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嵐の後

作者: あいの あお
掲載日:2025/11/07


 あの日も嵐だった。


 あと三日でエレンの十二歳の誕生日という日、嵐が来た。

 屋根が吹き飛ぶんじゃないかと思うくらいの風に、窓が割れるんじゃないかと思うくらいの雨。


 怖くて怖くて、母のお腹に顔をうずめて震えていたのを覚えている。

 空が真っ暗で、その真っ暗な空に時折切り裂くような稲光が走って。このまま世界が終わってしまうんじゃないかと、幼いエレンは思った。


「サラ、このままだと川が危ないかもしれない」


 父が母に言った。


「ドーラさんを非難させてくるよ。お湯を沸かしておいてくれるかい?」


 エレンの家は少し小高い丘の上にあるのだけれど、ドーラさんの家は川から近い。もしも川が溢れたら、家が押し流されてしまうかもしれないという。

 足の悪いドーラさんは、ひとりでは丘を上り切れないのだ。


「エド、大丈夫なの?」


 母が心配そうに言う。

 こんな雨の中に出たら、父も吹き飛ばされてしまうかもしれない。


「大丈夫だ、カールと一緒に行ってくるよ」


 カールおじさんはお隣に住んでいるチェリーのお父さんだ。チェリーは先月、エレンより少し先に十二歳になった。


「分かったわ。気を付けて。無理はしないでね」


 母が手を伸ばすと、父がエレンごと母を抱きしめて母とエレンの頬に順番にキスをした。


「ああ、分かってるよサラ。エレンも、良い子で待ってるんだよ」


 恐怖で顔を上げられないエレンの頭をそっと撫でると、父は家を出た。

 エレンは今でもこのときのことを後悔している。どうして顔を上げて父にキスを返さなかったのだろう。そうしたら、何か違ったかもしれないのに。


 結局、父はその日帰ってこなかった。


 泥まみれで帰って来たカールおじさんが、ドーラさんを連れて家を出てすぐに川が氾濫して、流木に巻き込まれそうになったカールおじさんとドーラさんをかばって父が濁流に飲まれたと教えてくれた。


 翌日、嵐は去ったけれど父は見つからず、その更に三日後に下流で流木の下敷きになった誰かの遺体が見つかった。

 ふやけて膨れて顔は分からなかったけど、髪の色がエレンと同じその遺体には、膨れ上がった指に母とお揃いの銀の指輪が光っていた。


 カールおじさんがぐしゃぐしゃの顔で泣いていた。ドーラさんが、どうして自分が生きているんだと蹲っていた。母は涙を流さず、ただまっすぐに膨れた体を見つめていた。エレンの十二歳の誕生日の翌日だった。


 父が亡くなってから一年が過ぎると、器量良しの母にはちらほらと再婚の話が持ち込まれるようになった。腕の良い薬師でもある母は自分一人でも十分にエレンを育てていけるからと全ての縁談を断っていた。

 父以外の人との結婚なんて考えられないのだと、母はいつも言っていた。深く深く、母は父を愛していた。エレンも、父以外を父と呼ぶことはできないと思っていた。


 あの日、嵐に怯えて父の顔を見ることができなかったことをどうしてもエレンは忘れることができなった。


 それからまた五年が過ぎるころ、母が病に倒れた。

 流行り病くらい自分で薬を作ってやっつけてしまう母が、この病は薬では治せないと言った。

 そんなはずはないと首を振るエレンに、母は言った。これは肺の病…死病なのだと。移るといけないからと母はエレンを遠ざけたがったけれど、エレンは絶対に離れなかった。


 母に教わった薬を作ってそれを売ることで生活費に変えながらエレンは最期まで母の看病を続けた。

 父が帰ってこなかったあの日と同じような激しい嵐の日、蝋燭の頼りない灯りの下、エレンひとりが見守る中で母はひっそりと息を引き取った。


 嵐が過ぎ、心配して様子を見に来てくれた隣のカールおじさんや幼馴染のチェリーが見たのは、すでに冷たくなった母をじっと見つめたまま微動だにしないエレンの姿だった。


 あれから更に二年。エレンは十八歳になった。もうすぐ、十九になる。


 母の跡を継いで村の薬師として薬を作り、病気の人がいれば往診し、怪我をした人がいれば処置をしに行った。

 暮らしは安定しているしひとりになったエレンにみんな優しいけれど、あの嵐の日にぽっかりと開いてしまった胸の穴は、今もまだふさがりそうになかった。


 エレンは嵐が嫌いだ。すぐに過ぎ去るような小さな嵐ですら、エレンのひび割れた心を大きく乱した。

 叫びだしそうになるのを必死に抑え、エレンはひとりベッドで布団をかぶりひたすらに耐えていた。誰にも知られることもなく。


 そして今日もまた、朝から空模様が怪しかった。

 時折強く吹く風がエレンの家の屋根を鳴らし、窓を鳴らした。


―――――嵐が来る。


 あの大きな嵐が来る。エレンから様々なものを奪っていた、あの嵐が。


 昼を過ぎたころ、ついに雨が降り出した。ごろごろと、遠くで雷が鳴りだす。言いようのない不安に動悸が激しくなるが、やるべきことをやらねばならないとエレンは動き回った。


 外に出していた飛んでいきそうなものは全て片付けた。

 万が一怪我人が出た時のために、すぐに出られるよう往診用の道具を鞄に詰めておく。ろうそくをテーブルに集め、湯を沸かし、すぐに食べられるパンやチーズを用意する。

 すでにずいぶんと強い風に雨戸を閉めてなおガタガタと鳴る窓に更に板を張り目張りをし、万が一割れた時に怪我をしないよう対策をする。暖炉の火が消えないよう薪も沢山用意した。普段なら節約も考えるけれど、今日は特別だ。


 雨が強くなり、雷の音が近づいてくる。目張りをして塞いでいるはずの窓から、稲妻の光が漏れる。


 暖炉の火と、ろうそくの火。


 震える手を握りしめ明かりを絶やさぬよう気を付けながら時間が過ぎ去るのをただひたすらに待つ。今暗闇になってしまったら、エレンは心が壊れてしまう気がした。


 とんとんとん、と玄関の扉を叩く音が聞こえた気がした。聞き間違えかと思っていると、再度、少し強めに扉が叩かれた。


「!!」


 エレンは急いで扉へ向かった。もしかして、誰かが怪我をしたのだろうか。


「待って、今開けます」


 扉を開けると、びゅーっと強い風と共に雨が降りこんできた。

 目に入った真っ暗な空にエレンがひゅっと息を飲むと、大きな影が滑り込み、そして影がバタンと扉を閉めた。


「悪いエレン、こんな日にごめんな」


入ってきたのは、びしょ濡れになったロイドだった。


「ロイド!!どうしたの!?」


 怪我でもしたのかと上から下まで眺めると、ロイドが困ったように笑った。


「いや、怪我はないよ、不調もない。ただ家に帰るタイミングを間違えて帰れなくなった」


 額に張り付いた前髪をかき上げるロイドに、エレンはあっとなった。


「脱いでロイド。タオルを持ってくるからしっかり拭いて、暖炉の前に行って。ついでにシーツか何か持ってくるから服が乾くまでかぶってて。そのままじゃそれこそ体調を崩しちゃうわ」


 大急ぎで棚から予備のシーツを出すと、有るだけのタオルと一緒に持って戻った。


「悪い、ありがとな」


 ロイドが脱いだびしょ濡れの服を一枚一枚広げて暖炉の近くに置いた物干しや椅子に掛けていく。エレンはロイドが視界に入らないよう、干された服からぽたぽたと落ちるしずくを見つめた。

 タオルを渡すときにちらりと見たロイドは、エレンの記憶にあるよりもずっと逞しく成長していた。


「ちゃんと拭いてから、シーツをかぶるのよ」


 努めて平静を装い、エレンは言った。


 男の半裸などエレンは見慣れているのだ。狩りやなんやで怪我をして帰ってくる人は割と多く、その処置をしているのはいつだってエレンなのだから。


「もういいよ」


 苦笑交じりの声で言われ、エレンは詰めていた息を吐く。ちらりと見ると、肩からふわりとシーツを被ったロイドが突っ立っていた。胸元がはだけている。

 本当なら毛布を渡したいけれど今はまだ夏を少し過ぎたところ。毛布なんてまだ物置の奥に詰めっぱなしだ。


「ロイド、ちゃんと体に巻き付けて、こっちに来て」


 空いている椅子をひとつ暖炉のそばへ置くとエレンはぽんぽんとその背もたれを叩いた。ここへ座れという意思表示だ。


 ロイドがおとなしく座ったのを確認し、エレンは沸かしていたお湯で茶を入れた。体を温めるようカモミールにジンジャーとシナモンをポットに入れ、蒸らす。

 カップに注ぎ、蜂蜜を垂らし、木の匙を添えて湯気の上がるカップをロイドに手渡した。


 その間、どちらも言葉を発しようとはしなかった。

 ガタガタと鳴る窓の音とぱちぱちとはぜる暖炉の音が妙に大きく響く気がした。


「で、どうしたの?こんな日に」


 自分のカップにもお茶を注ぎ蜂蜜を垂らす。くるくると混ぜながらロイドのそばへ行く。椅子が全て物干しになっているため、エレンは暖炉の前、ロイドの隣にクッションを置き、そのまま腰を下ろした。


「あー…」


 ロイドがすっと目を逸らす。


「狩猟小屋の周りの片づけを忘れたから、急いで片づけに行ったんだよ。そしたら思いのほか早く雨が降ってきて、こうなった」


 森の入り口にある狩猟小屋からは、ロイドの家に帰るよりエレンの家の方が近い。エレンの家は薬草の調達がしやすいよう、怪我人の処置に早く駆け付けられるよう、森の近くに建っているのだ。


「なるほどね。マークさんたちは知ってるの?」


 マークはロイドの父親だ。エレンの父が生きていたころは、よくふたりで森に入っては薬草の採集がてら狩りをしていた。夕飯のスープが豪華になるので、エレンは密かに楽しみにしていたものだ。


「間に合わなかったらエレンのとこに避難するって、言っておいた」


 ふーふーとカップに息を吹きかけると、ロイドがひと口茶をすする。緑の目が細められたのを見て、お気に召したようだとエレンは思った。


「じゃあいいけど…。駄目じゃない、ちゃんと片づけておかなきゃ。出しっぱなしは駄目っていつも言われてるのに」


 説教がましく言うと、ロイドが唇を尖らせた。


「俺じゃない。ハリスが昨日、薪を切った小斧を狩猟小屋の壁に立てかけて忘れたって言ってたんだよ」

「うわ、あぶなっ」


 小斧なんて、普段だって出しっぱなしにしないでほしい。ましてやこんな嵐の日だ。いくら重量があるとはいえ万が一飛んだりしたら大惨事になりかねない。


「分かってるよ、だから俺が片づけに行ったの」


 憮然とした顔で言うロイドに、エレンがため息を吐いた。


「何であなたが行くのよ。ハリスに行かせればよかったでしょう」


 どうにも気になってエレンは寒くない?と濡れていないタオルを一枚ロイドの膝にかけた。ロイドが「大丈夫だよ」と苦笑している。

 ハリスはロイドのふたつ下の弟だ。エレンから見ると三つ下。ロイドはエレンのひとつ下で、エレンが十九歳になるのと同じころに十八歳になる。


「俺の方が足が速いし、何かあっても対応できるからだよ」


 それはまぁそうだろう。十六になったばかりのハリスでは万が一何かあった時に慌てず対応できるかどうか不安が残る。

 だが、エレンの精神衛生上はそっちの方が良かった…と、そこまで思ってぶるぶると首を振った。


「で、結果的にあなたが遭難したわけね」

「してない。ちゃんと避難した」

「全くもう…」


 しょうがないなぁと言いつつ、エレンは床に敷いたクッションの上で膝を抱いた。ため息が少し熱いのは、お茶のせいだと思いたい。


 ロイドも、お隣のチェリーと同じくエレンの幼馴染だ。


 父が生きている頃は腕の良い猟師であるマークさんに連れられて、よくエレンの家に遊びに来ていた。というより、ロイドをエレンと母に任せて、マークさんと父はふたりで森へ行ってしまっていた。


 ロイドの母のドリーさんは、当時は病弱だった小さなハリスにかかりっきりで必然的にエレンがロイドと一緒に過ごすことが多かったのだ。

 父が亡くなってからは頻度も減ったが、母を心配したマークさんとドリーさんがたまに様子を見に来てくれて、その時はロイドもハリスも一緒に来ていた。


 母が亡くなってからは、マークさんもロイドもハリスも、どちらかというと怪我人として運び込まれることが多かったと思う。

 何だかんだとみんなエレンを気にかけてくれて、エレンの代わりに森で薬草を採ってきてくれることも多かった。


「ロイド、寒くない?」


 まだ冷え込む時期には早いが、外の嵐のせいで肌寒い。びしょ濡れになったロイドが風邪をひかないか心配で、エレンは何度も聞いてしまう。


「ちゃんと拭いたから大丈夫だよ。心配しすぎ」

「そうは言ってもね…」


―――今日は、嵐だから。


 エレンがぽつりと言う。


 嵐はいつも大切なものを奪ってしまう。だからエレンは余計怖いのだ。もしかしたら、ロイドも連れ去られてしまうかもしれないから。


「エレン」


 俯いてしまったエレンをロイドが呼ぶ。泣いてしまいそうで顔を上げられないエレンの頭に、大きくて暖かい重さを感じた。


「大丈夫だよ。俺はここにいる」

「うん…」


 わしゃわしゃとロイドが頭を撫でてくれる。髪が乱れる、と思ったけれど、エレンはそのまま撫でられるがままでいた。

 しばらく目を瞑ったまま撫でられていると、ロイドが静かに名を呼んだ。


「エレン」

「なーに?」


 撫でていた手を止めると、ぽんぽんと、ロイドが軽く頭を叩いた。

 何となくロイドの方に寄りかかりその手を掴みすり寄ると、ロイドが小さく笑った。


「俺が寒いって言ったらどうするの?」

「寒いの!?」


 がばりとエレンは顔を上げた。


「熱が出たのかしら?あれだけびしょ濡れで強い風にさらされたんだから冷えていて当然だったのに…。やっぱり物置をひっかきまわして毛布を持ってくるべきだったかしら!?暖炉の火をもっと焚くべきだった?生姜とシナモンだけじゃ、体を温めるのに足りなかった?ああ、もう!ごめんなさいロイド、ちょっと計らせて!」


 エレンは慌てて立ち上がると、ロイドの額に額を当てた。


「ちょ、エレン!」


 ロイドがぎょっとしたように椅子の上で身を引くが、慌てているエレンは気づかなかった。


「熱…は無さそう?これから出るのかしら?待って、布団持ってくるからかぶって。私が使ってるやつで悪いんだけど!!」

「待ってエレン!」


 急いで部屋へ行こうとするエレンの腕をロイドが掴んだ。


「大丈夫だから、寒いわけじゃないから」


 もう片方の腕も掴まれる。かぶっていたシーツが、肩からずり落ちた。


「ロイド、シーツ」


 シーツを掛けなおしてあげたくとも、両方の腕が捕らわれているせいでできない。


「離してロイド。シーツ、掛けなおして。余計に冷えちゃう。風邪引いちゃうから…」


 エレンは眉を下げ首を横に振って懇願した。母の肺病も、最初は風邪のような症状だったのだ。

 エレンの眦に涙が滲む。怖い。失うのが怖い。嵐が、怖い。


「ごめんな、エレン。大丈夫だから」


 良い子だから落ち着いて。そう言うとロイドはエレンの左腕を放し、そのままそっとエレンの頬を撫でた。


「ごめん、エレン。うかつなこと言った」


 悔いるように眉を下げ唇を軽く噛んでエレンの瞳を覗き込むロイドに、エレンは俯くと首を横に振った。


「………シーツ」


 言い募るエレンに、「分かってる」とロイドは頷いた。


「そんなに俺が寒いのが嫌なら、エレンがこっちにおいで」


 右腕も離すと、ロイドは自分の膝をぽんと叩いた。


「エレンがくっついていてくれたら、俺はもっと温かいよ」


 少し困ったように微笑むと「だからおいで?」とロイドは大きく腕を広げた。


 普段のエレンなら馬鹿なの?と笑って鼻っ柱を指ではじくくらいはしたかもしれない。けれど、今のエレンはどこまでも弱っていた。嵐が…びしょ濡れで現れたロイドが、エレンの心をどこまでも弱くしていた。


 エレンはふらりと、誘われるままにロイドの方へ一歩踏み出した。


「うん、良い子」


 少し笑うと、ロイドはそのままエレンの腕を引いて膝へ座らせ、後ろから抱きしめるように包み込んだ。


「ほら。こうすれば温かいし、エレンも俺が温かいってわかるだろ?」


 膝に座ってもなお頭一つ高いロイドの胸にぎゅっと抱き込まれる。その温もりが、鼓動が、じわじわとエレンを落ち着かせてくれる。


 そして、エレンは唐突に気づいた。


「ロイド、もしかして、心配してわざと来てくれた…?」


 ロイドのことだ。小斧のことを昨日聞いたなら、昨日の間に片づけに来たはずだ。この季節、明かりさえあれば夜道も大して危なくない。わざわざ嵐が来るだろうと分かっている日の朝まで置いておく意味はない。


 意味があるとすれば、それはエレンの家に『避難』することの方。


「そこはエレン。気が付いても言わないのが花じゃないのか?」


 くすくすと耳元で笑う声がする。左の首筋に顔がうずめられているせいで、ロイドが話すたびに形の良い唇が首元に当たる。

 ぶわりと、エレンの体が一気に熱を持った。気づくんじゃなかったと後悔しても後の祭りで考えまいとすればするほど余計に意識してしまう。


「すごく温かくなったな、エレン」


 首筋をたどる熱を感じながら、どうして「離せ」と言えないのだろうとエレンは俯いて唇を噛みしめた。


「ロイド、くすぐったい」


 止めてと言う代わりにせめてもの抵抗を試みると、ロイドの腕にさらに力が入る。


「うん、くすぐってる」

「!」


 上下に往復する熱がくすぐったいだけだった首筋に、ちくりと痛みが走る。


「ロイド、痛い」


 ロイドの腕をぺしりと叩く。全く緩む気配がない裸の腕に、エレンがそっと息を吐いた。


「……逃げてもいいよ」


 ロイドが囁くように言う。先ほどまではあんなにも安心できた温もりなのに、今はどうにも落ち着かない。


「逃がしてくれる気はあるの?」

「エレンが本当に、嫌なのなら」


 エレンがぎゅっと、体の前に回ったロイドの腕を両手でつかむと、ロイドがぴくりと動いた。首筋にかかるロイドの吐く息が熱い。


「だからさ、ちゃんと嫌がって?」


 今までより低い声が響くのと同時に、耳たぶが軽く食まれた感覚がした。


「っ、くすぐったい」

「…うん」


 ぞわりと腰のあたりがくすぐったくなり、エレンは思わず身震いした。落ち着かないのに嫌ではない。嫌ではないのに逃げ出したい。


 そんなおかしな感覚に、エレンはたまらなくなった。

 顔を背けて、反対側のロイドの肩に頬を摺り寄せる。思いのほか滑らかな肌の感触に、ひび割れて冷えていたはずの心が熱を持った。


「逃げなくて、いいのか?」


 鎖骨を濡れた感触が撫でる。ロイドの舌でなぞられているのだと気づくも、エレンは嫌だとは思えなかった。


「駄目、だと、思う。でも、離れる方が、嫌」


 きゅっと唇を噛むと、エレンは途切れ途切れにそう告げた。羞恥と腹の底に溜まるおかしな熱で今にも頭が沸騰しそうだ。


「そっか」


 くすくすとロイドが耳元で笑った気配がした。


「じゃぁ、逃がさないな?」


 左腕はエレンを捕まえたまま、右腕が下に下がる。そうしてエレンの太ももの横を、ロイドの指が膝から腰の方へゆっくりとなぞっていく。


「ねぇ、くすぐったいよ…」

「嫌だ?」


 また膝の方へ戻ると、今度は太ももの上を掌がゆっくりと腰の方へなぞっていく。


「嫌では、ない」

「…良かった」


 目を開けていられずぎゅっと目を閉じて俯いてしまったエレンの頬に手を添えると、ロイドはそっとエレンを上向かせた。


「エレン、こっち向いて?」


 呼ばれて素直に上半身だけひねってロイドの方を向くと、青の瞳がエレンを見下ろしていた。その中にいつもとは違う熱を見つけて、エレンの何かが歓喜した。


 何かを言いたいのに何も言えなくて。エレンが口を薄く開いたままロイドを見つめていると、甘く細められたロイドの瞳がゆっくりと近づいてきた。


 エレンが反射的に目を閉じると唇に柔らかな何かと共に熱を感じた。そのまま少し開いた唇の間を湿った感触がなぞる。もっと確かな温もりが欲しくてエレンから唇を強く押し付けると、ロイドの手がエレンの頭の後ろに添えられ、そのまま深く口づけた。


 ロイドがふっと笑った気配がして、熱い舌がエレンの口内へ入ってくる。


「エレン」


 合間に何度も名を呼ばれ、エレンも「ロイド」と何度でも応えた。そうして夢中で舌を絡め合い、何度も何度も角度を変えてお互いの唾液を交換した。


 あれほど怖かったはずの風の音も雨の音も、もうエレンの耳には全く聞こえてこなかった。ただはっきりと感じる温もりに、エレンはどうしようもなく泣きたくなった。



* * *



「エレン。雨の音、止んだな?」


 ゆっくりと離れた唇から銀の糸が伸びる。


 どれほどそうしていたのだろう。言われてエレンが耳を澄ますと、もう外からはあの恐ろしい音がしなくなっていた。

 時折名残の風がカタカタと窓を鳴らすけれど、それだけだ。いつの間にか嵐が過ぎ去っていた。


「あ…」


 嵐への恐れではない何かがエレンを焦らせた。ぎゅっと、ロイドの腕を掴む。すっかりロイドに満たされた心がどうしようもなくうずいていた。


 離れたくない。この温もりを失いたくない。


 今にも泣きそうな気持でロイドを見上げると、青の瞳にひどく優しい光を湛えてロイドが言った。


「俺は、帰った方がいい?それとも、ここに居た方がいい?」

「ここに、居て」


 考える間もなくエレンは答えた。

 膝に座ったまま縋りつくようにロイドの首に腕を回して抱き着くと、ロイドがぎゅっと抱き返しててくれた。


「いいの?」


 あやすようにぽんぽんと背中を叩きながらロイドが言う。


「もう、夜だもの」


 目張りの隙間から入る光は優しいオレンジ色。きっとまだ夕方だけれど、エレンは夜と言い切った。


「そっか、夜か」


 ははは、とロイドの笑う声がする。


「じゃぁ、しょうがないよな」


 ロイドがエレンの額に額を合わせた。


「もう、寝る?」


 目が合うと、切なそうにロイドが微笑んだ。きっとエレンも似たような顔をしているはずだ。


「うん、寝る」

「そっか」


 ロイドはちゅっと、音を立ててエレンに軽く口づけると、ろうそくを吹き消し「暖炉はそのままにしとくな」と言った。

 そうしてエレンを抱き上げたままロイドはゆっくりと奥へ歩いていく。エレンの寝室へ入ると、ぱたりとドアを閉めた。


 しっかりと窓に目張りをされた寝室も暗い。夜では無いけれど、夜だ。


 ロイドは光のほとんど無い寝室をどこにぶつかることも無く進みエレンをそっとベッドへ下ろした。

 離れた熱に慌ててエレンがロイドの腕を掴むと、ロイドは「まったく」と苦く笑ってエレンを閉じ込めるように、けれど体重を感じさせないように覆いかぶさった


「エレン」


 ロイドは小さくエレンを呼び、触れるだけの口づけをした。すぐに離れた唇を思わず「あ」と言ってエレンが追いかけると、ロイドは笑って深い口づけで塞いだ。


「知ってた?俺がエレンをずっと好きだったって」

「知らなかったわ」

「だろうな」


 くすくすとおかしそうに笑うロイドの裸の背にエレンの手が触れた。そういえば途中でシーツを落としてきたようだ。

 夢中でロイドの口づけに応えながらエレンがまたロイドの首に腕を回すと、ロイドは口づけを繰り返しながらエレンのシャツに手をかけた。


「俺がいるよ、エレン。何度嵐が来ても、俺がいる」


 はだけたエレンの胸元にロイドの頭が埋まり、ちりりと鋭い痛みが走った。胸元にかかる吐息の熱さに、痛みに、生きているのだと強く感じる。


「ねえロイド」

「うん?」

「私がずっとロイドを好きだったって知ってた?」


 エレンがロイドの少し癖のある髪を撫でながら言うと、ロイドはがばりと起き上がった。


「知らない、聞いてない」

「でしょうね」


 くすくすとエレンも笑った。


「好きよロイド。置いてかないって約束して」

「好きだよエレン。離れないから覚悟して」


 こつりと、エレンの額にロイドの額が触れた。エレンを覗き込んだ青の瞳は確かな熱を湛えているのにとても優しい。


「覚悟するのはあなたよロイド」


 エレンがにっこりと笑ってロイドの頬を両手で包み込むと、ロイドは「さあ、どうだろうな?」と嬉しそうに瞳を蕩けさせた。


 かたりと、まだ時折吹く嵐の名残の強い風が窓を揺らす。けれどこの温もりがあればきっともう怖くない。


 いつもは奪い去るばかりの嵐が連れて来た火傷しそうなほどの熱に浮かされながら、エレンは微笑みと共に一筋、柔らかい涙を流した。






ご通読ありがとうございました。

またお目にかかれましたら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
胸塞ぐ痛い嵐の記憶が甘やかなものに変えることが出来て本当に良かった。 これからは大切な存在も増えて大変だけど笑い合えるような思い出が増えていきますわねえ。
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