2015年7月9日
亮を起こしてから仕事に行こうかな。起こさないといつまで寝てるかわかんないし。休んでるけど、ある程度は規則正しい生活してた方がいいもんね。
「亮、朝だよー。私、仕事に行っちゃうよー」
「……ん…」
あれ?いつもはすぐ起きるのに。今日はなかなか起きないぞ。夜更しでもしたのかな?
「おーい、起きてよ。私そろそろ行くからね?いいのー?」
なかなか起きない亮に声をかけながら何回も体を揺さぶると、ようやく目を開けてくれた。
「やっと起きたね。ねぼすけさん、おはよう!」
「え、ねぼすけさん??え、ってか誰??」
きょとんとした顔でこちらを見ている。まだ夢の中にいるんだろうか。
「えーと、まだ寝ぼけてるのかな?」
「…いや、君は誰なの?」
はい?誰って⋯何を言ってんの?
「な、なになに、朝から奥さんをからかってるのかなぁ?」
「…⋯奥さん?」
どうやら寝ぼけているようでも、ふざけているようでもないようだ。…だとすると、亮はどうしたんだろうか。
「⋯えーとさ、まさか自分の名前がわかんない。なんて言わないよね?」
「名前…?⋯…わかんないね」
「え、え、嘘でしょ?朝からドッキリしかけてるの?もうやめてよー」
「そうじゃない。本当にわからない」
「じゃ、じゃあ、私が誰なのかも?」
「うん。奥さんって言ってたけど、そうなの?」
亮が嘘を言っているようには見えない。⋯でも、でも、そうだとしたら……。
「…え、記憶喪失って事?!」
「そういう事に、なるのかな」
いや、そんな事あるわけないじゃん。そんな事なんてさ。
「いやいやいや!あなたの名前は『亮』!私は『美穂』!私達は夫婦なんだよ。何か思い出さない?」
「⋯どっちの名前にも聞き覚えがないし、君の顔にも見覚えがない」
「じゃあ、起きる前の事は何か覚えてる?」
「夢を見てた気はするけど、他には何も覚えてない」
「……ごめん。しつこいようだけどドッキリではないんだよね?」
「残念ながら」
「そうだったら良かったのに……」
「…だろうね」
声も顔も体型はもちろん、着ているパジャマも全部含めていつも通りの亮なのに、どこか違う人みたいに感じる。…⋯信じたくはないけど記憶喪失というのは本当なんだろう。でも、どうして?
「⋯⋯とりあえず病院、かな。会社休まないと」
こんなの身近になった人なんていないし、どこを受診すればいいんだろう?…とりあえず、前に検査した病院に行ってみようか。
「健忘症の一種でしょう。いわゆる、記憶喪失ですね」
朝からの亮との会話を振り返る限り、それ以外は考えられなかった。でも、他の人に言われて、実際に起きている事なんだと改めて思い知らされた。
…これは想像してた通り。わかっていた事でしょ。だから、今後の事を聞かないと。いつ、元に戻ってくれるのか。
「僕の記憶は元に戻るんですか?」
なかなか私が聞けないでいると亮が聞いてくれた。自分のことだし、本人も気になっているんだろう。
「それはなんとも言えませんね。すぐに元に戻る可能性もあれば、しばらく戻らない可能性もあります」
「そうですか……。何が原因でこうなったんでしょうか?」
「亮さんの場合、原因の特定は難しいですね。例えば、命の危険を感じるような事故にあったとか、忘れたいほどショックな事が起きたとか、そんな事でもあれば、それが原因となって発症するというのもあります」
先生にそう言われて亮がこっちを見る。何かそういう事でもあったのかと言いたいんだろう。
「少し前から休職していて、家にいる事が多かったので事故にあうような事はないはずです。ただ、私が仕事に行ってる間の事は、亮から言われない限りはわかりません。何かショックな事があっても、心配かけまいと黙っていたりとか。でも、昨日までいつもと変わりなかったように思いますし、特別何か思い当たるような事はないですね」
「あくまでも原因の一つとしての話です。ですので、奥様もそうだと思い込まないようにして下さいね。最近は心療内科を受診されてたようですし、精神的なものが原因かもしれませんしね」
「それだって、原因が何なのかわかってないんですよ」
「ひとまず、焦らずに様子を見てみましょう。あと、心療内科も受診してみてください」
『様子を見る』
確かにそれしかないと思う。それぐらいはわかる。でも、それはそれで『何も出来る事はない』と言われているみたいだ。
先生との話を終え、診察室を出ようとした時に窓の外が目に入った。雲がほとんどない快晴だ。結構暑いだろう。それでも普段なら天気がいいと気分があがるのに。今はそんな外の青空に無性に腹が立った。
いつも一緒にいようと結婚した人と、いつも一緒に過ごしている家にいる。……のに、今日は何もかも違うように感じる。
「あの、美穂さん」
「そんな呼び方しないでよ。夫婦なんだから。そんな他人みたいに…」
呼ばないでほしい。そんな呼ばれ方したことない。
「あ、ごめん。あのさ、昨日までの事を教えてくれないかな?」
「…焦らなくていいんじゃない?先生もそう言ってたでしょ?」
「そうなんだけど、やっぱり気になるんだ。それに早く元に戻ったほうがいいでしょ?」
「それはそうだけど。…⋯んー、ごめん。ちょっとまだ気持ちの整理ができてないんだ」
「あ、ごめん」
「そんな何回も謝らないでよ。別に亮が悪いわけじゃないんだし。⋯⋯じゃあ、これでもとりあえず見てたら?」
付き合った頃からの写真が入っているアルバムを渡して寝室に移動した。
…何か思い出す事があればいいけどね。
ベッドに寝転ぶと、どっと疲れが押し寄せてきた。今日は朝から大変だった。その一言ですませたくないけど、その一言に尽きる。
記憶喪失、かぁ。そういう言葉があるのは知ってるし、そういうことがあるってのは知ってる。でも、まさか私たちになんて思うわけないじゃん。物語じゃないんだし。写真を見てたら元に戻ってくれるなんて事ないかなぁ。…そんな都合いい事ないよねぇ。昨日寝てる間になんかあったのかな?壁に頭をぶつけたとか?そんな事あれば気づ…かないかも。うーん、これからどうしたらいいんだろ。私にできる事ってなにかある?亮には気持ちの整理なんて言ったけど、こんなのすぐには無理だね、うん。⋯⋯⋯とりあえず、一眠りしよう。疲れた。
目を覚ましてリビングに戻ってみると、まだ亮はアルバムを見ていた。写真一枚一枚をゆっくり確かめるように見ているようだ。
「⋯まだ見てたんだね。どう?何か見覚えのあるものでもあった?」
期待しているような回答は返ってこない。そうわかっていても聞かずにはいられなかった。
「全然ないね。いくら見ていても、自分と美穂しかわからない。…本当に結婚してるってのはわかった」
「そうだよー。まだ新婚って言ってもいいくらいだよ。結婚までは長かったけどね」
「…こんな事になるなんて、記憶を失う前の自分も思ってもいなかっただろうね」
「そりゃそうだよ。昨日まで普通に暮らしてて、今日突然こうなりますなんて言われても信じないよ。私だってまだ信じられないし、信じたくない」
「それに関しては本当にごめんとしか言いようがない……」
「だから、謝らなくていいって、あ、私が謝らせてるのか。こっちこそごめん。いきなり知らないとこで、知らない人と話してんだもん。亮の方が大変だよね」
「……まぁ、どっちも大変だって事だね」
それはそうだけど、このままなのはよくないね。………よし!
「じゃあ、終わりにしよう!」
「え?」
亮がぽかんとしている。
「こうなっちゃったものは仕方ない!そのうち元に戻るよ。だから、しんみりすんのは終わり!謝んのも終わりって事!わかった?」
「え?あ、うん」
多分、納得はしてないよね。言ってる自分だってだいぶ強引だって思いながら言ったし。でも、こうでもしないとやってられないじゃない。こんな非現実的な状況。
「ちょっと、アルバム貸して」
結婚式、亮の家族、私の家族の写真を説明しながら見せていく。
すぐに元に戻るなんて期待しない。だったらこれから覚えてもらう。もう、そういうつもりでいよう。その方が⋯きっと楽だ。
そんな気持ちが伝わったのか、自分でも記憶を戻そうと思っているのか、亮は真剣に見て、聞いてくれている。
「ここには私と付き合ってからの写真しかないけど、亮の実家に行けばもっと古いのがあるはずだよ」
「実家…。じゃあこの人たちもいるんだよね?」
「そうだよ。あ、次の休みにでも行ってみようか?」
「行ってみる」
「記憶がすぐに戻れば、こんな事があったんだって言えばいいけど、戻るかわかんないし。ずっと言わないでおくわけにいかないから、報告がてらって事で。親と話したり、長く住んでいた家に行けば、何か思い出すかもしれないしね」
「そうだといいな」
本当にそれ。そうだといいな。戻って、お願い。マジで。⋯……あ。
紙袋が目に入って、こっちが忘れていた事を思い出した。
「んー、どうしよっかなぁ」
それどころじゃなかったからなー。すっかり忘れてたよ。いや、大事な事なんだけど!今言うことじゃないような?うーん…。
「どうしたの?」
「こんな状況で言うのはどうかと思うんだけど…」
「うん?」
見つけた紙袋の中から何冊かの本をだしてテーブルの上に並べた。数日前にシリーズで出ていたものを全て買い集める事ができた。
「実は今日、亮の誕生日なんだよね」
「そうなんだ。誕生日に記憶なくすって⋯なかなかない事だよね」
「それはそうでしょうね。⋯んで、これは誕生日に欲しいって言われてたもの」
今の亮に渡しても興味はないかもしれないけど、亮は亮だし、約束は約束だから。それに結構苦労して買ったんだから読んでもらわないと!
「じゃあ、一応もらっておこうかな。ありがとう」
「よし!今度は私の誕生日プレゼント考えておいてね!」
「えぇ?!」
当たり前でしょ!⋯⋯⋯当たり前なんだよ、亮⋯。




