第1限 《哲学》って何するの? と聞いたら世界が回り始めた件
県立白紙高校
職員室の午後は、チャイム直後のざわめきがまだ残っていた。
新任教師・新倉知恵――黒髪のセミロングを低い位置でひとつにまとめ、メガネを掛けていない素顔――は、未整理のプリントを胸に抱えたまま立ち尽くしている。
向かいの机では教頭が軽く咳払いをし、書類の一枚を差し出した。
「――というわけで、空き教室も確保できました。顧問届、よろしくお願いしますね、新倉先生」
丁寧に綴られた《哲学部》設立願。部名の響きに首を傾げつつ、知恵は曖昧な笑みで押印した。頼まれると断れない性格だ――同僚もそれを熟知している。こうして彼女は、創設一週間の部活を流れで引き受けてしまったのである。
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プリントを胸に、廊下を歩く。窓から差す初夏の光がタイルを四角く染め、足音だけが規則正しく跳ね返った。
(《哲学》って……そもそも何をするんだろう?)
この国の教育課程にその科目はない。指導要領にも載っていないし、大学の学部名でさえ耳にした覚えがない。知恵は自分が知らないだけだと思っていたが、同僚も誰一人として説明できなかった。言葉だけがぽつんと宙に浮いている感覚――その奇妙さが胸の奥で小さくざわつく。
(授業準備だって手一杯なのに……私、大丈夫かな)
弱音めいた独り言が喉まで上がるが、廊下には誰もいない。代わりに遠くの教室から笑い声が響き、日常の喧噪が背中を押した。
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特別棟の最端、昼はほとんど人が通らない角を曲がる。そこに掲げられた「哲学部」の紙札は、まだ真新しかった。
錆びた取っ手に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、鼓動が早まる。
(どんな生徒が待っているんだろう)
未知への不安と、教壇では味わえないわずかな期待――名前も顔も知らない部員たちが、この扉の向こうで彼女を待っている。深呼吸をひとつ。
カチリ。
ノブが回り、重い扉がゆっくりと開き始めた――。
扉が開いた瞬間、静寂。
まばらな机と椅子のあいだを風が抜け、黒板の上で古い壁掛け時計がカチリと鳴った。知恵は《無人?》と首を傾げ――
「ようこそ、顧問の先生」
正面の机から、ひとりの女子生徒が滑るように立ち上がった。栗色ボブに整った制服、背筋は定規のように真っ直ぐだ。
「部長の真栄田マルリです。今日からお世話になります。……私の座右の銘はこれです」
マルリは胸に手を当て、息を整えると朗々と口にした。
「心を律すれば、世界は乱れぬ」
――ひと言ごとに句読点が見えるほど丁寧。知恵は思わず拍手しかける。
「って、カタすぎ! ウチらもっとフリーダムで行こうよ!」
机を飛び越える勢いで金髪メッシュのギャルが乱入した。
「あ、出神ルネで〜す。座右の銘? もちろん――」
人差し指で自分のこめかみをコツンと叩き、白い歯をキラリ。
「ウチが考えてる時点で、存在は確定よね!」
強烈な自己肯定が炸裂。知恵は拍手を止めるタイミングを見失う。
「……せんせい?」
窓辺のカーテン越しに影が揺れ、三人目がひょこり顔を出した。淡いウェーブヘア、眠そうな瞳。
「日夢ユウ、です。えっと……座右の銘は――」
口を開けたまま数秒、外の雲を見上げてから、ふわりと笑う。
「気持ちが先で、考えるのは後でいい〜」
言い終えると、そのまま窓へ向き直り再び雲観察。自由すぎる背中に知恵の口は半開き。
「風が変わったね」
最後に、本棚の影から長身の生徒が音もなく現れた。漆黒の前髪が揺れ、低い声が教室に落ちる。
「僕は氷室ノザ。座右の銘を言うなら――」
黒板に視線を滑らせ、静かに結論を告げた。
「この世界そのものが、神……つまり僕」
へぇ、と頷く者も、えぇ? と首をひねる者もいるが、当の本人は涼しい顔。
(情報過多にもほどがある!)
知恵は手に持ったプリントの束を抱きしめ、深呼吸した。マルリの理性、ルネの勢い、ユウの感覚、ノザの神。四方向から個性が飛んでくる。
「えっと……じゃあ、顧問としての初仕事は――」
声を絞り出すと、四人の視線が一斉に集中した。まるで質問攻めを待つ猛獣。
そのときルネが手を挙げる。
「先生、《お題》出して? みんなで語ろうよ!」
マルリがうなずき、ユウが「パンケーキ?」と呟き、ノザが「因果律……」と重ねる。
(初日からカオス確定だ……!)
知恵は心の中で叫びつつ、渾身の笑顔を作った。
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