第24話 ゲロゼリー
ギルド酒場を飛び出した俺の背中に怒号が突き刺さる。
追いかける彼らの足音が、すぐそこまで迫っている。追っ手は幾手にも分かれて、こちらの逃げ場をふさぎつつある。
息を切らしながらも、頭の中ではリナの「共鳴スキル」による通信が途切れ途切れに流れ込んできた。
「影の者B」:「魔王の配下『老女』を仕留めたぞ! よくやった!」
「影の者C」:「ナイスワーク!」
「影の者A」:「祝杯を上げるのはまだ先だ。ハニー、コードネーム『ハニー』。偽勇者の行動パターンは?」
「影の者C」:「情報部によると、やつは『巨乳』と『ゲロゼリー』に異常な執着を見せている」
「影の者A」:「ふん。奇妙な男だな。しかし、非常に有用な情報だ。『ハニー』、誘導状況を報告しろ」
「影の者F」:「偽勇者は現在、食堂へ誘導中です。トラップの準備は万全です」
諜報機関の通信が、耳に飛び込んでくる。何かが、着々と進行している。
彼らは俺たちの行動を監視し、誤った情報を元に作戦を立てている。
逃げ走りながら、俺は諜報機関の通信を聞き続けた。
リナの「共鳴スキル」が提供する情報に頼りきりだが、彼女の能力はこの状況の命綱になっている。
「どんと任せて! ぜーんぶ筒抜けなんだから」
リナの声はどこまでも余裕に満ちていた。
後ろでこだましている冒険者ギルドの猛者たちの怒号から逃げながら、倉庫街にたどり着いた時、ふいに若い女性が声をかけてきた。
「こちらなら、安全です」
助かった。俺たちは、路地を通って女性の案内する方へ向かった。
埃っぽい路地の奥に、ひっそりと小さな食堂が佇んでいた。
煤けた壁、剥がれかけた看板、そして、窓ガラスには無数のひびが走っている。
暖色の灯りが、ひび割れた窓から漏れ出し、一見どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。
しかし、その安らぎは表面的なものに過ぎず、静寂が重くのしかかるように感じられた。
周囲を警戒しながら、俺は食堂の扉を開けた。
「隠れている人たちがいっぱいいるね。リナも隠蔽スキル発動するよー」
共鳴スキルから声が届く。
「影の者F」:「偽勇者、誘導完了」
案内されたのは豊満な胸元が少しばかり露わになった若い女性。無意識に胸元を撫でるような仕草をしながら、甘い微笑みを浮かべた。微笑みは甘美だが、どこかぎこちない。
カウンターの上には毒々しいほど鮮やかな色のゲロゼリーが整然と並べられていた。
「客引きのようでごめんなさいね。いらっしゃいませ」
彼女は薄いピンク色のワンピースを着ており、初々しい花のように可愛らしい。
しかし作り笑いを浮かべながら、こちらを見つめてきた。その瞳の奥には隠しきれない警戒心と任務を遂行しようとする冷静な光が宿っていた。
「お食事は、何かお決まりですか?」
「あ、えっと……」
俺は、戸惑いながら、メニューを見つめた。
食堂のメニューは、家庭料理が中心で、ハンバーグやステーキ、そして、ゲロゼリーが並んでいた。
「おすすめは、ゲロゼリーです。自家製で、お味が格別なんです」
女性の言葉に、俺は顔色を強ばらせずにはいられなかった。
「丹精込めて作ったものです。ぜひご賞味いただければ、と」
ゲロゼリー……そんな、あの苦くて不味いゼリーを、再び食べるのは無理だ。
「ふふ、お待たせいたしました」
女性は、ゲロゼリーを運んできた。
皿に乗ったゼリーは洞窟によくいる発光する魔物のようだった。
そして名前の通り吐瀉物のようなにおいを発している。
ここでいさかいをする、わけにはいかないよな。
王国軍の味方だということを示さなければならない。
『罠に乗ってみましょう。敵の意図を探るのです』
ミミズが、脳裏で飄々とした口調でつぶやいた。
……まさか、毒でも入っているのか?
『大抵の毒は大丈夫です。宿主の身体が半分になっても大丈夫だったのです』
俺は思わず顔をしかめた。
今回は本当に罠に嵌められそうになっている。
非常に悪い予感がする。
肝心のミミズはなぜか罠への好奇心に満ち溢れている。
「どうぞ、召し上がれ」
「はい……」
震える手でゲロゼリーを口に運んだ瞬間、舌が強烈な苦味に焼かれる。
全身が痙攣し、喉がカラカラに渇き、胃が激しく収縮した。
思わず顔をしかめながらも、俺は必死に言葉を絞り出した。
「……お、おいしいです…」
女性は、変わらぬ笑顔で問いかける。
「よかった。素敵な食べっぷりですね」
顔は引きつり、汗が額から流れ落ちる。
「そんなに気に入っていただけましたら、おかわりを持ってきますね」
女性は満面の笑顔で追加のゲロゼリーを持ってくる。
おいしいなんて言わなければよかった。
次々とゲロゼリーが運ばれてくる。
そのたびに俺は無理やり口にねじ込む。
ミミズが、脳裏で絶叫した。
『宿主、これはまずい! 虫下し、寄生虫除去薬です! 魔王城の虫にも効くほど強力!』
「ほら、やっぱり!」
ミミズの体が、みるみるうちに小さくなっていく。
全身の力が抜け、視界が歪んでいく。意識が薄れ、耳鳴りが轟き始めた。。
リナの「共鳴スキル」が作動していた。諜報機関の通信が耳に飛び込んでくる。
「影の者F」:「偽勇者に効きました!」
「影の者B」:「すごい! 最高だ!」
「影の者A」:「でかしたぞ、ハニー」
「影の者F」:「偽勇者倒れていきます」
「影の者A」:「偽勇者を確保しろ」
「影の者F」:「了解!」
「宿主……、今回は本当に、まずいかも……」
ミミズの声は弱々しくかすれていた。
まずいのはゲロゼリーだ。
意識が遠のき、目の前にいる女性の顔が歪んで見えた。
「ごめんなさいね」
そして、ミミズの声が、ひ弱な声で響き渡った。
『殻に……こもります。宿主……、気を、つけて……』
俺の予感が正しかった。次からはもっと自分の勘を大切にしようと思うのだった。