第33話 ダンジョン魔法
冷たく湿った空気は、しばらく陽の光を浴びていない場所特有の土と石が混ざったような匂いを運んでくる。
太陽光はほとんど届かず、壁面に据えられた松明の揺らめく光が薄暗い通路をぼんやりと照らし出す。
石壁は苔が繁茂していて、長い年月を感じさせる古臭い匂いが鼻を突いた。
「……第1階層は昔と変わらないな」
かつて冒険者として訪れたのは、この最初の階層だけだった。
奥に進むのは初めてだ。
俺は警戒しながら周囲を見回した。
「ラミナ鉱が採れるのは第7階層くらいです。それより下はラミナス・ドラゴンが出るため探索はされていません」
そう言いながらアニーは、懐から古びた地図を取り出した。
「第7階層の地図を用意してきました」
リナはその横で羽を震わせ、楽しそうに周囲を観察していた。
「ラミナス・ドラゴン? 面白そう! どんどん先に行こう!」
リナの興奮気味な念話が、静寂を破る。
「落ち着け、リナ。そこまでは行かない。それに慎重に進まないと、何が潜んでいるかわからない」
俺の言葉に、彼女は少し不満そうな顔をしたものの、「はーい」と一応は大人しく頷いた。
ゆっくりと下り階段を降りていく。苔むした石段は湿気で滑りやすく、一歩一歩慎重に足元を確認しながら進んだ。
アニーは手元のランタンの灯りを頼りに、慎重に足元を探っている。
埃っぽい空気の中に、微かに鉄錆の匂いが混じっている。不運な冒険者の血の匂いかもしれない。
階段を下りるごとに、空気はますます冷たく、湿気が増していく。
「ここから注意しないと」とつぶやき、俺は腰に差していた銅剣に手をかけた。馬車に積んであった、ただの安物だが。
突然、前方の暗闇からカサカサと音が聞こえてきた。昔この場所で冒険していた時と同じだ。よく覚えている。
「ゴブリンが来るぞ!」
俺は構えを取り、音のする方向を見据えた。
次の瞬間、巨大なラットが、鋭い爪を剥き出しにして飛び出してきた。その体躯は、通常のネズミの数倍もあるだろう。しかし腐っても勇者、俺の目に映るのは、ただの雑魚モンスターだ。かつての経験が、本能的に敵を分析し、対処方法を導き出す。
一歩踏み込み、剣を振り下ろした。鈍い音と共に、ラットは半分に断たれた。まるでゼリーのように容易く切り裂いてみせた。
「ラットだった」
俺はつぶやきながら、剣を軽く一振りして血を払い落とした。機械的に研ぎ澄まされた手つきだった。それは、数多の戦いを経験してきた証だ。
「さ、さすが、レン様! 一撃で倒してしまうとは!」
アニーが感心した様子で声を上げた。「やはり、魔王討伐隊選抜メンバー、その剣捌きは見事ですわ」
「ありがとう」
俺はこわばりながら笑みを浮かべた。俺は勇者メンバーの中でも剣が苦手で半ば欠陥品のような存在だったが、それでも、かつての戦闘スキルは完全に消え去ったわけではない。そういう意味ではよかった。
『ラットをゴブリンと言う宿主を、誰もつっこまないため注意しましょう』
ミミズは一言多い。
リナは、そんな格好いい俺のやり取りを眺めながら、不満そうに口を尖らせていた。
「もっとド派手に行きたくない? リナはダンジョン魔法を使うよ!」
「ダンジョン魔法?」
「そう! ダンジョン限定の魔法! ダンジョン内では、いつもよりずっと強力な魔法が使えるんだよ!」
リナは興奮気味に説明した。
「フレイムトルネードとか、ジェットストリームとか! エスケープとか普段は使えない強力な魔法を、ダンジョンでなら使えるの!」
「そうか、ダンジョン専用の。そんな魔法があるのか……」
俺は少し驚いた。リナがチート転生者であることは知っていたが、彼女がそんな魔法を使いこなせるなど、想像もしていなかった。
「でも、リナ。今は慎重に進む必要がある。敵がいつ現れるかわからないし」
俺の言葉に、リナは少し残念そうな顔をした。
「わかったよ……でも、チャンスがあれば、絶対にダンジョン魔法を使わせてもらうからね!」
彼女はそう言うと、何かに気づいたように顔を上げた。
次の瞬間、リナの体が光を放ち、その姿が変わり始めた。ぼんやりとしていた輪郭がはっきりとしてきた。隠蔽スキルを解除したのだろう。
羽はさらに鮮やかな色合いになり、体は光り輝き、まるで蝶の妖精のようだ。
「えっ?」
アニーは目を丸くして、リナを見つめた。
そうだった。アニーには今まで見えていなかった。
「魔王城の虫? いえ……」
アニーは慌てて否定した。
「そんなことは知りません!」
アニーは口元に手を当てながら、信じられないといった表情でそう言った。反対の手は、無意識のうちに懐に隠し持った短剣に触れていた。
『バレバレです』
ミミズが冷静につぶやいた。
「魔王城の虫って言った? それを知っているなら、アニーは魔王城に詳しいな」
魔王城を虫が支配しているなんて、魔王討伐隊のメンバーの誰もが知らなかったことだと思う。
「いえ、知りません」
アニーは混乱した様子で言った。彼女は、自分が口にした言葉に動揺しているようだった。
「アニーの人間型すごく上手だよ! 今度、教えてね!」
リナは、姿を変えながら、楽しそうに魔法を発動した。
「さあ、ダンジョン魔法の時間だよ!」
天井を見上げると大きな蝙蝠が、おそらく冒険者のものであろう人間の手を咥えながら飛んでいた。
リナは両手を広げ、魔法力を解放した。暗い迷宮内に、眩い光が溢れ出す。
リナは高らかに笑い、両手を前に突き出した。
「炎よ、我が手に従え! 妖精の怒りを燃やせ! 炎の竜巻、フレイムトルネード!」
リナがそう叫んだ瞬間、彼女の掌から赤黒い炎が噴き出し、まるで意志を持つように渦巻き始めた。炎はみるみる大きくなり、あっという間に巨大な竜巻へと姿を変えた。
「きゃあああ!」
アニーは悲鳴を上げ、俺は思わず目を閉じた。
轟音と共に、炎の竜巻は蝙蝠のいる天井へと突き進んだ。石壁が悲鳴を上げるように軋み、瓦礫が降り注ぐ。次の瞬間、眩い閃光が視界を覆い、耳をつんざくような爆音が響き渡った。
ゆっくりと目を開けると、そこにはとんでもない光景が広がっていた。迷宮の天井には巨大な穴が開き、青空が覗いている。炎の竜巻は、その穴を通り抜け、空高くへと消え去っていた。
「こ、こんなこと……」
アニーは呆然と立ち尽くし、俺も言葉を失った。リナのダンジョン魔法は、想像を遥かに超える威力を持っている。
「でも、リナ。ここは遺跡の内部だ。そんな破壊的な魔法を使うのは、少し……」
俺がそう言及し終える前に、
「あっ! モンスター発見!」
先ほどの破壊的な振動で出てきたネズミが床を駆け回っている。
リナは空中から床へ向けて次の魔法を発動しようと構えた。
「妖精の風よ、我が手に従え! 無限に持続する風の道、ジェットストリーム!」
リナが詠唱を叫んだ瞬間、彼女の周りの空気が激しく振動し、風の刃が生まれた。それは目に見えないほど鋭く、空間を切り裂くようにして下方へと突き進んだ。
「な、何をするつもりだ!?」
俺が叫んだ瞬間、風の刃は床に突き刺さり、轟音と共に地面に穴を開け、回転する土砂で穴を広げていった。
その穴は、底が見えないほど深く、地獄の底へと繋がっているようだった。




