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第九十六話 「法廷の数学問題」

 時刻:一週間後・第2回公判日


 場所:東京地方裁判所・第1刑事法廷


 この日の地裁は、前回以上に張り詰めていた。爆発寸前の圧力鍋だ。


 法廷外には数万人。「AIを信じろ」「冤罪を止めろ」「鬼頭を罷免せよ」――プラカードが波となり、裁判所を包囲した。機動隊が鉄柵を並べ、ようやく秩序を保つ。


 法廷内。堀田裁判官の顔は青白い。額には汗。配信以降、自宅に臭卵が投げ込まれ、物理の教科書が届いた。門番は恐怖を覚えていた。


 検察席の鬼頭は、相変わらずの三つ揃えだが、目の下の青黒さと手指の震えが動揺を暴露している。傍聴席を見ない。紙だけを見る。


「開廷します」堀田が木槌を打つ。声は頼りない。


 三上が立つ。その全身から、目を逸らせないほどの光が立っていた。髭は剃り落とされ、髪は整えられ、濃紺のオーダースーツ。胸の金色のひまわりが強く輝く。彼はもう、夜の街の“流れ者”ではない。正義の代行者であり、復讐の修羅だ。


「裁判長。弁護側は、新たな技術鑑定報告の提出を求めます。澄心グループ『テミス(Themis)』が生成した『映像光学および物理環境復元報告書』です。検察の中核証拠――当該監視映像を、法廷で反対尋問します」


 鬼頭が即座に立ち上がる。「異議! AIの報告は法的効力を欠く! 疑似科学だ! 企業の宣伝だ!」


 三上は冷たく言い放つ。「疑似科学かどうかは、中学数学に聞けばいい」


 堀田は逡巡し、傍聴席の“喰らいつく目”を見て、ついに頷いた。「……許可します」


 スクリーンが点く。検察提出の映像スチル。その上に吉岡俊介が構築した3D物理モデルが重なる。


「ご覧ください」三上の声が法廷に響く。


「事件当日(10月15日)、東京の緯度経度から算出される14:30の太陽高度角は35度、方位角は西南西。ところが検察映像の影は、投射角50度、方位は北寄り」


 リモコンを押すと、赤い補助線が二本引かれ、巨大な角度差を示す。


「これは中学生でも解ける幾何問題です。東京に太陽が二つあったか、地球の自転軸が突然曲がったのでない限り、この影は存在しえない!」


 法廷がどよめく。思わず拍手をしかける者すらいる。三上は詰め寄り、検察席の目前で両手を机に突き、鬼頭の目を刺す。


「唯一の科学的説明はこうだ――この映像は午前10時ごろのもの。誰かが“証拠の鎖”を捏造するため、タイムスタンプを改竄し、切り貼りして提出した。刑法104条、証拠偽造――三年以上の懲役。鬼頭検察官! あなたの“鉄証”が、なぜ物理法則に反する?! 説明してください!」


 鬼頭の額から汗が噴き、起訴状へ落ちる。口を開き、抵抗する。


「こ、これは……カメラの広角歪み……あるいは周囲建物の反射で……」


「歪み?」三上は嘲笑し、第二資料を投げる。AIが十万回シミュレーションした結果図。


「歪みパラメータも反射モデルもすべて織り込んだ。十万回回して、一度たりともこの影は出ない。認めろ、鬼頭。お前は完璧な“勝率”のために、無関係な映像を証拠にねじ込み、無辜の若者を絞首台へ送ろうとした! お前の正義とは、無実を罪人にすることか?!」


「わ、私は……」


 鬼頭が崩れた。彼の論理の城は、数学という絶対真理の前で瓦解する。一歩退き、椅子にぶつかり、倒れる音が鋭く響く。


「……私は……未解決事件にしたくなかった……」


 鬼頭は机に縋り、震えた声で吐いた。恐ろしい“真相”を。


「配達員は後ろ盾がない。金もない。捕まえれば終わる。遺族に説明がつく。社会の秩序が守れる……私は……正義のために……」


 法廷は沈黙した。それは検察官の自白であり、この腐った司法機構への判決だった。堀田裁判官さえ目を閉じ、台下の怒りを見ることができない。

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