第56話 ルリアとの決戦
黒曜のサロンに張り詰めた静寂が支配していた。
俺は、ルリアの微笑みに釘付けになりながら、無意識に後退していた。
ルリアは、ピアノに背を向けたまま、ゆっくりと両手を広げた。
まるで、この空間すべてを抱きしめるかのような仕草。
その指先から、柔らかな光の粒が零れ落ち、黒曜石の床に吸い込まれていく。
「では、少しお片付けをしましょうか」
俺は本能的に危険を察知し、身構えた。その圧に反応するかのように、纏わりつく紫色の瘴気が一層色濃くなる。
しかし、ルリアの魔法はあまりにも速く、俺の反応は間に合わない。
「ぐっ……!」
光が強烈な圧迫感で襲ってきた。全身の細胞が震え、骨が軋むような痛みが走る。
その時、背後で何かが起きている音がした。
振り返ると、部屋の中央に鎮座していた黒檀のグランドピアノが淡い光に包まれ始めた。
象牙色の鍵盤が光の粒子となり、虚空へと吸い込まれていく。
そして、音もなく、空間から消失した。
続いて、壁際に並べられていた精巧な装飾品が置かれたアンティーク調の家具、古びた革張りのソファ、繊細な彫刻が施された木製の椅子も、次々と光に包まれ、跡形もなく消え去っていく。
壁に飾られていた前王朝時代の絵画も例外ではない。鮮やかだった色彩が光に溶け出し、カンバスは壁の表面ごと空間から切り取られていく。クリスタルの花瓶に生けられた深紅の薔薇だけが、最後までその姿を留めていたが、それもやがて光に包まれ、消え失せた。
「あら、貴重品は壊れると困りますわ。倉庫にしまっておかないと」
ルリアは俺のうろたえに対して満足げな口調で言った。
あっという間に、豪華だった黒曜のサロンルームは、四方の壁と天井、床だけのがらんどうの空間と化してしまった。
お前の計画は、ここで終わらせる、なんて、勢いで言ってしまったが、早くも後悔が押し寄せてくる。
兵士たちから浴びた「勇者様、万歳!」という声援に、少し調子に乗ってしまっていたのかもしれない。
『宿主は王国の兵士たちから神扱いをされて調子に乗ってしまったです』
脳内でミミズが、まさに俺が考えていたことをそのまま口にした。
的確すぎて何も言い返せない。
『ルリアの戦い方の基本は転送魔法です。まず、敵の身体の一部を転送しようとします。相手が反撃する隙を与えず、無力化するためです』
ミミズの冷静な解説が、現実へと引き戻す。
ルリアはただ部屋の模様替えをしたのではない。これは、戦闘の始まりでもあった。
ルリアは、俺に向き直り、再び両手を軽く上げた。その指先が、俺の首元を指し示す。淡い光の輪が、俺の首の周囲に現れた。
『宿主、力を抜いて!』
ミミズの声が響くと同時、俺の身体は意思とは関係なく、激しくのけぞった。
俺の首は触手に動かされ、明らかにあらぬ方向へ曲がっている。
直前まで俺の頭があった空間が、眩い光と共に切り取られ、消失する。
ゾッとする感覚。一瞬でも反応が遅れていたら、俺の首は、この空間から切り離されていたところだ。
「意外と避けるのね」
ルリアは、驚いたというよりは、むしろ面白がっているような表情を浮かべた。
『ルリアが宿主の首を飛ばそうとしたので、こちらで回避しておきました』
ミミズが、冷静に報告した。
『ルリアの戦いなら長年見てきました。空間ごと切り捨てるあの戦い方、好きではないです』
ミミズが冷静に答える。
ルリアの転送魔法は、ミミズの目には、もう見慣れたものらしい。
ミミズが俺の身体を操ってくれたおかげで、初撃は免れた。
行けるかもしれない?
この戦いは、ミミズのナビゲーション無しでは成り立たない。
ルリアの戦い方の基本が分かった今、ただ防御に徹するだけではいずれは捉えられる。
俺の瘴気も、ギルバートを倒したことで、質的な変化を遂げているらしい。
魔王城の虫にとって瘴気は栄養源であり、快適な環境であることを言っていた。では、その瘴気を吸い取ったらどうなる?
カマキリ相手にやったように、瘴気を管のようにして、ルリアに突き刺し、その瘴気を吸い取ってみようか? できるのかどうか。試す価値はある。
俺は意を決し、右手に瘴気を集中させる。紫色の煙が渦を巻き、蛇のように伸びていく。
ルリアへと向かって突き出したその瘴気の先端が、彼女に触れる直前……
ルリアは動かない。ただ、微笑みを浮かべたまま、俺の瘴気を見つめている。
そして、彼女の足元の床の一部が、淡い光に包まれた。
瘴気の先端が触れていた、まさにその場所だ。
床の一部と、そこに触れていた俺の瘴気が、光と共に切り取られ、音もなく空間から消失した。同時に別の個所が光っていることに気づかなかった。
しまった。
俺の右腕が、淡い光に包まれている。
俺の右腕が、肩から切り取られ、転送をはじめている。
『瘴気を出し続けてください。ルリアに切り取られたらすぐ再生しますです』
ミミズの声が響くと同時、右腕が光と共に完全に消え去る。
しかし、すぐにそこからミミズの触手と新たな瘴気が溢れ出し、失われた腕を埋めていく。
痛みはほとんど感じない。集中できているのだろう。
しかし、ルリアの攻撃は止まらない。間髪入れずに、俺の足元が光に包まれた。
足が、床の一部と共に切り取られる。
「おお! っと」
バランスを崩し、床に倒れ伏す。
だが、失われた足もすぐにミミズによって再生される。
「うわ!」
今度は、下半身全体が光に包まれる。腰から下が切り取られ、遠い空間へと転送されていく。
床に上半身だけが残される。即座にミミズの触手が切断部から出てきて下半身を形作る。
「ミミズが言っていたこととすこしちがうな。本当にルリアに勝てるのか?」
『ルリアに負けないと言ったのです。勝つとは言ってないのです』
あとはもう一方的な蹂躙であった。
再生、再生、また再生。
失われた部位が次々と瘴気を利用したミミズの力によって補われる。
身体のあらゆる部分がルリアに切られては生えてくる。
切られ続けて再生し続ける。
まるで、穴の開いた桶に蛇口を開けっぱなしにして補給し続けるような感じだ。
その再生が追いつかないほどの速度で、上半身がまるごと、眩い光に包まれた。
次の瞬間、俺は別の空間に立っていた。
ここは……魔王との謁見ルームだ。
絢爛豪華な玉座があり、天井は高く、壁には威圧的な彫刻が施されている。
そして、その広い空間に、無数の「俺」の部位が散らばっていた。
右腕、足、下半身……。ルリアに転送された俺の身体の一部が、無造作にそこかしこに転がっている。
呆然と立ち尽くす俺の目の前で、空間が歪み、再び転送の光が現れる。
ルリアの部屋に残してきたはずの、俺の下半身が、まるで生きているかのように飛んできた。
そして、光の中から、優雅な足取りでルリアが現れた。
彼女は、転がっている俺の下半身を一瞥して鼻で笑った後、穏やかな微笑みを浮かべた。
「頭が生えてくると思ったら、転送先で脚が生えるのね」
ルリアは俺の身体の変異をまるで珍しい現象を観察するかのように眺めていた。
その瞳には、俺という存在が、ただの興味深い人間型の一種として映っているのかもしれなかった。