新太
急いで荷造りをして、次の週にはもう引っ越しすることになった。
あまりに手早い手続きに驚いていたが、滞りなく引っ越しの日曜日はやってきた。お母さんが家電や家具を全部引き取り、私の荷物は段ボールに詰めた服だけだ。
家具も家電もなくなったスカスカの部屋で、私は迎えを待ち侘びていた。すーちゃんが迎えに来てくれると言っていた。
すーちゃんは私に会うといつも可愛いカフェに連れて行ってくれて、二時間でも三時間でもおしゃべりしてくれる。人懐っこくて丸っこい人で、大好きだ。インターホンが鳴って、私はすーちゃんに久しぶりに会う軽い心でドアを開けた。私はきっちりマスカラを塗った睫毛を瞬いた。
「新太……!」
「相手が誰かを確認する前に、扉を開けるのは感心しません」
一言目から小言の新太が、不愛想な顔で部屋の中に入ってくる。
「す、すーちゃんは?」
「家で待っています。引っ越しの荷物を運ぶなら私の方が適任なので、私が来ました」
久しぶりに見る新太はあいかわらず背が高い。薄茶色の切れ長な瞳が印象的で、鼻筋がすっとした外国人風の顔立ち。スタイルが抜群に良くて、白いシャツを着ているだけで、全てが様になる。一度見たら忘れられないモテスタイルの男だ。
だが、こんなに整った容姿なのに、なぜか新太に浮いた話は聞こえてこない。そのスタイル偏差値の高さを活かしきれないほど、こいつはとっつきにくいという世間様の評価だ。大いに理解できる。
「久しぶりですね、実咲さん。正月以来ですか」
新太はきょろきょろとあたりを見回しながら、部屋に上がり込んだ。私は何も繕わずに言葉を垂れ流す。新太は従兄で長い付き合いだ。気遣いもない。
「うわぁもうすでにイヤぁ、帰りたい。新太はイヤだぁ」
「久しぶりに会った従兄に言う台詞としては、品がないですよ」
「ほらもう小言しか言わない」
私が壁を背にしてぐずり始めると、新太がわざわざ腰を屈めて私に顔を見せる。
「これから一緒に暮らしますので、慣れてください」
「慣れたくないし、顔が良いの腹立つ」
「お褒めに預かり光栄です」
光栄とか言いながら、新太の表情はひやりと冷たい。新太は表情がほぼなく、真顔が基本だ。不愛想の極みであるが、顔はシンメトリーで綺麗なので腹立たしい。
さらに新太は顔面偏差値のみならず、普通の偏差値も激高だ。
私とは別世界の人間だと知っている。
でも近しい親戚なので正月、盆くらいには顔を合わす。いつ会ってもネチネチと正論をぶつけてくるので非常にムカつくのだ。
新太は私に、お年玉は貯金しろから始まって、SNSに身バレするようなものを載せるな、果ては短いスカートをはくなと、細かい親父のようなことまで言い続けてきた。
新太はさっさと部屋に入って段ボールを軽々と持ち上げた。私では五センチメートル浮かすのも大変なのに。
「あーもう帰りたい」
「実咲さんの帰る先は今日から私の家ですので、お望み通り帰りましょう。荷物を運びますね」
愛嬌を売りにする私と、不愛想でも能力でねじ伏せる新太。幼い頃から水と油だと私は思っている。なのに、新太は絶対、私にかまってくる。
もう放っておいてくれと何度言っても「嫌です」の一言でずっと近くにいる。
もう、本当に鬱陶しい兄ポジなのだ。
自家用車に段ボールと、助手席に私を乗せた新太は車を走らせる。車のオーディオからクラシックが流れると、また帰りたくなってしまう。そんな品の良い音楽を私は普段聞かない。
しばらく無言で道を走ってから、信号待ちのときに、ふと新太が私を見た。
「実咲さんが映ったテレビ、見ました。実咲さんのお母さんから前情報があったので録画もしていましたよ」
「うわ~一番出して欲しくない話題もってくる~」
信号が青に変わって車が動き出す。新太は眉一つ動かさない。
「反響は悲惨でしたが」
「ハイハイハイ、すいませんでした! そのおかげですーちゃんの家に強制転居だからね!」
「それは妥当な措置だと思います。内容はまあ……私の想定内でした」
「バカだと思ってました! って言ってるのヒドくない?!」
「そういうのはわかるんですね」
本当に感心したように言うので、いつも腹立たしい。
私と新太の偏差値は二十以上差がある。あまりに偏差値に差があると会話が成立しないとネット記事で知った。まさにそうだと思う。
七つ年上の新太は完全に私を子ども扱い。新太は偉そうに言ったりバカにしたりしない。けれどそれが一番、バカにされているようでささくれ立ってしまう。
私はプイと窓の外を向いて、新太の横顔を見なかった。
しばらくしてから新太がまた口を開く。新太は本当に打たれ強くて、諦めない。私がどんなに邪険にしても話しかけてくる。
クラシックが流れる車内で、新太の重低音の声がお腹に響く。
「テレビ、可愛く映っていましたよ」
私は思わず運転する新太の横顔を見てしまった。口元が緩み始めるのを止められない。私もテレビを見た時に同じことを思っていた。
誰も言ってくれなかったのに、新太がそれを言うのか。
意外だけど、ちょっとくすぐられてしまった。重く響いていた新太の声で、胃がふわりとこそばゆくなってしまう。私はそんな胃のふんわり感を無視して、無理やりむっとしかめっ面をつくって言い返す。
「可愛く映ってたなんて知ってる!」
「そうですか。失礼しました。それで、お願いがあるのですが」
実はもっと可愛かった話をして欲しかったのに、新太はすぐに次の話に移ってしまった。女心のわからないやつだ。だからモテないのだと言ってやろうか。
「家に帰る前に私の職場に寄らせてください」
めんどくさい提案が来た。窓に頭をもたげながらだるさを声に乗せた。
「えーどうして職場なんかに」
「仕事が残っていまして、片付けたいのです」
「職場に私が行ったら邪魔でしょ」
「私しかいませんので大丈夫です。リリカのケーキがありますからお出ししますよ。待っている間に食べてください」
「え!いいの?!リリカのケーキ大好き!」
私はもたげていた頭をぱっと持ち上げて新太の横顔を見た。新太の顎のラインが綺麗でつい目に入る。
リリカは私がアルバイトをしていたキラキラのケーキ屋の名前。私は純粋にあの店のファンだ。辞めさせられて本当に、悔しい。リリカのケーキがあるなら話は別だ。私はあっさり話に乗った。
「新太の職場、行く」
「それは良かった。では行きましょう」
信号が変わり、新太は前を見て真顔で運転を再開する。私は新太がどんな仕事をしているのかまるで知らないが、どんなケーキが待っているかなと考えてちょっと口角を上げた。
新太に連れられてたどり着いたのは、高いビルが立ち並ぶビル街の列に一つへこんだ小さなビルの前だった。
近代的なビルとビルの間にぽんと目立つ煉瓦造りの建物。ここだけ突如としてノスタルジックな建物に目を奪われる。私は新太の隣で背の低い煉瓦ビルを見上げた。
「ここが新太の職場?!レトロ映えビル可愛い!」
「ありがとうございます。そう言ってもらいたいと思っていました」
新太が素っ気なく長い足で一歩前に出る。艶美な装飾がされた重厚な扉を、新太が押し開けた。新太が扉を開けたまま、私が入るのを待つ。
「どうぞ、実咲さん」
導かれるように煉瓦ビルに一歩踏み入る。濃いコーヒーの香りにふっと包まれた。香りを吸い込みながら高い天井を見上げると、ぱっと橙色のシャンデリアが輝いた。
一気に視界が広がる。
「ふぁ……すごい」
そこはまるで小劇場のように、全てが整っていた。
真紅のビロードの背もたれと座面が映える椅子。濃い栗皮色の艶やかなテーブルがセットでずらっと並んでいる。
「ここって、喫茶店?」
「はい、純喫茶です」
舞台の上のような内装だが、ここは喫茶店らしい。私はゆっくりコツコツとヒールの音を響かせながら奥へ進む。明治というのか、大正というのか、古くて懐かしい店内をくるんとスカートを揺らして三百六十度、見渡した。思わずため息が漏れる。
「素敵なお店……!ここが新太の職場?うそ、似合わない!」
「私はこの店のオーナーです」
「オーナーって、社長ってこと?」
「有り体に言えばそうですね。経営者という立場です。この店はまだオープン前ですが」
「新太のくせにセンス良い……ムカつく」
私はむっと眉間に皺を寄せた。この店は絶対に映えて、絶対に流行る。直感でわかる。だってサナと一緒に来てお茶をしたいと思った。
「ありがとうございます。私のことが苦手なのに、良いものは良いと素直に認めるところが実咲さんの美点です」
「単純って言った!」
「言ってません」
新太は私の隣を長い足でゆっくりと追い越して、広い店内の端に配置されたカウンターの奥へと進む。大正浪漫とでも言えそうな店内の雰囲気に、外国人顔の新太は似合いすぎているような気がする。まるで配置された俳優だ。
私もカウンターへ近づくと、ささやかにクラシックが流れ始める。壁面には一面に浪漫ちっくなコーヒーカップとソーサーが並んでいた。
けれど私はコーヒーが苦手なので、この店で飲むならクリームソーダ。レトロな純喫茶のクリームソーダなんて最高だと想像して胸が高鳴る。
天井のシャンデリアを見上げてうっとりしていると、新太が銀色のトレーの上にケーキと飲み物を乗せて戻って来た。カウンターの足長椅子に足をぶらぶらさせて座った私の前にそれをゆっくり並べる。
「約束のケーキです」
金縁の皿に乗せられた、夏空のようなケーキ。突き抜けた薄青色のゼリーが覆ったレアチーズケーキに魅入られる。
「うわぁー!夏空キラキラレアチーズケーキ!食べたかったの!でも食べる前に辞めさせられちゃって!買いに行けなくてぇ!」
私はすぐにスマホで夏空レアチーズケーキをパシャパシャ撮影した。写真には青と白のレアチーズケーキの爽やかさ、バックの純喫茶の重みが自然と調和していた。
「すごい映える~!」
私がケーキの周りで撮影会をしているうちに、新太はカウンターを挟んだ向こうでコーヒーを淹れ始めた。コーヒーの香りがまたこの店に合う。撮影に満足した私は急いで着席した。
「いただきます!」
青空レアチーズケーキをフォークで突き割って口へ運んだ。さっぱりしたラムネジュレと、濃厚レアチーズが口の中で溶けていく。美味しいなんてものではない。私の口から感想が飛び出る。
「ん~夏!」
「斬新な感想です」
新太は自分用にコーヒーを淹れて、淡々と私の隣に座った。私の前にはオレンジジュース。私はパクパク夏色レアチーズを食べながらむっと眉を歪ませた。
「クリームソーダが良かった」
「実咲さんのクリームソーダ好きはもちろん知っています。この店のコンセプトはクリームソーダが映える店です。なので、これはあえてのオレンジジュースです」
「何でそんなことするのよ。クリームソーダ出してよ」
「切り札にしたかったので」
この店でクリームソーダしたかったのに、わざとオレンジジュースを持って来たという新太をじっとり睨む。
新太の薄茶色の瞳が強い視線を送り返して来る。この歴史を背負った店内だと、特に新太の目力が映える気がする。その目が、苦手だ。全部見透かされている感じで、そわつくのだ。新太がゆっくりと形の良い唇を開く。
「実咲さん、リリカのケーキクリエイターを知っていますか?」
「もちろん知ってる。ケーキ界隈の有名人、倫也でしょ?」
「はい、倫也と私は中学からの友人でして。その縁で、この店で出すケーキは全てリリカから仕入れます」
「マジで言ってる?!」
「事実です」
私は夏空レアチーズケーキの残りと、新太の整い過ぎた顔を交互に見比べた。この姑みたいに小言を言う新太と倫也が、友だちだなんて、世の中すごいことがあるものだ。私は口をぱっくり開けたまま言葉が出なかった。
「私がこの店をやるにあたって必ず実現したいメニューがあって、倫也にも協力してもらっています。つまり」
「新作ケーキだ!」
「察しがいいですね。その名も」
「その名も……?」
私はもうすっかり新太の話の虜で、ケーキクリエイター倫也の特別メニューとは、の魅力にとりつかれていた。ごくりと喉を鳴らすと、新太の重低音な声が響いた。
「『選挙のあとは、ケーキを食べて。』です」
私はがくっと首から力が抜けた。リリカのケーキに期待した。どんなに美味しそうな名前が出てくるのかと思いきや、一気に新太の思想が出てきてげんなりする。
「うわ!もうそれ、すぐやらせたいことわかったんだけど!選挙行ってきたらその特別ケーキを食べれるっていうメニューでしょ!」
「わかりましたか?」
「あーもうわかった!選挙行くから!それでいい?!」
「いえ、話はそんなに簡単ではありません」
リリカの新作ケーキが食べられるなら、今度の選挙は必ず行こうと思った。けれど、新太はゆっくり首を横に振る。私の苦手な見透かす目で私を見通している。
「選挙に行きさえすればいいと思ったでしょう?」
「心読まないでよ」
「それではいけません。冬に次の選挙があります。きちんと、考えて、選んだうえで選挙に参加してください。それが条件です。私たちはこれから一緒に暮らします。実咲さんが考えて選挙に参加したか、適当にポイと票を投げたか。それくらい見極められますよ私は」
「だろうね!」
新太は私を見透かすのが得意だ。確かに適当にやったらバレるだろう。一緒に暮らす弊害だ。けれど、私は低い声で条件なんて突きつけてくる新太に、ふんと鼻息をかける。そんな条件を飲む筋合いはない。
「ここはお店で、その選挙特別メニューは誰でも注文できるんでしょ?私にだけそんな条件突きつけるなんておかしいでしょ!」
「そういうことは頭が回るんですね」
「はい、ナチュラル失礼!」
「ではこういう条件はどうですか?」
ずいと私に顔を寄せた新太の重低音を胃に受ける。
「実咲さんが真剣に考えて選挙に参加したら、この世で実咲さんだけが食べられる『幻の一点ものケーキ』を作ってもらいましょう。倫也に」
胃に入った夏空レアチーズケーキがしゅわしゅわと存在を主張してくる。倫也のケーキはおいしいよ、特別だよ、世界に一つの一点ものだよと語り掛けてくる。
私の口に涎がじわじわ増える。新太の瞳が私を射抜く。私も新太の目から視線を逸らせない。
「ま、幻の一点もの?」
新太は私をケーキで釣って、きちんと選挙に向き合わせようとしている。
そうお膳立てされていたのだろう。きっとお母さんから実咲をお願いとか言われたのだ。わかりきっている。それに乗るのは非常に腹立たしい。新太の思い通りになるのが嫌だ。
でも、倫也の幻の一点ものケーキなんて、絶対に食べたい!
私はその一点でぐるりと翻る。それも新太の計算済み。私が口を引き絞って屈辱に震えていると、新太がダメ押しした。
「幻のケーキに、この店で一番映えるクリームソーダもつけますよ。今みたいに店を貸し切りにしてもいい」
「私の好きなもの全部おさえてズルい!人でなし!」
「何とでも言ってください」
「そんなの、やるしかないじゃない!」
私の張り上げた声が高い天井のシャンデリアに反響してしまった。
私は二人っきりの新太に向けて宣言した。
「新太がびっくりするくらい、しっかり考えて、選んで、選挙行ってやる!」
「そう来てくれると思いました。さすが実咲さんです」
新太がぱんぱんと感情の伴わない拍手して私を子ども扱いする。いらっとするのだが、私は新太の高い鼻先にぐいと鼻を寄せて言い返す。言われっぱなしは性に合わない。
「もちろんお金は貯めるけど。私がきちんと選挙に行ったって新太が認めたら……お母さんにもう一回私の一人暮らしを認めさせるって約束してよ。どうせ新太が教育係みたいに言われてるんでしょ」
「鋭いですね。わかりました。協力します」
「ようし!倫也の幻のケーキも!一人暮らしも!ぜーんぶ手に入れてやる!約束ね!」
私が新太の前に小指を立てた手を突き出すと、新太の大きな小指が小指に絡まった。約束の合図だ。
私は絡まった小指を上下に揺らして、約束を飲み込んだ。選挙に真剣になるなんて、どうしたら新太に認められるのかなんて、まるでわからない。
けれど今、新太の口端が微かに上がった。
私は長い付き合いだから、新太が今、ご機嫌だとわかる。浅い付き合いなら新太はずっと無表情と受け取られるだろう。
新太は固くて正しすぎて、うざったい。
けれど、新太は私の「どうして」にずっと答え続けてきた実績がある。
新太は幼い私が発するどうして空は青いのかから、なぜケーキはデザートなのかまであらゆる疑問に向き合ってきた。新太がきっちり回答しても、私はまるで覚えてなんていないのに、何千回と繰り返した。
だからお母さんは新太を信用していて、私を新太に預けた。
私はお母さんが立派になったと思ってくれるくらい、新太に教えを請い続け、考え続けなくてはいけない。
新太がいるすーちゃんの家は、そういう場所だ。
私は新太と二人っきりの純喫茶で、新太を睨みつける。新太が真顔で言う。
「私は実咲さんの味方ですよ」
「どこが!」
私はすーちゃんの家で修業を積んで、幻の一点ものケーキを食べるために、選挙という巨大な問題に、立ち向かう。
私は覚悟を決めて、夏空レアチーズケーキの残りの一口をぱくりと食べた。
夏空ジュレとともに、私の青い夏が始まった。




