第七十一話 奪われた60%
時刻:深夜 23:45
場所:澄心ホールディングス本社ビル・清掃用具室
深夜のオフィスビルは、なお眩しく灯っている。だがそれは、選ばれた者たちの輝きだ。
清掃用具室の隅で、四十五歳の大島由美(Oshima Yumi)は晩飯をかき込んでいた。コンビニで買った、賞味期限ぎりぎりの値引き冷やしおにぎり。
彼女はシングルマザーだ。昼はコンビニで働き、夜はここで清掃に入る。高校生の息子に参考書を買ってやりたくて、肉を口にしていない月がもう三つ。澄心が用意した広い寮(福利厚生)に住めても、金は残らない。賃金が、あまりにも低いからだ。
「……ゴホ、ゴホ……」
由美は激しく咳き込み、口元を押さえたハンカチに、赤がにじんだ。それでも止まれない。決められた時間内にこの階のガラス拭きを終えなければ、派遣会社が容赦なく減給する。
そのとき、扉が開いた。会議を終え、帰宅の途中だった澄原龍立が、咳の音に足を止めた。
由美は反射的に、おにぎりを背中に隠した。「サボりを見つかった」――それだけで罰せられる、身体に染みついた恐怖。
「す、すみません! 理事長! すぐ仕事します! どうか苦情だけは……!」
由美は蒼白になり、雑巾を掴んで壁へ向かおうとした。だが低血糖で視界が揺れ、ふっと力が抜けた。身体が糸の切れた人形みたいに崩れ落ちる。
龍立が、間一髪で支えた。触れた瞬間、胸が冷える。――痩せすぎている。皮で骨を包んだだけの、軽さ。
「動くな。吉岡、医者を呼べ。」
龍立は由美を椅子に座らせる。そのとき、由美のポケットから、くしゃくしゃの給与明細が落ちた。龍立が拾い上げる。数字を見た瞬間、眉が寄った。
・勤務先:澄心ホールディングス本社
・職種:上級清掃スタッフ(派遣)
・派遣元:帝国人材
・時給:1,100円(東京都の最低賃金を少し上回る程度)
・控除:制服レンタル料、管理費、入社手数料、技能研修費……
・手取り:月12万円
「……おかしい。」
龍立は駆けつけた佐久間を振り向く。「うちは外注清掃の基準単価をいくらで出している?」
佐久間が契約書を確認し、顔色を失った。「社長……こちらの発注単価は時給3,000円です。夜勤はさらに手当が上乗せされます。」
3,000円 対 1,100円。六割以上が――途中で消えている。
「帝国人材……」
龍立は、まだ震えている由美を見た。罰金を恐れ、倒れかけても「働かなきゃ」と目が言っている。彼女は命を削って働き、汗と健康を差し出しているのに、息子の参考書一冊さえ買えない。一方で、何もしていない中間業者は、冷房の効いた部屋で座ったまま、彼女の血汗を吸い上げている。
龍立はしゃがみ込み、由美と視線の高さを揃えた。「大島さん。あなたは――毎月これだけ抜かれているのを、知っていましたか。」
由美は苦く笑い、皺の溝に涙が流れ込んだ。「知ってます……でも、どうしようもないんです。『帝国人材』を通さなきゃ、私みたいな年の、学歴のない人間を大企業は雇ってくれない。彼らが仕事の入口を全部握ってるんです。」
そして、絞り出すように言う。「……これが運命なんでしょうね。私たちは“派遣”で、“正社員”じゃない。二等市民なんです。」
龍立の指が、給与明細を握り潰した。紙が粉になる。
「違う。それは運命じゃない。」龍立の声が低く落ちる。「――略奪だ。」
彼は立ち上がり、自分のカシミヤのコートを由美の肩に掛けた。「佐久間、法務に連絡。明日、俺はこの『帝国人材』に会いに行く。」
目が冷たく光る。「動かずに、どうして貧しい人間の飯碗の半分以上を食えるのか――聞いてやる。」




