第50話 黒い海
俺は這いずりながら、魔王軍の中心部へと近づいていった。
周囲には無数の虫たちが黒い海のように蠢いているが、信じられないことに、彼らは俺を避けて進軍している。
俺が異質な存在であると認識しているかのように、その巨大な群れが左右に分かれ、俺の進む道を空けたのだ。
「まるでモーゼみたい」
リナの声が上から聞こえてきた。
俺は首を横に振った。何のことか理解できない。
『魔王城の虫は、瘴気を持つ宿主を魔王様の眷属だと認識しているのです』
ミミズの言葉に、一瞬、背筋に悪寒が走った。
瘴気に蝕まれてはならない。だが、今はそれに頼るしかない。
「レン、無事だよね?」
リナが念話で心配そうに聞いてきた。
「大丈夫だ。少し痛むが、何とか動ける」
俺は答えた。
ミミズの力のおかげで傷は修復されつつある。それでも、全身を鈍い痛みが襲う。
「援護を始めるね! どんな魔法が効果的かな?」
リナは念話を通じて真剣な口調で問いかけてきた。
「ダンジョン魔法は……使えないか?」
ふと、俺はそう尋ねた。
リナが以前ラミナス迷宮群で使っていたダンジョン魔法は、様々な状況に対応できる強力なスキルだ。
もしかしたら、この状況でもダンジョン魔法が役立つかもしれない。
「ここはダンジョンじゃないからなあ。うーん……でも、試してみる! 城壁を守らないと」
リナは呪文を唱え始めた。
その言葉は、熟練した魔法使いのように淀みない。
「大地の力よ、我が友よ、今こそ力を貸せ! 堅牢なる岩石の壁を築き上げ、敵の侵攻を阻むべし! アースプロテクション!」
リナの周囲に淡い光が立ち上った。その光は徐々に強くなり、やがてリナの体を包み込んだ。
魔法陣が描かれ……消え去った。
「……ダメ」
リナはしょんぼりと肩を落とした様子だった。
「やっぱり、ダンジョン魔法は使えないみたい」
「そうか……」
ダンジョン魔法が使えないのは残念だが、それ以上に、リナが諦めないことを嬉しく思う。
「よーし。つぎはスキルポイントを使って新しい魔法を覚えるよ!」
リナは前向きに決意を込めて言った。
「どれにしようかな。迷うなあ」
「そうだな。リナならできる」
スキルポイントを貯めて新しい魔法を習得とか、俺にはさっぱりわからないが、俺はリナを励ますように言った。
「ミミズ、ルリアの動向は?」
俺はミミズに問いかけた。
『ルリアは王都の西方に位置する古代遺跡に滞在しています。アニーと一緒にいる気がします』
ミミズは、冷静な声で答えた。
ここには来ていないのか。
『ルリアは、こちらの念話を聞いていません。無反応です。少し気になります』
「どのあたりが気になる?」
『ルリアの感情……でしょうか? 宿主はルリアの虫心がわかりますか?』
「わからない」
というか、俺には虫に心があるのかもわからない。
「ルリアは機嫌が悪いのだろうか。虫の居所が悪いとか……」
俺はミミズの言葉に考えを巡らせた。
ルリアは常に冷静沈着で何かを企んでいる。しかし、俺たちの行動が彼女の神経を逆なでしている可能性もある。
そうこうしているうちに、城からだいぶ離れたところまで来ていた。
身体も徐々に回復してきた。
視界は広がり、目の前には、黒い虫の奔流が王都へと向かって進んでいる。
黒い波が陸地を呑み込もうとしているように見えた。
「始めるぞ」
俺は、覚悟を決めて、ミミズに告げた。
「瘴気を解放する」
体内の瘴気が奔流のように溢れ出し、全身を覆い尽くしていく。
瘴気は紫色の煙となって周囲に広がり、空気中に重苦しい圧力を生み出した。
俺の周囲にいる虫たちは、瘴気に触れた瞬間、動きを止めた。
「き、効いたか?」
しかし、その足止め効果は、すぐに打ち消されてしまった。
虫たちは、瘴気に怯えることなく、進軍を続行したのだ。
「なぜだ……?」
俺は混乱した。瘴気は強力な毒であり、あらゆる生物を蝕む力を持っているはずだ。
なぜ魔王軍の虫たちは瘴気に怯えることなく進軍を続けられるのだろうか?
ミミズが、俺の疑問に答えた。
『瘴気は、魔王城の虫にとって、心地よいものです。魔王様の力ですから』
「心地よい……? なんだそれは?」
『魔王様の力は瘴気と共生しています。魔王城の虫は、瘴気の中で生き、瘴気の中で繁殖する。瘴気はなくてはならない存在なのです』
……。
俺は言葉を失った。
瘴気は魔王軍にとって毒ではなく栄養源でもあるのだと。
つまり俺が瘴気を解放しても魔王軍を弱体化させることはできない。
むしろ、彼らにとって瘴気は力を増すためのエネルギー源なのかもしれない。
『瘴気をより制御できるようになるのです、宿主』
ミミズは、冷静な声で言った。
「いったいどうすれば…」
俺は困惑とともにつぶやいた。出したり引っ込めたりはできるようになったが、さらに瘴気を制御する方法は見当がつかない。
リナには状況打開のアイデアがあるようだった。
「共鳴スキル、試してみる!」
たしかに、もし魔王軍の通信を傍受することができれば、効果的な反撃方法が見つかるかもしれない。
リナは共鳴スキルを発動させた。彼女の脳内には、魔王軍の通信が流れ込んでくるはずだ。
そして、その情報を俺に伝えることができる。
いいぞ、リナ。お前が頼りだ。
「魔王軍の虫たちの思いは何も共鳴できないな。でも周りの思いなら共鳴できるかも!」
リナの周囲の音波が振動し、近くの兵士たちの声が念話を通じて耳に届いてくる。
それはまるで、遠くの喧騒が耳に届いてくるような感覚だった。
「くそっ、もうダメだ!」
「援軍はいつ来るんだ!」
「勇者は何やってんだ!」
「王都は終わりだ…!」
「神様、助けてください…!」
「家族に会いたい…!」
「おしまいだ…! 逃げないと…!」
「このままでは、王都が滅びる…!」
共鳴スキルは王国軍兵士たちの絶望的な心の叫びを増幅させ、俺に押し寄せてきた。
その声は、呆然と立ち尽くす俺の耳を埋め尽くし、いつまでも響き続けていた。




