第12限 PINEの《既読》はいつ返す?――間合いと即レスの攻防
放課後の部室。窓からの風がカーテンを持ち上げ、机の上に置かれたスマホ二台の画面に光が揺れた。
真栄田マルリは姿勢よく椅子に座り、ストップウォッチを手にしている。向かいでは出神ルネが親指をぶんぶん解していた。
「準備オッケー。ウチ、既読つけたら三十秒以内返信ルールね」
「では検証を始めます。送信しますよ、ルネさん」
マルリの指が滑り、PINEにメッセージが飛ぶ。〈今、少し話せますか〉
すぐに“既読”の文字。ルネは超速で打ち始める。
〈いける! 今のうち、脳フル起動!〉
ぴ、とマルリのストップウォッチ。
「十七秒。即応は良好です。ただ『今のうち』はひらがなで。あなたの一人称『ウチ』と紛れますし、感嘆符は一つで十分です」
「細か〜! でも熱いうちに返すのがウチ流!」
その時、扉が開いて知恵が入ってきた。
「こんにちは。今日は三年の補講が長引いて――って、何を計測してるんですか」
「PINEの返信タイミング研究です」
「顧問チェックも兼ねてね!」とルネ。
(研究って名が付くと、全部まじめっぽく見えるのずるい)
机の上の紙には、見慣れない表があった。
〈即レス:体感温度高/誤字率やや高〉〈十分置き:体感温度中/誤解リスク低〉〈一晩寝かせ:体感温度低/忘却リスク高〉……。
(ちゃっかり実用的……!)
「先生も実験協力をお願いします」
「参加、ですか?」
「はい。いまから私が先生にメッセージを送ります。先生は“いつ返すのが心地よいか”で判断してください」
「分かりました。では、状況設定は?」
「放課後の部室。相手はクラスメイト。内容は軽め、です」
(軽め、が一番悩むんだよね)
マルリからメッセージが届く。〈提出物、明日の朝でもいいですか〉
知恵は画面を見つめ、呼吸を整えた。
「……今すぐ返信します」
〈了解です。朝で大丈夫ですよ〉
送信。
「四秒。迅速で丁寧。先生は信頼の残高が増えます」
(残高って言い方、ちょっと刺さる)
続いてルネから。〈プリントありがと!助かった〜〉
知恵は指を止めた。
(すぐに『どういたしまして』? でも“助かった”って熱は今のうちだよね)
〈いえいえ。お役に立てて良かったです〉
送ってから一拍、胸がざわつく。
(堅い? “です”が二連続で硬い?)
ルネが即レスを返してきた。〈先生の『いえいえ』、好き〉
「……評価が直球で飛んでくるんですね」
「熱いうちに本音ポン! それが一番、相手に届く」
マルリが軽く咳払い。
「即時の温度は素敵です。ただ、夜遅い時間帯は相手の生活リズムを崩しかねません。返信を“明朝に回す”選択も覚えておきましょう」
「じゃ夜十時以降は“既読パイン”だけでいい?」
「“既読パイン”とは」
ルネはパインのスタンプを送って見せた。
「これ。『読んだよ』の合図。可愛いし」
「可愛いのは長所ですが、要件が残る場合は文を添えてくださいね」
(既読パイン、便利だけど万能ではない、と)
「先生、もう一問。『今いい?』って来た場合」
マルリが送信。画面に〈今、少し話せますか〉が並ぶ。
知恵は一瞬迷ってから、深呼吸して打つ。
〈五分後なら大丈夫です〉
「ベストです」とマルリ。
「“いま無理”って返しちゃダメ?」とルネ。
「状況の共有があれば礼は保てます。『いまは授業中、後で』など」
「なるほど、“時間の地図”を相手に渡す感じね」
(時間の地図、いい表現だな)
ルネが急にニヤリと笑った。
「じゃ最後は恋バナ想定。『明日の放課後、ちょっと話したい』」
部室の空気が一ミリだけ暑くなる。知恵は喉を鳴らした。
(こういうの、心拍が先に既読つけるんだよね)
〈承知しました。放課後、部室前でお待ちしています〉
送った直後、ルネから即座に着弾。〈先生の“承知しました”、告白も書類仕事にしそうで逆に安心する〉
「そ、そうでしょうか」
「堅いけど、逃げない文だよ。相手、救われるタイプ」
マルリがストップウォッチを止め、今日のまとめを口にした。
「返信は《礼》、そして《状況共有》。即時の温度と、相手の時間。二つの秤を持ちましょう」
ルネが親指を立てる。
「で、心が“今!”って鳴ったときは、三十秒以内にポン。熱は冷めると別物になるから」
「三十秒以内……」
(私の親指、そんなに速く動かないんだけど)
と、そのとき、知恵のスマホが震えた。
〈職員会議、明日朝に変更〉教頭からのPINEだ。
「……これは即レス案件ですね」
〈承知しました。明朝、伺います〉送信。
ルネが笑う。
「先生、三秒。最速記録更新!」
「職員会議は、熱も冷めも許されませんから」
(こういう時だけは、親指がフルマラソン選手)
窓の外の光が少し傾く。
「本日の研究はここまでにします。先生、ご協力ありがとうございました」
「こちらこそ、勉強になりました。……あの、パインのスタンプ、どこで買えるんですか」
「ショップの“果物”カテゴリ!」とルネ。
「可愛いからって乱発は控えてくださいね」とマルリ。
(了解。《既読パイン》は要所で。礼と時間、その二つの秤、忘れない)
部室の時計が、コトリと一分進んだ。
返す言葉の温度と、待つ時間の長さ。小さな画面の中で揺れるその二つを、知恵はそっと胸のポケットにしまった。