第五章 秋の夜カフェと電話
夏休みが終わって、私はまたすーちゃんの家から大学へ通い始めた。夏休みを挟んだおかげで、私の「選挙よりケーキ発言」の話題はすっかり消え去っていた。それより誰とどこへ出かけて、ひと夏の恋が生まれた話題で持ちきりだ。
浮足立つ大学の講義室から少し遠ざかって、私はサナと一緒に資料室という薄暗い紙ばかりの部屋にいた。端から端まで全部、資料が詰まった棚が並び立つ。私は腕に大量の紙を抱えて、棚と棚の間をうろつきながら、資料を決まった場所に収納する作業をしていた。
「このバイトってマジで美味しくない?」
「美味しい。授業の空き時間にするっと稼ぐとかスマート」
「通勤時間いらないの神」
「それな」
夏休み明けに教授に呼び出された私は、何を叱られるのかとビクビクしながら研究室へ赴いた。すると教授から雑用のバイトを打診されたのだ。常日頃から私が雑用を買って出ていたことが、この縁につながったのだ。棚の隙間から、夏にこんがり焼けたサナと目が合う。
「実咲のお手柄だね。実咲が雑用してるの、ちゃんと見てる人は見てんだね~」
「それね。うん、ちょっと嬉しかった」
私は資料を丁寧に棚に突き刺しながら、にやけてしまう。教授が良ければ友だちもというのでサナも一緒に雑用に勤しんでいる。サナは無給なら来ないが、有給なら来るちゃっかりものだ。私たちしかいない資料室にサナの声が響く。
「はい、この棚、ビンゴ~」
「だんだん資料の場所、わかってきたよね。気配がする」
「わかりみ」
資料のお片づけという何の監視の目もないバイトなので、サボりたい放題だ。だが、私とサナはサボったりしない。そういう信頼を教授から渡されたと思っている。資料整理しながら、お喋りもする。口も手もしっかり動かす。
私とサナはあっちこっち動き回りながら、棚を挟んで向かい合ったときにだけ高速で話す高等テクニックを披露する。
「実咲、秋からバイトこれだけ?」
「すーちゃんところの壁バイトは終わったんだけど」
「壁バイトはウケた」
夏休みの間、すーちゃんの大学で留学生とバトルし続けた。だが、多様な事情を持つ留学生をただ突っぱね続けたのはさすがに心が痛んだ。それを見越したのか、すーちゃんから留学生支援のアルバイトを続けないかと誘われたのだ。
サナは棚に資料を収めながら、極太のマスカラ睫毛をぱちくりした。
「留学生のサポートバイト?サポートって何」
「いろいろなんだよ」
「例えば?」
「病院の行き方を教えたり、授業で困ってるなら一緒に先生とこへ相談しに行ったり?授業のノート書いてあげたり。もういろいろ生活相談とかお手伝い便利屋って感じ」
留学生たちを追い返し続けた夏をへて、私はこの秋から留学生たちを追い返さなくて済むように手を尽くす方へ回った。サナは少し遠くの棚へ歩いて行って、声を張った。
「へぇ~いいじゃん、やさしい仕事!」
私も手は止めないまま、サナに聞こえるように声を張る。
「でしょ!人の役に立ってる~って感じビンビンあって、しかもいっぱいお喋りするから外国のカワイイものとか流行りとか教えてもらって面白いよ!」
「おもしろいならもっと良いね!」
「そう!良い感じ!」
本当はリリカの店長に褒めてもらった接客を活かせるバイトにまたつきたい。けれど今は私と縁がつながったものを受け入れて、色んなことをやってみようと思っている。
これもお母さんがよく言うあれだ。学生の本分は勉強である、の延長。私は私のできることを少しずつ広げていく最中なのだ。
私は手元の資料がちょうどなくなったので、スマホで時計を確認する。
「サナ、次の授業始まるから行こう」
「おっけーこれ最後!ばっちり!」
「私ら仕事できる~!」
「それな~!」
私とサナは顔を見合わせて笑いながら、資料室を後にした。今から大講義室で授業である。またたぶん半分くらいはわからない。だが、留学生たちが母国語でもない授業を受けてがんばっている。それを思えば、私は母国語の授業くらいきちんと聞かないと、と気合が入った。
大講義室に向けてサナと廊下を足早に歩いていると、サナがそっと私の耳に囁いた。
「それで?あの激イケ新太との仲はどうなったの?進んじゃった?」
「ちょ!?サナ?!いきなり何!」
私はぱっと耳元を手で覆って、睫毛を高速で瞬いた。新太に立候補されたことをサナに報告していない。サナはエスパーかもしれない。だが、きょとんとしていたのはサナの方だった。サナはにやりと表情を変える。
「前は新太なんてどうでもいいってしれっとスルーしてたのに、なにその反応~?どういうこと~?」
「ちょっとサナ、からかわないで。授業遅れるよ」
「はいは~い、授業終わったらじっくり聞くわ」
サナが私の肩をぽんと叩いて引き寄せて、逃がしませんと身体で訴えてくる。私は逃げられないと予感しながら、大講義室まで歩いた。
授業をわからないなりに懸命に受けてから、すーちゃんの大学で留学生支援のアルバイトに勤しんだ。バイトを終えたその足で、私は純喫茶リーベへと向かう。
新太は相変わらず忙しそうで、私との選挙勉強会は閉店後のリーベで行っている。日が傾きかけたビジネス街を歩きながら、私はコンパクト型の手鏡を鞄から取り出して前髪を整えた。
早足で行きかうビジネススーツの人たちとすれ違い、私はふと立ち止まった。
「私どうして前髪直してんの、バカすぎる……」
選挙勉強をしに行くだけなのに、無意識に前髪を整えようとする自分に気づいてうんざりしてしまう。新太はあの帰省の日からまるっきり、本当に一ミリも変わらない。顔を見れば開口一番は小言で、家にほぼいない。
それなのに私は、新太に会うとそわつく。大人の余裕を見せつけられて、いらっとする。でもこういうざわつきが収まってから、新太を選ぶか冷静に考えろと試練を与えられている。
冷静に考えて、新太は小言正論魔人でうっとうしい。
けれど冷静に考えて、サナが叫ぶ「あんなイイ男、他にいない」という客観的意見があるのも理解している。どちらも事実だ。私は手鏡に映る自分に呟く。
「ハァ……選ぶって難しい……」
大人になるというのは、何かを選び、さらに選んだことに責任を持つことなのだ。近頃の私は、それを痛感している。そして、選ぶ苦しみを放り出さずに抱え続け、考え続けることの中にこそ『大人』がある気がする。
私はぱちんとコンパクトの手鏡を閉め、前を向いた。整った前髪を装備した私は、煉瓦造りのリーベを目指した。
閉店後のリーベの重厚な扉を押し開けると、いつも新太を呼びに行ってくれる綺麗なウエイターさんとすぐ目が合った。濃い茶色の髪が純喫茶の雰囲気に馴染む利発そうな彼女は進藤さん。大学生で私より一つ年上だと新太に聞いた。
なぜ私が進藤さんについて新太に尋ねたかと言うと、理由がある。彼女はたぶん、新太に気があるからだ。進藤さんがお手本のような営業スマイルで私に対応する。
「閉店後にいらっしゃいませ、相原様。多忙なオーナーをわざわざお呼びいたしますね」
「はーい、お願いしまーす」
一言ひとことにきっちりチクリとさせる賢さを、別のところに使えばいいのにと思う。この店で勉強するのは、私を「新太の女避け」として使いたいからだと新太から宣言されている。
私は教えてもらう立場として、これくらいはチップとして支払わなくてはいけないだろう。留学生とバチバチにやってきた私にとって、このくらいのチクリは痛くもかゆくもない。進藤さんをさらりとかわして、私は勝手に店の奥に進んだ。
指定席になっている真紅のビロードソファに座って、スマホを見始めた。見るのはYouTubeだ。
最初は政治動画を見るハードルが高かった。だが、ここで新太と一緒に動画を見るうちに、演説や討論を聞くのにも慣れた。今では移動中や長風呂の際にも見ている。
おすすめトピックに上がって来たのは群青の党代表、千木良おじの国会答弁の切り抜き動画。国会答弁はあまりに長いので、十分程度にまとめられた切り抜き動画がアップされているのだ。
「誰か知らんけど編集アザッース。でも合言葉は……耳半分ね」
切り抜き動画は、短時間で要点をつかめてお手軽だ。けれど取り扱いには注意が必要と新太から繰り返し指導を受けている。こういう短い動画は便利だけれど、文脈をぶった切って偏った印象を与えるような作り方をすることがあるそうだ。
そういうのを偏向報道、と言うらしい。
私は千木良おじの動画をタップした。
「本日も額を輝かせながら、日本の未来を輝かせられるよう」
「あ、千木良おじ!待って!音がでかい!」
スマホから大きな音が出てしまって、慌てて教科書やお菓子がいっぱい入ったカバンの中を漁ってワイヤレスイヤホンを探す。なかなか見当たらずにがさがさしていると、私のスマホを長い指がタップした。純喫茶に似つかわしくない千木良おじの声が止まる。
私がほっとして見上げると、スーツ姿の新太が立っていた。
「実咲さん、イヤホンを探す前にまず動画を止めればいいと思いますが?」
「はいはい、段取り悪くてすみませんでした!」
キッと言い返すと、新太もはいはいと言いながら私の隣に座って、ミックスジュースとコーヒーをテーブルに置いた。
私はカバンからやっとピンクのワイヤレスイヤホンを取り出して耳に差す。新太が私のスマホを手に取って動画を確認しながら、もう片方の手の平を私に向ける。
「イヤホン片方ください」
「んー……」
「どうかしましたか」
「いや何でも」
イヤホンを分けるとかむず痒いと言いたかったが、それを言ったら負けのような気がした。しぶしぶ薄ピンク色のイヤホンを新太に渡す。新太は似合わない薄ピンクを耳に差してから、薄茶色の目で私を見透かす。
「私とイヤホンを分けるなんて、意識してしまって恥ずかしいですか?」
私はあんぐり口を開けて呆気にとられる。
「……いやもうそういうノンデリ感がまさに新太で、ドン引いたわ」
「ノンデリ?ノンデリカシーですか。うまいこと言います」
新太はくすりと笑ってから、耳の中のイヤホンの位置を調整する。私だけそわそわして、新太はずっと平常通り。振り回されているようで腹が立つのだが、そうやってずっと凪いだ相手といるとこっちも凪いでくる。これぞ新太の真骨頂だろう。
新太が私のスマホをぽんと押すと、耳の中に千木良おじの快活な声が流れ始める。
『与党である紅の党が行った政策に対する効果について、綿密な調査を』
千木良おじの声を分けあった新太は、一日の中で一番おいしいらしい閉店後のコーヒーを口に運んだ。私もミックスジュースを赤いストローでじゅじゅっと飲んでから新太に疑問をぶつける。
「千木良おじはどうして調査、調査ってしつこく言うの?」
コーヒーカップをソーサーに戻した新太は端正な形の唇を開く。片耳から千木良おじの声、片耳には新太の重低音だ。
「有権者は政策を政治家に託す立場です。ですので、与党が行った政策が本当に国民にとって意義のあることであったか、きちんと精査する必要があります」
「はい、偏差値高すぎ!やり直し!」
「つい癖が抜けませんね……きちんとやったか、振り返りをするのは大事ということです」
新太にやり直しをさせて、やっと頭に入った簡易な言葉に私は頷いた。ミックスジュースをごくんと飲み込む。
「やりっぱなしはダメってことか」
「そうです。選挙でも立候補者たちが今まで何をしてきたか、今何をしているか、これから何をするのかを有権者は調べて、見極め続ける必要があります」
「何を考えて、何をしているか……見張り続ける感じ?」
新太がこくりと深く頷く。
「有権者の目と言います」
「じゃあ見張りを止めちゃって、投票しっぱなしもまた、無責任ってこと?」
「鋭くて的を射た意見だと思います」
私は千木良おじが国会で総理大臣に質問する声と新太の解説を混ぜて、ふと思いついた。ぱっとスマホから顔を上げると新太と視線がぶつかった。
新太の視線はスマホではなく私にあったような気がしたが、私はきゅっと眉間に皺をよせた。今気づいた私の大発見を述べる。
「もしかして大人って、ずっと大人してなきゃいけない感じ?」
新太がこらえきれないとばかりに噴き出して笑った。めちゃくちゃ珍しいウケ反応である。人が真面目に悟った気でいるというのに、何が可笑しかったのだろうか。新太は目元を手で押さえて、震える声で言った。
「そ、そうです。子どもには戻れませんので」
「ちょ、ウケすぎ!当たり前ってバカにしてない?!」
「いえ、そ、そんなつもりは」
「あったな!」
私がわめくと、新太は震える手で私にミックスジュースを押し付ける。飲んで静かにしろとでも言うのだろう。
ミックスジュースくらいで黙るかと思いつつ、騒いだ私はちょうど飲み物なタイミングだったのでそれを飲んで黙った。すると新太はさらに笑ってしまって、知らないうちに千木良おじの動画は終わっていた。
一時間後、時報のようにきっちりと新太が立ち上がって勉強会は終わる。新太が空いたグラスを片づけるために席を外す間に、テーブルの上に置いた新太のスマホが振動した。つい画面を見てしまう。「倫也」と表示が出ていた。
「わぁ、本当に倫也だ」
私の愛するケーキ店リリカの、人気ケーキクリエイター倫也。新太に無茶振りするらしい彼には、私が選挙に行ったご褒美に幻の一点ものケーキを作ってもらう予定である。
「勝手に見てはいけません」
「はーい」
キッチンから戻った新太は、私の後ろから震えるスマホを手に取った。相手を確認した新太が顔をしかめてから、申し訳なさそうに私を見た。
「実咲さん、タクシーを呼びましたので。すみません、この電話には出なくてはいけなくて」
「はいどうぞ、バイバイ」
「気をつけて帰ってください。家に着いたら連絡を」
「わかってるって!」
しっしと手で新太を追い返すと、新太はスマホを耳に当てて店の奥へ消えて行った。私は片づけをしてから、店の出口へと向かう。すると店の扉の前に私服の新藤さんが立っていた。
「相原様、お見送りいたします」
オフィスカジュアル風大人モテファッションが引き立つスタイルの良さと、にこりと綺麗な笑みがちくちくする。いで立ちからマウント取りに来ている感じだ。お見送りなんていらないと思いつつ、どうもと返事をする。
リーベを出て、夜を迎えたビジネス街を走る道路の脇で進藤さんが横並びに立つ。タクシーが来るまでの我慢だ。進藤さんは私よりも背が高く、品の良いナチュラルメイクが決まっている。車の走行音を聞きながら、進藤さんが沈黙を破る。
「もう店を出たのでプライベートとしてお聞きしたいのですが、相原さんが新太さんの恋人だって本当ですか?」
直球だなと思いながら、思案する。新太的にはバリアしておいて欲しいだろうが、心情的に嘘をつくのもどうかと思っていて返事が遅れた。すると進藤さんが先手を打つ。
「違いますよね。到底釣り合っていませんから」
進藤さんは微笑み、私を見下した。
「今日も店に相原さんの声が響いていましたが、とても品が良いとは言えませんでした」
私はマウント女にげんなりしながら、今日も確かに品はないと認める。けれど私はこの女に決して負けないと思うことがある。それは、私は、私がバカだと知っていることだ。この女は決して自分をバカだと認めないだろう。
私はにっこり笑って進藤さんに向き合った。火力勝負なら受けて立つ。
「じゃあ私と同じくらい品がない進藤さんは、私のお仲間ですね!お互い新太には釣り合わないってことで、いっそ仲良くしますか!」
「……は?」
一気に品が落ちた進藤さんの額に寄った皺を見て、私はふっと鼻で笑った。ちょうどタクシーが目の前に停まったので、私はタクシーに乗り込んでからわざわざお別れを言った。私って品が良いので。
「私って報連相ができる大人なので、新太に報告しときます!おやすみなさい!」
私が乗り込むとタクシーは夜を走り出した。進藤さんは頬をぴくぴくさせながら、私を見送った。私はタクシーの後部座席に座り、スマホでまたYouTubeを開き、薄ピンク色のワイヤレスイヤホンを両耳に差す。
全く、大人の私を舐めないでもらいたい。
しつこく残っていた残暑が過ぎ去り、銀杏並木のぎんなんが独特な香りをさせる晩秋が深まってきた。
留学生支援アルバイトを終えた私は、世界最大級のコーヒーチェーン店と名高いコーヒー専門店で、キャラメルアップルスムージーを飲んでいた。リーベにほど近いこの場所で、新太と待ち合わせをしている。
浅い夜を迎えた店内は暖色の灯りが包む。木目調のテーブルが並び、コーヒーの実の大きな写真が印象的な壁が自然派でかっこいいのだ。
落ち着いた大人がコーヒーを飲む場所という雰囲気ばっちりな中で、私も大人っぽくスマホを操作する。窓際の席に座り、スマホで銀行の残高を確認する。私は順調にバイトを続けて、すーちゃんの家できっちり生活を重ね、着実に貯金を増やしていた。
「ふふふ……ばっちりでしょこれは」
新太との選挙勉強会も週に一回のペースでじっくり続けている。冬の選挙が終わったら、また、一人暮らしをする──そして新太との約束、リリカの幻一点ものケーキを食べるのだ。
投票先は群青の党にしようと意志が固まって来ていている。今から幻の一点ものケーキが楽しみで仕方なかった。私はスマホでリリカの新作ケーキを検索して眺めながら、一点ものケーキがどんな形か想像するだけでうきうきした。
ふと大きな窓の外を見上げると、細い秋雨が降ってきた。スマホで時計を確認すると、なんと新太との待ち合わせ時間が過ぎている。私はうっかり声が出た。
「新太が遅れたよ」
あまりに珍しい事件の発生で、雨より嵐が来るのではと思って目を見開いた。時報のごとき新太が、連絡なく遅れるなんて異常事態だ。でもちょっと、人間らしいところを見たようで笑ってしまう。
私はスマホをいじりながら、ぼんやり雨を見上げる。
進藤さんに絡まれたあと、敵意バリバリなのでやり返したと新太に報告した。新太はご苦労様ですと言ってから、次の週からこの店で会うことになった。
リーベの壁役もおしまいになったようだ。おそらく新太はこれ以上、私が進藤さんに絡まれないように配慮したのだろう。
勉強会は本当ならすーちゃんの家でやればいい。だが、新太の身体が空かないのだ。リーベは開店から三か月を迎えているが、なかなか落ち着かない。
新太が店頭に立っているので、それも客が引かない理由だろうと思う。けれど軌道にのるまではと、新太がすーちゃんの家のリビングでぶつぶつ言っているのを聞いたことがある。新太も新太の場所でがんばっている。
大人はみんな、自分の居場所でがんばっているのだ。
私も、胸を張ってがんばっていると言える。だから、遅刻なんて余裕だ。雨の勢いが増して、窓ガラスの外が雨の筋で見えにくくなってきた。時間が五分、十分と過ぎていく。なぜか時間は伸び縮みして、遅くなる。私はカップのストローに口を寄せる。
秋っぽい紅ほっぺ林檎にキャラメルがたっぷりかかった甘々スムージーを太い緑色のストローで吸い上げる。口いっぱいに秋の甘さを感じていると、やっとスマホが揺れた。
「遅いぞ、新太」
新太からの着信だ。私は静かな店内で迷惑にならないように小声で電話に出た。新太の声が耳の奥まで届く。
『遅れてすみません、実咲さん。急な出張で、今日は行けなくなってしまいました』
「あ、そうなんだ、オッケー」
『必ず埋め合わせしますので、帰りは必ずタクシーを、家に着いたら連絡を』
『ちょっと新太!本当に時間ないから!電話してる場合じゃない!』
『いえ、実咲さんには、あ』
ブチッと通話が切れてしまった。私は通話が切れた画面を見つめ、塗り直したばかりのマスカラ睫毛をぱたぱたと動かした。新太が出張に行くなんて話は初めて聞いたが、社会人には色んな出張があるのだろう。ここまではわかる。しかし、聞こえてきたもう一人の声。
「女の人だった」
窓の外に降る容赦ない雨のように、一気に胸の中でざあざあと雑音がした。嫌な感じだ。こんな胸の中は健康に良くない。私はふつふつ湧きあがり始めた脳みそを落ち着かせようと、キャラメルアップルを吸い上げる。甘い、大丈夫、落ち着いている。私はキャラメルアップルを飲み干して一息ついた。
「私との約束をブッチしといて、女と出かけるってどういうことだよオイ」
落ち着いた私の第一声だった。
土砂降りより土砂っていて自分でも驚いた。そのあと、少しぼんやりしてしまって、気がついたら一時間たっていた。やっとここにいる意味もないと思って立ち上がろうとすると、隣にとんと誰か座った。
新太かと思って顔を上げると、そこにはコートの袖の先がしっとり濡れた進藤さんがいた。ここはリーベに近い店だ。窓際に座っていた私を見かけて、わざわざ現れたのだろう。会いたくない相手にげんなりする。
「こんばんは、相原さん。お隣よろしいでしょうか」
「ダメ」
「お隣、失礼いたします」
「聞いた意味あった?」
カウンターテーブルに湯気をあげるコーヒーを置いた進藤さんは、私を見て勝ち誇ったように笑った。雨でもバイト終わりでも崩れていない彼女の化粧には感服する。進藤さんはパンパンに詰まった重そうな鞄を隣の席に置いて、私に体を傾けてわざわざ耳元に囁いた。
「新太さんにすっぽかされたでしょう?」
私に刺さっている棘を見事に皮膚に押し込むような一言だ。私は半身だけ彼女から身体を傾けて避ける。けれど進藤さんのリップが艶やかな唇は閉まらない。
「私、さっき店の前で見ました。新太さんと美女がタクシーの前で抱き合っているところ」
「抱き合ってた?」
人の触って欲しくないところを的確に触る女だなと思いながら、ついその情報に聞き耳を立ててしまう。
「相手は私でもびっくりしちゃうくらい、知的さがあふれ出るような綺麗な人でしたよ」
知的、とは私とは一番遠いところにある褒め言葉だ。きゅっと気管が縮んで息がしづらくなった私は、さっさと荷物をまとめる。もう聞いていられない。進藤さんは立ち上がろうとする私に声を浴びせた。
「まさか堂々と二股なんて、新太さんやりますね……でも悪い男って悪くないです」
私は反射的に進藤さんに言い返してしまった。
「進藤さん、まさか新太が本気でそんなことすると思ってんの?」
「思ってますよ?あのスタイルで若くして人気店オーナーのスペックです。あそこまで行けば浮気もステータスだと思います。私なら浮気も許しますけど」
進藤さんの論理は破綻していて、新太を自分の見たいようにしか見ていないのがよくわかった。よほど新太に相手にされていないのだろう。
しかしこの流れで行くと、私もそうなのかもしれない。だから惨め仲間の私に鬱憤をぶつけているのだろう。
新太は私に立候補していると言った。
あの新太がそんな簡単に気が変わるとは思えない。
思えない──けれど、新太の優先順位は必ず的確だ。
その知的美女とタクシーの前で抱き合うのが、私との約束よりも優先度が上だった。これは揺ぎ無い事実なのだ。ただの仕事。そういう可能性があるのはわかっている。でも抱き合う必要はどこにあるのか。
それに、途中で切れた電話が再びかかって来ていない。これが、一番イヤだ。
埋め合わせはこうするという提案一つ届いてない。新太がそんな簡単なことを欠かすわけがないのに、放置されている。それが現状だ。立候補の信頼を一瞬でぶち壊された気がする。
私は荒れる胸の内でその場を離れようとした。だが、詰め込みすぎで先ほどから不安定だった進藤さんの鞄が、私の進行方向になだれ落ちてきた。
「あ」
屈んで拾った一冊の教科書を見つめる。進藤さんも屈んで鞄からたくさん飛び出た教科書や本を拾い始める。私が拾った一冊は見たことがあるタイトルの名だった。私もリリカでバイトしたときに買った接客の基本としてメジャーな本だ。
進藤さんが拾った教科書は難しそうな理系のものばかりである。どれもしっかり使い込んで見えた。
彼女も、彼女の居場所で、がんばってる人だと知ってしまった。
彼女は嫌味だけど、私はガッツのある女が嫌いじゃない。私は拾った本を進藤さんに渡した。
「ねぇ進藤さん、フラれもの同士、今から一緒にカラオケ行くのどう?」
「はい?行くわけないでしょ」
「そう?じゃあまたね」
私は進藤さんを置き去りにして、さっさとカフェから出た。ずっと雨が降っていた。私は駅へ向かって歩き始めた。タクシーは呼んでやらなかった。新太への反抗だ。
雨に濡れながらすーちゃんの家に帰った。すーちゃんは、すぐに私を風呂に放り込んだ。だが風呂でもちっとも寛げなくて、私は温まりもせずにさっさと風呂から逃げた。
濡れた髪を拭きながらリビングに行くと、テレビには千木良おじが映っていた。何のニュースなのかと気になってソファに座った。
テレビでは千木良おじが記者の人に大勢囲まれていた。私はテレビの声に集中する。
『千木良代表!元グラビアアイドルとの不倫が報道されていますが、事実関係をご説明お願いします!』
自分の声とは思えないほど頭のてっぺんから声が飛び出た。
「ち、千木良おじが不倫?!うっそでしょ!こんな誠実そうな顔して?!」
「まー千木良さんったらヤンチャしちゃったわね~」
キッチンでの洗い物を終えたすーちゃんが、私の隣にふわっと座った。私はすーちゃんと千木良おじを交互に見て、ほがらかに笑うすーちゃんに慌てて問いかけた。
「こ、このニュース本当なの?!」
「千木良さんは認めているってテロップ出てるわよ?」
「え、うそ……!ヤダ!」
まさか、信用して投票しようとしていた千木良おじにゴシップだなんて、衝撃的だった。裏切られた。その言葉で頭がいっぱいだ。
国民の生活を良くしようとする国会議員が、奥さんを裏切って不倫するなんて許せない。そんな薄っぺらい人が政策を動かせるわけがない。私は項垂れ、ソファの上で脱力した。
「千木良おじのこと、応援してたのに……!」
「あらあら、実咲ちゃん、そんなに落ち込まなくても。政治家のゴシップなんてよくあることよ?」
すーちゃんが私の背を優しく撫でてくれる。けれど私はもう頭も心もぐるぐるだ。
新太はブッチで女と抱き合い、千木良おじは不倫だ。
みんなどうしてしまったのか。私が寄せた信頼は女でぶった切る決まりでもあるのか。頭の中でハゲを筆頭に、できる限りの罵詈雑言が駆け巡る。
「私って、人を見る目がない……」
私はすーちゃんが撫でてくれる手から離れて、ぱっと立ち上がった。もう千木良おじが弁明するテレビ映像を見るのに耐えられなかった。選挙について、政治について一生懸命に勉強してきたつもりだ。千木良おじは良い人だと信じて、私の想いを託せると思っていた。
「もう寝るね」
「実咲ちゃん……」
すーちゃんが私の背に手を伸ばしたが、気がつかないふりをして階段を駆け上がった。私は一直線に自室に入って扉をばんと閉めた。幾何学模様のシーツを敷いたベッドに潜り込んで、真っ暗な布団の中でぎゅっと目を瞑る。もう、何も見えない暗闇だ。
私はいつからか握りっぱなしのスマホにまた力を込める。風呂に長湯もできないくらいスマホを手放せないでいる。
だって新太から連絡がない。
もう何時間もたっているのに、まだ連絡がない。千木良おじからも、新太からもバッサリ切られた気がする。目にこみ上げる雫をこらえきれなくて、私は布団の中でぐずぐず鼻水をすすり続けた。
大人になろうと思った。きちんと向き合って選ぼうと思った。
でも、私に何かを選ぶなんて、やっぱり無理だったのだ。
長い秋の夜に、私は真っ暗な布団の中でずっとスマホを握ったままだった。




