第55話 魔鏡の彼方
ルリアは紅茶をゆっくりと啜り、静かに口を開いた。
「魔王様への報告の前に、状況のおさらいをしましょう」
彼女の声は滑らかで、耳に心地よく響き渡る。その奥底に潜む冷酷な計算を忘れずに、俺は警戒を緩めなかった。
「おかげさまで、エメリア王国は、混乱の極みに達しています。国王陛下は、原因不明の病に伏せられ、意識も朦朧としてらっしゃいます。第一王子殿下は、後宮での享楽に溺れ、国政への関心を完全に失われてしまいました。第二王子殿下は、聖ネクロ神聖皇国への亡命を試みましたが、道半ばで魔王城の虫に襲われ、命を落とされました。ええ。悲しいことです」
ルリアは、紅茶を一口飲み、満足そうに微笑んだ。その表情は、全てが計画通りに進んでいることを示しているようだった。
「魔王様は、エメリア王国の現状に、深く満足されてますわ。混沌こそが、新たな秩序を生み出すための沃土なのですから」
「……」
言葉を失った俺に、ルリアは視線を移し、部屋の壁にある鏡に手をかざした。
「そうそう、王宮の様子をお見せしましょうか」
鏡に魔法陣が刻まれ、歪んだ映像が浮かび上がる。それは、惨状と化した王宮の姿だった。廊下には兵士たちの死体が散乱し、血痕が至る所に残されている。豪華な調度品は破壊され、焦げ跡が沈黙を物語っていた。
レオポルド殿下?
映像は、第一王子レオポルドの部屋へと移った。かつて荘厳な雰囲気だった部屋は、酒瓶や食べ残しで散乱し、不潔な空気とアルコールの匂いが充満しているように見えた。レオポルドは豪華なソファーにだらしなく横たわり、虚ろな目で一点を見つめている。
レオポルド第一王子殿下……。魔王討伐隊出陣式のときの荘厳な雰囲気は微塵も感じられなかった。
「あら、残念ですわね。あの方はまもなく自ら命を絶ち、破滅を永遠のものにするでしょう。愚かな人間です」
ルリアは嘲笑を込めて言った。
映像は次に、第三王女アイリスがいる城の中庭へと移った。
そこは、王宮の中で唯一、静寂が保たれている場所だった。
アイリスは、膝を抱え、悲しみに打ちひしがれている。城の周りには、腹を空かせた国民たちが集まり、助けを求める声が聞こえる。
彼女の瞳には、絶望と悲しみが深く刻まれていた。
「見てごらんなさい。王女様も、もうすぐ心折れて、諦めてしまうことでしょう」
ルリアは、満足そうにつぶやいた。
その光景を見た瞬間、俺はいてもたってもいられなくなった。
このまま黙って見ていることはできない。
「なんと悲惨な状況でしょうか」
笑顔が隠し切れないルリアは、俺が王女と苦しむ国民たちを見て楽しむと思っているのだろうか。
逆だろう。ルリアはそれに苦しむ俺を見て笑っているのだ。
「ルリア!」
俺は叫んだ。
「もういい加減にしろ!」
「あらあら、レンさん。感情的になられて」
感情的になるようにしむけたのはルリアだ。だが、このままではルリアの思う壺だ。俺は歯を食いしばり冷静になるようにこらえる。
「レンさんの瘴気は、まだ制御できていないようでしたわね。このまま王宮へ行ったら、皆苦しむことになるのではなくて?」
彼女は、俺の体から漏れ出ている瘴気を指差した。確かに、濃い紫色の瘴気が周囲に漂っている。
王宮に戻るわけにはいかない。
それ以前に、ルリアは俺を王宮へ転送してはくれないだろう。
ミミズいいか?
『今の宿主なら、ルリアには負けないです』
いいぞ。俺は強くなった。強くなった実感がある。
「行くぞ」
そして俺は、ルリアに向かって力強く宣言した。
「お前の計画は、ここで終わらせる!」
ルリアはうっとりと紅潮する笑みを浮かべ、俺を見つめ返した。
「お前呼ばわりなんて、ぞくっとするわね。……良いでしょう。お手柔らかにね」
黒曜のサロンルームに緊張が走った。
俺とルリアとの、決定的な戦いが今、始まろうとしていた。