第九十八話 「忘れられた部屋」
時刻:数日後・祝勝会
場所:F区・商店街の居酒屋
F区の夜は賑やかだった。赤提灯が高く揺れ、笑い声が通りへ溢れる。澄心グループは居酒屋を丸ごと借り切り、清水の釈放を祝った。三上弁護士は泥酔し、ネクタイを鉢巻のように巻き、泣いて笑って「五年ぶりに弁護士バッジの重さを取り戻した」と叫んでいた。清水と祖母は主卓。仲間に囲まれ、ようやく戻った“普通の笑顔”を浮かべている。
だが、居酒屋の外――影の路地。空気は少し重かった。工藤孝太が煙草を挟み、眉を寄せる。龍立を呼び出した。
「社長……これ、どうもおかしい。報告しておきます」
工藤は一枚の写真を差し出す。ガラス反光からAIが復元した真犯人の姿。スーツ姿だが、姿勢はどこか卑屈で、視線は定まらず、正面を見られない中年男。
「清水は無罪になった。でも真犯人は捕まってない。警察はたらい回しだ。事件には“触れちゃいけない家”が絡んでる。俺は不動産筋と、少し灰色の人脈を動かして、この背中を洗った」
龍立の目が冷える。「誰だ」
「財閥のボンでも、ヤクザでもない。田村(Tamura)、45歳。世田谷の古い豪邸に住んでる。両親は元・高級官僚。鬼頭が言ってた“秩序を守る”の裏の大物連中のひとりだ」
工藤の声が少し低くなる。
「だが問題は田村本人だ。近所の人間が言うには――二十年、外に出たのを見たことがない。清水の話でも、田村宅の玄関には常に出前の空き容器が山積みなのに、本人は受け取りに出ない。配達員が去ってから、扉の隙間だけが動く。……ひきこもりだ」
龍立の眉が動く。「ひきこもり? 長年外に出ず、社会と切断し、親の年金で生きてる――あの?」
「そう。しかも最も極端なタイプだ」工藤は煙を吐き、冷たく言った。
「事件の日、清水は田村宅に配達に行っていた。長期の社会断絶で精神が歪んでた田村が、珍しく外へ出た。衝動か何かで隣人を殺したんだろう。そして官僚の親が、家名を守るために総動員で揉み消した。清水を身代わりにしてでも、な」
龍立は遠くの東京の夜景を見る。ネオンは煌めく。
だが、この街の折り目の奥には、こんな“幽霊”が棲んでいる。金も要らない。仕事も要らない。社会も要らない。閉じた部屋で植物みたいに生き、ゆっくり腐っていく。たまに外へ出れば、制御不能の爆弾になる。無関係な人間を吹き飛ばす。
「……何人いる?」龍立が問う。
工藤が答える。「内閣府の推計で、全国に100万人以上。第一世代の親が高齢化し、いわゆる“8050問題”で、孤独死や餓死が爆発的に増えてる」
龍立は息を呑む。貧困より怖い。これは“心が死んだ状態”だ。
「俺たちは、働く清水を救った。子を産もうとする美咲を救った。働きたい老人を救った。だが……人生を完全に諦めて、部屋に自分を“ロック”した連中は、どう救う?」
龍立は煙草を揉み消し、目の奥が深くなる。
「金では救えない。これは心の病だ。吉岡、劉立、工藤。準備しろ。次は――忘れられた部屋だ。俺がドアを叩く。百万の幽霊を、自分の墓穴から引きずり出す」




