幕間③
うああああああああん!
突然火が付いたような泣き声がした。
「なんだ、なんだ?」
その声で女医師は跳ね起きた。
彼女は自分が何をしにきたのか忘れてうたた寝をしていたのだった。
片手に釣り竿を持ったままいつの間にか寝てしまっていたようだ。状況を思い出す間もずっと近くで狂ったような泣き声が響いている。
「あ、お前か。うわ、こりゃ酷いな。せっかく治ったのに」
少女の右手首が折れてしまっていた。
医師が急いで整復し添え木を当てて縛ったが、酷く痛んだようで途中からは声も出なくなってぐったりしてしまった。
「ぐすっ」
「館に戻って痛み止めを煎じてやるから。もう少し我慢してくれ」
「いたみどめなら、そこにあるので作れるから」
「おっそうか。相変わらず詳しいな」
少女が近所の姉から学んだという知識は本職顔負けだった。
薬を飲んで小一時間ほど安静にしているとようやく落ち着いてきたようだ。
「それでなんであたしが眠っている間に手首を折っちまったんだ?」
「先生が眠ってる間に火を熾そうと思って、火打石を打ってたら」
「それだけで折れちまったのか・・・このまえ脱臼した所がよくなったばかりだったのに」
力が入りすぎてしまったらしい。
大怪我から立ち直ったが、体は脆いままだった。脳は元気な頃のままの力の入れ方を記憶していて無理な力が入ってしまったのだ。
女医師はもともと武術家でもあり、時折そういう怪我を見た事があった。
斧を投げて的に当てる競技があるが、競技者が短剣の的当て競技にも出た場合に似たような事が起きた。本人が意図しない力の入り方になってしまったせいだが、自覚がないのでなかなか原因が掴めなかった。
狂神アル・アクトールの神官が自ら再現試験を繰り返し、脳の無意識な働きに原因があるとつきとめた。
「お前の身体はもう以前とは違うんだ。力の入れ方を意識して加減しろ」
「え・・・治ったなんじゃないの?治してくれたんじゃないの?」
「元通りにはなってない。歩けるようになったのが吃驚するくらいだ。これからはもう少し慎重に自分の身体を扱え」
少女の顔に絶望の影が落ちる。
医師の言葉を理解して、少しづつ目に涙が溜まって来たかと思うと次の瞬間には怒りと共に拳を振り上げて地面に叩きつけた。
折れた手首からさらに激しく鈍い音がして添え木が砕けた。
「ばっ、馬鹿!なんてことを!」
「こんなの!こんなの!こんなからだ、わたしの体じゃない!」
泣きじゃくって自傷行為に走った少女を女医師は必死に止めた。
「止めろ、馬鹿!はやまるな!きっともっとよくなる!あたしが治してやるから」
「そんなのいらない!わたしは自分ひとりでなんだって出来る。なんだって・・・なんだってできたんだ・・・なんだって・・・」
少女はだんだんと力を失って崩れ落ちてすすり泣いた。
医師が女神官から助けを求められて治療にあたった時、手かせや首輪の後が見えた。村の鍛冶屋が強引に外してくれていたらしいが、その跡は鮮明だった。奴隷商人の船から逃げて転落し、漂着したと思われた。女医師はもう一度治療して、釣り道具もその場に捨てて彼女を抱き上げて館へ急いで戻った。
「近所の姉ちゃんたちにもう一度会いたいんだろ?あたしがもう一度会えるまでにちゃんと体を治してやるから二度とこんな馬鹿な真似をするな、アンナマリーも悲しむ」
「はい・・・ごめんなさい。先生」
◇◆◇
「それにしてもお前が作った薬はよく効くなあ。どこで習ったんだ」
「だから近所のお姉さん。二番目のお姉様」
「またそれか。・・・ところで最初にお前が教えてくれた薬の処方の仕方で疑問があるんだが」
「なんですか?」
「セディニサの葉についた朝露を集めてこいってのは何だったんだ?」
「何って一緒に飲むからに決まってるじゃないですか」
「普通の水じゃ駄目なのか?」
「朝露じゃなきゃ精霊の力が残ってないもん」
「なんだそりゃ。精霊だなんて意外と微笑ましいもん信じてるんだな」
女医師はあっはっはと笑った。
この子はお化けだの精霊だのとお伽噺みたいな事ばかりを言う。
近隣の子供もそんな少女をからかっていたので、この子はひとりぼっちになり、一日中暇している女医師が面倒をみている事が多い。
からかわれても我を通した少女は同年代の友人が出来なかった。
そうしてだんだんと夢見がちな事はいわなくなり、信仰にのめり込んでいった。
アンナマリーという女神官は喜んだが、神を信じない女医師は複雑だった。
あの子に支えは必要だったが、それは現実の人間であるべきと考えていた。
彼女には友人もいない、親もいない。
自分を騙して連れ去り暴力を振るった大人を信じていない。
障害が残った自分の将来も信じられていない。
彼女は何とか治療に関わった自分と女神官、この家の夫人の事は信じてくれているようだが、もう一度周囲に裏切られたら二度と他人を信じてくれなくなる予感があった。彼女は昼間は庭で枝で地面に文字を書いて練習し、夜は遅くまで蝋燭の灯りで勉学に励んでいる。
アンナマリーは放棄されていた古い神殿に住み、少女と共に古い聖典を書き写しながら時間をかけて文字と信仰を教えていた。
「愛するものと会うな、憎いものと会うな。愛するものに会わぬことは苦であり、憎いものと会うことは苦である?」
「ええ、そうです。よくできました」
「なんですか。これ」
「古い古い聖典です。昔の聖人が神々の教えを伝道していたものを誰かが本に残したのです。他にも神々への賛歌などが収められていて教団が編纂して書き写し残したのです。有名なものは印刷されていますが、ここに残っているものは恐らく出版されていないでしょう。わたくしがこの村に来た目的のひとつです。先人の教えを後世に残す為に全て読めなくなる前に書き写さなければなりません」
「この本を読めば神さまについて学べますか?」
「さて、どうでしょうか。どう感じるかは貴女次第ですから」
アンナマリーは学ぶ手段を教える事に専心し特定の神の教えを強制する事は無かった。
「ええと・・・ゆえに?」
-愛するものを作るな、愛を失うことは禍いである。愛憎の無いものには束縛が無い-
-愛は憂いを生み、恐れを生む。愛無きものには憂いも恐れもない-
-愛欲は快楽を生み、堕落を生む。愛欲無きものには堕落もない-
-愛するものを作らないものには憎しみもない。憎しみがなければ怒りもない-
-心と物に執着を作ってはならぬ。苦行に専心し神の如く雑念を捨て煩悩を捨てよ-
それこそが不滅の境地、生死を超越し天界へ達する手段である、と。
「良くできました。今はそのあたりまでで良いでしょう。続きはまた今度で」
古代の本は現代人と道徳観念が異なるので愛欲についても割と赤裸々に書かれている。アンナマリーはこの聖典の先に書いてあることを察して少女を止めた。
アンナマリーも昔、都で聖典を読んでいたらいつの間にか性愛の書になっていた事があった。彼女の出身地域では法を遵守する事、労働し富を得る事、性愛を極める事は全て対等でありむしろ道徳として推奨されてもいたが、今住んでいる地域ではそこまで赤裸々では無かったのでさすがにこの年齢の少女に教えてしまうのは不味い。
「アンナマリーさん。今の文章はおかしくないですか?」
「何か気になる事でもありましたか」
愛欲とか快楽ってなんですかと聞かれたらどう応えようか、女神官は迷った。
「わたしには愛する姉がいて友人がいました。失う事が禍いで、憎しみが束縛を生むというのはわかります。でも愛してはならないというのはわかりません」
昔の偉い人の言葉に異議を唱えていいのだろうかと少女は女神官の顔色を窺った。
女神官は大丈夫ですよ、と微笑んで先を促した。
「続けてください」
「はい、執着を捨てて修行するよう説いていますが、そもそも愛を知らなければこんな言葉は出て来ず、聖人はこの境地に達しなかった筈です。むしろ愛するものが無くては、失う苦しみを知らなければ聖人の境地にならないのでは?愛も知らず、憎しみも知らず、失う苦しみさえ知らない。ただ無知に無意味に苦しむ灰色の人生を送ってそれで本当に神に近づけるのでしょうか」
少女は聖典の矛盾を突いた。
「まあっ!」
女神官は感激して少女を抱き上げた。
彼女がいくら村の子供達に本を読むよう説いても、彼らは馬耳東風だった。
女神官は法と契約の神々を信仰していたが他者にそれを強制することはなく、各々が感じるがままに任せた。神話、聖典を読み聞かせても偉そうにしたって神々も聖人も絶対的な存在ではないのだと子供達は敬うどころか馬鹿にしてしまった。
芳しい反応が得られず彼女は自分の教え方は誤っているのだろうかと毎日悩んだ。
しかし少女は違った。
「そう、その通り。今の話はあちらこちらに収録されていてわたくしも別の本で読んだ事がありますが、聖人本人が残した言葉ではなく編纂者の意向が強く出ていると感じました。聖人が言いたかったことのほんの一部でしかなく、神々を敬い、苦行を行い、天へと近づく為に経過を無視しているのではないかと。解答だけを求め、煩悩を捨ててもそれでは神に近づく事は出来ないのではないかと」
女神官は自分も未だ若く修行が不足していて人を導くには未熟である為、共に歩む同志を欲していた。彼女はいまその同志をみつけたのだった。
二人は定期的に会い、筆写を続け共に学んだ。
◇◆◇
「幼い内からそんな風に目を酷使していると大人になった時に後悔するぞ」
「後悔ならもうしてます。わたし馬鹿だったから騙されたの。言いつけを守らなかったから天罰を受けたの」
「馬鹿いえ。お前が悪いわけあるか」
「あるよ。たくさんたくさんいけない事したの。わたしが馬鹿だからそれを知らなかっただけなの。だから罰を受けたの。この世界はきっと地獄みたいなものなの。でもせめて死んだ後くらい本物の地獄に落ちないようにちゃんとお勉強しないといけないの」
彼女を拾った家の主はもともと裕福な商人だったので、そこにある本を片っ端から読んでいる彼女は数字と語学に強くなった。
女医師は少女が病床にあった頃、地獄の女神や亡者の島のお伽噺なんか聞かせるんじゃなかったと後悔した。そのせいで彼女はおねしょをしてしまい、それをからかったので当初は随分嫌われたものだった。
女神官のおかげで仲直り出来なければ治療を嫌がられた事だろう。
だが、彼女は霊的なものに興味を持ってしまったようだ。
「ねえ、イルンちゃん。少しはお外に出て皆と遊んだほうがいいわよ」
「わたしはいいです。皆、この顔見たら吃驚するし。変な子だっていわれるし」
それでも家に仕える侍女の一人が見かねて外へ連れ出していった。
そして近所の子供に石を投げつけられ、彼女は姿を消した。