Phantom Love〜いつか、柳の木の下で〜
小石がじくじく、柔らかい皮膚を突き破っていく。私は、もはや裸足なのすら忘れて夢中でひた走っていた。
鳴り止まないインターホン、ゆっくり回るドアノブ。耳にこびりついた音たちを、必死になって振り落とす。
ころされる、ころされる、殺される。「助けて」全力で叫んだところで、残念ながらこの声は誰にも届きやしなかった。
ーーほんとは聞こえてるくせに
まるで自分が、姿の見えない幽霊にでもなってしまった気分だった。
(嘘、でしょ)
少しずつ肺が引き攣ってきたのが、嫌でも分かった。
曲がり角の先は行き止まり。
おまけにヒタヒタヒタ、と、ものすごい勢いでこちらに近づいてくる足音。ああ、もうダメそう。でも、諦めたらちょっとくらいは楽になれるんだろうか。思っていたら、だんだん、全身から力という力が抜け始めていって。ふいに、乾いた笑いがこぼれた。私はもうすぐ殺されるんだーー顔も名前も知らないあの人に。
命乞いするにせよ、上手いやり方なんて今までこれっぽっちも教わってこなかった。そもそも希望とか楽しみとか生きがいとか聞かれても、パッと思いつくわけじゃなかった。ただ、強いて言うなら。このまま意味もなく消えていくのが癪といえば癪だった。だって、ちょっと理不尽すぎやしないか。見ず知らずの人にいきなり「機嫌が悪いので、とりあえずお前には死んでもらいますね」なんて、何様だよ。仮にもストレス解消のためだけに殺されるんだったとしたら、私の人生って結局なんだったんだ。それはきっと、作者のいない漫画の結末みたいに分からずじまいになる気がして。
「…………えっ、」
なんでだろう、おかしいな。喉がチクチク痛む。熱い水が目尻に浮かび上がってきた。
「た、すけてくださっーー」
気づいたら、そう口にしていた。おもしろいくらい掠れた声だった。
だけど、都合よく私のことを助けてくれるヒーローなんて、この世に存在していない。分かっていたから、いよいよやってくるだろう痛みにギュッと目を瞑るしかなかった。
その時だった。
私めがけて振りかざされるーーはずだった、ぬらぬら光るナイフを、突然目の前に現れた男の人が、いとも容易く打ち落とす。華麗な体裁きですみやかに犯人を取り押さえてみせた彼は、トランシーバーに向かって凛と言い放つ。
「22時48分、殺人未遂の容疑で現行犯逮捕する!」
バチッーーと目が合う。
今でも時々、夢に見る。揺れる柳のように、それはひたすらに、静かだった。
この時助けてくれたおまわりさんこそ、柳 由良。
ーーそう遠くない将来、私の夫となる人だ。
*
無事に犯人が逮捕された後も、柳さんと私の交流(と、呼んでいいのかは分からないけど)は続いていた。
眠れない夜が続く私の相談に乗ってくれたり、気の済むまでいていいと、署に保護してくれたり、それだけじゃない。この間は気晴らしにと言って、散歩にまで一緒に出かけてくれたんだったっけ。
彼の人懐っこい笑顔を思い出すだけでも、みるみる顔が赤くなってゆく。私は……自分で言うのもアレだけど。昔から恋愛とかそういうのに呆れるほど疎かった。だから、柳さんの行動が好意からきているのか、それともただの仕事のうちなのか、わりと本気で区別がつけられなかった。
先週は、おばあちゃんの重そうな荷物をわざわざ家まで持っていってあげていたし、昨日は昨日で、万引き犯の少年を、「二度とこんなことをしないように」と、厳しくも穏やかに諭していたし(お説教が終わったら、その子の頭を犬みたいにわしゃわしゃ撫で回していた)。とにかく誰にでも分け隔てなく接してくれる柳さん。
そんなこんなで、勘違いなんて恥ずかしくてしていられなかったから、いっそ思い切って理由を尋ねてみることに決めた。今日の答えしだいではすっぱり諦めよう、そんなふうに心に言い聞かせて。
私は拳を握り直す。どうしてそこまでーー優しくしてくれるんですか? 震える言葉を、ふわりとした笑みが遮った。「……実は」と、形のいい唇は悪戯っぽく弧を描く。
「一目惚れした、なんて口説き文句を言ったらーー堀籠さんは困っちゃうかな」
私はふるふる首を振る。困ることなんて一つもなかった。この瞬間から、堀籠 玲那、23歳にして初めてのお付き合いが始まったのだった。
*
「玲那、今日はもう遅いから先に寝てて」
時刻は21時半。食器を片付けながら、私は曖昧に頷いてみせる。どうせいつもの筋トレだろうな、なんとなく察しはついていた。ストイックなのは由良さんの良いところでもあるけど……でも、それにしたってあんまりだ。
せっかくの新婚生活なのに、もっと、もっとさ、なんか、こう……
「ううん、まだ眠くないから大丈夫だよ」
やきもきするも、とりあえず気づかなかったことにしておく。ただ、少し芽生えた抗議の心が、私にぷうと頬を膨らまさせた。
お風呂から上がってきてすぐ、トレーニングの様子に釘付けになった。引き締まった肉体には、水滴が伝っている。
次はプランク。キッチンタイマー片手に、私はぼーっとする。この人は、やっぱり仕事が一番なのかな。それだけが生きがいなのかな。
そうしたらなんだか、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、ムカムカしてきてしまった。
ええい、私だって。本当はーー!
もっと大好きって伝えたいのに。もっと長く一緒にいたいのに。もっとたくさん私に触れてほしい、の、に……そこまで考えたところで、ハッとなった。
だって、これじゃあまるで……。
するとどうだろう、タイミング悪く、タオルで汗を拭きながら、由良さんがこっちに距離を詰めてきた。
(だ、だめっ……いまは!)
私はエビのようにズサー、と後退りする。ソファが、いやに冷たかった。
「あ、ごめん! ……ちょっと汗臭かった?」
申し訳なさそうに顔を覗き込まれると、いよいよ逃げ場がなくなってしまう。
「全くもってそういうわけじゃ……!」
「じゃあどうして、俺から逃げるの?」
ほとんど食い気味に問われる。由良さんは本当に何も分かっていなさそうだった。
あなたには分からないよこの野暮天が! と叫びたくなるのをグッと堪え、私は取り繕ったように微笑んだ。
「もしかして俺、またなんかしちゃった?」
うう、捨てられた子犬みたいな目だ。そういうところだよ。たまらず私は口を開く。
「だ、だって……! 結婚してもう2ヶ月も経つのに、まだチューまでしか行ってないじゃないですか私たち!」
言いながら、というか半分泣きながら。もはや消えてなくなりたいとさえ思えてきた。
その瞬間、
「っわ」
ひょいっと体が浮き上がる。どうやら、お姫様抱っこされているらしい。
「ゆ、由良さん?」
「……ちゃんと反省して」
子供っぽく口を突き出す由良さんに、私の脳内はクエスチョンマークで埋め尽くされる。
「じゃあ、改めてもう一回訊くね」
私の体をゆっくりベッドに敷きながら、由良さんはなおも余裕そうに、柔和な笑みを浮かべ続けていた。
その手つきが。その声が。合いの手を入れるように滴る汗が。
全部がじれったくて、今にも溶けてしまいそうだった。絶対わざとに決まってるって、頭の中の赤信号が知らせている。
やるならさっさと済ませてほしい。ベッド横、花瓶の中ではすでに、薔薇の花びらが散りかけていた。射抜くような瞳に頭がくらくらしてくる。
「俺を、パパにしてくれるーー?」
私が頷くのなんて、もはやお見通しみたいだ。耳のすぐそばで、くすぐるように、低く囁かれた。
*
お腹にいる子は、男の子だと分かった。女の子ならあれをやって〜男の子ならこれをする! そんなふうに意気揚々と語っていた由良さんは、私が診断結果を告げるなり泣いて喜んでくれた。
二人分の体を抱きしめながら、何度も何度も「ありがとう」と連呼してくるものだから、それがなんだかおかしくて、嬉しくて、くすぐったくて、思わずふふっと笑ってしまった。
「由良さん、この子の名前はどうする?」
軽く話題を振ったつもりだったのに、彼は顎に手を添えて、しばらく考え込んでいた。
全く、相変わらずこういうところは真面目なんだから。
「俺の由と玲那の玲をこう、合体させて…………由玲とか⁇」
「ユーレイって……もう、縁起でもないこと言わないでください」
ぴしゃりと言うと、由良さんは体をよじらせて笑い転げていた。
いよいよ臨月も近づいてきたという頃。私はすでに、産婦人科に入院していた。由良さんはといえば、最近どうにも仕事が忙しいようで、もうずいぶん長いこと会えていなかった。
正直、妊婦でいることがこれほどまでに大変なことだとは思っていなかった。
ひどい悪阻、満足に履けない靴、加速するネガティブ思考……そのうえ、何をするにも初めてのことばかりなので、もちろん心細かったし、旦那が側にいないで寂しくないのかと問われれば素直に寂しかった。
そんな私を見かねてか、由良さんは、出産には絶対に立ち会うと力強く言ってくれた。だから私も、不安を必死で打ち消して、彼と再会できる日を今か今かと心待ちにしていた。
ところが。陣痛がきて、分娩室に入っても、今日来るはずだった由良さんの姿はいまだ見えなかった。
結局、産まれてきた男の子は、3250グラム。
小さいながらも、しっかりと由良さんの面影を宿したその顔を見た途端。嵐に揺れる木々のように、私の心はざわめき出した。
ーーまだまだこれからってときにね
ーー本当。柳さんも可哀想に……
看護師さんたちの声がこだまする。
やなぎ、さん……?
別にそこまで珍しい苗字じゃない。だから。まさか、いや、そんな。だって、そんなはずは。そんなのってない。あっちゃダメだ。
言い聞かせようとした。でも。押さえつけようとする手を振り払い、彼女たちが見ていたテレビを、盗み見る。
『……と判明しました。柳警部の胸には刃渡り20センチの包丁が刺さっており、救急車で病院に運ばれましたが、間もなく死亡が確認されました』
顔を伏せる看護師さん。無機質なアナウンサーの声。そしてーー画面の中に映る、見慣れたやさしい目もと。
頭に、ハンマーで殴られたような鈍い衝撃が走ってゆく。
昔から、なぜか私の嫌な予感はよく当たる。
由良さんは。私の、夫は。
事件が起きた時、ちょうど囚人を護送中だったそうだ。運命の悪戯か、はたまた必然かーーかつて私をターゲットにしていた、通り魔の。私を寝取ったとかなんとかで、とにかくそいつから一方的な因縁をつけられて……
由良さんは、帰らぬ人となった。
*
由生を寝かしつけた後。今晩も、向こうに誰もいない扉から、コンコン……とノック音が響いてきた。
「由良さん、あなたなの……?」
寝室は、しんと静まり返っている。
いるならせめて、返事くらいしてよ。ずいぶん水くさいじゃないですかーー
私はギュッと、ブランケットを握り直した。
幽霊でもいいから、もう一度だけ私の頬を撫でてほしい。だけど、そんな奇跡は起きるはずがないと、どこかで知っていた。
だって、他でもない私のせいで、由良さんは……
あの日、由良さんがいなくなった日。出産直後ということもあり、お葬式にすら顔を出せなかったから、多分まだ、気持ちの整理がつけられていないんだと思う。
今日の、100か日の法要が終わっても、特にそれは変わらなかった。この胸の奥深くに染みついた悲しみは、きっと永遠に取れるはずがない。
でも、私には一生かけて守るべき息子がいる。せめてみんなの前くらいでは気丈に振舞わなきゃと思っていたけど、今日くらいは素直になってもいいのかな。
もう、泣いてもいいのかな……
もちろん、返事なんてどこからもかえってこない。
私はゆっくり、でも確実に、永遠とも思える長い時間、嗚咽を漏らし続けた。
ほぎゃあああ、ほぎゃあああーー
合図を告げるように。そこには寝返りにびっくりした由生が。思わず、くすりと笑ってしまった。どんなに大変でも、やっぱり我が子は愛おしい。
「……はいはい、今度はおっぱい? それともオムツ?」
パジャマに指をかけた、その時だった。
(あ、れ……?)
頭が妙にチカチカする。どうして片側だけ、真っ白に見えるんだろう。
しだいに視界がぐにゃりと歪み始める。
「ごめ、ねーーママ、ちょっと、ねむたく、なってーーき、ちゃっ、た」
薄れゆく意識の中。グラスの中で融解し、一つになった氷の音だけが、頭に響いた。
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真っ暗闇の中で、俺ーー柳由良は目覚める。思うがままに動かせる手首。地に足がついた心地よさ。カレンダーを確認する。今日は、俺が死んでからちょうど100日目に当たる日だった。外には立派な満月が出ていた。
「ああ、あったかいなあーー」
こんなにも穏やかで懐かしい感覚は、何千年ぶりかと思うくらい久しぶりだった。
(なんで俺、死んじゃったんだろう)
あの時俺が、もう少し早く殺意に気づいていれば。奴の包丁を避けていれば。
ーーいいや、どんなに後悔したところで、もう遅いか。
ベビーベッドに寝転がる息子は、きょとんと不思議そうに俺を見つめていた。
「おーい。ひょっとして、普段から俺のこと視えてた?」
試しに手を振ってみると、小指をものすごい力で握り返された。
やっぱり、何か感じるものがあるんだろうか。道理も知らないような赤ん坊とはいえ、下手に侮れないーーこれこそ親バカってやつなのかもしれないな、そんなふうに呟いた。
これから、家族としての当たり前の幸せを築いていけるはずだった。
ゆるやかに歳を重ねて、数えきれないほどの思い出を作って、いずれはたくさんの孫たちに見送られて旅立つーーそんなささやかな願いを叶えることすら、俺には許されなかった。それどころか、二人に何もしてやれなかった。
息子の入学式に、大好きな玲那と一緒に参列したかった。なんならいつか職業体験だって引き受けるつもりだった。二人に見せたい景色も、食べさせたいものもいっぱいあった。
両肩に触れる。玲那はもとから痩せていたほうだったけど、これほど肩が薄かっただろうか。
(無理しすぎだってば、玲那)
体を借りているから分かる。このままでは、玲那まで死んでしまうかもしれない。やりきれず、俺は涙を一筋こぼした。
「独りぼっちにさせて……ごめんな」
生きている時に抱き上げることはできなかった我が子を、神様今だけは許してくださいーーと、力いっぱい高い高いしてやった。きゃきゃっ、と、まるで、この世の綺麗なものを全部詰め込んだみたいにして笑っている。
改めて、じっくり見つめてみた。俺と玲那を、ちょうど足して二で割ったような顔。
「由生、時間がないから手短に言うけど、悪いことしたらちゃんとごめんなさいって言える人間になるんだぞ。そのあとはめいっぱい人生楽しめばいいからな。それから、それから……パパのぶんも、ママを頼むよ」
男の約束だ、と、俺はもう一度だけ、目の前の息子に小指を差し出した。由生はそれを、分かっているのかいないのか、すごく強い力で握り返してきた。
ああ。まったく、我が息子ながら頼もしいな。だんだん、向こうの空が白みはじめてきた。きっともうすぐ夜が明けるだろう。
じゃあーーまたいつか、俺の宝物たち。
俺はこの、華奢な体を、感覚がなくなるまで強く抱きしめ続けた。