第2限 座右の銘ゼロの新米先生、即席《哲学》バトルに巻き込まれる
《お題》を巡る四方向からのプレッシャーに、知恵は喉を揺らした。
(まず自己紹介、だよね――!)
「え、ええと……わた、じゃなくて先生は――」
角張った語尾に自分でつまずく。深呼吸をひとつ。
「改めまして、新倉知恵です。現代文を担当している先生です。好きな食べ物は学食のきつねうどんで……ええっと、座右の銘は――」
言いかけて硬直する。これまで座右の銘を求められた経験は皆無だった。
「……ありません!」
正直な宣言に、部員たちの反応は三者三様、いや四者四様だった。
マルリが慈母のように微笑む。
「座右の銘は、生き方を省みた折に自然と芽生えるもの。今はお持ちでなくとも大丈夫ですよ」
ルネが机に頬杖をつき、ニヤリ。
「逆にカッコいいじゃん。《ノー座右の銘主義》、流行るかも!」
ユウは雲を見上げたまま「空にも銘は書いてないしね」と呟く。
ノザは「何も掲げない哲学……空白が最も雄弁だ」と詩的に頷いた。
(励まされてるのか、余計にハードルが上がったのか分からない……)
知恵は気を取り直し、メモ帳を開きながら問い掛けた。
「ところで……そもそも《哲学》って、どんなものなんでしょう? 先生、正直そこから分かってなくて」
四人の瞳が一斉に輝く。獲物を前にした犬――いや、論点を前にした哲学者。
「それじゃあ、本日の《お題》は《哲学》に決定ですね」マルリが宣言し、ホワイトボードに大きく書き殴る。
マルリがホワイトボードに《哲学》と大書し、マーカーを握ったまま振り向く。
「私にとって哲学は、己を善へ導く理性の鍛錬です。怒りや欲望に揺らがず、市民として役立つ徳を積む――それこそ《よく生きる》道だと考えます」
ひと言ごとに句読点が浮かぶほど整った口調に、知恵は思わず背筋を伸ばした。
(校長先生の訓辞かな…?)
すかさずルネが机を蹴って前へ。
「ちょい待ち! ウチ的には考えるって行為そのものが哲学だし? 答えとか善とか置いといて、とりま自分が考えてるって事実が尊いんよ。存在証明、キター! って感じ!」
腕を振り回し、黒板に向かってVサイン。教室の空気が一気に熱を帯びる。
(温度差、急上昇……!)
窓辺のユウがふわりと振り向く。
「わたしはね、感じる先に世界があると思うの。風の匂いとかパンケーキの甘さとか……全部経験。そこから『好き』とか『いやだ』が生まれるでしょ? それが哲学のはじまりじゃないかなぁ」
甘い生クリームの幻が漂い、知恵の空腹センサーが微妙に反応する。
(今そのワードはお腹に刺さる……!)
本棚の影からノザが静かに現れ、黒板の隅に点をひとつ打った。
「哲学は、世界と自分の境界を溶かす作業だと思う。因果で結ばれた全体――そこに例外はない。人も机も風も、すべてが同じ連鎖の輪。そこを見つめる眼差し、それが哲学」
低い声は淡々としているのに、教室が一瞬で深海のような静けさに包まれる。
(静かすぎて耳がキーンってする…!)
四つの定義が交錯し、知恵は額の汗を袖でそっと拭った。
「えっと……要するに、どれが正解なんでしょう?」
マルリが首を横に振る。
「《正解が一つではない》ことを受け止める営み――それもまた哲学かもしれませんね」
ルネがサムズアップで乗っかる。
「ってことで先生も好きに語っちゃいなよ! 《先生的・哲学》、超気になる!」
ユウが小さく拍手し、ノザが「可能性は開かれている」と呟いた。
(好きに語れと言われても……!)
脳内がホワイトノイズで埋まりかけたところで、救いのチャイムが鳴り響く。
知恵はほとんど反射で締めに走った。
「今日は顔合わせということで! このまま解散とします!」
――こうして、《哲学が存在しない世界》の哲学部が動き始めた。