6/迷える教師
ゾマーが鍛錬をしている頃、ティーリンは、教師に呼ばれてその先生の執務室へと向かった。ウィンストン・メイゼル。まだ若い男性教師だ。いつも顔色が悪く、眉を下げて困ったような顔をしている。顔の造り自体は悪くないのに、どうにも幸の薄そうな男だ。今日もまた、目の下にうっすらとクマが見える。
ティーリンは、比較的狭いウィンストンの執務室に入り、本に囲まれ、書類に埋もれた机の前に座っているウィンストンに挨拶をした。
「メイゼル先生。ただいま参りました」
「ああ、ティーリン、来てくれたね」
ウィンストンは、助かった、とでも言いたいような表情をしている。
「まぁ、君が来ないなんてまさか思ってもいないけど…。ほら、そこに掛けて」
「失礼します」
ティーリンは、言われた通り向かい合うようにして椅子に座った。
「今日は休みなのに、ちゃんと制服を着て、君はそういうところ本当にしっかりしているよね」
「…義務なので」
「そんな義務ないよ。でも、そういうしっかりしたところ、私は嫌いではないよ。礼儀正しくて、話していてハラハラしない。他の生徒だと、ほら、じゃれてくる奴もいるじゃないか」
ウィンストンは、弱弱しく笑った。ティーリンは、表情を変えずに小さく頷いた。
「そうですね」
「それで、そんなしっかり者の君が、そのー、どうして、…あの」
ウィンストンは、急に口ごもった。言いたいことがあるが、どうにも言いにくいらしい。ためらうことなどはないのに、ウィンストンは平和主義者だ。あまり波風を立てることは言いたくない。
「昨晩のことですか?」
しびれを切らしたティーリンが、ずばり言った。
「昨晩、古代派だと思われる生徒が問題を起こしましたね?」
ティーリンの、きりっとした突き刺すような眼差しに、ウィンストンは気まずそうに小さく頷いた。
「そうだ。そのことで、君を呼んだ」
「昨晩のことは、誰がやったことなのか、それは分かりませんが、非常に申し訳ないことをしたと思っております。危うく、失血するところでした。そればかりか、パーティーをも壊してしまった」
「いや、ハイディ、君がやっていないことは分かっているよ? それはもちろん。それにパーティーも、騒ぎが起きてしまったことは残念だが、君のせいではないだろう?」
「だとしても、僕は責任を感じるので」
「ハイディ、背負いすぎるのは良くない」
ウィンストンは、珍しく教師らしい目つきになった。
「君は、一人で何でもできてしまうから、そう思ってしまうのだろうね」
「……」
「君の家も、君を期待しすぎていることはないか?」
「それは…ないです」
ティーリンの表情が、少し歪んだ。あまり家のことを話す性質ではない。
「で、僕の責任ではないというのであれば、何故ここへ?」
ティーリンは、気を取り直そうとして顔を上げる。
「あ、それは…」
ウィンストンが、また口ごもった。
「それは、昨晩、血抜きという、修練していない者にとってはとても危険な魔術が使われた。それが誰であろうと、実に恐ろしいことだ。この学校で、ついには死者が出てしまうところだ。君たちの対立には目をつぶってきたところがある。それは、外の世界で大人たちが同じような過ちを犯していることへの自責の念と、これまではそこまで命に係わる魔術は使われてこなかったこともある。
君たち学生は、まだそこまで危険な魔術を扱うこともできないしね。だから、修練の一環と、外の世界に出た時に、君たちが世間とのギャップに翻弄されてしまうことのないように、教育界である程度のことは、学生たちの喧嘩だと大目に見てきた。君たちのような年代に、怒りはつきものだからね」
ウィンストンは、そこまで言うと、机に手を置き、少し前のめりになった。
「しかし、しかしだよ? もしそれが命にかかわる問題になってしまったら? 生徒たちの安全を守ることができなかったら? それは目をつむることなどできない」
「…つまり先生は、根本的な対立をやめろと仰ってる?」
ティーリンが、淡々と言った。
「まぁ、一言でいえば…そうなるね。火種はないほうがいい」
ウィンストンは、うーん、と言ってため息をついた。
「僕が対立をやめれば、近代派が大人しくなるとでも?」
「いや、そんな簡単にはいかないだろうけどさ…」
「ええ。僕もそう思います。例え僕が明日にでも降伏しようものなら、近代派の連中は大手を振ってその力を見せつけに来るでしょう。そこには、一見争いはないかもしれない。勝者のパレードだ。しかしながら先生、そんな彼らが、そのまま満足すると思いますか? 自身の力を見せつけて、かつての敵に嫌がらせをするでしょう。一方的な対立の解消は、迫害が許されたのと同じだ」
ティーリンは、冷静な表情で意見を述べる。
「僕は、近代派の連中を迫害するつもりなどはないし、近代科学魔法を完全に否定するつもりもない。ゾマーのような奴は、少し腹が立ちますが、彼らを完膚なきまでに叩き潰したいから対立しているのではないのです。攻撃は、裏を返せば防御です。このまま何もしなければ、古代魔法は忌むべきものとして、葬り去られてしまう。そういう扇動は、主張する者の声を消してしまえば簡単ですからね。結局は勝ち負けでしか物事を見ない人が多い。そして当然、勝ちを取った側の声のみが聞こえてくる。本質を見てくれるなんて願望でしかない」
「ハイディ、君は、近代科学魔法をなぜそれまで憎むんだ? 否定するつもりもないのであれば、共存という道はないのか? どちらかが道を譲らなければいけないことなのか?」
「ええ、そうです。そんなに生易しい感情は、もうこの世界では埃をかぶってしまった。先生もご存知でしょう? もうずっとこの争いは続いている。長らく刷り込まれたこの争いは、どちらか決着がつくまで終わりが認められないんです。はたまた共倒れか。この世界から魔法を失わない限り、この戦いは終われないんです。誰もそれを赦さない」
ティーリンの、淡々と、それでも熱のこもった言葉に、ウィンストンは言葉を失った。そんなことは分かっている。外に出てしまえば、何ら変わりがないのだ。気休めなど、この生徒が受け入れるはずがない。
「ハイディ、君は本当は争いは好まないのでは? そこまで考えられるのであれば、論理的な結論だって導き出せそうだ」
「いえ。僕は…そんなことはありません。それに、ここは学びの場です。ここで学んだことは、卒業しても活かされる。言い換えれば、この学校で起きたことが、今後の僕らの基準となる。それを、ないがしろになんてできないと、甘く見てはいけないのだと、僕は思います」
「…わからないよ。君ほどの明晰な頭脳を持っていながら、行きつく末は争いなのか?」
「……ええ」
ティーリンはそう返事をすると、すっと立ち上がった。
「今の世を見れば、それもまた正しいのではないでしょうか。…先生は、優しすぎる」
そう言い残して、ティーリンは執務室を出た。最後の言葉が、何故だか救いを求めているようにも聞こえたのは気のせいだろうか。
ウィンストンは、ティーリンが出ていってすぐに頭を抱えた。確かに、執政府は腐っている。ティーリンがそう思うのも無理はない。しかしウィンストンは、どうしても希望を捨てられなかった。どうにか、皆が傷つくことのない世界を望めないだろうか。