頭からつま先までを舐め回すように見た。

「いらっしゃいませ、相原様……見た目だけは整ったようですね」

「いらっしゃいませの嫌味をありがとう!新太いる?」

 見本のような営業スマイルの進藤さんに、品よく中指を突き立てて笑った。進藤さんは眉と眉の間に深い谷を作ってうふふと笑う。

「はい、知的で美しいお連れ様と一緒にお帰りです」

「いちいちチクチクされるのが最高に面白いんだけど!新太を呼んでくれる?」

「かしこまりました。少々お待ち下さい。負け戦がんばってくださいね」

「心のこもった応援、嬉しい~!」

 進藤さんが急ぎもせず緩やかに、奥へ進んで行く。私はリーベの広い玄関で立ったままだ。真紅のソファへは行かなかった。私が新太の店にこれ以上入るかどうかは、新太の態度次第だ。スーツをきっちり着込んだ新太が、やや足早に玄関へと歩いてきた。

 きっちりしたスーツと違って、セットされていない前髪の乱れが疲れを伝えている。

「実咲さん、連絡が……」

 飴色の壁が光る店内で、私は新太を少し見上げ、薄くマスカラを塗った瞳でゆっくり瞬きをする。

 新太は私の前で足を止め、私をじっくり見つめ、一言目を言いかけてやめた。

 店に流れるクラシックが私と新太の間に流れて、ふと時間の形を感じる。普段なら間髪いれずに小言が第一声と決まっている。けれど新太は瞬き三つ分黙ってから、言葉を選んだ。

「……今日は特別に秋らしい装いですね。よくお似合いです」

「どうも」

 私は短く言葉を切った。褒めて欲しくてこの格好をしてきたわけではない。私は示したいのだ。私はこの場にふさわしい装いと態度ができる大人であること、そして私が真剣だということをだ。新太は少し目を伏せた。

「先日は約束に行けずに、申し訳ありませんでした」

「それを受け入れるかはこれから決めるね。今、休憩中?話していい?」

 新太は一瞬、目を瞠ったがすぐに頷いた。

「休憩にします。どうぞ」

 夏の日に、私の話ならいつでも聞きたいと言った新太の言葉は、今も有効だろうか。新太の誠実な謝罪を受けた私は、すっと背筋を伸ばして新太を見つめる。

 リリカから解雇を受けたときに見た、店長の美しい背筋を真似る。

 意見を伝える時は真摯に、真っ直ぐ、澄んだ声で。

「新太、タクシーの前で女性と抱き合っていたって聞いたんだけど」

「……私が、ですか?」

 新太が思案するように眉間に皺を寄せて黙る。考え込むほどに身に覚えがないように見えるが、女性の身体に触れておいて無自覚もないだろう。

「新太は私に、立候補してるんだよね?」

 私の中に湧いたもやっとを丸めて飲み込んで、私は丁寧に譲れない線を引く。

「千木良おじの不倫は見逃せても……私は私の個人的な立候補者に、そんなバカな真似は許さない」

 留学生との壁バトルで、線を引く苦しさは身に染みている。でもそれでも譲らない。大事なところで絶対ブレないのが真摯さだ。そして、真摯さの上に乗せるのは、新太が授けてくれた知識だ。

 私は顎を引いて、見透かされ続けた薄茶色の瞳に、立ち向かう。

「新太は私に立候補したんだよ。だから有権者の私には、新太が何を考えて行動しているのか、見張る権利がある」

 新太と私はまっすぐ視線を交わし合う。新太の喉仏が私の話を飲み込むようにこくりと上下した。

「私が納得するまで、説明責任を果たしてもらうから」

 どうだ新太、私は学んでいるだろう。怖いだろう。立候補した責任はきちんととってもらう。無断で立候補を下りるなんて、そんな無礼は許さない。私はつい声に力が入った。

「有権者の見張る目を、舐めるなよ新太!」

 つい力が入り過ぎてしまった私の声が、リーベの高い天井に反響してしまった。私の声がクラシックの音と混ざって溶けていくまで、新太は私を見つめたままきょとんとしていた。珍しい顔で面白い。声がやっと耳に染み入ったのか、新太は表情を崩して大笑いし始めた。

 私の演説のどこに面白い要素があったのか、まるでわからない。だが、新太の笑いが収まるまで、私はずっと眉間に皺を寄せていた。新太が崩れた表情を立て直して、低い声で言った。

「……説明の機会を与えてくださって、感謝します。実咲さんにご納得いただけるまで、ぜひ説明責任を果たさせてください」

 新太は笑みがこみ上げるらしく、口元に手をやってまだ小刻みに震えている。

「何で笑うのかな」

「いや、悪い意味ではなくて……実咲さんが大人になったなと思って、堪えきれませんでした」

 新太は深い息をついて落ち着きを取り戻しつつ、目尻を下げた。

「話が長くなりますので、奥へどうぞ」

 どうにも上手に交わされた気がした。やはり新太の方が上手なのかと思う。けれど、説明があるならば、聞いておくつもりはある。

「討論はお互いの主張が出きってから、始まるからね」

「その通りです」

 まだ目元が笑っている新太の前でふんと腕を組むと、新太の後ろからすらりとした女性が現れた。

「お取込み中、お邪魔してもいいかしら?」

 彼女の凛とした声が耳にすっと届く。彼女と目が合った私は、開いた口が塞がらなかった。品性のある化粧に肩までの清楚な髪、ぴんと伸びた背筋が綺麗で知的さがあふれる彼女。私の口から思わず声が落ちる。

「て、店長?!」

「お久しぶりです、相原さん。まさかこんなところで会うなんて、私も驚いたわ」

 新太の後ろに控えめに立ったのは、私が以前勤めていたリリカの店長、一ノ瀬さんだった。ビジネススーツ姿しか見たことがなかったが、モスグリーンの秋ワンピが映えている。進藤さんが新太と一緒に知的美女がリーベに来ていると言っていた。進藤さんが一ノ瀬さんを知的美女と呼んだことに、大いに納得した。

 まさか、新太と抱き合っていたのは一ノ瀬さんなのか。

 一ノ瀬さんは新太の隣に立って、リリカの店にいた時には見せたことのないニヤリ顔をする。

「まさか相原さんが新太の、あの、ミサキちゃんだったなんて知らなかったんですけど」

「私は実咲さんがリリカで働いているのは、知っていましたよ」

 新太がひやりと冷えた表情で答えると、一ノ瀬さんは頬を引きつらせていた。一ノ瀬さんはプライベートではこんなに表情豊かなのか。

「あんたはいつも、しれっと秘密主義で心底腹立つのよね」

 一ノ瀬さんがむっとした声を出す。

「倫也に言いつけてやるから」

「おもしろがるだけですよ」

「本当にそうだから疲れるわ。じゃあまたね」

「お疲れ様でした」

 新太と一ノ瀬さんのやり取りは滑らかで、親し気だ。しかも間違いなく美男美女。華やかで絵になる。新太が立候補先を一ノ瀬さんに変えるなら、私は引き下がるしかない。負け確だ。一ノ瀬さんは私に丁寧に挨拶をしてから、笑顔でリーベを出て行った。ああいうところが、品が良くてかっこいい。

「実咲さん、今日はこちらで」

 新太はいつもの真紅のビロードソファでなく、濃い栗皮色が渋いアンティーク調のテーブルセットへと私を招いた。隣り合って座るソファではなく、テーブルを挟んで向かい合う席だ。私は固い椅子に静かに座る。

 新太はグラスに入れた水を運んできて、私の真正面に座った。甘いものを飲むときではない。席の選び方、飲み物の選び方、両方から新太の生真面目なところが伝わってきた。新太がテーブルの上で軽く指先を組んで私を見つめた。

「まず、最初にお話させていただきたいのは、タクシーの前で私が女性と抱き合っていたという点ですが」

「あんまり生々しい表現は避けてよね」

「もちろんです。相手は先ほどの一ノ瀬さんです。簡潔に言うと、彼女が躓いたので抱き留めました。以上です」

 本当に簡潔で、置いてきぼりになりそうだった。私が瞬きを繰り返していると新太は続けた。

「あの時ちょうど、実咲さんに電話をかけていました」

「途中で電話が切れたとき?」

「そうです。急遽空港へ行くことになり、急いでいましたので……タクシーの前で一ノ瀬さんが躓いたのを受け止めた拍子に、スマホを落としました。水たまりの中へ」

 新太の無駄のない説明で、その場面が目に浮かぶようだった。珍しく慌てていた新太が私への連絡を優先しようと電話をかけている途中で、タクシーが到着、走り込んで来た一ノ瀬さんが躓いた、抱き留める。流れがスムーズで文句のつけようがない。

「あー」

「一ノ瀬さんは転ばずに済みましたが、スマホは水没です」

 ここでスマホが水没して死亡した。だから電話が切れた後、私に連絡ができなかったという理由までばっちりつながる。新太のわずかに下がった眉が申し訳ないと語る。

「飛行機の時間が迫っていたので、移動を優先しました。とにかく時間がシビアだったのだと言い訳させてください。会いに行く相手が……おかしな男でして」

 橙色のシャンデリアの下で新太が深いため息をつく。あまりに深い息に相手が気になってしまう。

「誰に会いに行ったか、聞いてもいいの?」

「本当は伏せておきたかったのですが、説明責任により開示します。相手は倫也です」

 新太の口に度々上る倫也の名前。以前に、無茶振りが大変という話を聞いたことを思い出す。

「倫也は一ノ瀬さんの弟なんですよ」

「え、え?!マジで?」

 倫也の考案したケーキを姉の一ノ瀬さんが店で売っている形のビジネスとして、リリカがあるそうだ。さらに新太は、新太自身がリリカ設立当初から経営陣の一人であることを説明した。私は驚きつつも、純喫茶リーベでリリカのケーキを独占提供できる意味がわかった。

「リリカもリーベも、倫也の才能ありきのビジネスです。しかし、この倫也がまあ……手のかかる男で。芸術家の典型というと語弊がありますが、天邪鬼のクソ野郎で……とちょっと品がなかったですね」

 新太らしからぬ言葉が飛び出すくらいに、倫也は扱いにくいようだ。新太がグラスの水を喉に流し込んで平静を保とうと努力する。

「中学の時からの付き合いですが、気が乗ったときにものすごい独創性を発揮する力があります。けれど、ケーキを考案する時に我々、私と一ノ瀬さんに必ず条件をつけるんですよ……」

「条件?ど、どんな?」

 あまりに重苦しい新太の声に、私はおそるおそる尋ねる。

「過去、特に困ったもので言うと『お姉ちゃんがオーロラを見てきてくれたらケーキができる』とか『新太が国政政党の党首と握手してきたらできる』とか『北海道の甘味を三時間以内に百種類並べろ』とかです」

「え、倫也って鬼畜か何か?」

「私にもそう見えます。しかし、倫也のケーキで稼いでいる私たちは、倫也が私たちで遊んでいるとわかっていても、言いなりになるしかありません。遊ばれるのも仕事です」

 低い声をさらに低く放つ新太から、倫也への恨みつらみが見え隠れした。新太をここまで振り回せる倫也だからこそ、あんなに美味しいケーキを作れるのかもしれない。

「新太も苦労してるんだ……」

「大人ですから」

 進藤さんに教えてもらった、清濁併せ吞む、がここでも発揮されているような気がした。

 新太は続けた。

「さらに私は今、倫也に新作のケーキを依頼しています。実咲さんと約束した例の」

「幻の一点もの?」

「そうです。この条件をクリアしたら幻の一点ものケーキができると言われたら、私は倫也に絶対に逆らえません」

 新太は困ったように微笑んで、またテーブルの上で指先を組み合わせた。

「今回は『五時間以内に新太とお姉ちゃんがセットで会いに来て』でした」

 私は目をぱちくりさせた。東京近郊なら余裕ではと思った。だが、新太が慌て、一ノ瀬さんが躓くほどの焦りから考えると、倫也の居場所は遠そうだ。

「倫也は北海道の僻地に住んでいて、本当に時間がギリギリで。さらに言い訳を重ねさせてもらうと……昨夜は倫也の家に泊まりましたが、彼の家は電波が届きません」

 真正面に座った新太が、背を伸ばして誠実に言葉を重ねた。

「実咲さんへの連絡が遅くなったこと、心からお詫びさせてください。申し訳ありませんでした」

 新太が私に向かって頭頂を見せるほど頭を下げる。新太の説明のどこに綻びがあっただろうか。この説明には全て、芯が通っていた。

 全部、私のためという、わかりやすく固い芯だ。

 私は息をついた。やっぱり、新太がバカな真似をするわけはなかった。そう納得させられてしまう。もしこれが作り話だったら、なんて疑うほど私と新太の関係は腐っていない。私は新太からぷいと顔を逸らす。

「頭下げるのやめてよ。あんまり完璧な説明で腹立ってきた」

「説明責任を果たせたでしょうか」

「はいはい、もう疑う余地なし!」

 新太がゆっくり頭をあげて、目尻を下げる。そのほのかな笑みを、私は横目にきっちり収めてしまう。近頃はどうしてだろう。新太の崩れた表情をよく見るようになった気がする。

 新太は倫也の条件を果たして、電波のある場所に戻ってから、新しいスマホを手に入れてようやく電話をかけたらしい。だが私には繋がらなかったという。私がスマホをぶっ壊していたからだ。

 椅子に座った私も背筋を伸ばしたまま、きちんと頭を下げた。

「スマホを自分でぶっ壊して連絡を絶ったの、私の方だね。疑ってごめんなさい」

「いえ、疑われるようなことをした私に否があります。それに私は嬉しかったんですよ」

「店まで来て詰められて何が楽しいの?」

 きっちり謝罪の礼をしてから顔を上げると、新太がクラシックに馴染む低い声で言った。 その声はまるで、心から微笑んでいるようだった。

「実咲さんに、有権者の目で見張ってもらえる立場にあるのだなと思うと、誇らしいです」

 新太はさらりと言い残して立ちあがった。私は新太の見透かすような薄茶色の瞳に刺されて固まった。

「見張る目を向けてもらえるのは、私への期待の証明ですから」

 私は汗をかき続けるグラスを両手できゅっと握った。手の平が手汗なのか、グラスの汗なのかわからないほど濡れて湿る。俯いてしまった私は、グラスの中の水面に映る自分に気づく。私がした化粧よりずっと、私の頬は色づいてしまっていた。

 この頬が最初からこの色ではなかったことに、新太が気づかないはずがない。薄茶色の瞳が、いつだって私を見つめているのだから。新太が立ち上がった。

「ミックスジュースを持ってきます。次は賠償責任の話をしましょう」

「ば、ばいしょう?」

「私のせいで、スマホを自分で壊したのでは?私に弁償させなくて良いのですか」

 私は色づいた頬でぱっと顔を上げた。

「損害賠償請求する!スマホ買って欲しい!」

「ではまだまだ話し合いましょう。待っていてください」

 また微笑んでキッチンへ向かった新太の背を見て、やっと気づく。私はこうやって、新太にあっさり機嫌を取られてしまう。ため息をつきながら火照る頬に冷たいグラスを当てた。

 ものすごく気合いを入れて臨んだ説明責任の会だった。だが、気がつけばあっという間に新太のペースだ。私がいくら大人になっても、新太には敵わないのだろう。

 けれど、新太はずっと私に責任を果たし続けるだろうという予感が、頬に冷たく、心地よく馴染んだ。そうして甘いミックスジュースを飲みながらリーベで話し合いをし尽くしてから、家に帰った私はすっかり忘れてしまった。

 倫也に大慌てで会いに行った結果、幻の一点ものケーキはどうなったのかと。


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