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戦火により耕作放棄され荒れ果てた京周辺の田畑を開墾し直したよ

 細川勝元と山名宗全の間の和睦は成立したが、大内政弘と細川勝元はその後も戦い続けた。


 山城周辺での戦闘は依然としてやや大内側が優位のまま進んでいたため、細川勝元はその補給路を寸断する方向へかじを切っていた。


 大内とともに元西軍諸将として様々な戦功を上げてきた、斯波義廉の重臣で越前守護代である朝倉孝景を5月21日に足利義政、実質的には細川勝元による越前守護職の補任により東軍側に寝返らせたのだ。


 朝倉孝景は御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなど京都市内での主要合戦に参戦し、伏見稲荷に籠もって西軍を苦しめた足軽大将・骨皮道賢を討ち取ったりもしていた。


 しかし朝倉孝景は赤松の分家で被官となっていた魚住景貞を窓口として東軍の浦上則宗と密かに接触をしており、文明3年(1471年)5月21日、将軍・義政及び細川勝元から守護権限行使の密約をもらって東軍に寝返った。


 この時には東軍側の斯波義敏はむしろ喜んで、足利義政の命令で中立を保っていた。


 同時に関東の幕府軍が単独で西軍よりの古河公方足利成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことにより、関東政策で地位保全を図った斯波義廉の立場は危うくなった。


 そして、朝倉孝景の東軍への寝返りによって越前から琵琶湖を介しての西軍の主要な補給路を切断したことで、山城周辺の細川と大内の争いも細川が押し返すようになった。


 大内は日本海の越前からの補給を諦めて、尾張の斯波義廉や尾張守護代で岩倉家の織田敏広や美濃の土岐成頼の重臣の斎藤妙椿などによる伊勢湾から尾張・美濃を経由して琵琶湖水運を活用しての補給に切り替えたが四国の奥は細川が制海権を握っていたため以前ほど補給がスムーズに行かなくなった。


 この頃になると足利義視は、兄である足利義政との和解を真面目に考えるようにもなっていた。


 大内が細川と闘っているとは言えやがては撤退するのが目に見えていたからだ。


 細川勝元や山名宗全はそれぞれ隠居して、細川勝元は山名宗全の孫でもある息子の細川政元に家督を譲り、山名宗全も孫の山名政豊に家督を譲ったが、それでも戦火が収まることはなかった。


 もはや現在では細川勝元と山名宗全を総大将とした争いではなくなってしまっていたのだな。


 で俺がその頃何をしていたかと言えば、備中鍬を増産させて、戦火で農民が離散していた、京都周辺の田畑を地方の戦火から逃れてきて集まった百姓たちに再度開墾させ、稲や雑穀の他に荏胡麻や木綿などの栽培も行わせ、害虫や害鳥、害獣に対しても荏原荘でやった時と同じように竹を使って立ち入り防止の柵を作ったり、水車と組み合わせて”鹿威し”を設置したり、また犬を飼ったり、梟が巣作りしやすいようにしたりなどの害獣を近づけないようにする対策をさせている。


「これで秋口には収穫できて、多少は皆の食料が手に入りやすくなるとよいのだが」


 一緒に作業をしていた大道寺重時が頷いた。


「そうですな。

 まずは食えるようにするのは大事なことです」


 収穫したものを右から左に半分以上は朝廷や幕府が持っていくのではないかと思うと胃が痛くもなるが、それでも京の民に炊き出しを行なうくらいのことは出来るようになるだろう。


 もちろん笹の葉を使った紙の増産やスクリュー式圧搾機による油の増産なども行わせているが、商業は農業という基盤があればこそ成り立つものだからな。

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