第51話 蟷螂のギルバート
黒い虫の奔流を背に、俺は魔王軍の中心で途方に暮れていた。
瘴気を解放しても効果がないどころか、魔王軍を強化してしまうという事実に打ちのめされていた。
そんな状況の中、視界の端に異質な存在が飛び込んできた。
魔王軍の集団の遠くの方から、巨大な影がゆっくりと姿を現したのだ。
鋭利な鎌のような前脚を持つカマキリ。その体躯の大きさは悪夢から抜け出してきたかのようだった。
周囲の虫たちを圧倒するほどの大きさで、小さな山のようにそびえ立っている。
カマキリは、足元を埋め尽くす虫たちを踏みつぶしながら、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへと進んでくる。踏みつぶされる虫たちは、抵抗することなく、無残に潰れていった。その巨大な存在の前では、命が何の意味も持たないかのように。
「あれは……」
『ルリアの眷属「死神の鎌」ギルバートです。以前よりもはるかに巨大化しています』
ミミズの声が、脳内に響き渡る。
ギルバート。あの時、ルリアの配下だと言っていたルドリア領主。まさか、あいつが魔王城の虫だったとは。
もしかしたら名前が同じだけの偶然かもしれない。だが、胸騒ぎが止まらなかった。
「瘴気の量が、桁違いだ」
俺は、ギルバートの放つ瘴気のオーラに圧倒されていた。
瘴気の濃さは、先ほどまで俺が解放していたものとは比較にならないほど強大だった。
暗雲立ち込める嵐がゆっくりと近づいてくる不吉な感覚に襲われる。
『宿主、死神の鎌に切られたら、宿主の身体を修復することが困難になります』
その言葉を聞くと、本能的に後退したくなる。
「どうすれば?」
『宿主がいつもやっていることです。雑巾で埃をふき取るように。宿主の瘴気を広げ、魔王城の虫が持っている瘴気を吸着するのです』
ミミズの言葉に、俺は目を見開いた。
たしかに俺は魔王城を掃除していたが、雑巾で埃を拭き取るように?
一体どういうことなのだろう。
「どういうことだ、ミミズ?」
俺は混乱しながらミミズに問いかけた。
『魔王城の虫は、瘴気を体内に蓄積することで力を得ています。宿主の瘴気を広げ、彼らが持っている瘴気を吸着すれば、力を奪うことができるのです』
「つまり、瘴気を……掃除道具のように使うのか?」
瘴気を浄化するのではなく、魔王軍の虫から瘴気を吸い取る。
まるで、雑巾で埃を拭き取るように、瘴気を吸着していく。そんな荒唐無稽な方法で、本当に魔王軍を倒せるのだろうか?
「試してみる以外にない」
俺は覚悟を決めて、瘴気のコントロールを試みた。しかし、出し入れするようには簡単に瘴気を操ることができない。
瘴気は制御不能な奔流のように、俺の体内で渦巻いている。
瘴気の奥底から、
<<掃除せよ>>
という低い言葉が聞こえた気がした。
その瞬間、脳内に不思議な感覚が押し寄せた。
まるで、俺の体全体が、巨大な雑巾になったかのような感覚。
俺の体から放出される瘴気が、魔王軍の虫たちに向かって広がり、彼らが持っている瘴気を吸い込んでいく。
最初は、ほんのわずかな変化だった。
しかし、徐々に、その効果が現れ始めた。
周囲の虫たちが、瘴気を失い、ひっくり返ってぴくぴくしている。
背を下に足を宙にばたつかせ、無残な姿で地面に倒れていく。
『それだけで魔王城の虫は殺せます』
ミミズが、冷静な声で告げた。
『魔王城の虫は食料になりました』
さらに、別の魔王城の虫が、倒れた虫の死骸を貪り食っている。
魔王軍にとって、死んだ仲間は食料でしかないのだ。
その光景は残酷で、あまり見た目のよくない光景だったが、俺は瘴気のコントロールを続け、魔王軍の虫たちを次々と倒していく。
その時、リナが、念話を送ってきた。
「どれがいいかな」
リナの言葉に、一瞬、状況を忘れてしまうほど混乱した。
「こうなったら、スキルポイントを使って魔法を覚えなきゃいけないけど、まだ迷っているんだ」
「リナ? どうした?」
俺は、リナの言葉に困惑した。
のんびりそんなことを言っていた気がするが、今は戦いの中にいるはずだ。
「な! お菓子召喚?」
リナが、驚いた声で言った。
「どうした?」
「……」
リナは、しばらく沈黙していた。
「何の魔法を取得した?」
俺が問いかけると、リナは、照れくさそうに答えた。
「てへっ。ごめん。ピンときたから、お菓子召喚魔法にしちゃった」
「お菓子召喚?」
俺は、信じられない思いでリナを見つめた。
魔王軍との戦いの最中に、お菓子召喚魔法を取得するとは。
リナの思考回路は、いつも理解を超えている。
その瞬間、リナの周囲に魔法陣が展開され、様々な種類のお菓子が次々と出現した。
チョコレート、クッキー、ケーキ、そして、ゲロゼリー。
「えっ?」
リナの召喚したお菓子を見て、俺は唖然とした。
なぜ、ゲロゼリーなんだ?
『ゲロゼリーは虫下しです』
「ゲロゼリーはお菓子だよ」
リナは、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「魔王軍の虫にゲロゼリーをぶつけてみる!」
城壁の上で、チョコレート、クッキー、ケーキ、ゲロゼリーが降り注いでいる。
虫下しのゲロゼリーはお菓子なのか、という疑問はさておき、ゲロゼリーの虫下し効果で、魔王軍の虫たちが次々と落ちていった。
「やったー! すごい! リナ、天才!」
リナの自画自賛が念話でしばらく止まなかった。
だがそのおかげで、城壁の防御は、なんとか持ちこたえられそうだった。
俺は、再び瘴気の掃除を続けた。
瘴気の雑巾で魔王軍の虫たちを拭き取り、瘴気を吸い込み、瞬く間に数を減らしていく。
魔王軍の勢いは、明らかに衰え始めている。
その時、地鳴りのような音が響き渡り、巨大な影が俺たちの前に現れた。
それは、ギルバートだった。
「死神の鎌、ギルバート」
俺は、ギルバートの圧倒的な存在感に息を呑んだ。
ギルバートはなにかつぶやいている。
「国王コロス、レオナルドコロス、アイリスコロス…」
前者二人は別にいいが、最後のアイリスだけは許せない。
やはりルドリア領主のギルバートなのだろうか。
ギルバートの放つ瘴気の量は、俺がこれまでに対峙したどの魔物よりも遥かに強大だった。
『宿主、死神の鎌に切られたら、宿主の身体を修復することができなくなります』
その言葉を聞くと、近寄ることに躊躇してしまう。
ギルバートは、巨大な鎌を振りかぶり、城壁を破壊しようとした。
その一撃は、城壁を容易く切り裂き、崩壊寸前の状態にしてしまっている。
そのとき、またしてもリナのアイデアがひらめいたらしかった。
「そうはさせないよ!」
リナは踊りながら叫んだ。
「ダンス!」
リナの周囲に、奇妙な音楽が流れ出し、ギルバートの巨体が軽快なリズムに合わせて動き始めた。
そして、その巨大な鎌を振りながら、奇妙なダンスを踊り始めた。
カマキリダンス…。
「ダンス! ダンス!」
ギルバートの体に不思議な力が加わった。
ギルバートは、鎌を振り振り、奇妙なダンスをつづけた。
巨大なカマキリが、滑稽なダンスを踊る光景は、変な夢を見ているようだった。
しかし、そのおかげで、ギルバートは鎌を振り下ろすことができなくなった。
ギルバートの鎌は、もう、こちらを襲ってくることはない。
リナのダンススキルによって、ギルバートは、完全に操られてしまったのだ。
俺は、ギルバートと対峙し、瘴気を筒状の形にして突き刺した。目に見えない筒が瘴気を飲み込むように吸収していく。
激しい嵐の後の泥濘が清掃されるように、ギルバートの周囲から瘴気が消え去っていく。
ギルバートの体から放出される瘴気は強大だったが、俺はミミズの力を借りて、少しずつ、しかし確実に瘴気を吸いあげていくのだった。




