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選挙のあとは、ケーキを食べて。  作者: ミラ


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第四章 帰省と夕立と立候補

 夏休みも後半を迎えたというのに、まだまだ夜は暑い。だが、湿度が襲う外と隔離された純喫茶リーベの空気は、今日も澄んでいる。

 閉店時間を過ぎたリーベで、私と新太は真紅のビロードソファに並んで座っていた。橙色のシャンデリアが照らすローテーブルの上には、新太がつくった資料と半分飲んだミックスジュース、私の手にはスマホだ。

 二十の質問に答えるだけで、どこの政党と考えが近いが調べてくれる「政党マッチングアプリ」を試していた。私は隣に座る新太に結果画面を見せつけた。

「ほら、やっぱり群青の党だったでしょ!」

「実咲さんの考えに近い政党が絞られてきましたね」

 夜の純喫茶に似つかわしくない「政党」の単語が、澄んだ空気に溶けていった。ついに本格オープンを迎えたリーベでは、数人のスタッフが閉店後の片づけに勤しんでいる。

 そんなスタッフを横目に、オーナーの新太は私に政治の指導中だ。

 真帆ちゃんに勉強すると宣言した私はまず、一人でネットをうろうろして政治について調べてみた。だが、やはり何が何だかわからなかった。そして行きつく先は当然、知恵袋の新太だ。

 新太にどこの政党に投票するか考えたいから教えて欲しいと頼った。

 新太はすぐ時間を取ると言い、閉店後にリーベへ来いと言い出したのだ。そうして閉店後の選挙勉強会を実施中である。私はスマホをテーブルに置いて、ミックスジュースを赤ストローで吸い上げた。

「どこの政党が、どういう政策を取ってるとか、全部覚えるのは無理じゃない?」

 一息ついた新太はコーヒーを片手に頷いた。

「本質的な良い見解です。全てを網羅することは中々できません。まずは自分の興味関心、重視する政策をメインに、比較検討するのが妥当でしょう」

「難しい単語が多くて耳スルーしてる。はい新太やり直し」

 閉店後なので、髪のセットが乱れ気味の新太が前髪をかきあげる。妙に艶っぽい仕草は夜の雰囲気に似合ってしまう。しかし、偏差値の暴力は健在である。

「実咲さんが教育を重視するのであれば、とりあえずその分野のみで検討しましょう」

「まだちょっと偏差値高い回答だけど、まあわかる。合格」

「ありがとうございます。光栄です」

 新太が私の偏差値に合わせてくれないと会話がなりたたないので、すぐこうなる。新太は私が偉そうに言っても怒ったことがないから不思議だ。私はミックスジュースを飲みながら、スタッフがきびきび片づけを行っているキッチンに目をやる。

「みんな働いてるのに、新太だけサボってて何も言われないの?」

 コーヒーカップをソーサーに静かに置いた新太もキッチンを見る。

「私はオーナーです。それに日中、休憩がないので。この時間が休憩のようなものです」

「休憩に私との選挙勉強会するとかタスクの鬼なんだけど」

「この時間は私にとって心地いい休憩ですよ。スタッフから苦情は出ていませんが、実咲さんに店に来て頂いているのには他の理由もあります」

「どういうこと?新太がこの時間しか空きがないからでしょ?」

 新太はテーブルの上に散らかった資料をまとめながら淡々と言葉を積んだ。

「飲食店はどうしてもウエイターに女性の割合が増えます」

「だから?」

「私は、私の店で女性トラブルを起こしたくないんですよ」

「だから何?新太の話はめんどくさい。はっきり言ってよ、やり直し!」

 私は飲み切ったミックスジュースのグラスを、新太の鼻先に突きつける。新太は私が押し付けたグラスを受け取って、ひんやりした真顔で答えた。

「実咲さんを盾にして、女性ウエイターの方々に、私に好意を向けないよう仕向けたいのです」

 私は話を飲み込むのに苦労した。つまり、私を恋人のように見せびらかしておいて、スタッフたちに彼女持ちアピールしてるというわけか。どこの外堀を埋めているのか。

「頭良すぎて堅物で小言うるさいから浮いた話ひとつないくせに、モテると思ってんのビビるんだけど!」

「実咲さんの中では、そういうことにしておきましょうか」

 新太は資料を揃えて置いてから、すっと立ち上がる。私は新太に教えてもらうためにリーベに来て、新太は私を勝手に盾にしているならウィンウィンか。

「時間ですね。タクシーを呼びます」

 きっかり一時間の授業はおしまいだ。私も帰ろうと立ち上がると、スマホを手にした新太が私を呼び止めた。

「実咲さん、もしかしておばさんと連絡を取ってないんですか」

 スマホと私を交互に見る新太の様子にぴんと来る。私がお母さんからのメッセージを既読スルーしているから、新太のところに連絡が来たのだろう。私はぷいと横を向く。

「だってお母さん、ちゃんとやってるかってしつこい」

「実咲さんが心配なんですよ。夏休みに一度くらい帰った方がいいです」

「ヤダ。遠いから」

 新太は軽くため息をついてから、スマホの上で指を動かした。顔を上げた新太は眉尻が下がっていた。その眉の角度は困った実咲さんですねの意味だ。知っていても知らんぷりする。

「おばさんの家まで送りますから。一緒に行きましょう」

「新太は忙しいでしょ。放っといて」

「嫌です。そろそろ休みを取らなくてはと思っていたので、ちょうどいい口実です」

「お節介魔人」

「何とでも言ってください」

 新太は私の前を歩いて、リーベの玄関まで送り出す。彼は放っておいてと言えば必ず嫌だという。でも本当はお母さんに会いに行っておかなければと、思っていた。新太の薄茶色の瞳はそういう気持ちを全部、見透かしてしまう。


 週明け、リーベの定休日に合わせて、私は新太の車に乗せられて帰省することになった。車で二時間半かけてお母さんのワンルームマンションを訪れる予定だ。帰省と言っても、新太の都合に合わせて半日だけだからと、新太に背を押されて車に乗った。

 高速道路を下りてすぐ、大きな道の駅で休憩することにした。

 道の駅の広い館内には地元新鮮野菜を筆頭に、その野菜を使ったカレーパン、野菜ソフトクリーム、野菜キーホルダーと地元感満載のラインナップが並んでいた。ラムネ色のふんわりワンピでおしゃれしてきた私は、目を煌かせて高い声を上げた。

「何食べよ~!」

「見慣れた地元食材で楽しめる実咲さんはコスパ良いですね」

「うるさいなぁ」

 地元を目指して車で来たわけだから、この道の駅なんて私の地元界隈だ。けれど道の駅なんて何度来ても楽しい。新太は前髪を上げていない休日ラフスタイルのくせに、綺麗めシャツの抜け感コーデで普通に男前だ。だが私に水を差すので腹が立つ。

「褒めていますよ?」

「褒められた感じがしないから赤点だよ、新太」

「手厳しいです」

 新太はふうと息をつくが、まとう空気に尖ったものはひとつもない。私は道の駅を箸から見回って目移りしながら、やっとさつまいもソフトクリームに決めた。

 あたり前のように新太が支払って、私もあたり前みたいにソフトクリームを手に持った。新太と出かけるときは昔からずっとこうだ。

「どこで食べよっかなー」

 ほっくほくの安寧芋がまるごと溶けているらしいソフトクリームは、優しいクリーム色。カリカリコーンの上にもったりした丸く乗っている感じがカワイイ。私がほくほくしていると新太から冷や水を浴びせられる。

「時間がないですから、車で食べたらいいのでは?」

「何言ってんの新太!紫色のお芋パウダーもかかっていて、写真に撮ったら絶対青空に映えるんだから、外で食べるに決まってる!そういうところで、偏差値を使ってよ、新太!」

「……努力します」

 肩をすくめる新太を従えて館内を出た。すると入ったときには気がつかなかったが、道の駅の端の広場の方で人だかりができている。

「何あれ?」

 私はつい人だかりに吸い寄せられてしまった。ソフトクリームを持ったまま、人だかりの後ろから中央に何があるのか見つめた。ぴょんと跳ねて奥を見ると、知った顔が小さな台の上でマイクを持っていた。

 私は隣に立つ新太をぱっと見上げた。

「新太、あれ、群青の党の人じゃない?!」

「群青の党の街頭演説が始まるみたいですね」

「うわぁなんかアガるね。芸能人を見たみたいな気持ち!」

 選挙勉強をする中で、あのマイクを持った小さなおじさんの顔は何度も見ている。

 群青の党の代表、千木良さん。私は千木良おじと呼んでいる。つるんとハゲ頭で背が低い千木良おじは、汗の玉が光るつる頭を聴衆に下げた。

「本日は暑い中、お集まりいただきありがとうございます。群青の党、代表の千木良でございます。頭が光って眩しくて申し訳ございません!」

 千木良おじはつかみジョークばっちりで、私もついクスッと笑ってしまう。

 群青の党は少数政党であるが、近ごろ支持を集めている。若い世代に人気の党だ。大々的に教育改革を掲げていて、真帆ちゃんが直面する教育格差問題について、すごくよく考えていると新太からもお墨付きだ。

「本日も皆さんにお話したいのは、学びたい者が学べる社会についてでございます」

 私も千木良おじが教育格差について解説している動画を何本も見た。私では到底見つけられない道を見せてくれる人だと思っていた。

「私自身、幼いころはお金に不自由をする暮らしをしておりまして、塾など手の届かないものでございました」

 政策なんて絶対にわからないと思っていた。だが、一本だけでも動画を見てみると意外とわかりやすい言葉を使ってくれていて、新太より配慮があるなんて思うくらいだった。まあ、その一本目を一緒に見てくれたのは新太なのだが。

 千木良おじの滑らかな演説を聞いていると、ソフトクリームが形を崩し始めていた。私は慌てて紫色のパウダーがかかったさつまいもソフトクリームをぱくりと口にした。冷たさとお芋の自然な甘みが口の中で溶けあった。

「ん~お芋うんまぁ~」

「初めて街頭演説を聞いた感想としては、非常に斬新だと思います」

 新太は私を見てくすりと笑う。新太にも少し汗が滲んでいるのが見えて、いつもの冷えた表情が溶けているみたいだった。暑さでくずれるお芋アイスみたいに、やわらかく崩れる新太の隣で、十五分間の熱い演説をじっと聞いた。

 真っ青な夏空の下、暑い日差しの中で、熱く政策を語る千木良おじは、好感度抜群だった。さつまいもソフトクリームを写真に撮るのも忘れて「青空につるんハゲのおじさんが熱い」なんて感じる日が来るとは思わなかった。

 街頭演説を終えてからやっと、実家を目指した。

 道の駅から三十分ほどで、お母さんが暮らす築三十五年のワンルームマンションにたどり着いた。お母さんは私が一人暮らしを始めるとすぐに、ワンルームマンションに引っ越してしまった。娘が帰る場所は設けない、というお母さんの意思だと受け取っている。お母さんが私と新太を部屋で迎えた。

 ワンルームに新太がいると手狭だったが、お母さんが作った冷麺を食べていると狭いことなどすぐ忘れた。ローテーブルを三人で囲んで冷麺を食べてから、新太が手土産に持って来たパイナップル大福を食べ始めた。大福をもちもち食べる私を見てお母さんがため息をつく。

「実咲……あんた本当にちゃんとやってるの?そんな子どもみたいに大福がっついて」

「普通に食べてただけだよ?」

「美味しそうに食べているのはわかるけど、品がないのよ」

「失礼すぎてびっくりしてるんだけど……愛嬌があるって言ってくれない?あ、

 でもこの前、新太も、私が食べてるところお手上げって言ってた……」

「ほら見なさい」

 向かい合って言い合う私とお母さんの間に挟まれた新太は、お茶を飲みながら黙っている。綺麗な置物だ。お母さんが私のワンピースを指さした。

「それにその服、胸元が空きすぎよ」

「もう、お母さんわかってない。これVネックざっくり感が大人っぽいのに」

「大人は大人っぽいものなんて着ないの」

「えー理不尽!」

「そんな調子じゃ、すーちゃんの家で新太君に迷惑かけっぱなしなんでしょうね」

 せっかくお母さんに大人になった感を見せたくて、ラムネ色の大人可愛いワンピを選んできたというのに、全部ダメ出しだった。私が果実汁のあふれるパイナップル大福で頬をいっぱいに膨らませていると、置物の新太が口を開いた。

「おばさん、実咲さんはとてもがんばっていますよ」

 新太の低い声にぎょっとしたのは、お母さんよりも私だった。お母さんは新太に身体を寄せて耳を大きくした。

「そうなの?あ、いや気をつかってくれたのよね。新太君、いつも迷惑かけてごめんね」

 お母さんが新太に気遣いで包んだ声をかけると、新太は首を振った。

「私も母も父も、みんなこの夏は実咲さんに助けられています。本当に彼女がいてくれてよかったんです」

「本当かしら……」

「アルバイトも貯金もですが、選挙の勉強を特にがんばっていますよ。私が勉強を見させてもらっていますけれど、実咲さんはやると決めたら吸収力がすごいので。おばさんの心配には及びません」

 私とお母さんは顔を見合わせて目をぱちくりさせた。新太はその後も私ががんばったところを成績表みたいにお母さんにたくさん話して、聞いている私の頬熱が上がってしまった。褒め殺しである。お母さんがこれは本物かもと雰囲気を緩めだしたところで、新太が提案した。

「次の選挙まで今のままがんばれたなら、また一人暮らしを応援してあげてください」

 私は新太劇場に翻弄されて、ぽかんと口を開けるしかなかった。前に約束した、お母さんに再び一人暮らしを認めさせるという条件を、新太は有言実行している。

「そうね……新太君がそこまで言ってくれるなら」

 お母さんは安心したように微笑んで、快諾した。新太パワーがすごすぎると思いつつ、お母さんは私がしっかりしていると聞くと嬉しいのだとよくわかった。きっとお母さんと私だけだったら言い合いで終わった。だから、新太が一緒に来てくれてよかったと思う。

 お母さんに心配かけないように、もっとがんばろう。

 お母さんの笑顔でできた深い皺を見て、もっとやる気が湧いた。

「新太君、昔から実咲のこと見てくれて。本当にいつもありがとうね」

 私が最後のパイナップル大福のビニールを開け始めたとき、お母さんが新太を見てしみじみと言った。

「……そういえば、新太君がうちの家族になってどれくらいたつかしら」

「私が六歳の時に引き取られていますので、もう二十年近いですね」

 私はもちもちの皮に包まれた大福を噛み潰しながら首を傾げた。

「どういう意味?新太はずっとうちの家族でしょ?」

「もちろんそうよ。でも来たのはいつだったかなって話よ」

「来たって……何?」

 私の顔を見てから、お母さんと新太は顔を見合わせていた。私が何かやらかしときの反応だ。新太がゆっくり言葉を選んで、しんと静まり返るワンルームに重低音を響かせた。

「私は里子です」

「え、え……えぇ?!」

「忘れていましたか?」

「あ、新太はすーちゃんとエリックの子どもでしょ?!」

「幼い頃に養子縁組してもらいました」

「聞いてない!」

 お母さんはうろたえる私の横で首を捻った。新太も顎元に手を当てて考え込む。

「新太君、実咲に話したことある?」

「あります。しかしもう十年くらい前かもしれません」

「実咲だもんね。覚えてなくても不思議じゃない」

「そうですね」

「ちょっと?!二人で会話するのやめてくれない?!」

 私は大福を喉に詰まらせそうになりながら飲み込んで、経緯を聞いた。

 すーちゃんとエリックは国際結婚したけれど、体質的に子どもができなかったそうだ。

 なので、養護施設の中で親がいない子の中から新太を選んで養子に迎えたという。新太の見た目が外国人風なので、エリックの子どもとして育てやすいだろうという判断だったそうだ。

「そう、だったんだ……」

 話を聞いているうちに、新太がいつまでもすーちゃんの家から出ていかないことや、すーちゃんをわかりやすく大事にする理由に納得がいった。新太は血の繋がりに甘えることができない。だから、すーちゃんへわかりやすく絆を示していたのか。新太はずっと家族であり続けるように、努力してきたのだ。

 私はあまりに大きな秘密に驚いて、声も出なかった。お母さんは衝撃を受ける私の肩をぱんぱんと叩いてあははと笑った。

「まあ今さら、何が変わるわけでもないでしょ。新太君はうちの家族で、間違いなく実咲の従兄だから」

「そ、そうだね……」

 お母さんはあっけらかんとそう言った。だが、私はなんだか新太との縁がぷっつり切れたような感覚に胸がすかすかした。そんな想いを抱えながら、私と新太は家路につくことになった。

 お母さんに新太君に迷惑かけないでと念押しされて家を出ると、雲行きが怪しくなってきた。日中はあんなに青空だったのに、今は厚い雨雲が今にも泣き出しそうだった。

 新太が運転する車の助手席に座って、窓から雨雲を見ていた。行きは気にならなかったクラシックの音が妙に耳にこびりついて、新太が遠く感じた。

「夕立、降って来ましたね」

 新太は私の様子をちらりと伺って、独り言のように呟く。泣きだしてしまった空はあっという間に土砂降りだ。バケツをひっくり返したような雨がどっと降る。

「一度、停めますね」

 車のワイパーでは雨をさばききれないと判断した新太が、仕方なく行きに寄った道の駅の駐車場に車を停めた。

 群青の党の街頭演説舞台はすっかり片付けられていて、昼の熱気が嘘のように閑散としていた。

 アイドリングした車の中に、静かなクラシックと雨が降りつける音だけが響く。しばらく黙って雨が去るのを待っていた新太が、いよいよ私に話しかけた。

「実咲さん、どうかしましたか。行きみたいにお喋りしないのですか」

 行きはうるさかったと皮肉って聞こえる言葉に、言い返す気にもならない。従兄という薄さとはいえ、親族だと思っていた。なのに急に他人だと思うと、どう接していいかわからなくなってしまった。

 でも新太はそれを全部見透かしてしまっているように、私に問いかける。

「私が他人で、驚きましたか」

 新太に隠し事なんてできない。喉がつっかかったみたいに声が出にくかった。けれど、新太が他人だから距離を取りたくなったと思われたくなかった。

 そんな薄情なことを、絶対に思わせたくない。だから私は拙い想いをつなげて、口を開いた。

「驚いたけど。それが嫌とかじゃなくて、なんていうかその……」

「かわいそうですか」

 私はぱっと新太の方を見てしまった。私の胸にあったのは、それだった。

「……何でわかるの」

「同じように言われたことがあります。実咲さんに」

「わ、私に?」

「実咲さんが十歳の頃です」

 新太はハンドルに両手を乗せて、荒く降る雨を見上げた。私はその穏やかな横顔から目が離せなかった。

 私は十歳の頃に自分が何を言ったかなんて、まるで覚えていない。けれど、新太が言うならそれはきっと真実だろう。

「十歳の実咲さんに私は血がつながってないと話したんですよ。そしたら『新太が一人っきりでかわいそう』と言って、実咲さんは泣いてしまいました」

「かわいそうって面と向かって言うとか、ド失礼じゃない?!しかもすーちゃんもエリックもいて一人じゃないのに!」

「まあそうですね」

 私が声を上げると、新太はくすりと頬を緩めて微笑む。まるで、嬉しいことを話しているみたいだ。

「でもその頃、私はわりと多感な年ごろで。事情のある出自に、孤独を感じる時も……正直言うとありました。不安定だった私は、不登校をやってみて反抗ってどんなものか試したりしていました」

「嫌な子どもだなぁ……」

 私が眉間に皺を寄せると、そうですねと新太はあっさり同意した。

「だから実咲さんの『一人っきりでかわいそう』は妙に確信をついていました」

「それにしてもエグらなくてもいいよね……」

「あの頃から火力が高かったですね」

 私がやらかした話で何も楽しくない。叩くように降る雨が、私の心臓も叩くようで痛かった。

「その話は暇つぶしで入った喫茶店でしました……純喫茶でしたよ」

「あー、あそこか」

 私の中に思い当たる記憶が浮かんでくる。

 百貨店デパートの中にある、古い純喫茶。お母さんとすーちゃんの買い物が終わるまで、私と新太はその純喫茶でよく暇つぶしをしていた。クリームソーダばかり頼んでいた覚えがある。

 新太は懐かしむように私を見つめた。

「実咲さんはかわいそうな私に、飲みかけのクリームソーダの残りを全部くれました。大事なクリームソーダなのに」

「もうそれ恥でしかない……!飲みかけとか辛い」

 私は新太によって、どんどん恥を上塗りされていく。けれど新太は朗らかで、私をいじめたいわけではないのはわかる。

「そこで実咲さんは終わらないんですよ」

「まだあるの……もう耐えきれないんだけど」

 新太はハンドルにもたれていた体を持ち上げて、助手席に座る私に身体を向けた。

「その時、実咲さんは泣きながら教えてくれました」

 新太の声に導かれて、その日の純喫茶の光景が浮かんでくる。

 百貨店の高層階にある純喫茶で、シャンデリアの光が新太の半袖シャツを淡く橙色に染めていた。彼の正面には真新しい夏ワンピースを着た私がいる。

 飲みかけのクリームソーダを差し出した私は、幼さの残る新太に向けて、ぼろぼろ泣きながら言った。

『あのね、新太。すーちゃんとエリックは他人なんだよ。でもね、結婚してるから家族なの』

『それが、どうかしましたか』

『だからね、家族ってね……他人でできてるんだよ!』

 十歳の私はおしぼりで豪快に顔を拭いてから、大きく笑った。新太に元気になって欲しくて力一杯、笑っていた気がする。

 そのときの新太が綺麗な顔をくしゃりと崩すほど表情を変えて笑ったのを、思い出す。

 そのあと私は、なんと言っただろうか。

「……それから実咲さんは」 

 今はもう運転席に座る大人になった新太が私を見つめて微笑む。夕立を切り裂いて、光が差したようにあたたかい笑みだった。

「『だから、実咲と新太が結婚して、ほんとの家族にしよ』と言いました」

 まるで今それを聞いたかのように、新太の声にはこれ以上溶けられないほど蕩けている。私は自分の口元を今さら両手で覆う。

 何という大胆なことを言ったのか。私の睫毛が瞬く。

「私は実咲さんの提案にとても、納得しましたよ」

「いや……子どもの言う事で……」

「そうですね。実咲さんはすぐ忘れてしまうような、とても軽いプロポーズでした」

 新太はそう軽く答えた。夕立が去って雲が薄くなり始めた空を見上げた新太はハンドルを握った。

「でも私は実咲さんのその一言のおかげで楽になって、足場ができたような気がしました。実咲さんに選んでもらえるように、しっかりしようと思って……私はまた学校に行き始めたんですよ」

 車が前進し、高速道路を目指して走り出す。私は車窓から空をぼんやり眺める。新太の言ったことが頭で回っていた。

 夕立の後の薄い紫と濃い橙が入り混じる空みたいに、私は複雑だった。どんな顔をしていいか、わからない。車が信号待ちで止まった。

「プロポーズは覚えていなくても、さすがに私が他人だということは知っていると思っていました。けれど、忘れていたのですね」

「……ごめんね。バカで」

「いえ、想定内です」

「はい、失礼~」

「選挙でいくら有権者に政策を訴えても、全く届かない理由を実感しました」

 赤信号が、青に変わって、新太が前を向く。

「同じ前提に立っていないことが大きな要因ですね」

 急な話の転換に、私は首を九十度くらい曲げたくなった。

「いやさすがにこの話の流れは、理解できなくても私は悪くない。わけがわからなすぎる!」

「そうですね、意図的にそうしています」

 偏差値の差が大きすぎる弊害がいきなり現れて、私は首を傾げるしかなかった。車は高速道路へと入っていく。

 すっかり雨は上がり、夕暮れの橙色の陽が車内に差し込む。車通りの少ない快適な高速道路を安定して走り始めると、前を見る新太の声が響く。

「実咲さん……私はずっと立候補しているつもりだったんですよ」

「立候補?新太、選挙にでも出てたの?初耳だけど」

 しばらく黙っていた新太がまた選挙の話をし始める。新太の意図が読めなかった。だが、私はなんとか理解しようと彼の横顔を見つめた。

「私は実咲さんの夫に、立候補しているつもりでした」

 耳を疑うような言葉が放たれた。

「へ?お、夫……?!」

「昔から今でも、ずっとです」

 新太の顔がちらりと私を向いた。

 薄茶色の瞳が、今は濃い橙色の夕陽に満ちていている。私は新太の言葉を飲み込めないままだ。だが心臓の鼓動が痛いくらい強い。喉は渇ききって、スカスカの声しか出なかった。

「マジ?」

「マジです。それに実咲さん以外はみんな知っていると思います。おばさんも私の父も母もです」

「え?!そういう私だけ知らないの多くない?!」

「まあ、実咲さんですからね」

 新太は息をつきながら、車のハンドルを握り続ける。私はどう反応していいものかわからなくて、両手で頬を挟んだ。クーラーが効いた涼しい車内の温度がぐっと上がって、頬が熱かった。

「こ、これって、告白?!」

「今さらですが、そうです」

「なんでそんな平然としてんの?!」

 夕暮れの高速道路を走る車の運転席で、新太は滑らかに口を動かす。

「今すぐどうこうとは思っていませんので、焦っていないからでしょうか」

 私は今、新太の長年の想いをかけた告白を受けたのではなかったのだろうか。なんと淡白なのだ。これが偏差値の差なのか。こんなに熱烈でない告白にぽかんとするしかない。

「きちんと選んで欲しいんですよ」

「……どういう意味?」

「勢い任せではなく、冷静な状態で、時間をかけて考えた結果……私でないとと、思って欲しい。それこそ、選挙のように」

 私は新太の発想にきょとんとせざるを得ない。なんて偏屈なのだ。告白とか付き合うとか、感情の勢い以外に何があるのか。選挙と並べるなんて、さすが新太だ。意味がわからない。

「実咲さんは今、選ぶ能力を育てている途中です。だから、実咲さんがたくさん学んで、比較検討する間、私はいつまでも待っています」

 私は真帆ちゃんに、きちんと勉強して選挙に行くと誓った。それがそのまま、この状況にも適応されている気がする。

 私は勉強して比較検討して──何かを選ぶのだ。

「あらゆる男と比べて欲しいです」

 新太は前を向いたまま、目尻を下げた。

「誰と比べても、その中で勝ち残る自信がありますから」

 熱烈でない、なんて思ったのは間違いだった気がしてきた。あらゆる選択肢と比べても負けるつもりがないと豪語する新太は、類を見ないほど熱烈だ。乾ききった喉がじんわりと熱い。

「今までもそういうスタンスで来たつもりです。今、示したかったのは私が立候補していること。それを覚えていて欲しいということです。今すぐ選べとは一言も言っていません。なので……」

 夕陽が傾き、新太の顔を照らし続けていた赤い陽がようやく落ちて行く。新太がふと私を見た。その頬が少し赤味を帯びているのを、私は見逃さない。

「実咲さん、私の立候補を受け付けていただけますか?」

 長い付き合いだが、新太の照れた顔なんて初めて見た。その頬の色を見ただけどうしたってこんなの、茶化せない。そんな私のこともきっと、新太は知っている。

 夕陽が沈み、少し暗くなった車内で、私はそっぽ向きながら呟いた。

「……立候補、受け付ける」

「ありがとうございます」

 新太のくすりと笑う音と、ずっと鳴っていたクラシックがようやく耳に届いた。私は窓の外を流れる空を見上げた。夕陽は役目を終えて、夜が訪れる。

 私は夕陽の橙や紫なんて映える色の中ではなく、冷静な夜の色の中できちんと、考えなくてはいけないのだ。

 車内を満たす静かなクラッシックが、青い夏の終わりを奏でていた。



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