最終話 エピローグ
魔王は倒れた。
「クッキー:1 魔王:1」
アイテムボックスのイメージには「ゴミ箱」のアイコンがある。
頭の中で魔王をゴミ箱に移動させると、「魔王を削除しますか?」という問いが現れた。「はい」を選択した。
奇妙なチートスキルの不可解さにとまどいながらも、俺は自分の転送魔法で魔王城を後にした。
しばらくは信じられない思いでぼうっとしていた。
だが、ぼんやりしてはいられないらしい。
ミミズによれば、この後には予想だにしない混乱が世界にもたらされるかもしれないという。
『人間の支配層の多くが虫であることは公表できないでしょう。混乱は避けられないです』
脳内に響くミミズの声は、まるで冷酷な宣告のようだった。魔王城の虫が人間の姿を借りて社会の頂点に潜んでいる。その事実はあまりにも重い。
『魔王は死にましたが、その席は空席として残っています。宿主は、影の支配者として君臨することになるかもしれません』
「それは無しだ」
俺は強く拒絶した。影の支配者など、まっぴらごめんだった。
幸い、ルリアが動いてくれた。
魔王の残党を根絶やしにする代わりに魔王城の統括する権限と、人間を襲わないという条件を提示し、ルリアは魔王城の宰相として、以前と変わらず魔王城に留まることを提案したのだ。
「はい、レン様。魔王城の虫たちに厳令を下しました。人間を襲うことは一切禁止です」
俺はルリアの提案を承諾したが、彼女の表情はどこか冷たく、感情が読み取れない。彼女を完全に自由にするのは気が引けた。テイムを解除すれば、彼女が牙を剥くかもしれない。
ルリアの行動を監視するためにも、テイムを維持しておくことが、俺にとって最善の選択と感じられた。
「ミミズはテイム解除したほうがいいか?」
ミミズの返事はこうだった。
『はい。気が向いたら宿主の身体から出ていくのです』
意外ではなかった。ミミズも自由になりたいのだな、と思った。
テイムが強力になり、ミミズに強制力を持ってしまっているのかもしれない。
命を救ってくれた友人を支配したくないという感覚もあった。
だから、俺はミミズのテイムを解除することにした。
***
半年が過ぎた。
魔王の襲撃は完全に無くなり、王都は平和を取り戻した。
魔王城に乗り込んだ者は、なぜか王都にワープさせられるという風のうわさも耳にした。ルリアは約束を守ってくれているようだ。
凱旋パレードなど必要ないと俺は判断した。公爵位の叙爵も断った。
自分一人の力で魔王を倒したわけではない。リナやアイリスやアニー、そしてルリアの協力があったからこそ、この勝利は成し遂げられたのだ。
俺は普通の王国民に戻ることを決意した。
そして、いま、俺は王城の掃除屋として働いている。魔王城での掃除生活ですっかり掃除好きになってしまっていたのだ。好きなことを仕事にできるのは、幸運だと思う。
大理石の床を磨き、埃っぽい廊下を掃き、汚れを払い落とす。粗大ごみにはアイテムボックスが有用だ。
以前は、ただの苦役だった掃除が、いまは、俺の心を癒してくれる安らぎの空間となっていた。
王城の周りを清掃していると、王国の人々が、俺の掃除に感謝の言葉を贈ってくれる。
「レンさん、いつもありがとうね」
「おかげで、街が綺麗になって、気持ちがいいよ」
「レンさんの掃除は、まるで魔法みたいだね」
そんな言葉が、俺の心を温かく包み込む。
アイリス王女から手渡されたアニー製の特別なモップを握りしめ、俺は、今日も黙々と掃除を続ける。
それは、魔王討伐の英雄ではなく、ただの掃除屋としての、俺の日常だった。
たまに、整った人間型に戻ったリナが会いに来てくれる。
彼女は自分が作ったと言って召喚したチョコレートを大量に持ってくる。
「そういう日なんだよ。スローライフ、頑張ってね!」
リナは、そう言いながら、チョコレートを俺に差し出す。
その弾むような笑顔は、俺の心を明るく照らしてくれる。
ある日のこと。
俺は、王城の庭の隅で、掃除をしていた。
大理石の床を磨いていると、誤って指を切ってしまった。
「痛っ!」
思わず声を上げ、指から鮮血が噴き出す。
しかし、すぐに温かい感触が傷口を覆い、再生が始まった。
テイムを解除したはずなのに、ミミズの力は、依然として俺の身体に宿っている。
念話は使えない。ミミズの声は、もう聞こえない。
「まだミミズがいるのか……」
俺は、少し呆れながら、ミミズの力に感謝した。
ミミズは、俺の身体に寄生したまま、静かに力を貸してくれている。
いつになったら出ていくのだろうか。
そして、ふと、モップを握る手に力がこもる。魔王討伐で得た力が微かに残っていることを感じながら、俺は心の中でつぶやいた。
「……掃除は英雄の仕事だとミミズは言っていたな」
俺は、深く息を吸い込み、再び掃除を始めた。
埃っぽい廊下を歩き、虫の死骸を払い、床を磨く。
いつの間にか時間が経って綺麗になっている。充実感とともに俺は遠い空を見上げる。
通りかかった見知らぬ人が応援するように会釈する。魔王を倒した時よりも、うれしい気持ちになる。
この凡庸な日常が、いつまでも続くことを俺は願うのだった。




