スケープゴートは最後に笑う
きっと、これしかなかった。彼らなりのハッピーエンド。
…ねぇ、人を殺したことはある?
ああ,そう。ごめんなさい、変なことを訊いたわ。忘れてちょうだい。
…でも、もし願いが叶うなら…。
あたしを、その手で殺めてほしい。
午前十時、春の暖かさが感じられる4月の末。唐突な問いと願望、その内容の物騒さに全く頭がついていかない。人を殺す…だって?殺してって、見ず知らずの人間に言うことか?いや、待てよ。だいたい、殺すなんてそう言わないし人に訊かないだろ…。おいおい、まさか頭イッちゃってんのか…?
そう疑心暗鬼になっていると、何も言わない俺に痺れを切らしたのか、少女が口を開いた。
「ちょっと、何か言ってよぉオニーサン。変なこと訊いたあたしもあたしだけれど、さすがに無言は辛いわ…。」
黒い絹のような髪の、その一束をつまんで少女はそっと呟く。ったく、一体どこから突っ込めばいいんだ?そもそも、俺は話すのが苦手だっていうのに…。
「…変なこと言った自覚はあるんだな。」
やっと絞り出した言葉だった。こんな答えづらい質問されて、それでも物を言えた俺を誰か褒めてほしい。少女は右上を仰ぎ見るようにして、悩まし気にうーんと呻っている。おおよそ、返事をどうするか考えあぐねているのだろう。整えられた眉をひそめて、唇はへの字に曲げられていた。
よく見れば、その少女はかなりスレンダーで、いわゆる量産型?のフリルが沢山あしらわれた白のトップスに、落ち着いたピンクのミニスカートを合わせている。耳には小ぶりな銀のピアスが一つずつ付いていて、それが彼女によく似合っていた。
垂れた大きなアーモンドの、中のエメラルドが右往左往する。長く束になったまつ毛が、まばたきの度に揺れる。ほんのり紅に色づく頬と、艶のある肌。一目見て、可愛らしいと思った。恐らく18,19歳くらいだろうか。
今まで何か苦労するような見目ではないはずだが…?と考えていると、考えがまとまったのか、少女が言う。
「だって、普通こんなこと訊かないな、と思って。」
「それにしたって、名前も知らない奴にいきなりそんな物騒なことを訊く奴がいるか。それに、その問いに頷ける奴なんて…。」
「あら、あたしはオニーサンのこと、知ってるわよ。ねぇ、多胡健太郎さん?」
背筋が凍る。こいつ、相当やばい…。ストーカーか何かか?いや、俺にこんな可愛くてサイコパスなストーカーがいた覚えはないし、なんなら、これが初めましてだぞ…?探偵でも雇ったのか?でも知らない人に探りを入れることは無いはず…。じゃあなんだ…?なぜ俺の名前を知っている…?
俺のことなどお構いなしに、矢継ぎ早に少女は続ける。
「ねぇ、タコちゃんって呼んでいいかしら?ああ、あたしも名乗らないと。あたしの名前は、後藤瑞希。これ、あたしの連絡先だから。絶対連絡してよね。それじゃあ、またね。」
何だったんだ、あいつ…?早口で言うだけ言って去ってしまった。…後藤瑞希、だったか。連絡先の書いてある紙には、深夜の連絡はNG!!の注意文が添えられている。
…まぁ、どうせ何かのいたずらだろうと思うと同時に、またあいつと会わなくては、と思う自分もいた。正直、見た目がかなりタイプだったというのもあったが、それよりもどこまで知られているのかが分からないのがたまらなく怖かった。仕方がない、バイトは夕方に終わるし、終わった後にでも連絡してみるか…。
この選択が間違いだったなんて、この時の俺は知る由もない。
「あ、タコちゃん!お待たせー!ねぇ、どこへ行く?居酒屋とか行っちゃう?」
現在時刻は午後一時。春は過ぎ去り、そろそろ梅雨に入ろうかという五月半ば。あの後何度かやり取りを重ねていく内に、結局、また会うことになってしまった。タコちゃんというあだ名は定着してしまったし、日時も場所も全部決められてしまった。…まぁ、また会う必要はあったのだし、今更何も言うことはないのだが。
そういえば、居酒屋とか言っていたが、こいつ…瑞希はまだ未成年のはずだ。俺はふと疑問を投げかける。
「…酒も飲めないのに居酒屋に行くのか?」
「やだなー、タコちゃん。あたし22なのよ、お酒くらい飲めるわ。」
…は?
「え、は?お前、成人してんのか…?22歳だったら、俺の一個下だぞ?」
「だからそうだって言ってるでしょう?身分証もあるわ。」
それから、私はお前って名前じゃなくて瑞希よ、と付け加えた。
瑞希はやたらと名前で呼ばせたがる。ここに来るまでに何度か苗字で呼ぼうとしたのだが、断固拒否されてしまった。苗字で呼ばれるのは不愉快なの、の一点張りで、詳しいことは教えてくれなかった。瑞希は自分勝手でありながら、自分のことを話そうとしない。何度聞いても、いつかわかるだの、今は話すべきじゃないだのと濁されてしまう。
俺はやれやれといった態度で言った。
「分かった、分かった。それじゃ、近くに安くてうまい所があるから、そこ行くか。」
「うん、そうしましょ。あたしハイボール飲みたいわ。」
そうして、俺たちは居酒屋へと足を進めた。
その途中、ふと何かを思いついたように瑞希が言う。
「そういえば、なんかこれデートみたいじゃない?」
「…瑞希はデートで居酒屋に行くのか?」
「質問に質問で返すなんてダメだよタコちゃん。タコちゃんってモテないでしょ。」
「初対面の奴にあたしを殺してなんていう奴よりはマシだ。」
「えー?誰の事?あたし知らないわ。」
俺をおちょくるように言う。何言ってるかわかんないわ、と言わんばかりに肩をすくめた後、急に真剣な顔になって、独り言のように呟く。
「まぁ、タコちゃんには言ってもいいかな。意外とイイヒトだし。」
俺にはこの時、何を話されるのかなんて予想すらできなかった。今思えば、これが全ての始まりだったかもしれない。
「ねぇ、タコちゃん。なんでヒトって生きる意味を探すんだと思う?」
「いきなりなんだ。哲学の話か?」
「そういうんじゃ…ううん、そう言われればそうかも。ねぇ、タコちゃんはどう思う?」
ビールを飲みながら考える。瑞希は唐突に質問するのが好きらしい。ただ、今までのあの冗談めいた感じではなく、真剣に訊いているらしく、二つのアーモンドが見つめている。なら、俺もそれらしい答えを言うべきだろう。
ヒト、つまりは人間の生きる意味について…か。なんだか論文のテーマみたいだな。生きるということに答えなんてあるのだろうか。ただ、一つ言えるとすれば…。
「今、ここに存在する理由が欲しいんだろ。」
「今、ここに存在する理由…?」
「あぁ、そうだ。といっても、俺に上手く説明できるだけの学はないんだが…。ヒトって、なんか不安定?というか、安定しないだろ。いっつもポジティブな奴はいないし、逆も然りだ。だから、生きるにしろ何にしろ、理由もなくただそうするって安定しないヒトには難しいんだと思うんだ。ほら、急に我にかえるというか、なんで自分はこれをしてるんだろう、とか考えることってあるだろ?んで、理由が与えられれば簡単になる。安心できるんだよ。だから、生きることに理由が欲しいから意味を探すんじゃないか?」
「ふぅん…?そっか、そんな考えもあるのね。そう、へぇ…。」
「なんだ、瑞希にも考えがあるのか?聞かせてくれよ、瑞希の人生観。」
瑞希は、人生観なんて立派なものじゃないけど…と前置きをしてから、語り始めた。
「あたしが思うに、愛に飢えているからだと思うの。そもそもの話、楽しく生きているヒトが生きる意味なんて探さないじゃない。意味を探すヒトって、常に誰かに認められたいとか、好かれたいとか、何かを強く求めているヒトが多いじゃない。それって、過去に何か…親に愛されなかったとか、いじめにあっていたとか、そんな辛い思いをして、欠けてしまった何かを…友愛とか、家族愛とか、そんなものをずっと求めていて、その過程で生きる意味を探してしまうのではないかしら?」
確かに、人生を楽しんでいる奴が、生きる意味を探しているイメージが湧かない。だいたいそんなことを考えるのって、ネガティブな人とか、何かに悩んでいるとか、そんな奴なイメージがある。
「確かに、それは言えてるかもな。だが、なんで急にそんな話を?」
瑞希は少し悩んで、ハイボールを一口飲んでから、彼女にしては珍しく静かに話し始めた。
「…実はね、あたし、救済が欲しいの。」
「救済?」
「うん、そう。あたし、誰かに救ってほしいの。でも、神様とか、救世主を求めてるわけじゃない。あたしにとっての救済って、誰にでも出来ることだから。…あぁでも、まずはあたしの過去から話すわ。そっちの方が早いもの。あたしは、弁護士の父と売れっ子女優だった母の間に生まれたわ。」
「弁護士って…あの後藤先生か?それじゃ母親って…。」
「そう。その人よ。それで、あたしはその二人に育てられた。あぁ、誤解がないように言っておくけれど、決して楽しくなんかなかったわ。ずっと辛かった。
父は学歴をとっても重視していて、いわゆる英才教育っていうのかしらね、それを、物心ついたころからやってたわ。でも、あたしは父の理想のイイコにはなれなかった。高すぎる理想と、それに応えられないあたし。何度も怒られたし、死ねばいいのにとか、産まなきゃよかったとか、そんなことも言われたわ。そうして、やっと理想に手が届いても、それが当たり前だと言われる。
一方の母はといえば、頭が空っぽの、顔だけしか取り柄のない哀れな娘として接してきて、化粧品もヘアオイルもかわいい洋服も全部勝手に捨てられてしまったわ。
ずっと地獄だった。だから、あたしはやっとの思いで家を出て、これで自由なんだって思ってた。でも、せっかく一人になっても、人の付き合い方とか、家事全般とか、何も知らなかった。人の目が気になって、何をするにも気が気じゃなかった。この世界は、あたしには生きづらかったの。
それに、母からの電話も毎晩かかってくるの。監視されているのよ。だから、連絡先のメモにも書いてあったでしょ?深夜は連絡NGだって。それが理由よ。
…でね、あたしは思ったの。この世界にはあたしの居場所はどこにもないんだって。だから、あたしはこの世界から出ていきたい。…死にたいの、あたし。それがあたしへの救済。あたしの救いなの。」
…何も言えなかった。何を言うにも不適切な気がした。ただ、なにか声をかけるなら、俺なりの精一杯の言葉は。
「…頑張ったな、今まで。」
「酷い、酷いくらいに優しいのね、タコちゃん。優しさは時には毒になるのよ。知ってる?」
「知ってる。…場所を変えようか。」
午後6時、辺りが薄暗くなって、もうすぐ闇に包まれそうな黄昏の中。俺と瑞希は、川辺をゆっくり歩いていた。ここをもう少し歩くとベンチがあって、そこでまた話そうと言ってから、ここまでずっと無言だった。
何か話す必要があるなんて考えなかったし、この無言の時間も心地よかった。子供の遊ぶ声と、川の流れる音がBGMがわりになったのもあるかもしれないが、俺は瑞希と一緒にいて、心が鎮まるような、妙な落ち着きを感じていた。それに、さっきの話を聞いたからか、不安定で弱い瑞希を、守りたいとか、なんとかしてあげたいといったことを考えていた。…だいぶ瑞希に入れ込んでるな、と、今になって他人事のように思う。
「…着いたぞ。ここなら深い話も出来るだろう。」
「…そうかもね。でも意外だわ、タコちゃんのくせにこんな場所を知ってるなんて。」
「俺を土地勘のない異邦人か何かだと思ってるのか?言っておくがこの辺には俺の家もあるし、少し歩けばバイト先もあるぞ。」
瑞希はへぇ、と声を漏らした。今は自分の事で精一杯なのか、リアクションも薄い。深刻な問題だとは思っていたが、ここまでとは…。家族間の話にあまり口を出すものではないとは理解しているが、それでも彼女の置かれている環境はとても厳しいものであり、いわゆる毒親の呪縛に苦しめられているように感じる。それはとても辛いことだと認識しているし、死ぬことを渇望するほどの苦行の中で生きているのはあまりに悲惨だ。
しかし、ここで一つ疑問に思う事がある。死にたいと思うなら真っ先に自殺を考えるものではないか?その方が手っ取り早い上に、自分のタイミングで死ねる。何より自死という選択肢をとる人は少なくはない。自殺で死ねなかったとしても、だから他人に殺してもらおう、なんて考えにはならないだろう。俺はその疑問を投げかけることにした。
「瑞希、お前の境遇はとてもよく分かった。だが、まず死ぬことが救いなんて考えるなら自殺を思い浮かべるものじゃないか?それか、心中とか。少なくとも他殺にこだわることはないんじゃないか。」
すると、瑞希は目を見開いてから、少しの沈黙の後にこう言った。
「…あのね、タコちゃん。あたしは他殺にこだわってるワケじゃないの。ただ、救世主を望んだだけ。でも、あたし自身は救世主にはなってくれなくて。心中って手も考えたけれど、ネットでそんな話をしても嘘だと思われたの。誹謗中傷もあった。
その中でもね、理解してくれる人もいたの。でも、皆口を揃えてあたしを諭してくるだけ。加害者になりたくない偽善者ばかり。だから心中してくれる人もいなくって。
…あたしは神様とか、仏様を望んだんじゃない。ただ、あたしをこの地獄から救ってくれる救世主を望んだの。それの、何がいけないって言うのよ。なんで、この世界はこんなに生きづらく出来ているの?」
「…きっと、愛に飢えるほど、生きづらくなるんだ。親に、友に、そして自分に期待する度に失望し、存在する理由を探そうとする。
でも、数学とか理科みたいに絶対的な理由は存在しないから、求めるごとにどんどん不安定になって、何かにしがみつかないと生きられない。
瑞希の場合、それは死だったんだろうな。死に依存するしかない。救世主という名の、死神を見つけるしかないんだろう。
…苦労するな、瑞希も、俺も。」
俺の答えはこれしかなかった。頭にパッと出てきた、安直なアイデア。だがこの答えは適切だったようだった。瑞希の瞳はみるみる光を取り戻して、そして自分の中にストンと落ちてきたんだろう、何度か頷いた後に、そっか…、と呟いた。
今この時、俺の中には二つの感情が渦巻いていた。
一つは、瑞希をなんとかして救い出したい、という欲望。そのためには心中でも手にかける事でも、容易な事だと思えるし、実行に移すことも出来るという自信があった。
一方で、瑞希とずっと一緒にいたいという独占欲にも似た恋情があった。これが厄介だった。瑞希を失うのが怖かったし、失えば自我を無くしてしまうのではないかと思うほど、瑞希のことを好いていた。この感情が、瑞希を救う事を良しとせず、行動をセーブするストッパーになっていた。
きっと瑞希は気付いていない。気付くはずがない。この想いは俺の中の世界で完結するのだから。俺の中だけで完結しなければならないのだから。だが、万が一瑞希がこの想いを知ったとき、彼女は俺と一緒にいようとしないだろう。この恋は終わらせなければならない。殺さなくてはならない。でないと、俺は彼女の言う救世主にはなれない。この想いすら手にかけられないような奴に、一体何が殺せるというのだろうか。
瑞希は黙りこくった俺の顔を覗き込んで、微笑みながら言った。
「ね、タコちゃん。タコちゃんのおうちってここの近くなんでしょ?連れてってよ。少し寒くなってきたし、何だか素面になちゃったから飲みなおそうよ。」
知らない間にすっかり辺りは暗くなり、静寂が二人を包み込んでいた。まるで二人だけの世界に来たみたいだった。
「お前、親は。」
「やだなぁ、あたしは瑞希って名前があるんだって。…それに、もういいの。あたしは自由になりたい。あたしのこと、自由にしてよ。あたしを助けて、タコちゃん。」
コンビニ寄ってからだな、と返すしかなかった。俺はノーと言えなかった。言えるはずもなかった。
「タコちゃんの部屋せまーい!物置みたいじゃない!」
「人の部屋に文句をつけるな。追い出すぞ。」
「やだー、タコちゃんのろくでなしー!」
他人の部屋にいちゃもんをつけられても困る。バイト戦士の給料で広い部屋なんか住めるわけないだろう…。なんて、瑞希の非常識なところは最初からだったし、もうつっこむのも億劫だ。
俺の部屋は、一言で言えば殺風景といった感じで、必要最低限の家具しか揃えていなかった。ミニマリストと言えば聞こえはいいが、蓋を開ければただただ低収入なだけである。バイトは週5で朝から晩まで入っているが、やっぱりフリーターでは平均収入には届かないので、日々の生活費と少しの貯金が精一杯である。
コンビニで買った缶のハイボールとビール数本と、おつまみ達をバッグから出していく。環境保護の為というのは分かるが、レジ袋が有料というのは何かと不便である。パンパンになったバッグを見て、フグみたーい、と言って大笑いした瑞希にイラついた俺は悪くない。女性に荷物を持たせるのは良くないというのは分かるのだが、だからといって当然かのように堂々とされるのは何だか釈然としない。せめて気遣いの一つでもあればいいんだが…。まぁ、何だかんだ荷物持ちをして、笑った顔を見て許してしまう俺も俺だな。
「ねぇねぇ、せっかくだし、タコちゃんの事も知りたいな。あたし気になるなー!」
「俺のことなんて、ネットで調べれば出てくるだろ。それに、どうせ瑞希は詳細なところまで知ってるだろうが。」
「えー?そうでもないよ。それに、ネットで調べても極端に話が盛られてるか極端にけなされてるかのどちらかだもの。だったら、本人の口からきいた方がいいじゃない。あたし生い立ちとか聞きたいわ。」
確かに、インターネットでは誇張したという事が分かりづらい。なら、本人から話してもらうのはいいアイデアなのかもしれない。それに、彼女の過去を知ってしまった以上、俺の事も話すべきなのかもしれない。
「分かった。聞いても面白くないと思うが、それでも良ければ。」
「もちろんよ。文句の一つも言わないわ。」
「そうか。…と言っても、何から話すかな…。そうだな、俺は、一般家庭に長男として生まれた。別に貧乏でもなく、かといって瑞希みたいに特別裕福なわけでもなかったな。家族からの愛情に飢えるような暮らしではなかったし、普通の、幸せな家庭だったよ。
でも、弟が年長に上がって、俺が小学5年生になった頃に、両親が離婚した。原因は母の浮気で、家を空けているうちに男と逢っていたらしい。俺は母親に、弟は父親に引き取られた。弟とはそれっきり全く会ってない。多分会おうともしないだろうな。
んで、それから母親は変わってしまった。酒と男に溺れ、毎日毎日家に男を連れ込んでいたさ。そんな奴が育児出来ると思うか?…まぁ、大体察せるよな。俺はネグレクトを受けてた。しかも、母親にまるで奴隷のような扱いもされた。母の鬱憤を晴らす為に暴力を振るわれたことなんて、何度あったことか。お前のせいで離婚する羽目になった、なんて言ってたな。自業自得なのにな。あの家に俺の居場所は無かった。俺の人権は保証されなかった。
だから、俺は家を出た。とは言っても、すぐに出たわけじゃなかったけどな。まだ未成年だったから、部屋を借りるのも大変だったな。んで、最終学歴も中学校までだったもんだから、就職しようにもどこにもお祈りされて、なんやかんやで今のバイト先でずっと働かしてもらってるな。…まぁ、ざっとこんなもんか。どうだ、満足したか?」
「…そうなのね、ふぅん…。」
「なんだ、満足したか?」
「そうね、そういうことにしといてあげる。」
「なんだ、やけに上から目線だな。何か不満か?」
「いいえ、なんでも。文句はないわよ、あっても言わないし。」
彼女は訝しげにしながら、それでも無理矢理納得したようだった。そっと呟いた嘘つき、という言葉は聞こえないふりをした。
それから、少し酔いがまわってきたのか、瑞希は蕩けきった表情で言った。
「ね、タコちゃん。ちょっと酔ってきちゃった…。ベッド行こ?」
「…なんだよ、急に。」
「んもう、タコちゃんの分からず屋。タコちゃんしたことなさそうだもんねぇ。仕方ないかぁ…。うん、分かった。あたしがリードしてあげる。だから…、」
一緒に現実逃避しましょ。
…そこからの記憶は思い出せない。
チュンチュン、と鳥の囀りが聞こえて、意識が覚醒する。ベッドの中で一緒に寝ているはずの彼女はおらず、どこだろうと周りを見回すとすぐに見つかった。
彼女はベランダで景色を眺めていた。なんだか話しかけるにも話題が思い浮かばず、ただ隣に並んで一緒に眺めることにした。
しばらく眺めていると、彼女はボソッと独り言のように言った。
「…あたし、もう何もやり残したことは無いわ。なんだか、長期休みの最終日みたい。明日から夢から、現実に引き戻されるような虚無感しかないわ…。」
それはまるで、今日で全てを終わらせたいと暗に言っているみたいで。俺は瑞希を見ることはできなかった。まだ、俺に彼女を殺す決意なんて、無い。
瑞希はそれを見透かしていたんだろう。失望したように言った。
「…そう、結局、タコちゃんも偽善者だったわけね。」
「そんな訳、無いだろ。」
「じゃあどうして殺してくれないの。あたしには生きる意味なんてない!あたしは死ぬために生きてるのに!あたしには救いが必要なの…。お願い、あたしを救ってよ。あたしにはもうこの地獄で生きていたくないの…。もう、楽になりたい…。」
縋るように言われたら、もう拒否なんてできなかった。
「…本当に、後悔は無いのか。未練とか…。」
「無いわ。…ああでも、こうしていたら未練の一つでも出てきそうだわ。だから、今すぐにでも死にたいの…。」
ね、やり方は知っているでしょ?お願い…。
俺は一回コクリと頷くと、まだ覚悟も決まっていないまま、台所へと足を進めた。まるで、操り人形になってしまったみたいだった。水道水で乾いた喉を潤して、心を鎮める。そして、もうすっかり使い古された包丁を強く握り、寝室へ戻っていた瑞希のもとへと近寄った。
「…まぁ、いきなり殺せなんて言われても無理よね。ごめんなさい、急に声を荒げたりして。」
「…そうだな、せめて心の準備をさせてくれないか。楽に死ぬためだと思って、頼む。」
「もちろん。なら、少しお話しましょうよ。まだ出会って一ヵ月も経ってないのよ、あたしたち。」
「そうだな、いきなり話しかけられたかと思ったら、あたしを殺めてほしい、だもんな。」
「それはもういいでしょ?…自分でもおかしいなんて分かってるわよ。でも、それくらい追い詰められていたのよ、分かるでしょ?」
「ああ。瑞希の置かれている状況は地獄そのものだ。家族の期待と嫉妬で板挟みになっていたよな。」
「ええ。」
「瑞希はきっと、スケープゴートだったんだ。親の感情に振り回され、生贄にならざるを得なかった山羊だった。瑞希は何も悪くなかったんだよ。」
「…スケープゴート、ね。ふふ、面白い例えだわ。タコちゃんってば、あたしのこと凄く庇うよね。それにちょっとだけ安心したのだけど。」
「…そうか。」
「タコちゃんってさ、学がないとかいう割に結構考えるときはちゃんと考えるよね。話も分かりやすかったし。」
「そうか?あまり深く考えてなかったな。」
「そうなのよ。タコちゃんって自分の事あまり良く思ってないよね。だから就活ダメだったのかもね。」
「どうだろうな、お祈りメールは教えてくれないからな。」
「絶対そうよ。絶対!」
「絶対なんて物は存在しないぞ。」
「それが絶対じゃない。変なタコちゃん。」
「…そうだな。」
「ねぇ、タコちゃん。やりたいこととか、無かったの?あたしは無いけど、タコちゃんは何かあるの?」
「…やりたいことなんて、特に思いつかないな。…ああ、でも…。」
「でも?」
「伝えそびれたことはあるな。」
「…なぁに?タコちゃん。」
「…聞いても死ぬ意志は変わらないか?」
「当然でしょ?ちょっとやそっとじゃ変わらないわ。…なぁに、タコちゃん。あたしに伝えそびれたことって。」
「…お前のことが好きだ。これだけは伝えるべきだと思った。」
「…なんで、こんなこと最後の最後で言うのよ。なんだ、だから…。そうだったのね…。」
「俺は瑞希を殺すのに、後悔したくなかったからな。…返事はいらない。」
「えー、言わせてよ。これじゃ只の言い逃げじゃない。」
「…それなら、聞かせてくれ。」
「ふふ、そう緊張しないでよ。これじゃなんでお話してるのか分からなくなっちゃう。
…あたしも好きだったわ。」
「…は?」
「タコちゃんって驚くと、は?しか言わないわよね。分かりやすーい!ねえ、本当に気付かなかった?」
「…そりゃそうだろ、だって、好意なんて少しも感じなかった…!」
「…タコちゃん、やっぱり恋愛経験無かったのね。考えてみて、付き合ってもいないのに体を許すなんて、そもそもおかしいと思わない?」
「それは、酒の勢いでだと…そうか、そうだったのか…。」
「…タコちゃん…。本当鈍感だわ…。でも、想像してたよりいい返事だったでしょ?」
「ああ、いい答えが聞けて良かった。もう悔いはない。」
「…じゃあ、もう大丈夫?」
「…そうだな。それじゃあ、お別れだな。」
「そうね、ありがとう。最後まであたしに付き合ってくれて。」
「どういたしまして。楽しかったよ、ここ最近は。こちらこそありがとう。」
そうして、瑞希は今までに見たことがないくらいの美しい微笑を見せて言った。
「あと、あたしはお前じゃなくて瑞希よ。」
その言葉を合図に、銀の鋭角を、振り下ろした。
「これが、君が起こした殺人事件の一部始終だね、前田樹君。」
「はい、間違いないです。先生。」
「…君はつくづく女運が無いね。君の周りには問題のある人間が多い。…前回は母親、今回は年の近い恋人、か…。」
「そうですね…ごもっともです…。」
「今回の場合は、君は少年法が適用外になる。前回よりも重い刑になることは避けられないだろう。それは…分かっているんだね。」
「…はい、もちろん。刑務所から出られないことは、覚悟しています。」
「…そうかい。…君は少し成長して、大人になったと思っていたんだがね…。」
「俺は十分大人ですよ。ただ、真っ当には生きられなかった。それだけです。」
「…前回からもう八年か。母親に殺されかけて、近くにあった包丁で抵抗した結果、誤って殺害してしまったというあの事件から、君は変われなかった。」
「…。」
「…まぁ、君は運命に殺された 贖罪の山羊 とも言えるかもしれないな。君は生まれる親を選べなかった。君が真っ当な親の元に生まれていたら、真面目で優秀な人間になったのかもしれない。それに、恋人…娘が君のことを調べ、コンタクトをとったことも不運だった。私がつい話してしまったのがいけなかったんだろう。
でも、これは全て運が無かった。そういう結論なのだと、私はそう考えているよ、樹君。だからこそ、この結末は何とも残念で仕方がない。」
「…それは、ただの空想でしかないですよ。これが俺の行く末だっただけです。」
「そうかい。…じゃあ、私はこれで。次は法廷だね。前回とは違って、今回は敵だ。くれぐれも勘違いしないでくれよ。…娘が世話になったね。」
「ええ、分かっています。こちらこそ、お世話になりました。後藤先生。…いいえ、お義父さん。」
そう言って、前田樹こと多胡健太郎はにっこりと微笑んだ。和やかで柔らかな笑みだった。
彼らが選んだ道。その中で彼らが伝えようとしたこと、その欠片を感じ取っていただけたら幸いです。そして、最後に少しだけネタバラシを。まず、瑞希がなぜ多胡の事を知っていたのかというと、最後にあったように父親から多胡の存在を伝えらていたからです。瑞希の父と多胡とは一度法廷で会っています。その時は多胡の母親殺害事件の弁護をしていました。母親の虐待の事実と、殺害が故意のものではなく正当防衛の延長であること、そして多胡がまだ当時15歳で少年法が適用されるために比較的軽めの判決でした。
そして、後藤弁護士はなぜ多胡のことを前田樹と呼んだのか。単純に言えば、改名したからです。少年法では実名報道は原則としてしないことになっており、多胡の場合もそうでした。ただ、多胡は顔写真が公開されていることを後藤弁護士から聞いていましたし、改名した方がいいとアドバイスももらっていました。なので、前田樹から多胡健太郎になったわけです。ちなみに、就職が出来なかったのはもちろん前科持ちだからです。ネットで調べたら出てきますしね。
ここまでで多胡が実は健常者だったのではないかと思う方がいるかも知れませんが、私はそうは思いません。多胡が瑞希を殺すのにためらったのは瑞希への執着心なのであって、殺人は犯罪だとかやってはいけないという抑制が働いたわけじゃないからです。よく考えればおかしいですよね?瑞希に常識がなかったように、多胡には犯罪意識がなかったのです。…まぁ、それを恋に狂わされただけだと捉えることもできますが。
あと、最初にも言ったようにこれはハッピーエンド。真実でも最悪でもない、彼らなりの最善です。でも、多胡にはまだ人生が続きます。物語として描くのに、この形が一番美しいというだけなのです。お伽噺のように、めでたしめでたしでは終わらない。でも、物語はこれでおしまい。まるで、目が覚める前の夢みたいですよね。もっと見ていたいような、そんな夢を描くことが出来たら、と思いながら日々を生きています。ですので、これからも私の与太話にそっと耳を傾けていただけたら嬉しいです。
ここまでお読みくださりありがとうございました。