第20話「神罰と回帰線」
さてさて、大輔と慎之介の大会参加の余波は、また別の場所にも届いていた。
ここは花宮大学医学部附属病院。
非常勤の立場ながら今日はそこに来ていた井上が、今週号の『週刊ドロップキック』を読んでいた。
(ほう、仲村大輔君と霧神慎之介君がPFC日本大会に参戦するのか。
これは楽しみだな)
井上は医者でありながらも種々の趣味を持っており、特に格闘技観戦では『エベレスト井上』の名で業界内でも知られている。
さらに、何度か週刊ドロップキックを始めとした格闘技雑誌に寄稿したこともある。
悠々自適な生活が許されているのもIDM幹部ならではであるが、今度のPFC日本大会も観戦しに行くつもりですでに最前席のチケットは取っていた。
さてその時を楽しみにしていた井上の元に、看護師からの連絡が入る。
「井上先生、1405号室の患者がまた暴れています。
私達では手に負えません、来ていただけませんか」
1405号室…また滝魔か、と井上はため息を吐く。
ガイゼンに大怪我を負わされた彼もここに運ばれて入院し、治療を受けていたのだ。
井上が病室に近づくと、おそらく1405号室だろう、そこから怒鳴り声が聞こえる。
『退院させろ!もう俺は万全だ!井上さんを呼べ!』
と。
困り果てた滝魔の担当医『板垣勇一』が向かってくる井上を見て、安堵したように声をかける。
「ああ、井上先生。ご足労いただきありがとうございます。
中条君、どうしても私のいう事をまったく聞かなくて…。
今すぐにでも退院する!と言ってきかないんですよ」
井上が板垣に挨拶をして、警察官が前にいる1405号室『中条琢真』の病室のドアを開ける。
『中条琢真』…滝魔の本名である。
中では、滝魔が自分のものであろう特攻服に着替えている。
「中条君。
板垣先生からも聞いているだろうが、君には退院はまだ早いと私も判断する。
骨折もまだ完治していないし、無理に退院して何かあっては
次は入院では済まないぞ」
井上には、滝魔の退院を止める権利はない。
IDMとしての立場を出せば別だろうが、板垣をはじめとしたほかの医師や看護師、それに警察もいる状況ではその名を決して出すわけにはいかない。
滝魔もそれは同様ではあるが…それを知っている滝魔は、井上に敬意を払いつつもあくまで患者として反抗する。
「井上先生、俺知ってるぜ。患者には自己決定権ってのがあるんだろ?
本人が退院したいって言うのを止めることはできねえって聞いたぜ。
…心配しなくても放っておきゃそのうち治るさ、この程度の怪我なんてよ。
井上先生にも板垣さんにも迷惑はかけねえよ」
これを聞いて井上は、やれやれ、と首を振る。
自己決定権による退院などどこで知ったのか。
だが、井上には今滝魔を退院させるわけにはいかない。
退院すれば滝魔はまたガイゼンを探し出すだろうが、その時は警察が待ってましたとばかりに滝魔の配下の暴走族『殺滅舞霊’Z』を潰しにかかるだろう。
下手をすればそこから余計なことまで漏れるかもしれない。
なぜそこまで考えないのか…と。
「…滝魔」
井上が声のトーンを低くして滝魔に呼び掛ける。とっさに滝魔も動きを止める。
「あ、失礼。琢真君、中条琢真君。
どうも40歳を超えてから思っていることに口が追い付かなくなってね。
呼び間違いは決してわざとじゃないんだ、勘弁してくれ」
そう井上は頭を下げて言うが、滝魔は警戒する。
中条君、琢真君という呼び名ではなく、敢えて組織内の通り名で呼んだのは、それなりの意図…言わば『命令』と滝魔は判断したのだ。
井上と滝魔は同じ幹部で形式上は同格だが、それでも長年IDMに貢献してきた井上の方が、事実上の格としては圧倒的に高い。
「自己決定権があるのは否定しない。
しかし、君をここに連れてきたのは君の仲間だ。
その仲間は君の身を心配して病院に連れてきたはずだ。
その君がいまだ重傷の身を引きずって自分たちの前に現れたら
君の仲間たちはどう思うだろうか?喜ぶだろうか?
…いいや、私はそう思わない。
かえって自分たちの存在が重荷になってしまっているのではないか…。
そう考えるのが自然だと思うが…どうだろうか?」
そう、滝魔が今すぐにでも退院したいのは自分の部下のためだ。
ここは警察の判断によって面会謝絶となっており部下が面会に来ることはできない。
自分は組織によって守られるものの、部下たちは組織にとって所詮消耗品。
事情聴取はすでに受けているだろうし、すでに逮捕された者がいてもおかしくない。
早く退院して守ってやりたいのだ。
だが、今の井上の言葉…表向きは構成員に慕われる総長であれ、と言っているが、裏の意味は違う。
『重りになるなら部下は全員処分するぞ』
と脅しているのだ。
荒事には消極的で戦闘能力は皆無の井上だが、彼のために動くものは多い。
背筋に冷たいものが走った滝魔はおとなしく座り、諦めたように言った。
「…そう言われちゃしょうがねえ。でも、なるべく早く治してくれよ、先生」
その言葉に井上は笑い答える。
「もちろんだ。担当医は板垣先生だが、彼は優秀なので信頼してくれていい。
もちろん私も尽力するよ」
そう言い残して井上は滝魔の病室から去っていった。
板垣に、後は頼みます、と言い残して。
―――――
「いやあ、すごいねえ井上先生は。中条君をあんなにあっさり説得するとは…」
井上が去った後、板垣が感嘆して、ため息をつく。
専門は内科とはいえ、ほとんどの医療処置から患者のケアまでそつなくこなす井上に、なぜ常勤ではないのか、なぜあんなに出世欲がないのか、と。
「井上先生、趣味に生きてますもんね。
たまに将棋とか囲碁の番組の解説とかやってますし。
独身貴族って感じですよね~」
と、看護師の佐藤佑里香が羨ましそうに言う。
二人とも、井上の裏の顔を知らない。
いや、この病院ではだれも井上の裏の顔を知らない。
IDMから多額の資金供与を受け、井上に役職と立場を与えた上層部以外は。
IDM幹部はみな表の顔を持っている。
例えば井上は医者、クラッシュはパンクバンドのギタリスト、アゼルは牧師といった具合に。
ガイゼンの時のようにIDMの招集がかかったときには全員が馳せ参じるが、それ以外は裏の顔を隠し普通の生活を送っているのだ。
もっとも、金豪のように派手にやりすぎる者もいるが…。
「…さて、PFCの大会はあと一か月後か、楽しみだな」
自室に戻りながら井上は大会を思い出す。
慎之介や大輔の戦いに思いを馳せながら。
―――――
そんな井上の呟きとの同時刻、花宮町から車で二時間ほどの距離にあるI県。
そこに所在している、ある教会を訪れる二人の者がいた。
井上や滝魔と同じIDM幹部の空燕とクラッシュである。
彼らが来ているこの教会は、同じくIDM幹部であるアゼルが『黒田博人』と言う名で牧師として勤めている教会だ。
先に臨海コンビナートで乗り捨てられていた外交官ナンバーでの車を情報部に引き渡したところ、車台番号や電子機器等は完全に消去されていたものの、わずかな情報は残されていた。
番号の消去跡の特定や、ナンバーを闇市場に流した外交官からの聴取、さらには秘密裏に警察から組織に流されたNシステムの情報から、この短期間でガイゼンの逃走に使った車の持ち主を突き止めたのだ。
その所有者は、驚くべきことにこの教会の従業員の所有だった。
つまり、アゼルは間違いなくガイゼン逃亡に関与している。
いや、主犯格であってもおかしくない。
もしそうだとすればIDMへの重大な裏切り行為だ。
それは絶望と苦しみの死をもって償わなければならない。
そう考えこの教会に訪れたのだが…。
「…申し訳ありませんが、牧師の黒田先生は不在にしておりまして…。
私どもでも今どこにいらっしゃるかわからないのです。
あまり自分のことを話さない方ですから心当たりもなくて…。
私どもも困っているのですが」
『黒田を呼んでほしい』という空燕の問いに、従業員の女性が困惑しながら言う。
聞けば、しばらく前から黒田…すなわちアゼルは行方不明だという。
日曜日のミサにさえ姿を現さないとのことだ。
つまり、アゼルは確実に怪しい。
ガイゼン逃亡に関与しているのは間違いない。ないのだが…。
教会関係者でさえ行方が分からないというその言葉に、空燕は悔しそうにため息をつく。
対応した女性のあの困りようでは、本当に知らないのだろう。
逃亡に使った車の所有者についても聞いてみたが、その人物も姿を現さないという。
教会内部には知っている者もいると思われるが、その判別は難しいし、白昼堂々民間人相手に暴れるわけにはいかない。
そんなことをすれば警察沙汰となり、ますます相手の思うつぼだろう。
歯噛みしながらも空燕とクラッシュは応対した女性に礼を言い、その場を離れた。
―――――
「あと一歩まで来たのだが…この先は手詰まりか。何かいい方法はあるか…」
空燕が苦虫をかみつぶした表情で言う。
クラッシュもいい案は思い浮かばないようで困った表情をしている。
「なにか、あいつの机とか荷物とか探れればいいんだが…。
部外者の俺たちには触らせるわけもねえからな」
…そんな何の気なしに言った言葉だが、空燕はそれにヒントを得て思いつく。
「牧師…か。あるいは宗派的にあの教会、夜間には人がいないかもしれない。
いっそ夜に忍び込み奴の部屋を探ってみるか?
なにか隠れ家のような場所や、その手掛かりが探れるかもしれない」
「いいなそれ、乗ったぜ。俺のバンドも今日はなにもねえからな」
―――――
その日の夜。
アゼルの教会からさらに車で二時間ほどかかる、東北地方F県の海岸沿いにある小さな町。
…アゼルはここにいた。
ガイゼンを救出してから、彼はずっとここに身を潜めていたのだ。
そこにある一軒家でアゼルが食事を運んでいる。
その相手はもちろんガイゼンだ。
彼は都内でガイゼンの応急処置をした後、何度も車を乗り継いでこの町にある、死者名義の古い建物へ運んでいたのだ。
いずれ足がつきIDMに発見されることは覚悟していたが、それまでにはガイゼンは回復するはず…。
そう見込んでいたのである。
しかし、その時は彼が思う以上に早く訪れた。
食事を運ぶため隠し部屋のドアを開けた後…彼は驚きの声を上げる。
なんと、重傷を負っていたはずのガイゼンが立っていたのだ。
ガイゼンは死んでもおかしくないほどの…。
いや、死んでいなければおかしいほどの怪我を負っていたというのに。
それが、ほんの1,2週間で回復したというのか。
「おおお…我が神よ!ついにお目覚めになったのですか!!」
手に持っていた食事の盆を投げ捨て、アゼルは感涙しガイゼンにひざまずく。
やはりこのお方は神なのだ、私の迷いを救ってくれる救世主なのだ…と。
しかしガイゼンはなんの表情もなくアゼルを一瞥すると…。
ガシリとその頭を掴み持ち上げ、勢い良く突き出した手刀でアゼルの胸を何の躊躇もなく貫いた。
致命傷を負ったアゼルを放り投げると、ガイゼンは周囲を確認する。
そして舌打ちをして部屋の外に出ようとした。
もはや死は免れないアゼルは、それでも幸福を感じていた。
60年を超える人生を歩んできた彼にとって、この世界は悲劇そのものであった。
正義を信じた者が歪められ、助けを求める者は踏みにじられ、善人は嘲笑われる。
祈っても、神は救いの手など差し伸べない。
そのうち彼は『救われるべき者を救うには強き力がなくてはいけない』と考え、IDMに加わった。
しかしそこは強者が弱者を蹂躙する、彼が絶望した世界の縮図そのものであった。
そしてアゼルにとって
『世界に、救いなどない』
と諦めていた頃…彼はガイゼンを知った。
人は自分が理解できないものに遭遇した時、目を背けるか、それでも自分の常識で分析しようとするか、理解が及ばぬまま神格化するという。
アゼルがガイゼンに対して選んだのは『神格化』だった。
アゼルが知ったガイゼンは強く、感情も善悪の区別もなく殺し、誰も止められない、貧富強弱善悪の区別なくすべての者に死を与える無慈悲で無感情な怪物。
おとぎ話の死神のようなその存在に
『彼こそが神なのだ』
とアゼルは信じてしまった。
神は善でもなく、悪でもない。それを超越した場所にいる、
それこそが神なのだと信じてしまった。
神が人殺しでも当然だ、世界は残酷なのだから。
神が無慈悲でも当然だ、だからこそ祈りは届かないのだから。
神が正義でなくても当然だ、そんなものを超越した存在なのだから。
自分が見てきた世界は救われない世界…それでも神の存在を信じたかったからこそ、アゼルはその歪んだ答えに辿り着いてしまっていた。
「神よ…この世界に救いを…人々に平等なる救いを…」
アゼルは息も絶え絶えに呟く。自ら死に逝くことに後悔など微塵もない。
そんな忌の際のアゼルにガイゼンは吐き捨てるように言う。
「…不愉快なクズめ。さっさと死ね、弱者が」
そう言い残して、ガイゼンはアゼルの腹を蹴り飛ばし、部屋を出ていった。
アゼルの血文字で『陰』の文字を遺して。
―――――
最後の瞬間にアゼルは考える。
不愉快‥あの男はそう言った。感情があったのか。
弱者…あの男はそう言った。強弱の区別があるのか。
自分が信じていたガイゼンという神は、そういうものはなかったはずだ。
無慈悲に無感情に、貧富の差も、強弱の区別も、善悪さえもなく平等に死を与える存在だったはずだ。
…そうだ。ようやく気付いた。そう、あの男は神ではなかった。
ただの悪人だったのだ。
救われるべき者が救われない…その体現者だったのだ。
私を絶望させた世界そのものだったのだ。
…もしかしたらずっと前から気づいていたのかもしれない。
ただ、私は目を背け続けていたのか。
そのために私はそんな人間を神と信じ、救ってしまった。
救われる人間を救わず、救われるべきではない人間を救ってしまった。
あの男は、救われるべき人間をまたその手にかけていくのだろう。
私があの男を救ってしまったせいで。
自らの為してきたことは、本当に為したかったことの正反対だったのだ。
「神よ…私に…この愚か者に…永劫に続く罰を…」
理解できなかった残酷な世界から、目を背け続けてきた強い悔恨。
そしてその残酷な世界に、自らが手を貸してしまった深い絶望。
その代償に永遠の罰を、本来彼が信じるべきだった神に望みながら…。
アゼルの命は途絶えた。
―――――
数時間後、アゼルが教会に残してきた物品からこの場所に辿り着いたクラッシュと空燕は、アゼルの死体を見つけ、情報部に報告する。
そしてもうその姿は見えないものの、死体や壁に残る『陰』の血文字から考えて
『ガイゼンは生きている』
と併せて報告し、その場所を後にした。
さらに数時間後、その民家はもはや用済みとばかりに業火に包まれ全て焼け落ちた。
アゼルの死骸も、忌の際の悔恨と絶望も炎はすべてを包み、焼失させ…。
そして何も残さず消えた。




