細川と大内をどうにかして手打ちさせ、赤松と山名も手打ちになったよ
さて、畿内で未だにドンパチしているのは、細川勝元と大内政弘に、畠山政長と畠山義就 あとは播磨の赤松政則と美濃の土岐成頼だが兵員数が大規模なのは細川勝元と大内政弘だ。
「もういい加減、細川と大内は和解してくれないかな」
大内としても将軍が守護同士の仲裁権限を放棄したことで、幕府の権威権力がほぼ喪失してしまったからダラダラ戦いを続けるのは本意ではないはずだし、できれば早く国元へ戻りたいだろう。
俺は細川勝元と大内政弘とで話し合いの場を設けてもらうように、嫁さんの実家の公家や将軍に働きかけてみて、ようやくその席を作ることが出来た。
細川家は中国の明王朝との貿易を幕府の代行者として取り仕切っているが、実際には幕府が独力で遣明船を派遣することは困難で、大内などは倭寇討伐などを実際に行っているうえに、幕府や朝廷に対して輸入品の日本国内の相場相当額の1割にあたる金額を抽分銭として納めることを要求されていたことが不満なわけだ。
そういった事を含めて俺は細川・大内の双方へ脚を運んで、大内には今後も倭寇討伐鎮圧を責任を持って行なうことと引き換えに独自の貿易権限を与え幕府や朝廷への上納は不要とすること。
その代わり戦乱で荒れ果てた畿内の復興のために河川の付け替えや治水に大内は協力すること。
両者がそれを認めれば大内政弘には周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を将軍名義で安堵し兵を引くことで手打ちにしないかと掛け合いなんとか両者への根回しを済ませた上で生玉荘の俺の屋敷へと両者を招くことに成功し、細川は大内が荒らした畿内の細川の土地も含めた土地を復興させるということで大内が頭を下げたことにさせ、大内は朝廷や幕府への抽分銭がなくなり周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を認められるという実利を得させて見かけ上ウィンウインの関係で手打ちとさせた。
まあ、実際は両者ダメージ甚大なダブルノックダウンという方が近いかもしれないが。
大内は約定通り淀川と大和川水系の治水工事を大がかりに行った。
これまで大和川は、生駒山系を抜けて石川と合流して北へ流れて淀川に合流して、上町台地の北で海へと出る流路であったが、大和川やその支流は長年土砂が堆積した天井川となっていたために、たびたび河内平野では大規模な氾濫の被害にあっていたために、河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は古くは奈良時代以前からあったようだが、平安時代初期までは技術的な問題から、中期以降は人員確保の問題からそれは実行されていななかった。
俺は大内に備中鍬やはねくり備中、ツルハシもしくは鶴嘴や木製のネコ車と食料や塩などを提供して迅速に工事が可能なようにして、工事開始からわずか4ヶ月で、大和川は未来のように堺の北へ向けて西流するようになった。
これによって大和川の旧流路にあたる中河内では河川敷の跡地や大きな池の跡地が新田となり、川床跡の砂地では綿花を栽培することで木綿の国内生産量も増えていくことになった。
一方、新しい大和川が通った地域ではその分多くの農地を失ったが。
また大量の土砂が河内平野や大坂に流れこまなくなったことで、難波津は港湾機能を回復したが、その土砂は堺に運ばれるようになり、北側の河口付近に大量の土砂が堆積していったことで堺は港町として衰退し新たな新田が開墾され農村へと代わっていくことになる。
同様に赤松と山名の間でも俺は根回しを行った。
これは赤松の侍所頭人就任と播磨・備前・美作の守護職安堵、両者の畠山に対する支援の打ち切りというものだが、すでに山名は争いに完全に倦んでいたこともあって話は早く進んだ。
幕府で長らく空席だった侍所頭人に赤松政則が任ぜられ、播磨・備前・美作の守護職を安堵されると山名と赤松の間でも和睦が結ばれ、一色も武田と和睦を行った。
また、足利義政により”世上無為”世は平和になったという御内書が細川・山名・大内・赤松に送られたことで幕府も一応の面目を保った。
これで畠山の争いを除く西国の守護大名の争いはほぼ収まったのである。
これで安心したのかどうかはわからないが山名宗全と細川勝元が流行り病で相次いでこの世を去った。
しかし、畠山政長と畠山義就、その他大和・近江・美濃より東の戦乱が収まる気配はまだまだなかったのである。




