伊豆の堀越へ討ち入りを行って堀越公方を滅ぼしたよ
さて、風魔や相模松田氏を被官化し、彼らを通じて堀越公方に対立している国人のこちらへの引き込みはほぼ出来た。
もともと豊かでない伊豆で豊かな下総の古河公方と対抗できるだけの軍備を自力で整えようとすれば無茶な軍役になるのが当然で、しかも長禄2年(1458年)にやってきてから事実上何の結果も残していないのだからそりゃ国人からも見放されるよな。
また相模の扇谷上杉定正も家宰の太田道灌の活躍によって豊島氏を始めとする各地の長尾景春方を打ち破り、当主の扇谷上杉定正も転戦している最中で、古河公方との同盟にあからさまに不満を言った上で、上杉政憲を自害させた足利政知を排除したがっているようなのだな。
で伊豆の国人で伊豆水軍を率いる海賊衆でもある鈴木繁宗はいち早く俺の麾下に参じた。
「足利政知には関東の争いを収めることなどできはしません。
それなのに過酷な軍役をかしてくるのでは我々は従っていられないのです」
「うむ、それは当然であろうな。
沼津での西からの下りものの受け入れを問題なく行えるようにするためにも力を貸してくれるか」
「わかっております。
むろんその後には」
「うむ、海上の船の警護については引き続きそちらに任せる」
その他、伊豆国人の伊東氏、板部氏、笠原氏、朝倉氏、安藤氏、上村氏、梅原氏、桑原氏、佐藤氏、鈴木氏、田中氏、富永氏、南条氏、松下氏、村田氏、山角氏、山本氏、横井氏、横地氏などの大小の国人がこちらについている。
堀越御所への討入りは、俺の手勢1000人が中心となって半数が沼津から駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸、半数は陸路で堀越御所を急襲し、風魔が火を放つと、足利政知は山中に逃げだし、甲斐の武田を頼って逃げていった。
そして味方に参じれば本領を安堵すると約束したうえで、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊し攻め滅ぼすと布告し、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止した。
また、孤児を養育する養育院、病人を看護する養生院などを堀越御所に設置し税を軽減して軍役負担も軽減した。
無論それですべての国人領主が素直に従うわけもなく、反抗する国人は宗家の当主は自刃させるなり首をはねるなりをして、残りの親族を麾下に加えつつ、代官を送り込んでの直接統治を進めていくことに成るのだが、甲斐に向かって逃げた足利政知がその途中で風魔に捕らえられ、その首を刎ねることができたので、思ったよりは時間はかからないで済みそうだ。
遠江の統治に関しては俺たちが全く関与していないのだが、まあそっちもそれなりに上手くいっているんじゃないかな。
伊豆が落ち着くにはしばらく時間はかかると思うけど。




