後北条には情報収集のための忍びに風魔がいたが今はどうするべきだろうか?
さて、とりあえず俺の当面の方針としては集落や荘園の田んぼや畑を取り囲むように環濠を作って、防御施設と農業用水の確保をしつつ、その作業や山での害獣駆除のため狩猟などを通じて、家人や地侍などいざという時に戦う根幹となる連中にも統一行動を教え込んでいきつつ、鉱山の採掘も開始して金や鉄や銅を確保するというのが基本方針だが、もう一つ大きな問題がある。
それは情報収集に関してだ。
「後北条の忍びと言えば風魔なんだが、風魔は足柄付近の”祀ろわぬもの”を取り込んだものみたいだし、今現在の情報収集をどうするかだな」
備中伊勢氏はそもそも父が備中守を譲り受けて下向してきたばかりで、はっきり言えばここでは新参者で古くから付き合いがあるといえる地元勢力はいない。
そして室町時代には「遠い親戚より近くの他人」と近くの勢力との関係を重要視するようになり、血縁による惣領制が大きく崩壊している。
斯波や畠山などの同族での争いが起こりやすくなったのもこれが理由だろう。
「となるとやはり頼るべきは寺とあとは行商人か」
鎌倉時代から室町時代は禅宗が武家の支持を受けて大きな影響力を持ったが、特に建武の新政の失敗で天台宗や真言宗の京以外の地域での影響力は大きく失われていた。
臨済宗の始祖である栄西は当初は日本の中心である京都でその教えを広めようとしたが、天台宗や真言宗などから弾圧を受けたために京都から逃げ出して、鎌倉幕府に庇護を求め、鎌倉幕府としても、朝廷や公家と繋がりの強い旧仏教に対抗できる新しい仏教を探していたことによって、栄西を受け入れ鎌倉五山ができ、引き続き室町幕府の権力者の信仰も得たことで京にも五山を置くことで五山十刹の制度をしいて、幕府に大きな影響力を持っていたのだが、応仁の乱によってその影響力は大きく弱まることになる。
それに対して、曹洞宗はおもに地方の豪族の帰依を受けて、地方で勢力を伸ばし、九州や東北に至るまでの日本全国に普及するまでに成長したが、やはり応仁の乱以降は衰退していく。
それに変わって勢力を伸ばすのが浄土宗系で、大谷本願寺で蓮如が法主となったときには本願寺は青蓮院に従属しており立場的には比叡山延暦寺の末寺でしか無く、浄土系の寺としての独立した寺院としてすら認められていなかったが、長禄・寛正の飢饉でなにもしなかった延暦寺に代わって民衆の救済活動を行った蓮如は延暦寺末寺という状態からの脱却を計り、本願寺内の天台風の装飾をすべて取り払って独立を計った。
しかしそれを知った延暦寺の僧達が、本願寺に攻め入り蓮如は逃げ出したが大谷本願寺は完全に破壊された。
しばらく琵琶湖周辺の末寺を転々としたあとで越前吉崎に赴くと吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎を開拓して急速に発展させ、寺内町が形成されていった。
そして、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受けた蓮如は、対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事で富樫政親と協力して富樫幸千代らを滅ぼしたが、こんどは加賀の民衆が蓮如の下に集まる事を富樫政親が危惧して軋轢を生じ、最終的には加賀一向一揆が国人層と結びついて決起して富樫政親を自刃に追い込み加賀は一向宗が支配する国となった。
そして地方の天台宗寺院が没落していくとそこには一向宗系の寺院が入りこんでいき、戦国期には強大な勢力を持つことになったりする。
現状の曹洞宗は最盛期と言って良い状況で寺院同士の横のつながりも強く、僧侶の中には各地を歩き回る者も多く、ときには書状を運ぶ役目を請け負ったりもする。
俺は和尚にしごかれている時に周囲の状況を聞くことにした。
「和尚様、ここ荏原荘に閉じこもっていますと周囲がどのようになっているかほとんどわかりませぬが、備中や畿内がどの様になっているかなどはご存知でしょうか?」
「ふむ、正直に申せばあまり良い状況ではないようですな。
武衛家のお家騒動で政所と守護大名の対立がかなり激しくなっているようですぞ」
「なるほど、やはりそうでしたか、兄上は誰かに殺されたのですね」
「そのとおりでございます」
「やはり正確な情報を手に入れるのは大事ですね。
これからも色々教えてくださいますと助かります」
「わかりました、こちらも伊勢家があっての当寺でございますゆえ、ご協力は惜しみませぬぞ」
「ありがとうございます」
それはそれとして伝令に使うのに犬をしつけたり、のろし台を設置して敵襲を知らせて防備体制を早く整えられるようにもしないとだめだろう。
おそらく史実の北条早雲にとっても荏原荘での荘官としての経験が伊豆や相模を統治する時に大いに役立ったのだろうな。