第39話 蜜蜂のアニー
詠唱を繰り返すことで瘴気を一時的に抑え込んだとはいえ、問題が完全に解決したわけではないと感じる。
再び、瘴気が暴走する可能性は常に付きまとう。
「ふう……、でも、一息ついたところだな」
俺は、荒れた息を整えながら、空を見上げた。青さは戻ってきたものの、その奥底には紫色の幻影が錯覚のようにちらつき、未だ不安定な状況を暗示しているようだった。しかし、少なくとも空は青い。今はそれだけで十分だ。
「レン! やったね! リナの詠唱文のおかげだよ!」
リナは、蝶のように羽ばたきながら、俺に飛びかかってきた。
「瘴気、消えたね! おめでとう!」
「ああ、ありがとう。たしかに消えた」
俺はリナの笑顔に、少しだけ安堵した。彼女の声は疲れた心を癒してくれるところもある。
その時、背後から聞き覚えのある声が響いた。
「レン様。ご無事でいらっしゃいましたか!?」
振り返ると、アニーが心配そうな表情で駆け寄ってきた。
「アニーさんも無事でよかった」
俺は少し疲れた声で挨拶した。
彼女は俺の前に駆け寄り、深々と頭を下げた。
「心配しました。レン様。まさか、こんな事になるなんて……すごい地震で冒険者の皆さんも避難しているようです」
地震か。上層部の方はそこまで崩落してなかったようだ。
しかし、彼女の表情には、どこか不自然なものが漂っている。
まるで何かを隠しているかのように。
「レン様もあれほどの穴の底から帰還されるなんて、転送魔法でしょうか? まさかルリア様以外に使える人がい……いえ、気になさらないでください」
そして、俺は気づいてしまった。
アニーの両腕が、風船のように膨らんでいることに。
透き通るように白い肌は、薄い膜のようになり半透明で脈打っている。
その異様な姿は、まるで、リナがいつも失敗している人間型を彷彿とさせた。
アニーはいい人なのだと思う。落ちてゆく俺をつかもうとして腕を伸ばしすぎたのだろう。
だが、いくら頭のよくない俺でもアニーが人間でないことはわかった。
「その腕は……」
俺はどう話しはじめようか迷った。隠し事はやめろと非難するのも違う気がする。
アニーは、一瞬、顔色を変えた。
そして、慌てた様子で、自分の腕を隠そうとする。
「あ……、これは……、えっと……」
アニーは視線をそらし、口ごもりながら、頬を赤らめた。言葉を絞り出すように、ようやく口を開いた。
「だ、大丈夫です! 本当に。ただの体調不良かも!」
「体調不良で風船になるなんて」
「これは、その……日焼けです! 最近、日差しが強くて……」
彼女の瞳は明らかに泳いでいる。
「日焼けというより、波打っているような」
「日焼け止めが効かなかったのかな。波打ってるのは……その……最近流行している美容法なんです! 血行促進効果があるとかで……」
その時、ミミズがアニーにも聞こえる念話を送った。
『アニーはルリアのメイドだよね』
「はい? 念話?」
魔王城の虫同士で可能と言っていた念話だ。
『以前、宿主がルリアの部屋で起きた時に、はちみつ紅茶を入れていたのが彼女です』
ミミズは俺にアニーの正体について説明してくれた。
その言葉は鮮明に過去の記憶を呼び起こした。
湯気とともに立ち上る紅茶の香りは、どこか懐かしい花の蜜のようだった。
一口飲むと、口の中に広がる上品な甘さが心地よかった。
『ちなみに、はちみつは蜜蜂のゲロなのです』
……そういう一口知識はいらない。
ルリアは優雅にティーカップを傾けていた。「アニー、レンさんに紅茶をおかわりを」と言っていた気がする。
視界の端に、フリル付きのメイド服が映った。思わず目がいってしまうほど、可愛らしいデザインだった。
そして……、メイド服の胸の大きさに完全に釘付けになってしまった俺は、正直、顔を覚えていなかった。
「……はい?」
念話を聞いた様子のアニーは一瞬驚いた顔をしてからほっとした顔になった。
「はい。そうです。私は魔王城の虫です」
アニーの顔が一瞬だけ痙攣した。
そして、彼女の表情は、まるで人形のように無表情になり、口が耳元まで大きく開いてゆがんだ。
口の中から、触覚の黒い影が這い出し、大きな複眼が現れた。顔の幅と同じくらいに開いた口から蜂の姿が出てきた。
「驚かせてしまったでしょうか? 蜜蜂のアニーと申します」
驚きというよりは、むしろ安堵感と諦めに似た感情が俺の胸を占めていた。やっと言った、というような。
巨大な蜂は口につかまったままその羽根を羽ばたかせ激しい風を巻き起こし、その風に彼女の髪が激しくたなびいていた。