第60話 埃と誇り
魔鏡の向こうで、王国が少しずつ活気を取り戻しているのを見ていると、嬉しさが込み上げる反面、焦燥感も募った。
リナとアイリスは、信じられないほど前向きに、王国再建に奔走している。食料支給だけでなく、がれきの撤去、周辺領との調整やギルドの再建など多岐にわたる。
その頑張りはまぶしく輝いていて、逆に、俺自身の暗い無力さを際立たせていた。
瘴気を制御できない今、俺が人々に会えば、ただ苦しめるだけだ。
王女アイリスに挨拶したい。
王女に応援されながら、王国でリナと復興に協力したい。
それでも、今はここにいるしかない。
『宿主。瘴気を持つことは素晴らしい力ですよ。もっと自信を持ちましょう』
ミミズの言う通りにしていたら、ますます瘴気が増大しそうな気がしてきた。
瘴気を制御できないまま、力ばかり増大しても意味がない。
魔王城の謁見ルームは、以前にも増して埃っぽくなっていた。
壁には虫の死骸が張り付き、床には脱皮殻が散らばり、甘く腐敗臭を放つ謎の液状のものが黒曜石の床を汚していた。
王国へ旅立つ前はロンバが掃除していたはずなのだが。
「ロンバが最近いない気がする」
小さく呟いた声は、誰もいない部屋に吸い込まれていった。
ロンバはどこにいるのだろうか。
「……ミミズ、ロンバのことは何か知っているか?」
『ロンバですか? ああ、あれは並渦虫という虫です。プラナリアのように分裂し、無数の小さな虫として魔王城全体を覆っていています。全体で一つの意識を持っているんです。掃除が大好きです』
「全体で一つの意識……?」
『そうです。ときどき集まって円盤状のコロニーになりますが、人間型になることには、抵抗があるようですよ。虫の誇りを見失ってはならないと』
「そっか……」
魔王城を掃除していたのは、ロンバを構成する無数の虫たちの集合的な行動だったという。
わかるようでわからない。理解できそうで、不可解極まりない。
「ルドリア領の時、盗まれたのはなぜなんだろう? どうやって姿を消すことが可能なんだ?」
『それについては、私にもわかりません。ロンバは魔王様にとって重要な存在なので、厳重に管理されているはずです。盗まれた理由は不明です。姿を消す方法も、私には想像もつきません』
ロンバの正体は、依然として謎に包まれたままだった。
魔王城の自分の部屋。
魔鏡を覗き込むと、王国での賑やかな光景が目に飛び込んできた。
アイリスは側近たちに命じ、王宮に残る食料の配布と、近隣領主からの調達を始めたらしい。
リナは、共鳴スキルを駆使して、国民の士気を高め、希望を失わないように励ましている。
「……すごいな、本当に」
魔鏡越しのリナの立派な笑顔が、俺の心を少しだけ温めた。
しかし、その温かさは、すぐに冷たい現実に打ち砕かれた。
謁見ルームの奥では、いまも無数の「俺」の手足が蠢いている。
切り離された部位は、まるで生きているかのように、ぴくぴくと痙攣し、紫色の瘴気を上げ続けている。
その光景は、昔は悪夢として見ていたような光景だが、今では現実だ。
「……どうすれば」
俺は頭を抱え床に座り込む。
瘴気を制御する方法がわからない。何なら瘴気を失ってしまってもいい。そのほうがいい。
その時、脳内にミミズの声が響き渡った。
『宿主、魔王様が呼んでいます』
「えっ?」
幹部の招集だろうか。
しかし、ミミズの口調には、どこか警戒感が漂っていた。
『幹部の招集ではないようです。宿主だけに相談があるようです』
「相談……?」
魔王が、なぜ俺にだけ?
いやな予感が胸をよぎった。
俺は重い足取りで自分の部屋を出た。
魔王城の廊下は、静まり返っていた。どこからか、かすかに虫の羽音が聞こえてくる。
壁には、無数の虫の死骸が張り付き、不気味な影を落としている。
やがて、俺は謁見ルームの前に到着した。
重々しい扉の前で、深呼吸をした。
扉が開かれ、俺は、漆黒の玉座に腰掛ける魔王の前に進み出た。
魔王は、いつもと変わらない威圧的な雰囲気を漂わせていた。その瞳には、底知れない深淵が広がっている。
<<レンよ>>
魔王の声は、雷鳴のように轟き、謁見ルーム全体を震わせた。
「はい」
俺は頭を下げた。
魔王は、静かに口を開いた。
<<ロンバが盗まれた>>
……。
「また?」
俺は思わず聞き返してしまった。
<<まただ>>
本当に、どうやって盗まれることができるのだろう。
ロンバは魔王城全体を覆いつくしていたはずだ。
そして、魔王は力強く命令するのであった。
<<掃除せよ!>>
「……掃除?」
<<この城は、ひどく汚れている。ロンバがいない以上、お前が掃除をするのだ>>
魔王の絶対的な命令。
いまは、逆らうことはできない。
唖然としてしまったが、俺はもともと掃除屋だった。ロンバがいない時点で予想していてもよかった。
俺は渋々ながらも頷いた。
王国がさらに遠退いていく気がする。
魔王は満足そうに微笑んだ。
<<よろしい。お前の掃除は一級品だ。次の命令を待て>>
そう言い残すと、魔王は瘴気とともに消えていった。
魔王城の掃除。
結局のところそれくらいしか、今の俺にできることはないのかもしれない。
もういい、何も考えず掃除をしようか、と思うと気が晴れてくる。
掃除を始めると気分が乗ってくる。
気がつくと時間が経っていて、伊達に「掃除屋」と呼ばれていないことを俺は実感するのであった。




