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第三十七話 替え玉と影

 時間:22:00


 場所:東京・新宿歌舞伎町・地下ライヴハウス「アビス(深淵)」


空気そのものが濁っているような、地下の安いバーだった。壁はヤニで黄ばんでいて、床はいつもねっとりと靴に張りつく。


黄ばんだ壁に掛かった古いテレビでは、国民的ガールズグループ「Honey Girls」の東京ドーム公演が生中継されている。画面のセンターで笑っている少女は、星のような笑顔のまま、難易度の高い表題曲『星のスター・ウィング』を完璧なハイトーンで歌い上げ、ドーム中の歓声を一気に爆発させた。


「すっげえな…… これがトップアイドルってやつかよ」


カウンターでへべれけになった酔っぱらいが、テレビを見上げて感嘆のため息をつく。だが、この店の片隅にいる一人だけは、その「完璧」が全部嘘だと知っていた。


小鳥遊 たかなし・りん、二十歳。かつて「天才少女アイドル」と呼ばれたその彼女は、今は安っぽいスパンコール付きのステージ衣装を着せられ、カビ臭い小さなステージに立っている。マイクを握る指の関節が、真っ白になるほど強く力がこもっていた。


テレビの中でセンターに立つあの華やかな少女は――実は五線譜もまともに読めない音痴だ。あの完璧な歌声は、先週、星光スターライトプロダクションの薄暗いレコーディングブースで、凛が無理やり歌わされたもの。




光を浴びているのは別の誰か。本物の歌声を与えているのは、ここにいる「影」のほうだ。


凛は静かに目を閉じ、自分の出番の曲を歌い始める――何十年も前の、古いバラード。こんな騒がしい空間の中でも、彼女の歌声はにごりなく澄み切っていて、どこか胸を締めつけるような哀しみを帯びていた。


「……いいぞ!」


客席の一番奥で、油まみれの作業着を着た四十代そこそこの男が、精一杯の拍手を送った。彼のテーブルには、一番安い水割りが一杯あるだけ。だがテーブルの下では、彼の手に一本の水色のペンライトが握りしめられている。


三年前、凛がデビューしたときの、彼女のイメージカラー――水色のペンライト。それを掲げることはない。凛に迷惑がかかるのが怖くて、彼はただ暗がりの中で、小さなその光をそっと灯しているだけだった。


「おいコラ! なんだよその葬式みたいな歌は!」


唐突に怒鳴り声が飛ぶ。何本もボトルを空けて出来上がった連中が、酒瓶をステージに向かって投げつけた。


「パリンッ!」


割れたガラス片が、凛の細い脚を裂く。


「こっちは金払ってんだよ! 暗い歌なんかいらねえんだよ!」


「おじさんはな、脚を見に来てんだよ脚を! 泣き歌じゃねえ! 一枚脱げよ、ほら!」


下卑た笑い声と共に、酔っぱらいたちはステージに上がり込み、凛の髪を掴もうと手を伸ばした。


「やめろ!!」


あの作業着姿の男が、我を忘れて飛び出す。細い身体で凛をかばおうとするが、酔っぱらいの一人に蹴り飛ばされ、床に転がった。


「ジジイが何のつもりだ、ああ?」


ウイスキーの重いボトルが振りかぶられ、凛の頭めがけて振り下ろされる――


凛は目を閉じた。来るはずの痛みは、いつまで経っても来なかった。


一筋の影が、彼女の前にすっと割り込む。しなやかで、しかし鋼のように強い右手が、落ちてくるボトルを空中でぴたりと受け止めていた。凛は目を見開く。


ステージの前に立っていたのは、黒いコートを羽織った男だった。新宿地下の濁った空気よりもなお冷たい眼差しが、その場の空気を一瞬で凍らせる。


「お前の声は――」


男はボトルをひねり取ると、そのまま手首だけの動きで酔っぱらいを床に叩きつけた。


「こんな連中に聞かせていい代物じゃない」


彼はコートを脱ぎ、震える凛の肩にそっとかけ、床に倒れた作業着の男を抱き起こす。


「行こう」


凛の、光を失った瞳を真正面から見つめ、男――澄原龍立は静かに言った。


「お前のスポットライトを、取り戻しに」

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