第62話 ロンバの痕跡
俺は再び巨大なモップを手に取り、魔王城の廊下を進んだ。
埃っぽい床を磨き、虫の死骸を払い、黒曜石の床をひたすら磨く。
機械的な動作の繰り返し。
しかし俺にとって、慣れた作業に没頭することは、無心になれて悪くない気分だ。
掃除屋の面目躍如だと言ってもいい。
<<レンよ>>
魔王の声は、まるで雷鳴のように低く、重々しい。
俺は思わずモップを握る手を止めた。
<<神聖皇国との戦闘で気づいたことはなかったか?>>
魔王は、玉座に深く腰掛けて、静かに俺を見つめていた。
「瘴気が無効化されたことを感じました」
答えると、魔王はゆっくりと頷いた。
聖職者たちの聖なる力のようなものは、俺の瘴気を容易に打ち消していた。
瘴気に抗える力を持つ相手はこれまでいなかった。
<<聖職者らは汝の脆弱な瘴気を無効化していたな>>
玉座に座る魔王が顎に手をやっている。
魔王はゆっくりと頷いた。俺もまた無意識に頷いた。
<<だが、それだけではない>>
魔王はそこで言葉を切った。
その黒い瞳が、俺を射抜くように見つめてくる。
<<やつらはロンバの気を纏っていた>>
その言葉に、俺は息を一瞬悩んだ。ロンバ……魔王城の掃除を担っていた無数の虫たちの集合体。
「ロンバの気……?」
<<微弱だが、ロンバの一部が聖職者たちに付着していた。やつらは、ロンバの力を利用している>>
ロンバの分裂能力と掃除能力はミミズから聞いていたが、まさか、一部が聖職者の手に渡っていたとは。
魔王城を掃除するとき、確かにロンバは瘴気も根こそぎ洗浄していた。
その時、眩い光と共に一人の少女が魔王城の謁見ルームに現れた。
ルリアだ。
長い銀髪をなびかせ、彼女は落ち着いた様子で魔王を見つめていた。
「今もっともわれわれの脅威となっているのは神聖皇国です」
ルリアはそう言い放った。
うわ……。
俺は驚きで口が開いたまま固まってしまった。
彼女がいつの間にかそこに立っていたことに驚いたのだ。
いままで隠れながらこっそり聞いていたのか……。
「まあ、レンさん。以前より元気でアグレッシブですわね」
ルリアは俺の方を向いた。
「逆に、どうして聞いていないと思ったのかしら?」
ルリアは、俺の困惑する表情を見て、楽しそうに笑った。
その瞳には、どこかいたずらっぽい光が宿っている。
「どうしてって……」
とっさの返しは苦手だ。
魔王城でルリアを最近見かけなかったことを俺は思い出していた。彼女は一体どこに行っていたのだろうか。
「私は、魔王様から特命を受けて、神聖皇国へ出張しておりました」
「特命?」
ルリアは頷き、魔鏡を召喚して、その表面に映像を映し出した。
そこには、神聖皇国の研究施設らしき場所が映っていた。
「神聖皇国の動向を探っておりましたが、確かな情報を得ることができました」
彼女は魔王に向けてそう言うと、少し顔色を曇らせた。
「ロンバの一部を神聖皇国が入手して、ロンバの瘴気浄化能力を研究しているようです。成功すれば、我らの力を無効化できてしまうかもしれません」
ルリアは斜め上を見上げて思索するような表情を作った。
魔王は、静かに玉座から立ち上がった。
<<世界に我が秩序をもたらさねばならぬ>>
その巨体は、謁見ルーム全体を圧迫するようにそびえ立っている。
<<聖ネクロ神聖皇国を殲滅せよ>>
俺は何も言わなかった。魔王の命令にわざわざ反論したりしないのが常だった。
しかし、心の底での決意が表面化しようとしていた。
以前手も足も出なかった魔王の瘴気への恐怖は、もう感じなくなっている。
魔王との戦いは全力で応援すると言ったよな、とミミズに念話で聞く。
「魔王と決別するつもりだが、いいよな?」
『もちろん、宿主の味方です。魔王様のことはこれからクソ魔王と呼びます』
王国だけではない。人類の敵にはならない。
リナとアイリスの未来のためにも。
たとえ、魔王と明確に敵対することになろうとも。
神聖皇国を破壊から守る行動をとる。魔王はそのうち倒す。
決別と言ったが、要するに逃げるつもりだ。ミミズの力があれば逃げられると思う。
俺は静かに頷いた。
「聖ネクロ神聖皇国を守る。俺は、人間の国を破壊しない」
<<何を言っておるのだ、レン?>>
魔王は満面の笑みを浮かべた。
<<我が命令に背くということか?>>
その笑みは大好物を前にした美食家のようであった。




