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第四十九話 人を殺すインク

 時:深秋、雨の夜。


 所:東京・港区 東京湾テレビ(Tokyo Bay TV)本社ビル前。


時代に置き去りにされたテレビ局だった。外壁は剥げ、入口のネオン看板は「東京」の二文字だけが点いたり消えたりする。瀕死の人間の呼吸のように、弱く、途切れがちに。龍立は買収を終えたばかりだった。まだ建物に入る前に、彼は「社会的処刑」の現場を目撃する。


「死ね! 浅見玲奈あさみ・れな!」「企業を脅す売女め! 日本から出て行け!」


数十人の記者と、怒りに酔った“正義の通行人”が、ひとりの痩せた女を水溜まりの地面に取り囲んでいた。フラッシュが機関銃のように乱射され、閃光の一発ごとに、彼女の尊厳が剥ぎ取られていく。


浅見玲奈、26歳。かつては報道賞を獲った独立調査記者。だが今、彼女は泥水の中で身を縮めていた。トレンチは裂け、顔には雨水と、投げつけられた卵液と、誰かがぶちまけたコーヒーの染みが混ざり合っている。彼女は胸に、ガムテープだらけの古いノートPCを抱きしめていた。そこにあるのは命懸けで撮った証拠。——そして、彼女が最後に守れる“矜持”だった。




「私は……脅してなんか……」


玲奈の声は掠れ、震えながら言い返す。


「大東化学工場が違法排水を……村の子どもたちが白血病になって……どうして、そっちは報じないんですか……!」


「白々しい!」


『週刊真相』を握った男が、雑誌を彼女の顔に叩きつけた。「阿久津編集長が暴いたんだ! お前はホステス上がりだろ! クラブでのヤバい写真もある! 癌の子ども? 全部役者を雇ったんだろ、死ね!」


表紙には、血のような赤字が踊っていた。——《偽ニュース女王:正義で粉飾された売春と恐喝》。


玲奈は、絶望のまま目を閉じた。流量こそ正義の時代。真実は、インクに溺れて死ぬ。いっそ死んでしまえば、潔白を証明できるのだろうか——そんな考えが頭をよぎる。


「——パッ。」


一本の傘が、彼女の頭上で開いた。冷たい雨が、そこで断ち切られる。玲奈が震えながら見上げると、そこにいたのは龍立だった。黒いロングコート。眼差しはこの秋雨より冷たい。その背後には、澄心の警備員が数十名。人垣を築き、狂乱の群衆をまるでゴミでも押し返すように排除していく。


「誰が、ここで私刑を許した。」


声は大きくない。だが空気が凍る。龍立は腰を落とし、泥水も厭わず手を差し伸べた。


「大東化学は上場のために、5億円で“世論洗浄パッケージ”を買った。君は急所を突いた。だから奴らは、君を“壊す”。」


玲奈の瞳が、激しく揺れた。涙が決壊する。「……信じて、くれるんですか? 世界中が、私を叩いてるのに……」


「君の取材を読んだ。年金の闇を追って、吹雪の中で三日も張り付いた話もな。真実のためなら命を捨てる——あの目は、嘘をつかない。」


龍立は白いハンカチで彼女の顔を拭い、引き上げた。


「浅見さん。この局は古い。だが、“天井を突き破る”覚悟のあるキャスターが足りない。君のマイクは——俺が取り戻す。」

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