第6話「8秒」
慎之介と快斗の出会いから数日後。モーゼスの現場責任者である次藤に警察から衝撃の連絡が入った。なんと、自分こそが片山由希を脅迫していたと名乗る、いわば真犯人を自称する人物が自首してきたというのである。
あまりにも急で不自然すぎる真犯人の登場ではあったが、その自白内容には今までの事件の供述と一切矛盾がなく、また被害者である片山も態度を一変させて新たな証言を拒否し始めた。さらに溝端もその真犯人が現れる前後から『片山とはもともと恋愛関係だった』『勘違いした高校生たちが急に殴り掛かってきたのでやむなく応戦した』などと自分に都合のいいストーリーを語り始めたというのだ。
急転直下な展開ではあったが…事情を聞きに警察署に訪れた次藤を応対した警察官も「そちらを疑ってるわけではないんですが…」と苦々しげな顔をする。警察や検察内部でも何かあったと思わせるには十分だった。
さらには数日後、ある大手の企業数社が「謂れなき悪評に貶められたモーゼスの闘う姿に共感する」と評価し非常に好条件のスポンサー契約をモーゼスと締結したいと連絡があった。さらには将来的な契約解除を検討していたかつてのスポンサーも掌を返したように契約継続を通告、これにより窮地に立っていたモーゼスはむしろ一気に大躍進することとなったのである。数少ないながらも残留していた所属選手はこの知らせに大喜び、これでまた選手が集まり大会を開けるかもと期待するが…。
快斗は、自身を取り巻くこのあまりにも急激な変化に、むしろ不自然さを感じていた。まるで漫画のような大掛かりな巨大組織が何かを企んでいるような違和感。それは、彼が会った慎之介や哲司、そして片山の表情が頭から離れなかったから。慎之介たちが嘘をついているとは思えないし、彼らの勘違いだったのか?いや、そうとも思えない。それに真犯人は現れたものの、いきなり現れた真犯人を名乗る人物など、警察関係者はそう簡単に信用するだろうか?…本来ならば大歓迎すべき事態なのに…。
戸惑いを振り切るように、快斗がダンベルを持ち上げている。そこにある人物が声をかけてきた。モーゼスの現場責任者、次藤である。
「どうした快斗、なぜ喜ばない。溝端の無実を一番信じていたのはお前だったろうに」
次藤はそう声をかけるが、次藤も浮かない顔である。この不自然さは彼自身もわかっていた。警察官も急に現れたスポンサーもどこか対応がおかしいのだ。先に会ったスポンサー担当は、ずっとうわの空でモーゼスと言う団体名も他のプロレス団体と間違うほどだったし、自分たちの団体への興味など全くないようだった。プロレス会社担当にしてはあまりにもおかしい。
「次藤さん…こんなこと、ありえるんですかね?話がうますぎますよ」
快斗は疑念を口にするが…お前は気にしなくていい、と次藤は笑い、次の予定を確認する。そろそろ社長の佐川とスポンサーのところに挨拶に行く時間だ。このスポンサーに至ってはプロレスとアマレスの区別も全然ついていない始末だが、それでも失礼があってはならない。次藤は軽く快斗に挨拶をして準備のために去っていった。
快斗は思案する。そう、あまりにも出来すぎとはいえ溝端の釈放、そして大手のスポンサーがつくなど、本来ならば自分が一番手放しで喜ぶべき状況だ。にもかかわらずそれができないのは慎之介たちの顔が頭をよぎるから。
「あとで、慎之介にも連絡しておくか…花宮って学校終わるの何時になんのかな」
以前花宮高校に不意に訪れた後、関係者全員…次藤や同僚、はてには後輩や外部の井上からもとんでもなく大目玉を食らったことを思い出して反省し、快斗はまたトレーニングを続けた。
さて、ところ変わりここは花宮高校ボクシング部。放課後、部員たちが練習に励んでいる。そこに訪れていた慎之介が快斗から聞いた話を哲司や絵美里に伝えた。真犯人が現れ、溝端が不起訴になったことなどを。それを聞いた絵美里も顔を暗くして慎之介に話す。
「実は由希もここ最近、ずっと学校に来ねえんだ。電話にも出ねえし…やっと出たと思っても、泣きながら謝るだけで…家には居るみたいだけど、家に行っても由希の親が会わせてくれねえんだ。もう、うちの子には関わらないでください、って」
絵美里としては、片山が訴えを諦めても仕方がないとは思っていた。民事・刑事事件を問わず、裁判が続けば、いずれ自分のトラウマを証言せざるを得ない時も来るだろう。豪胆な絵美里でさえ、もし自分がその立場になったら、と想像すると嫌な気分になるし、ましてや片山のような大人しい人間にとってそれはあまりにも過大な負担だろう。それを恐れて証言台に立たなくても、それはもちろん理解できる。だが、こういう終わり方は、絵美里も哲司も想像していなかった。
さらに、哲司もまた重い顔をして話し出す。柴崎…かつてボクシング部に所在して、慎之介相手に何度かトラブルを起こした自分の後輩の事を。
「柴崎…アイツ、退学したんだ。ボクシング部どころか、ずっと学校にも来ねえと思ったら…おととい、顧問から聞いたよ。短気で思い込みは激しい奴だったけど、まさかそんなことをするなんて思っていなかった…あ、勘違いするなよ。決して、お前のせいじゃないからな。それは俺が約束するよ」
哲司はそう言うも、慎之介もこの言葉にはショックを受け、深く俯き言葉を無くす。哲司は、悪いのは柴崎だ、と精一杯慎之介を気遣って言うが…思えば入学当初、哲司のうわさを聞きつけた自分がボクシング部に道場破りなどしなければ、こういう形にはならなかったのかもしれない。自分がそんなことをしてしまったから、結果的に柴崎は退学と言う形になってしまったのか。哲司も絵美里も自分を気にかけてくれるが、この二人は片山由希の一件を見るに元々優しい人間なのだ。記憶が過去になるまでしばらく姿を現さない方がもしかしたらよいのかもしれない…慎之介はそう考え始めた。
「残念です…じゃあ、僕は、今日はこれで…」
そう言い残して去ろうとする慎之介に、哲司と絵美里が優しく声をかける。また来いよ、と。
「何を悩んでいるのかと思ったら…それは、その柴崎って奴の自業自得だろう。お前が悩むことじゃないぞ」
自宅に帰った後、浮かぬ顔の慎之介から詳しい経緯を聞き取った詩音がそう言う。山道越え30分を切るどころかいつも以上に遅い帰宅…それを心配した詩音が慎之介に問いただしたのだ。
「しかし、喧嘩を売られて負けただけならまだいいが、それを逆恨みしてまた負けたら逃げ出すように退学かよ。終わってんな、その柴崎ってやつ。マジで○△※◎✕§÷(標記するには差し支える過激な罵倒)だな」
ここ最近は毎日のように霧神家に訪れている大輔も、その事情を聞いて呆れたように柴崎を罵倒する。いや、私はそこまで言うつもりはないが、と詩音も呆れるが、ともかくそれはお前が気にすることではないんだぞ、と改めて慎之介を優しく諭す。
慎之介は思う。この二人は間違いなく自分を思ってくれてそう言っているのだろうが、男女の違いはあれど、どちらも圧倒的な強者であるがゆえか、どうにも弱音とか悩みとか迷いとか、そういうものをほとんど聞いた記憶がない。生まれついての天賦の才と言うものも勿論あるのだろうが、霧神家における特訓…圧倒的な鍛錬だとか妙な呼吸法だとか、そういう他人から見れば狂気じみた訓練というか苦行を二人して競うように若い頃から繰り返していたせいなのだろう。マッチョイズムというか、精神的にタフすぎるのだ。
(ライバルがいるってのも善し悪しなんだなあ)
そういう存在がいない自分にとって、慎之介にとってはそれがほんの少しだけうらやましく思えた…マッチョイズムは別として。
次の日の朝、モーゼス道場に溝端が訪れた。昨夜釈放され、道場に挨拶のために顔を出したのだ。道場にいた快斗やほかの若手…リュウ・フジカワ(本名 藤川隆)と宮崎優太が、お疲れさまでした!ご苦労様でした!と溝端に声をかけ、頭を下げる。
「ったくよお、ひどい目に遭ったぜ…ま、拘置所にいたってのもいい経験になったかもしれねえけどよ」
と、溝端が毒づく。優太が道場の冷蔵庫から溝端に水を差し出し、溝端はそれを一気飲みするが…。
「くそったれが、あのガキども。絶対に許さねえぞ。見つけ出してぶちのめしてやる」
と、とんでもないセリフを言いだした。確かに溝端がもし何の謂れもなく逮捕されたのなら当然の感情なのかもしれないが、それでも自分を通報した高校生への復讐とは穏やかではない。快斗、リュウ、優太の三人は仰天し、そのうち一番先輩であるリュウが溝端を諭す。
「溝端先輩、お気持ちはわかりますが、誰が聞いているかわかりません。今は過激な言葉は控えた方が…」
「なんだてめえ!誰に口きいてんだ!会場冷やすだけのかませ犬が偉そうな口利きやがって!この三流が!」
リュウの諭すような言葉に溝端は激昂し、ひどい侮蔑の言葉とともに空のペットボトルを投げつける。リュウも理不尽に感じながらも、すいませんでした!出過ぎた真似でした!と謝る。
先輩の命令は絶対。黒いカラスも先輩が白と言えば白になる。昭和の時代ほど理不尽ではないものの、極まった体育会系…この業界はそういう場所なのだ。しかしそれでも、リュウに対する溝端の今の仕打ちと侮蔑は限度を超えている。快斗の記憶の中の溝端より今の態度は輪をかけてひどくなり、かなり増長しているようだ。明らかに不自然な不起訴処分と何か関係があるのか…?快斗はふとそう考えた。
頭を下げ続けるリュウを見て舌打ちしながら溝端はその辺の椅子に座り、自分のスマホをいじりだす。
「言っとくがな、俺は護られてるんだよ。じゃなきゃ不起訴で済むわけがねえ。どこかの誰かが俺を必要として裏から手をまわしたんだよ、きっと」
スマホのゲームを開きながら溝端は根拠もなく自信満々に言う。いったいこんな人間を、誰が何のために守るというんだ、と言いたげにも、それでも頭を下げ続けているリュウと優太を見て、快斗が溝端に尋ねる。
「溝端さん…一つ、お聞きしてもいいでしょうか?」
あん?と不機嫌に口を開く溝端。ずっと快斗が思っていた疑問。溝端が逮捕された時には思ってもいなかったこと、しかし片山や哲司、絵美里、そして慎之介と会ってから、ずっと感じていた疑問…。
「…女子高生を脅していた…というのは…それ…本当…だったんですか?」
とぎれとぎれで不自然な言葉ながらも、ようやく口に出せた疑問。リュウも優太も快斗のその言葉に仰天する。何を言っているのだ。誰よりも無実を信じていたのは快斗だったじゃないか。それに不起訴になった今なぜそれを口に出すのか、と…しかし溝端は笑って言う。
「ああ、そうだよ。なんか悪いのか?まあ、つまんねえ女だったけどよ」
と。
溝端から飛び出したさらに信じられないその言葉に、頭を下げながらもリュウが目を見開き歯ぎしりする。同じく頭を下げている優太も、爪が食い込むほど拳を握る。自分たちがいったいどんな気持ちで事件を見ていたと思っているんだ、自分たちがどれほど団体の行く末を悲観していたと思っているんだ、それに自分の勝手な欲望の犠牲になった被害者に罪の意識は微塵もないのか、というこれ以上ないほどに深い怒りで。
快斗はただ目を瞑り、溝端の言葉を黙って聞き、大きく息を吐く。溝端は調子に乗ってさらに言葉を継いだ。
「そういや、俺がぶちのめしたあの高校生のガキ…澤山哲司って言ったかな。あの彼女もなかなか…」
「…ふざけるな…」
あん?とスマホをいじりながら溝端が快斗を見るが…。
「ふざけるな!!お前なんかプロレスラーじゃねえ!!絶対に許さねえ!!」
と快斗は泣きながら全力で叫び、椅子に座っている溝端を渾身の力で殴り飛ばした。
さて放課後、ホームルームを終えた慎之介。片山や柴崎のことを思い出し浮かぬ気分ながらも帰路についている。高校前の停留所から自宅の山の前でバスを降り毎日の日課である山越えに挑もうとするが、色々あったことを思い出し、今日も30分切れる気がしないなあ、とため息をつくが…ふと、自分のスマホが鳴っていることに気づく。画面を見ると、快斗からの電話だった。なんだろう、と思い電話に出るが…。
『よう慎之介。急な話だが、実は俺、プロレスラーやめることになったんだ』
「ええっ!?」
驚く慎之介に快斗は言う。慎之介たちの言っていたことは真実だったこと。溝端は間違いなく片山由希を脅迫していた。なぜ真犯人を名乗る人物が現れたのか、なぜ不起訴になったのかはいまだによくわからないが、溝端は『自分は護られている』と言って何も反省していない。いやそれどころかさらに増長し、片山や哲司、絵美里にまた危害を加えようとしている。あまりにも許せないから全力でぶん殴ったら、溝端が怪我をして入院することになった。はっきり言ってせいせいしたし殴ったことに後悔は微塵もないが、責任を取って辞めることを決意した…と、快斗はそう言った。続けて…。
『俺が護りたかったのはモーゼスという団体だった、あんな卑劣な人間じゃない。だが団体を護りたいがために盲目になってあんな奴をかばい、お前たちに迷惑をかけちまった…本当にすまなかった』
…と。
「そんな…快斗さんが辞める必要なんてないじゃないですか!悪いのは溝端でしょう!?それにプロレス界の超新星が、そんなことでやめていいんですか!?」
と慎之介は説得するが、快斗はもう引退を翻す気はないようだ。ただ…。
『お前この前言っていたよな。格闘家連続殺人事件の犯人と戦うつもりなら、まず自分を倒せ、って。俺、実はあの時すげえワクワクしたんだ。高校一年生の子供が、溝端を一瞬でKOした。そんな奴と戦えるって思ったから…。溝端が退院する前に俺は合宿所を出ていかなきゃいけないが、医者が言うにはあと二週間あるって話だ。二週間後…俺のプロレスラー生活最後の思い出に、お前と戦いたい。非公開ながらも引退試合って奴だ。それだけは…伝えておきたい、お前に頼みたいって思ったんだ』
「そんな…」
『日付と時間は追って連絡する。非公開だから限られた人間しか見届けないし、事件が終わった今なら仮にばれても世間もそれほど騒がないだろ…プロレス界の超新星『だった』男、清原快斗。その最後の頼みだと思って、ぜひ受けてほしい』
そう言い残して、快斗からの電話は終わった。
快斗との電話の後、鬼気迫る表情で山越えをする慎之介。
いつものように姉の詩音に連絡をしてから山越えし、詩音はスマホで測ったそのタイムを伝える。それが慎之介の山越えの試練ではあるが…。詩音がタイムを伝える前に、いつもと違う慎之介の表情に気づく。いつもは息を切らせながらも期待に満ちた表情で詩音を見る慎之介だが、今日はいつもと違う。いつものように全力で走り息を切らせながらも、その表情に期待はない。悲壮感や決意といった別の強い意志を感じた詩音が、怪訝そうに慎之介を見る。
「タイムの前に…慎之介、今日はいつもと違うな。どうした?いったい何があった?」
詩音のその問いに、息を切らせながら慎之介は答える。快斗からの連絡があり、プロレスを辞めることになったこと、二週間後に彼と最後の決着をつける運びになったこと、是が非でも奥義を会得し、快斗と全力で戦いたいことを。
詩音は再度スマホのタイムを見る…30分7秒。今までの慎之介の記録でも最短記録だ。だが、30分を切らなければ霧神流の奥義は伝授できない、それが霧神流の掟だ。自分も母も祖母も、霧神家がこの土地に移住してからそれは決して曲げられない鉄の掟として受け継がれてきた。
が…詩音がため息をついて問う。
「参考までに聞くが…霧神流の奥義ははっきりいって危険な技ばかりだ。もともと江戸時代から受け継いでいるらしい暗殺術の一派だからな。下手に使えばその清原快斗くんを最悪殺すことになりかねない。いや、今のお前ならそこまではいかないだろうが、うまく決まりすぎれば大怪我を負わせることは間違いないだろう。それでも奥義を身に着けて戦うつもりか?」
慎之介は言葉に詰まる…『殺す』。そこまで考えていたわけではない。ただ…。
「…絶対に殺したくない。でもあの人とは、僕ができる全力で戦いたい。プロレス界の超新星『だった』男、そんな言葉で終わらせたくないから。うまく言えないけど…そのために全力で戦いたい」
「なるほど、ライバルというやつだな。あのバカタレにわからせてやりたい、と。お前にもそんな相手ができるとはねえ」
慎之介の言葉を受けた詩音が楽しそうに言う。そして、弟の一世一代の勝負を前にしてわずか8秒の鉄の掟など知ったことか、土の下で眠るご先祖さまにも文句は言わせないぞと思いながらスマホのタイム表示を消し…。
「おっと、間違って消してしまった。だがしっかり覚えているぞ、間違いなく29分59秒だ。ギリギリだが、約束は約束だ。…さて、お前の奥義伝授は、今のところ母さんからもおばあちゃんからも私が任せられている。これから二週間、身に付けられる奥義などたかが知れているが…まあ、励むといい。だが、これからはもっと厳しくなるぞ。せいぜい覚悟しておけ」
と詩音はまた優しく笑った。
時は5月上旬。すでに葉桜となっていた霧神家周りの桜の木が、風を受け優しげに緑の葉を揺らす。詩音のその決断を許すかのように。




