家族との付き合いも大事だし、学問武術の師匠の存在も大事だ
荏原荘の半分の300貫というのはそれなりに大きい。
貫高は時代や天候地域により変り、一概にはいえないのだが、一貫が約8石であれば所領300貫は石高2400石なら現代の年収だと5000万円程度にあたりこれは決して少なくはない。
一貫が約4石であれば所領300貫は石高1200石なら現代の年収だと2400万円程度になる。
もっとも、後の戦国時代における何万石が普通に見える時代だと一国人程度に過ぎなくはなるがな。
そして 俺には父母以外に兄弟もいる。
「どうやらだいぶ良くなったようですね」
「はい、ご心配をおかけしました、姉上」
「いえ、私は来年には京に上がると思いますが、お母様を助けてがんばってくださいね」
「わかっております、姉上」
一人は姉で後の北川殿と呼ばれることになる女性。
来年の応仁元年(1467年)に裳着、つまり成人を迎え、今川義忠の正室となって駿河駿府館に嫁ぎ、後の正親町三条実望室となる長女栄保や、文明3年(1471年)には嫡男龍王丸、後の今川氏親を生むことになる人物で北条早雲が今川家の内紛の仲裁のために伊豆へ向かう理由となった人物だ。
俺との仲は悪くないが、この時代の男女はそれぞれに乳母が付きその世話を受け、兄弟でも一緒に育てられるわけではないので、普段から一緒過ごすというわけではない。
もうひとりは弟の次郎丸でのちの伊勢丹波守弥次郎盛興だ。
「兄ちゃんが元気になって本当によかったよ」
「ああ、俺の補佐をしっかり頼むぞ」
「うん、任せといて、早く大きくなって兄ちゃんのために頑張るよ」
この弟は北条早雲の伊豆平定時に右腕として活躍した人物だが、生まれは寛正5年(1464年)なのでまだ生まれて間もない。
それほど家がでかいわけではないが、それなりに裕福な家であるのがそれなりに家族仲が良い理由かもしれない。
この時代は実の兄弟でも家を巡って争うことも少なくなかったりもするのでこれは助かるが、お家騒動が起きやすいのは乳母とその親族の影響が強いというのもあるかもしれない。
この時代にかかわらず乳母が用いられるのは
もともと母親がお姫様でそもそも正しい育児の仕方を知らない。
乳児を育てるには母乳しかなかった時代なので乳の出がよい人物を乳母とした方が安心。
乳母の親族に養育・守り役を委ねた方が合理的で、守り役の子供をお側衆にして共に育て、幼少からの主従関係を結ばせておいたほうが主従の結束が強くなる。
などの理由がある。
そしてここ荏原荘での俺の兵法武術や教養などの師匠は父の伊勢盛定が建立したといわれる曹洞宗法泉寺の住職だ。
法泉寺は、山号は長谷山といい、元々は真言宗寺院だったが、このころには荒れ果てていて、永享2年(1430年)に、伊勢新左衛門盛定が古澗仁泉を招き、曹洞宗の寺院として再建し、備中伊勢氏の菩提寺となっている。
「ふむ、元気になられたようでよかったですぞ。
では兵法の鍛錬などを再開いたしましょう」
「わかりました、和尚様。
よろしくお願いいたします」
ここで言う兵法とは孫子のような戦略や謀略、戦術的なものだけではなく個人での刀や槍などの戦闘技術の修練もとうぜん含まれる。
寺で兵法? と思うかもしれないな。
だが、そもそも鞍馬寺は牛若丸が兵法修行したと伝えられ、剣術の源流・始祖とされる流派の一つの京八流は兵法の元祖と言われる。
日本三大兵法の一つ念流の創始者の念阿弥慈恩は、新田義貞に仕えて戦功があったといわれる父、相馬左衛門尉忠重を5歳の時に殺され、乳母に匿われて武州今宿に隠棲し、7歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられ、父の敵討ちをめざして剣の修行を積み、10歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かり、16歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かり、さら18歳で筑紫の安楽寺での修行において剣の奥義を感得したことから「奥山念流」あるいは「判官流」ともいわれ京八流の流れを汲む剣術とも言われる。
日本三大兵法の神道流に含まれる天真正伝香取神道流の創始者の飯篠家直は、武神経津主神を祀る香取神宮の奥の宮に近い梅木山に篭り、1千日の厳しい修行の末、「兵法とは平和の法なり」との悟りを得たとされ、古くからの剣術の流派として香取神宮と鹿島神宮の神職に伝承されていた「香取の剣・鹿島の剣」を元に、それまで決まった「型」の無かった日本武術の世界において、百般に亘る武道の原型を体系化しており、神社仏閣は個人や集団における兵法を教える場所でもあった。
もう一つの日本三大兵法の愛洲陰流の愛洲久忠も日向国鵜戸の岩屋に参籠して霊験により開眼し、陰流を開いたとされるが、これは正統伝書にないとして否定されている。
また、宝蔵院流槍術は、奈良の興福寺の僧宝蔵院覚禅房胤栄が創始者である。
幕末においては壬生寺は新選組の兵法調練所となっていたりもするし、寺社と兵法は切っても切れない関係なのだ。
中世、場所によっては幕末までの日本の寺院というのはカンフー映画の少林寺のような武術の修練もする場所だったと思ってもらえば早いか。
そして今は河原の足場の悪いところを下駄で歩く修行中。
「足場の悪い河原を下駄で歩くとか結構きついよな」
「そうでなければ意味がございませぬぞ。
闘いはいつ何時どこで起こるかわかりませぬが、開けた河原で起こることが多いのでございます」
「それは確かにそうですね」
日本では一部の平野を除けば川沿いが数少ない開けた場所でそこで合戦が行われることも多いので、足腰を鍛えておくのはとても大事。
そして義経が鞍馬寺で六韜を学んだとされるように、楠木正成が観心寺で兵法を習ったとされるように、寺というのは中国から伝わる孫子なども含む漢書の戦術的な兵法も習うことができる場でもあったのだ。