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第二十九話 カプセルホテルのモーツァルト

 時間:独立起業から3日目。


 場所:東京・練馬区・澄心アニメーションスタジオ(旧・澄原アニメーション)。


見た目だけなら、ごく普通の四階建ての雑居ビルだ。外観はそこそこ体裁が整っている。


だが、ドアを開けた瞬間、肺が拒否反応を起こすような匂いが一気に押し寄せてきた。


期限切れ寸前のカップ麺のスープ、古びた汗のにおい、そして高濃度エナジードリンクの酸っぱい残り香。


それらが発酵して混ざり合い、一つの“空気”になっている。


「いらっしゃいませ……ゴホッ、ゴホッ……」


受付には誰もいない。


ただ、段ボールの山の陰から、真っ黒なクマをつけた制作進行(Production Assistant)が、驚いたハムスターみたいに顔を出した。




龍立は眉をひそめ、床一面に散らばる紙ごみを踏み分けて、作業フロアへと足を踏み入れる。


そこは会社というより――避難民キャンプに近かった。


薄暗い照明の下で、数十人のアニメーターがぎゅうぎゅう詰めのブースにうつ伏せになり、ゾンビのような動きでペンを走らせている。


机の下の寝袋に潜り込んだままいびきをかいている者もいる。


「ここが、あの“東京アニメ大賞”を取ったスタジオか?」


龍立は後ろの吉岡に目だけを向けて訊ねる。


「はい、社長。」吉岡は手元の資料を見つめたまま、重い声で答えた。「ですが、それも五年前の話です。この数年は制作委員会に搾り取られて、予算が七割も削られました。まともな作品は作れず、粗悪な外注仕事で延命している状態です。」


そのとき、部屋の隅から「ドサッ」と鈍い音が響いた。


龍立が駆け寄ると、痩せ細った小さな身体が床に倒れている。


二十代前半とおぼしき若い女性だ。


手には、先端がすり減ってツヤの消えたペン型デバイスを握りしめたまま。タブレットの画面には、未完成の原画が映っている――檻をこじ開けて飛び出そうとする一羽の機械仕掛けの鳥。線の流れ、パースの切れ味、どれも素人の龍立が見ても息を呑むほどだった。


「おい! 大丈夫か!」


龍立が身体を抱き起こす。驚くほど軽い。まるで紙切れのようだ。


女性はうっすらと目を開けると、真っ先にしたことは自分の身体を案じることではなく、タブレットをかばうように抱きかかえることだった。


「ごめんなさい……寝てません……。ギャラ、減らさないで……。もうすぐ、もうすぐ上がりますから……」


龍立の胸に、鋭い痛みが走った。


――それから三十分後。近くの救急外来。


「重度の栄養失調に、慢性的な睡眠不足ですね。」


聴診器を外した医師が、肩をすくめて首を振る。


「いつからまともな食事をしていませんか? 胃の中は胃酸とコーヒーだけですよ。」


龍立は、彼女のリュックサックを抱えていた。


それが、彼女の全財産だという。


中から、くしゃくしゃになったレシートの束が出てきた。


【カプセルホテル(深夜割引):1800円】


【コンビニ(期限切れおにぎり):50円】


【画材店:15000円】


賃貸契約書はない。


光熱費の請求書もない。


天野 あまの・あい、23歳。


“天才原画マン”と呼ばれる女の子。


だがこの天才は――固定の家さえ持たない「住所不定」の生活をしていた。


「この三年、ずっとカプセルホテル暮らしです。」


駆けつけてきたスタジオの監督・吉田は、目を真っ赤にしながら言った。


「東京の家賃は、あの子の月給じゃ払えません。給料は十万円。コンビニのバイト以下です。


 それでも最高のペンとタブレットを買うために、歯を食いしばって節約して……」


「何度も転職を勧めました。でも、あの子、こう言うんです。」


吉田はそこで声を詰まらせた。


「『私には、絵しかないから。描けるなら、路上で寝てもいい』って。」


病室のベッドで点滴を受けながら眠り続ける少女を、龍立は黙って見つめた。


指先には、分厚いペンダコが刻み込まれている。


それは、モーツァルトが持つべき手だった。


にもかかわらず――暮らしぶりは物乞い同然。


「こんなの、おかしいだろ。」


龍立の声は低く、噴火寸前の火山のように抑え込まれている。


「こんな神の絵を描く手が、“期限切れおにぎり”を拾わされてるなんて――絶対に間違ってる。」

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